そらのゆめ

@derara12124

第1章 第一話 初めの一歩

第1章 初めの一歩


 

 今覚えば、疲れていたのだと思う。

 学校と塾の息継ぎのない往復、勉強をとにかく詰め込み、取り立てて優秀でもない脳みそを働かせる毎日。やっと塾まで終えて家に帰れば、無心で風呂に入って髪も乾かさずに布団に潜り込んでいた。

 社会に出て役に立つかもわからない公式、昔の何かを成した偉人たちが、目を閉じていても思考を圧迫する。

 高校生の頃の俺は夢の中ですら、机に座って教師の話を聞いていた。

 夢の中の顔のない教師は、次々と席順に生徒を指差していく。

 淡々と繰り返される問答はなんの意味もなしていなくて、聞かれたことと答えに整合性はない。夢らしい雑さと、受験を控えたクラスの息苦しさが再現されていた、嫌な夢だ。

「…」

 だが、その日、目が覚めたのは夢の内容のせいではなかった。

 苦しさといえばそうだったが、身体的、物理的な不快感によるものでもない。

 身を捩って、まどろむ意識の中、ぼんやりと寝苦しさの正体を探った。

 布団はいつも通りきちんとかけられていて、秋の夜は暑くない。

 寝苦しさの正体がすぐにはわからず、横を向いて時計を確認する。

 針は12時を指していた。

 明日も学校だ。もう寝ないと頭が働かず、勉強についていけない。

 分かっているのに体は起き上がった。

 ただひたすらに、体に張り付く違和感が気持ち悪かった。

 頭を締め付ける眠気よりも。

 いつも寝起きしている変わり映えのしない自室なのに、今日の今だけは異質な空間のような居心地の悪さが気になる。

 これは気配だ。

 寝苦しさの正体は誰かの気配だと気づく。

 俺以外の誰かが近くにいる、そう直感した。

「…かあさん?」

 視線をベランダに移すと、影が見えた。

 ベランダにある何かが月に照らされて、カーテンに影ができている。

 今日は月がいつもより大きい日だと学校で騒いでいたか。

 受験の嫌な空気を纏ったクラスの中で、少しでも現実を逃避しようと明るい話題を持ち込んでいた女生徒の声が頭に浮かぶ。

「…」

 影は俺に気づいていないのか、動かずにじっとその場に立っている。

 なんの思考も割かず、足は誘われるように窓に向かう。

 不思議と恐怖は感じなかった。

 そこにいるのが誰なのか、なんとなく俺は掴みかけていて、確認のために窓を開ける。

 予想していた人物がそこにはいた。

 月夜に照らされた輪郭が俺に気づいて、うっすらと口角が上げる。

 いつものような厳しい顔じゃない、優しい顔。

 なんでこんなところにいるのだろう。

 いろいろな聞きたいことがあるのに言葉は出てこない。

 夢を見ているようだった。

 不思議な浮遊感が身を包んでいる。

 俺は夢の中のように自分の体を制御できずただ立ち尽くして、その人が上を見上げたのに釣られて目線を上げる。

 視線の先にあるのは大きな月だった。

 今までに見たことのないくらいの大きな白い丸に、一瞬、月が地球に落ちて来ているのではないかと思った。

 黒い空をパッキリと二分するような白が空を覆って、これが世界の終わりだと言われれば、誰もが鵜呑みにしてしまうだろうほど劇的な景色。

 スーパームーン。

 クラスで話していた名称を頭の端で思い出す。

 同時に、視界が白に染まった。

 光だ。

 強烈な光が空から降ってきて、目を焼かれる。

 あまりの眩しさに目を瞑っているのに、白は瞼の裏からも俺を刺してくる。

 苦しい。

 現実のような息苦しさが襲ってくる。

 キン、と甲高い音が、夜の空気を震わせる。

 突き刺すような音に紛れ、耳元で何かが囁いた。



 

 1



 

 職場のテレビから音が流れている。

 ついこの間、人好きのするような笑顔で桜の満開を知らせていたキャスターが、深刻な顔をしてニュースを読み上げている。

 普段人の声が行き交う事務所が、今だけはわりかしおとなしい。

 その場にいる従業員の全員がテレビに耳を向けているからだ。

「物騒だなあ、これで2件目」

 決して広くない事務所のど真ん中の席に腰をかけた眞田さんが、静かな空間に声を発した。

 誰に向けたでもないだろう発言に、周りが同調するように声を上げる。

「ほんとねえ」

「こわーい」

 事務員さんの高い声、ぽつりぽつりと紡がれていく声。

 連鎖するように声を上げ、そのうち子供の送り迎えについての話をはじめる。

 ニュースに集中して止まっていた日常が徐々に取り戻されていく。

「宮藤も気をつけろよ、帰りは電車だろ。」

「え?あ、はい、気をつけます。」

 後ろを通り過ぎようもする俺に、眞田さんは体を向けた。

 駅までの帰り道に気をつけろ、ということだろう。

 ニュースで報道されているこの街で起きている通り魔事件は、1人で夜歩くことの危険性を伝えるには十分だ。

「怖いですね。春になると変なのが出てくると言いますけど、連続通り魔事件なんて」

『通り魔事件、2人目の被害者発見』

 画面の4分の1を占めるテロップの文言は物騒を極めている。

 この事件に対してうちの社員の関心は高い、住んでいる町で起こっている連続殺人への関心としては正常な反応だと思う。

 なにしろ、被害者の体はナイフで数百箇所も刺された刺殺体だということだ。

 1人目だけでも食傷気味であるのに、同じ状態の2人目の犠牲者が確認され、殺人事件は連続殺人事件となった。

 ニュースで異常な事件として取り上げるのに過不足はないだろう。

「なあ、宮藤はこの事件の噂知ってるか?」

 後ろを抜けて横の席に座ると、眞田さんは続けて話しかけてきた。

 流石に見慣れて来たが、隣から見るとやはりかっこいい顔をしていると思う。

 椅子に座っていてもわかるスラリと長い手足。

 営業職というだけあって、うちの会社は皆顔がいい、平均より整っている人が大多数を占めているように思うが、その中でも眞田さんは芸能人並みのオーラを持っている。

 常に堂々として物おじしないし、会う人会う人にセンスのいい冗談を言って人に付け入るのがうまい。

 俺の3歳上の、28歳。

 いたずらっぽく弧を描く目のせいか実年齢よりもだいぶ若く見える。

 俺は眞田さんが言う噂が何を指しているのか少し考えたが、すぐに思いつかず聞き返した。

「なんですか?噂?」

「この町じゃその噂で持ちきりなんだが、知らないのか?」

 知っていて当然、と言うような反応だ。

 もう一度考えてみたが、やはり浮かばない。

「すみません、俺、噂に疎くて…」

「宮藤は最近異動してきたからな。よし、教育係の俺が教えてやろう」

 教えたくてしょうがないという風な態度だ。

「ありがとうございます」

 お世話になっている手前「いやいいです」なんて正直に言うわけにもいかない。眞田さんは俺の教育係として、ここの仕事を教えてくれた先輩だ。俺は傾聴姿勢を取った。

 以前、俺はこの会社の葬儀部門にいた。

 葬儀の担当者としてお客と関わる仕事だ。本社はこの町にあるのだが、新卒で採用されて1年はこっちにいたが2年目から他県に飛ばされていた。

 今年の春から仏壇などの葬儀後の営業をするこの部署に異動になったため、眞田さんとの付き合いは一ヶ月くらい、ということになる。

 ただ、この事件が始まったのは1週間前くらいの話なので、俺の異動は関係がないと思うが。

「この町ではな、昔から白い球を見たって噂があるんだよ」

 ぎぃ、と眞田さんが椅子の背もたれに重心を傾け、音が響く。

「白い球、ですか」

「はあ」とあからさまに気の抜けた声が出る俺に、眞田さんは構わず説明する。

「たとえば葬儀場とか、病院で遺体から出てくる白い球を見たっていう噂が以前からあったんだ。この連続殺人事件で、発見者が死体から出てくる白い球を見たって言って、噂は本当だったんだって話題なんだぜ」

「へえ」

(白い球って)

 冗談で言っているのかと表情を伺ったが、自信満々な顔をしている。

(…なんか、嫌な流れになって来たな)

 この手の話は苦手だ。

 俺は自分が今持っている仕事をすることにした。

 作業をしていれば眞田さんも話をやめるかもしれない、という淡い期待を込めて、自分の机の横の棚にある顧客リストを開く。

 先ほどフロントで受けたお客様からの電話で、担当者との話をしたいと伝言を預かったのだ。

 よくあることなのだが、担当者の名前は忘れてしまったとのことで、俺が調べて顧客リストに書かれた担当者へと引き継ぎをしなければいけない。

 デジタル化の波に抗う、人が殺せそうなほど分厚いファイルの索引を引く。

「宮藤はそれ、なんだと思う?」

「はぁ、なんですかね」

 五十音順に並べられたファイルを開き、該当の名前を見つける。

 デスクに置かれたメモ帳を手繰り寄せて、胸ポケットから取り出したペンで適当に走り書きをする。

「死体から出てくる白い球だぜ?魂にきまってるだろ」

 

 魂。

 

 嫌な予感は的中した。

 こうもあっさりと言語化されてしまうと呆れたらいいのか笑ったらいいのか。

 一瞬迷い、軽く笑う。

「見間違えでしょう」

「なんだよ、宮藤は真面目だなあ」

 不満げな声をあげ眞田さんは整った顔をつまらなそうに歪めた。

 あまりにも態度に出ていたか。

 失礼な態度になってしまっていたかもしれない、と慌てて誤魔化そうとして。

「真面目なところが宮藤のいいところだ!」

「……どうも」

 取り繕う間も無くカラッと言い切られた。

(ジェットコースターみたいな人だな)

 教育係と新人として接してしばらく経つが、この人はいまだに掴み切れない。

 カッコよく弁も立つ、いわゆる出世するタイプであるのだが、それは顔の良さとオーラがそう見せているだけで、内心は変わった人だなと思っていた。それが「魂を見たらしい!」と熱を持って話し始めるとは、俺の勘も捨てたものじゃない。

 話している感じ、眞田さんは本気でそのオカルト話を信じているのではないか。

 俺より三つ年上の28歳…。

 正直、なんと反応していいかわからない。

「なにー熱いねえ」

 間延びした声が眞田さんの声に反応する。

 俺たちの席から離れた場所、上座に位置する机からのほほんとした顔がこちらを見ている。

 この部署の中居支配人だ。

 目尻に皺の寄った、ふっくらとした外見。

 見た目に似合わず、売上や単価のことになると細い目を開いて鋭い目になるという、昔はバリバリの営業マンだったようだ。

 ついでに事務員さんたちから離婚歴があるとかも教えてもらった。

「今月単価あがってるから、がんばってねえ」

 のほほんとした口調で嫌なことを言う。

 今日から5月に入る。

 毎月決定される目標単価が上がると言う苦しさは葬儀の営業でも味わっている。扱う商品が違うためここでの受注の勉強期間である俺にも、ゆくゆくはそのノルマを課せられることになる。

 眞田さんは堂々と切り返した。

「ほんとですか?先月良かったじゃないですか」

「うちは成績いいんだけど、会社全体の売り上げが落ちてんのよ。家族葬が増えて葬儀も規模縮小してるでしょ。眞田くん、今月も百万の仏壇、お願いね」

「簡単に言わないでくださいよー」

「ははは、期待してるんだよ。宮藤くんも、受注が出来るようになったから近々出すからね、頑張って」

「はい、頑張ります」

 中居支配人は「さあ、今日も頑張るぞー」と声を出し、椅子に座ったまま背伸びをする。

 今朝の事務所内の緊迫しかけた雰囲気は和らいでいる、テレビではニュースが切り替わり、不況にあえぐ海外の状況を解説していた。

「うちもやばいかもなあ」

「…そうですね」

 眞田さんは外での仕事があるのか立ち上がって出ていった。

 俺も机に向き直り、メモを見ながら担当者に引き継ぎの電話をする。

 受注を任されていない俺のやることは今日も雑用だ。

「宮藤くーん、ちょっと手伝ってー」

「あ、はーい」

 早速事務員さんに名前を呼ばれる。

 立ち上がると、ブブ、とポケットのスマホが振動した。

 ただの登録していた通販サイトの新しいサービスの通知だった。

 

 

 

 

 

 配属になって一ヶ月。

 葬儀の部門と全然違ったら覚えるの大変だな、と異動の前は考えていたが、仕事で使う知識は葬儀の部門で身についたことをそのまま使えた。

 仕事内容自体も、棺を運んだりする葬儀よりは体力も残業も使わない。

 基本的には雑用も多い。

 礼品の商品の入れ替わり、ディスプレイの移動、お店に来たお客の対応、お客の心配事の相談も含まれる。

「よいしょ、と」

 事務所の裏にトラックで運ばれてきた4箱の段ボールを事務所のカートの上に下ろす。ダンボールにはそうめんと書かれていて、他のタオルや食品の礼品と比べて格段に重かった。これは女性1人だときついだろう。

「助かるわあ、男の子の力があると」

「いいえ、どこに置くんですか?」

「あ、三つは在庫で、一個開けて一つディスプレイに置きたいの」

 指示された通り、一つ箱を開ける。

 聞いたところ新しい商品だということで、これからディスプレイ、在庫とそれぞれ分けて配置しなければいけない。

「もう疲れちゃうわよねえ、腰が悪くなったら最悪よー、ありがとうー」

 うちは仕事柄若い人が少ないのだが、事務員の中でも森さんは若い。

 確か27、俺より年上だが可愛さも残していて、化粧がバッチリ決まっている美人だ。勝手な偏見だが、美人は人にものを頼むのが上手い。感謝をする仕草も慣れたものである。

「宮藤くんも早く受注したいでしょ、雑用ばっかりも嫌じゃない?」

「勉強はもう終わっててあとは出してもらうだけなんですけど、なかなかタイミングがないみたいです」

「へー、じゃあもうじき、あそこに宮藤くんの名前が入るのねー」

 まつ毛の長い横顔が見つめる視線を辿る。

 事務所の壁にある売り上げボード、葬儀部門でもあったものだが、ここでは仏壇が大きな基準になっている。

 まだ4月の分の売り上げ状況が張り出されている、今日にでも消して5月に切り替わるのだろう。

 4月のトップは眞田さん。

 他の棒グラフを寄せ付けない高みにいる。

「眞田さんの横に並ぶのは正直怖いんですけどね」

「ふふ、眞田さんはすごいんだからぁ、知ってる?前人未到!月の売り上げ1000万達成!この部門では眞田さんしかいないのよ」

「ああ、その伝説は葬儀部門でも聞こえて来てましたよ」

 仏壇の売り上げがやばい人がいるらしい、と言う話は聞いたことがあった。

 葬儀でもそうだが、家によって出せる金額の程度の差はあるため、担当者の売り上げはどこの家に振り当てられるかにもかかってくる。

 手配する人にいいところを当てられて売り上げが上がることは正直ある、だがこの部門で月に1000万となると、単純計算で100万の仏壇を月に10件契約、30万のだと30件くらい。

 ここに来て月にどのくらいの受注件数があるかわかって来たが、おそらくその記録は他に30や10の仏壇が入っても100万仏壇が5.6件はないと厳しいだろう。

 それを成し遂げたと言うのは想像するだけでも驚異的だ、運だけでは片付けられない。

 まだ見たことはないが今でも100万仏壇は出しているようで、生きる伝説じみている。

「売り上げ1000万ってホストみたいじゃない〜?」

「…たしかに?」

 よく分からないが、ボードを見つめて森さんはうっとりしているようだ。

 商品の入れ替えを軽く手伝い、昼時には終わった。

 休憩室に行くと長い足を窮屈そうにテーブルの下に収めている眞田さんがいた。

 俺に気づいて手を上げる。

「体力仕事おつかれー」

 口ぶりから俺の仕事は見られていたらしい。

「お疲れ様です。眞田さんはどこに行かれてたんですか?」

「営業だよ、お客んとこ」

 サラリとそう言い、ずる、とラーメンを啜る。

 この部署の顧客は、大抵はうちの会社で葬儀した人が流れてきてお客になる。

 受注は電話でも出来るのだが、家に行った方が仏壇の大きさがどれがいいか担当者はアドバイスしやすいから、と全部家での受注にもっていっている、とは仕事を教わる中で聞いたことがあった。電話よりも対面で話をした方が売り上げが伸びるらしい。変な人だが、間違いなくこの部署のエースだ。

(たしかに、ホストでも稼げそうな感じだよな)

 眞田さんはカップラーメンをすすっている様もなぜか絵になっている。

「カップラーメン好きなんですね、この前も同じものじゃなかったですか?」

「だってうまいだろ?カップラーメン。宮藤は?」

「俺もカップラーメンです」

 俺は家に買い置きしていたものを鞄から取り出した。

 『えのきわかめラーメン』

 名前に惹かれて買ってみたものだ。

 美味しいかどうかは分からないが挑戦してみるのは悪くないだろう。

 名称から想像できないため、どんな味がするのか楽しみではある。

 テレビからは『スカイフィッシュ』とか『ガンマ線バースト』とか、不穏なワードが聞こえてくる。

 一体どんな番組を見ているのか、眞田さんの方を見るとちらり、と目が合い指をさされた。

「それまずいぞ」

「え」

 ポットのボタンを離す。

「…食べる前に言わないでくださいよ」

 もうお湯を入れてしまった。食べるしかない。

 味の評価を一方的に下されてしまったそれを持ち、眞田さんの向かいの席に座る。

 眞田さんは足が長いからぶつからないように座るのも気を使う。

 眞田さんがでかいのか、休憩室が狭いのか、おそらくその両方だろう。

 室内に響いている音はニュースではなく見たことのない番組だった。

 専門用語が多いので完全には理解ができなかったが、海外の学者かなにかが昔に観測した電磁波の乱れから、宇宙人の交信なのでは、と日本語の吹き替えで議論をしているようだ。

 この時間の休憩室のテレビはニュースが流れていたはず、チャンネルを変えた犯人はこの人だろう。

 まあいいが、今は2人だけだ。

「好きなんですか?オカルト」

 手を合わせて、ラーメンをすする。

 喉越しがサラリとしている、麺はふにゃふにゃしていて、出汁の味が薄く、具がないに等しい。

 これは…

(まず…)

 喉を通っていくのは無味の汁。

 眞田さんの評価はどんぴじゃだ。

 買ったのは失敗だった。

 しかもこれビックサイズだし、最悪だ、冒険なんかするもんじゃない。

 この年まで生きると失敗して嫌な思いをするよりも、刺激がなくても安定しているほうがいいという考えになってくる。昔は刺激を求める気持ちのほうが強かったが。いや、昔も変わらない気概で生きていた気がするな。

「好きだな」

 眞田さんがニヤリと笑う。

「夢があるよな、オカルトって」

「そうですかね」

 俺は一気に興味の失せたラーメンを箸で持ち上げ、啜る気も起きずに上下させる。

 食べないと勿体無い。無論食べるが、何か追加で買って来てその味で誤魔化したくはある。今からコンビニに走れば昼休み中に充実した昼ごはんを食べられるだろうか。

「お、お疲れ様ー…」

 低い声が休憩室に入って来た。同じ営業の田中丸さんだ。34には思えない疲れを滲ませた顔で離れたところに座った田中丸さんに俺たちは返事を返し、眞田さんはキャンネルを切り変えた。

 テレビは昼のニュース番組に切り替わった。

『周辺の地域には注意を呼びかけています。1人目ご遺体の司法解剖の結果、死因は首の刺し傷とされ数百箇所の傷は死後つけられているものとされています。2人目の遺体の状況は同じ犯人によるものであると断定され、身元の判明がすみ次第…』

 例の殺人事件が同一犯によるものと警察発表が出たそうだ。テロップの表記も『連続殺人事件』になっている。

 キャスターが読み上げる内容は食事中に聞くものでもない。眞田さんなりの田中丸さんへの配慮だったのかもしれないが、オカルトの方がマシな気がする。

「なあ、宮藤は幽霊って見たことあるか?」

 向かいの眞田さんはテレビを見ていたかと思うと、思いついたように声をかけてきた。

「幽霊ですか?」

「おう、葬儀部門だったんだから心霊現象の一つくらい聞いたことあるだろ?俺、見たことないから見て見たいんだけどよ、どこの会館に行ったらいるんだ?」

「ああ、…そうですねえ…」

 急になんだ、と思ったが、俺に聞くのは幽霊であっている。葬儀=幽霊という考えはすんなりと分かりやすい。同じような質問を親戚にも聞かれたことがある。

 眞田さんは葬儀部門に配属になったことはないとは聞いていた。どこどこの会館に出たらしいですよ、と教えたらこの人は本気で行きそうだ。

 とはいえ幽霊か。

 一緒にご飯を食べているのだ、何か話題として提供したいが意外と、というべきか、葬儀場で心霊現象なんて本当にない。

 俺が思うに、お坊さんがお経をあげまくっているおかげで幽霊がいてもすぐ成仏してるのではないだろうか。あんなに連日、色とりどりの宗派のお経を浴びて尚も止まれる根性を持った幽霊はなかなかいないだろう。

「すみません、俺、霊感ないみたいで」

 俺は親戚に対する答えと同じように返した。

 期待を抱いてもらっていたなら申し訳ないが、葬儀の部門では霊感があったら仕事できないと思う。

「ふーん?」

 眞田さんの切れ長の目が何か言いたげに俺を見る。

「なんですか?」

「宮藤って変わってるよな」

「え、…そうですかね?」

 意外なセリフだった。

 そんなこと言われたことは、あまりない。

 特に最近は普通すぎて愛想を尽かされたくらいだ。

(ていうか、眞田さんに言われたくはないんだけど…)

「気にならねえの?」

「えっと…?」

 なんの話だろうか、幽霊が気にならないかどうかか?

 気にならないかどうかと聞かれれば、気にしてもしょうがない、と返すしかない。

「別に心霊現象じゃないにしても」

 眞田さんは一度言葉を区切って美味しそうなラーメンを啜った。

「普通住んでる町で殺人事件が起きてたらもっと関心があるもんだと思うんだがな。噂も知らないにしても少しは耳に入ってくるだろ。噂っていうのは興味持って「それってなんですか?」って人に聞かねえと詳しく知ることはできないだろ?」

「はぁ…」

「宮藤って肝がすわってんのか?もしかして経験ある?」

(どんな経験だ)

 ツッコもうと思ったが、眞田さんが何を言いたいのかよく分かっていないのでやめた。

 端を上げたままの、空気に触れすぎて表面が渇いたまずいラーメンを啜る。

 目の前に美味しそうなラーメンがあるから美味しく感じるかもしれないと思ったが、無味の喉越しだけが残る。

「自分は襲われないって思ってるのか?だから関係ないって?殺人鬼は案外近くにいるかも知れねえぞ」

「…怖いこと言わないでくださいよ」

 俺は、先ほどまでは一切分からなかった真意がなんとなくわかってきた。

 眞田さんは俺が無防備だと言っている、かもしれない。

 電車通いの俺の帰り道を心配してくれた人だ、俺よりも真剣に事件に向き合っているんだろう。

 俺にもっと考えろと言っているのか。危険だから気をつけろ。と言うシンプルな忠告。

 だが、そんなことは言われなくても分かってる、誰が好き好んで猟奇殺人鬼に殺されたいものか。

 分かってる、理解はしてる。

 そうは言っても、と思う。

 思考をめぐらそうとすれば、別の考えたくないことが頭を出してくる気がする。

「俺だって関心がないわけじゃないですよ、死にたくないですし、目をつけられないように行動したいと思ってます」

 眞田さんはまた「ふーん」と言った。

 飄々とした表情が、ラーメンを扱う箸を見ている。

「俺には情報を閉ざしてるように見えるけどな」

「そんなつもりはないですけど…」

「あ、もっとすげえことが身の回りで起きてるとか?それで周りの事件に身が入らないとか」

「いえ…あの、そんなことよりー」

 まずい。

 このままじゃ根掘り葉掘り無神経に暴かれそうだ、他の人ならなんとか誤魔化せるかもしれないが、相手は眞田さん。

 話題を変えたい。

 眞田さんが他に食いつく話題はないか…、俺は記憶を探る。

 大抵の話じゃ連続殺人犯のパンチある話題には敵わないだろう。

(幽霊…)

 葬儀場の話ではないが俺にも一つだけ、眞田さんが好きそうな話は持っている。

「…一度だけあります」

「ん?」

「あの、俺、実は見たことあります、幽霊」

 ぽつりと呟くと、大きな目が少年のように輝いた。

「ほらそうじゃん!」

「ちょっ」

 大きい声に思わず周りを見る。田中丸さんはこっちを見て不思議そうに顔を傾げたが「なんでもありません!」と言うと「そう?」と言いお弁当に戻った。穏やかな人で助かった。さっさと終わらせるために話そう。俺も同類だと思われたら厄介だ。

「あの、でもたいしたものじゃないです。両親に嘘をつくなって怒られてから人に話したことありません、それに、絶対に夢だったんだと思います、ていうか夢でした!」

「どんな幽霊?女?男?足あった?」

「話聞いてます…?」

 言わなきゃよかった。

 話題を逸らすことには成功したが、教育係としてではなく、俺個人に変な興味を持たれてしまったかもしれない。

「間違いなく夢です、そう言える根拠もある」

「なんだよそれ」

「それは俺の知ってる人だったんですよ」

「…それは」

 眞田さんの勢いが突然しぼみ、らしくなく言葉を切らす。

「あ、いやあの、勘違いしないでください、生きてる人でしたよ。でも、その時そこにいるはずのない人だったので、俺の見た夢に違いないっていうわけです。あの一度だけですし」

「へー」

 眞田さんは打って変わってケロッとしたもので、角ばった手を顎に当てている。本当にジェットコースターみたいな人だ、なんなんだ、調子が狂う。

「小さい頃は色々見えてるって言うよな、霊感があるやつって大人になると見えなくなるんだって」

「あの…」

 俺は先ほどから夢オチで落とそうとしているのだが。

 話を聞いてるようで聞いてないだろ。

「で、それって誰だったんだ?」

「…」

 こんなふうにお客さんは眞田さんのペースに乗せられて高額仏壇を買わされてるんだろうか。営業は場の空気を掴むのが上手い人間が成功する。こんなところで眞田さんの凄さを実感したくはなかった。

 俺は縋るように時計を見る。

 時刻は13時を指していた。

「って、もうこんな時間じゃないですかー。俺もう戻りますねっ」

 まだタプタプに入ったまずいラーメンを片手に持ち、俺は逃げるように休憩室から出た。

 話にならない人からは逃げるしかない。

 角を曲がるとその先に森さんが黒いゴミ袋を持って立っていた。

「あ、宮藤くーん、また頼めるかなあ、下に持ってかないといけないんだけどー。生ゴミだから重くてー」

「ああいや、助かります!めちゃくちゃ働きます」

 本当にありがたい、思わず感謝が声に滲む。

「えー、ふふ、そうー?ありがとう、ん?それ何?ゴミ?一緒に入れようか?」

「あ、いえ」

 片手でゴミを掴むと、もう片方の手に持つカップラーメンをを見て森さんは聞いてきた。

「…一応食べます」

 下に続くエレベーターのボタンを押すと、事務所の方から電話の音が聞こえてきた。

 電話を取る人が足りずに漏れているようだ。俺はここにきてまだ1ヶ月なので、電話の内容によっては俺では分からないこともある。俺が持って行って森さんが事務所にいる方がいいと言うと森さんはゴミを俺に渡してパタパタと慌ただしく事務所に戻って行った。

 片手では少し重い2つの袋を持ち、到着したエレベーターで降りる。

 一階にあるゴミ捨て場に入れ込んで、近くの塀に腰掛けた。

 ブロックの上に置いていたそれを手に取る。

 少し覚悟を決めて、蓋を開け、ぬるい麺を箸で掴みずるずる、と啜ってみる。

 これは…本当にまずい。

 咀嚼すればするほど、最悪な味がする。

 ゴミ捨て場にこのまま捨てることもできたが、俺はどれだけ不味くても食べ物を捨てたことはない。

 行儀に厳しい母親によるしつけだ。

 こうやって外で食べているのも、本人が見たら怒られそうである。

(白い球ね…)

 俺はこの町で育った。

 大学は他県に行ったが、就職にはここに戻ってきた。

 眞田さんはこの町では以前から白い光の目撃情報があった、と言うが、俺だってここは地元だ。なんとなくは聞いたことがある。

(俺だって…)

 高校にあがろうかという受験期のあの頃、変な光景を見た。

 夜起きたらベランダに母親がいて、空から降ってきた強烈な光に包まれるという体験だ。

 結局、あれは受験期のストレスが見せた夢か何かだったのだろう。

 酸味のある液体を口の中に流し込む。

 連続殺人の被害者の死体から出てきた魂なんか、噂を流した人達もきっと、夢でも見てたんだ。

 

 

 

 

 

 眞田さんに出会わないように祈りながら事務所に戻ると、中居支配人に礼品のパンフレットの届けを頼まれた。

 眞田さんは事務所におらず、営業に行っているらしい。

 社用車でお客の家を周り、礼品の内容や注文についての説明をする。一件遠い家があったから、会社に戻る頃には19時をすぎていた。春になり冬ほど夜が暗くなるのは早くないが、車を店裏の駐車場に停めると社員の自家用車はほとんど残っていなかった。眞田さんの車もなく、帰ってきたのは俺が最後だったみたいだ。

 車のライトに当てられ、事務所の壁側にスーツの後ろ姿が動いているのが見えた。

 あのずんぐりむっくりな体は中居支配人だ。

「どうしたんですか?」

 車を降りて声をかけると疲れを見せる顔が振り返った。

「ああ、宮藤くん。これ、忙しい時期に不良品を積み重ねちゃってたんだよねえ。また忙しくなる前に片付けないといけないんだけど」

 しゃがんでいた体制を起こして、きつそうに腰を叩く。

 壁には綺麗に汚れた写真額や破れた提灯が積まれている、いつから作業をしているか知らないが、この量の仕分けは結構な肉体労働だろう。

「悪いけど、下に行けるならゴミ捨て場に処分しておいてくれない?もう腰が痛くてさぁ」

「あ、はい、わかりました」

「ごめんねー」

 腰に手を当てて、支配人は事務所に戻っていった。

 上司に頼まれた以上、これは仕事だ。

 俺は車に乗り込み、壁際に寄せ、粗大ゴミと言って差し支えないそれらを何から積もうか考えていると「じゃあ、鍵はよろしくーあんまり無理しないようにねー」と、鞄を持ち駐車場に向かう支配人に声をかけられた。

「お疲れ様です」

 中居支配人の車が通り過ぎる際、クラクションを鳴らされた。

「……」

 一つ一つを分けて下に持っていくより、車でゴミ捨て場前まで持っていく方が楽だ。俺がちょうど車を動かせるなら俺がした方が早く終わるのは分かる、だが。

(普通、人に仕事任せて先に帰るか?)

 軽視していたわけではないが、どう計算しても作業量が多いことに気分が萎え始める。

(無理しないようにってそっちが言うのか、とか、どうせ終わらせないとダメなんだから無理しないようにも何もないだろ、とか)

 思わないことがないわけではなかったが、すぐに作業に取り掛かることにした。クラクションの激励にイライラしながらやって作業が捗るわけでもない。車のことがなくても、俺がした方が50を超える支配人がやるより早く終わるのはそうだし。

 俺は一息吐いて、比較的綺麗な写真額を手に取った。

 社会人は社会の歯車だと誰が言っていたのか。

 俺たちが歯車なら、会社は機械だ。

 機械が絶え間なく動き続けるために歯車は存在する。

 昔の哲学者はニートが多かったと言う。

 そりゃそうだと思う、そうでもなければ働き続ける社会人は哲学なんて考えていられる時間なんかない、時間があるから考えられるんだ。パソコンの容量のようなもので、仕事でメモリが埋まってしまっていれば他のデータを入れる隙間はなくなる。

 もし俺に考える時間があれば、自分の現状に悲観もできるのだろうか。

 今のおれは自分自身になんの悲壮感も抱いてない。

 それは社会人であることのメリットなのかもしれない。

 人生は希望や望みを持ちすぎない方がうまく行くのかもしれない。

 日々を仕事に消費して。

 日々を無為に浪費して。

 仕事さえしていれば社会に居場所があると思えて、そのまま自分を認められる。

 そういう意味で、俺は仕事が好きだ。

 ブブ。

 ひたすら無心でモノを積み、車を移動させた。あとはゴミ捨て場にゴミを入れ込むだけだ、20分もかからないだろう。スクラムの後ろを開けものを入れ込んでいると、バイブ音が鳴った。

 暗い中、手探りでポケットからスマホを取り出し画面を見る。

 

『それは送ってこなくて大丈夫だから、ごめんね』

 

「…」

 眩しい液晶に映し出される、久しぶりのメッセージに期待はしていなかった。

『10』…

 打とうとして、文字を消す。

 スマホの時間は20時半を指している、色々とやっていたらこんな時間になっていたのか。

(バカらしくなってきた)

 荷物の8割は片付け終わっている、どうせ明日も同じ車に乗るのだ。時間のある時に残りを持っていけばいい。

 車を駐車場に戻して鍵をポケットに入れた。こうして車の鍵をホールドすれば、明日の空き時間に車内に取り残されたままのガラクタを俺が処分できる。

 事務所の鍵を閉め、帰路に着く。

 電車の中からは残業で彩られたビルの光の群れが見えた。

 窓に反射する疲れた顔のサラリーマンと俺は同じように映っていると思うと、激しく虚しい気分になる。

 この感情は中居支配人によるものというよりも、先ほどのメールが全てだった。

 理由は言葉にすればシンプルで、だからこそ浅くて嫌になる。

 1週間前に彼女に振られた、それだけ。

 彼女とは異動先の他県で知り合った。

 漫画喫茶で店員をしていた彼女に、店に通い始めた頃に声をかけたのが出会ったきっかけだった。

 俺にとって馴染みのない漫喫だったから漫画がどこに置いてあるか分からず探していることが多かったのだ。

 その度に短い時間でも話す機会があり、通ううちに「今日もなにか探してるんですか?」と彼女から話しかけてくれるようになった。

 彼女は俺の一つ上で、方言がはんなりしていて、いつも笑顔なところが初めからいいなと思っていた。途中からはわざと探しているフリをして。話すと仕事でのストレスが軽減する感覚がした。他の男性店員と楽しげに話しているところを見て焦りが芽生えて、俺から告白した。

 きっと、相性は良かったと思う。俺が会社の都合で地元に戻ることになり遠距離恋愛になったが、お互いベタベタするタイプでもなかったしなんとかなると思っていた。

 こっちの生活にも慣れ始めた頃に彼女が「遊びに行きたい」と言ってくれて、再開したその日に喧嘩して、別れた。

(…つまんない人間だから愛想尽かされたのかな)

 ツラツラと思い出していると、外であることも憚らずに思い切り息を吐き出したくなった。

 振られてから自分の人生を振り返るなんてダサすぎる。

 自分への情けなさしかない。

 電車から降りると、駅には警戒中と書かれた旗を持った警察官が4.5人立っていた。

 殺人事件だの、魂だの、なんだの、世間は色々と大変らしいと、冷めた目で見てしまう。

 眞田さんがいうには、猟奇事件に注目することは当然であると言う。

 そうだろうか、そんなのは俺の人生においてどれだけ重要なんだ、となんの罪もない警察官に言い放ちたくなる。彼らだって仕事だから駅前で警戒体制を取って見せているだけで、内心は俺と同じように考えているんじゃないか。俺だけじゃないはずだ、と。

 …今日はちょっとダメな日だ。

 夜道を歩きながら、思考がネガティヴな方向に暴走している。自覚しているのにも関わらず、切り替えがうまくいかないために気分が重くなっていく。

 道ゆく他の人は考えてる暇はあるのか。

 眞田さんはなんであんなに余裕があるのか。

(眞田さんは、なぜ神秘に純粋でいられるんだろうな)

 俺よりも仕事を受け持っているはずで、俺よりもこなさなければならない仕事のハードルは高いはずなのに、少年のように夢を見ている。

 それが俺はーーー

「うわっ!」

 足に何かが引っかかって、急に視界がぐらついた。

 反射的に上がった声が暗闇に響く。

 もつれた足で、なんとか転ばずに着地ができた。

「あ、ぶなー…」

 ばくばくと心臓が鳴る。

 いつ以来だろうか、こんなこと。

 何に引っかかったのか確認しようとして、すぐに対象が見つからないことに気づく。

 辺りが真っ暗で足元がよく見えない。

 昼間には気づかなかったがこの通りには街灯が少ないのか。儚い月の明かりが上からぼんやりと差しているだけで、俺の他に誰も通っていない人通りの少ない道でもあったらしい。

 駅近でも古いアパートのため、大通りに面したマンションとは違い細まった道を通らざるを得ない。

 成人男性が転びそうになったという醜態を誰にも目撃をされなかったのはいいのだが、俺はすぐに足を前に出した。

(…そういえば、こんなに遅いのは久しぶりか)

 この部門に来てからは葬儀部門ほど遅くに終業することはなかった、だから、夜にこの道を通るのは初めてと言っていい。

「………」 

 ザリ、ザリ

 俺の後に響く足音だけが真っ暗な空間に反響していく。

『殺人鬼は案外近くにいるかもしれねえぞ』

 眞田さんの言葉を最悪のタイミングで思い出し、背筋に冷たいものが走る。

 意識していないのに前を進む足が早まっていく。

(いや、あれはただの冗談だろ)

 体を数百箇所も刺された猟奇殺人事件なんて。

 現実離れにも程がある、比較的平和ボケした日本に住んでいて、そんな事件に遭遇する可能性は一体何%なんだ?

 ニュースでは、女性キャスターが夜道に出歩くことの注意喚起をしていた。俺は勝手にその喚起の対象を若い女の子だと考えていたが、1人目の犠牲者は男性で確定したんじゃなかったか。

 ザ、

 耳を凝らさなくても、極端に音が少ないこの場で鳴る音は、些細な音でも大きく聞こえる。

 微かな足音だ。

 胸をざわつかせる不安の正体は誰かの足音だと気づく。

 ザ、ザ、ザ

 俺の足音の少し後に、音が重なっている。

 俺の背後に、誰かがいる。

 まさか。そんな。


 

 

「宮藤さん」

 

 

 

 声に、弾かれるように振り向いた。

 俺の背後、50メートルほど先。

 暗闇に浮かぶ人影を視認し、ぞわ、と脳が危険信号を発する。

 誰だ?

 走れば逃げ切れるか。

 家までの経路を頭に思い起こしながらも、顔を確認したい想いに足が囚われる。

 人影はたしかに名前を呼んだ。

 俺を知っている? 

 動けない俺に向かって、相手は歩みを止める気配はない。闇からだんだんと輪郭を浮かび上がらせていく。バクバクと高鳴る鼓動音。1人分になった足音が近づいてくる。

 ザ、ザ、

 これ以上ない緊張は、その顔が顕になるにつれて次第に弛緩していった。

 5メートルほどの距離まで来た彼か、彼女。

 先ほどまでとは別の意味で現実離れした感覚を感じている。

「お久しぶりです」

 見たことのないほど美しい青年だった。

 ゆったりとした黒いパーカーを着ていて、年は高校生かそこらに見える。

 声を聞くまで咄嗟に性別が分からなかったのは、中世的とも言えるその顔の美しさからだ。

 黒髪に白い肌が淡い月の光に照らされて、浮世離れした美を放っている。

 俺は恐怖を忘れ、ただ困惑した。

(…誰だ?この子)

 こんな若いイケメンと俺は知り合いだったか?

 少なくとも、近々で直接関わりを持った相手ではない。こんな美青年は一度見れば忘れない。俺は今までの生活の中で自分が極端に他人より記憶力が悪いとは思ったことはなかった。

 青年は、記憶を探る俺に妖艶なほど美しく微笑んだ。

「すみません、突然話しかけて。これを返しに来たんです」

 そう言って差し出されたのは、白いハンカチだった。

「…ハンカチ、ですか」

 呆けたまま思わず受け取り、意味が分からず青年を見る。

「返しそびれてたから、遅くなって、すみません」

 彼の口ぶりは親しげだ。

 彼は俺を間違いなく宮藤と呼んだ。

 青年は俺のことを間違いなく宮藤だと認識していているということで、手の中のハンカチは俺と青年に関わりのあるものなのだ。

 体力仕事で疲弊している脳が頑張って記憶を掘り出そうとして、青年に対してもハンカチに対してもとっかかりを掴む感触を得られない。全く、覚えがない。

 たまにお客さんにプライベートで話しかけられた時にもたまにある、こういう時が一番困る。担当したお客の親族であれば覚えていないということは失礼になるので必死に思い出そうとはしているのだが、にしてもこんな夜中にわざわざ声をかけてくるか。

 だめだ、思い出せない。そんな考えが顔に出ていたのか、青年は申し訳なさそうな顔になる。

「宮藤さんが覚えていないのも無理ないです。俺たちが出て行った後に、あのアパートから引っ越しをされていたんですね」 

 均衡の取れた美しい目を伏せ、眉が緩やかに下がる。

 その表情に、なんだか見覚えがある気がした。

「…あっ!」

 青年の口から発せられたアパート、と言う単語から、俺が高校生の頃に住んでいたアパートが浮かんだ。

 連鎖的に1人の子供の記憶が浮かぶ。

 アパートの廊下に1人の子供が立つ光景。

 子供らしくない申し訳なさそうな顔。

「あの時の、隣の」

 あまりにも昔の話だと言うことと、少年の変わりように繋げるのに時間がかかってしまった。

 なにしろ、それは10年前の記憶だ。

 俺のアパートの隣には、昔、3人家族が住んでいた。

 あまり生活がうまくいっていなかったようで、彼の母親がうちに、土日の昼間だけ面倒を見てくれないかと頼んできた。

 面倒見のいい母親はどんと引き受けたが、年中仕事で忙しい仕事人間だったので暇な俺に一任された。そこそこの進学高である高校に入って、燃え尽き症候群だった俺は部活も何もしておらず休みには家でだらけていたので、適任と言えば適任だった。と言っても、土日の昼間の数時間、2ヶ月ほどの話だ。家のインターホンを鳴らして来る彼の相手をするだけで内容も大したことはしていない。

 一緒にゲームをしたり、興味があることについて話し合ったり、遊び盛りの子供の遊びにしては地味な内容であったと思う。俺は学校の勉強などで疲れて、外で走り回るほどの元気もなかったため自然とそうなった。

 あれは離婚して、母親が息子を連れてどこかに行ったんだ。

 名前はなんと言ったんだっけ。

 目の前の美青年を見やると、彼は察してくれたのか「最所です」と教えてくれた。

「…最所くん」

 下の名前を聞きたかったんだが、聞き馴染みのある苗字を聞くと懐かしいと思える。

 あの時は俺が高校生で、彼は小学校上がりたての小さな子供だった。

 俺もアラサーになるはずだ。

 男子3日会わざれば刮目してみよ、と言うがすっかり大人になってしまって、俺と目線は変わらない。学校でモテていることが容易に想像できる容姿で、ぺこりと丁寧に頭を下げてきた。頭下げただけなのに、その様も絵になるものである。

「お仕事終わりなのに、夜遅くにお時間をとってしまいすみません。要件はそれだけですので、これで帰ります。おやすみなさい」

「あ、うん。おやすみ」

 見惚れて上手く言葉がない俺に、最所くんは跡を濁さず来た道を去っていく。

 俺は身を包む非現実感にしばらくその後ろ姿を眺めた。

 10mほど距離が開いたあたりではっと我に帰り、闇に消えていく彼に声をかける。

「…あ、いま!危ないから夜道は気をつけてね!」

 あんな美青年は、たとえ連続殺人鬼がいなくても夜歩くには危険すぎる。

 最所くんは振り返って、にこ、と笑った気がした。

 

 

 

 

 

 今日の1日も、いつもと同じような仕事内容だった。

 何もなかった、最所くんに会う以外。

 リビングのテーブルに置かれたハンカチ。

 引っ越しから日が経っておらず、最低限の家具で構築された質素な部屋でその白は際立って見える。

 風呂から上がってタオルで髪を乾かしながら、俺は懐かしさを感じている。

 まさか、昔一緒に遊んでいた子供と再会するなんて。

 ノスタルジー、っていうんだろうか。こう言う感覚。

 昔も可愛い顔はしてたと思うが、いまは洗練されて女性が放っておかないだろう美しい顔になっていた。男らしいというよりは中性的な美しさだ。現実世界を普通に生きていてあまりお目にかかれない美しさと言うのは、目にすると見惚れてしまうものなのだな、と考える。

 髪を拭いたタオルを洗濯機に入れ、なんとなく、テーブルの上のハンカチを触ってみた。

 綺麗なハンカチだ。

 一度も使ったことがないんじゃないかと言うくらい、繊維も細やかで買いたての商品のようである。高級品には見えない。一般的な店頭で見かけるタオル地のものだ。何度か擦って手を離し、自分を客観視して首を傾げた。

(…なんか、変態っぽいか?おれ)

 今日はもう寝よう。

 電気を消して布団の中で目を閉じると、昔の最所くんが瞼の裏にぼんやりと映った。

(夢でも見てたみたいだな)

 いつもと変わらない日々だったはずなのに、不思議な非日常感がある。

 彼の浮世離れしていた雰囲気がそう思わせている。

 淡い月明かりに照らされた美貌は強く鮮烈だった。

 離婚してからどこに行ったか知らなかったが、彼はこの町にずっと住んでいたのだろうか。それとも、俺と同じように他県に行っていたりしたんだろうか。

 また会えたら、聞いてみたいことがたくさんある。

 彼に対する疑問もあった。

 最所くんの言う通りなら、あの白いハンカチは俺が彼に渡した物なのだろう。

(ハンカチは、なんだったっけ…)

 体が微睡に沈んでいく。


 

 

 

 

「だから、死体から魂が出てくるんだってぇ」

「嘘でしょー」

「ほんとだったらすごいわよー」

 話の内容に合わない明るい声が、給湯室から聞こえてくる。

 白い魂の噂は俺が思っている以上に社内に浸透しているようだ。

 反対に、休憩室のテレビに映るニュースではそんな噂までは取り上げられていない。事務員さんにそれとなく聞いてみると「眞田さんが言ってたわよー?」と教えてくれたのであくまでローカルな噂話が社内でここまで広まっているのは、ほとんどは眞田さんの伝聞によるものだと分かった。

 それは別にいい、噂がどれだけ広まろうと俺に直接の関係はない。

 問題は、俺が眞田さんにすっかりとオカルト話をする仲間として認識されてしまったことだ。

「スピリットボックスって知ってるか?」

「知りませんね」

 最所くんと予想外の再会を果たした翌日の、昼休みの休憩室。

 男2人、オカルト話という色気も何もない会話をさせられている。

 …勘弁してほしい。

 俺の興味なさげな言葉に「知らないのか?」と眞田さんはなぜか驚いた顔をした。

「スピリットボックスっていうのは、まあ幽霊交信ツールみたいなもんだな。心霊スポットとかにそれをもっていくと、人の耳に聞こえない周波数の電波を拾って勝手に音を出すんだ。それが幽霊の声ってわけ」

 それはどこかのラジオの音を拾ってるだけなんじゃないか。

「なんで、幽霊と対話するのに電波なんですか?」

「さあ、周波数が違うんじゃねーか?幽霊と俺たち生身の人間は住んでいる世界の周波数が違うから交われないんだろ」

 それはなにか、オカルト好きな電波と話すためにはこっちがその電波に合わせて会話しないといけない、みたいな話か。

「俺は霊感がないので、よく分からないですね」

 反論になっているかよく分からない言葉を適当に返す。

 身に染みてきたことだが、眞田さんにオカルト関連で真面目に返してもバカを見る。

「幽霊を見たことがあるのに信じないのか?」

「…」

 もし過去に戻ることができるなら昨日に戻り、幽霊を見たことがあると話したのは間違えだったと伝えてやりたい。

 昨日の軽率な行動のせいで、俺は苦痛を強いられている。

「だから、それは夢で」

「あのー」

 俺たちの間の空間を柔らかく割くように、高めの声をかけてきたのは森さんだった。

「今日のおやつなんですけど、よかったら2人も食べませんか?」

 森さんは手の中のマーマレードを広げて俺たちに見せた。

 今日も長いまつ毛を瞬かせて、どちらかといえば上体は眞田さんの方を向いている。いつもより声が高い気がするのは気のせいではないだろう。

「その、眞田さんは甘いもの食べれます?」

「ああ、これ好きなんだよ、ありがと」

 気取った風もなく、眞田さんは二つあるそれのうち、一つを大きな手で掴んだ。

「い、いえ〜」

 森さんのただでさえタレ目な目がとろけ、初めて見る顔に俺はちょっとギョッとしてしまった。

「あ、宮藤くんもどうぞ、昨日のお礼っ」

「…ありがとうございます」

 ついで感溢れるそれを受け取ると、「きゃー」と声を出していそうなくらいの笑顔で森さんは休憩室を去っていった。

 普段の言動を見ていれば察しはついていたが、森さんは眞田さんに恋心を抱いてしまってるらしい。

(なんだ?堂々としてるところがいいのか?)

 当の本人はケロッとしたもので、早速それを開けている。

 俺も最初の頃はかっこいい人だと憧れの気持ちがなかったわけではないが、いまとなっては幻想も冷めたものだ。

 俺はポケットにお菓子を入れてカップラーメンに向き直った。今日は前回の反省を踏まえて、間違いない王道のシーフードだ。すでにご飯を食べ終えていた眞田さんはマーマレードをペロリと平らげている。

 森さんからの心がこもったお菓子ならもっと味わえばいいのに。

「宮藤はもし俺が、幽霊がいると断言したらどうするんだ?」

 その話、終わってなかったのか。

 食べ終わった瞬間に何事もなかったように続けられる言葉に、俺はうんざりした。

(どうするもこうするもない)

「誰が断言したって疑いますよ」

「えー、そうかー?」

 調子を崩さない眞田さんに、俺は箸を置いた。

 話し始めの頃は適当に相槌を打っていればいいかと考えていたが、自分でも意外なほどにストレスを感じている。

 ここは強気に言っておかないと、今後もそういう仲間と認識されるのは俺に取って不都合だ。

 俺は対オカルトにおける最終兵器を出すことにした。

「ずっと会社でこんな話をされても困ります。誰がなにを信じていたってその人の自由でしょうが、俺としてはオカルトには懐疑的なんです。大体、幽霊の存在なんて誰にも証明できないでしょう」

 これで眞田さんも黙るだろう。

 俺は机に置いた箸を持った。

 黙ってまともなことだけ言ってればカッコいい人なんだ、自分から株を下げないでほしい。

 オカルト現象の証明なんてできるはずがない。

 こんな片田舎の会社員にできていれば、とっくに頭のいい学者が神秘を証明している。

 エセ霊能力者などは“証明ができないからこそ神秘なのだ“とキツネに包まれるような論調で誤魔化すのだろうが、そんな子供騙しで大の大人が騙されるわけもない。

 いささか大人げないパンチラインを打ち込んだ気もしてきたが、俺に受け入れられたと勘違いして別の誰かに嬉々としてオカルト話を持ち込むような無敵人間になれば傷を負うのは眞田さんなのだ。ここでそんな悲しい未来を打ち消せたとするならば、いいことをしたとも言えるかもしれない。

 などと考えていると、眞田さんは「なんだ、証明したら信じるんだな?」とあっけらかんと言った。

「そんなの簡単だぞ」

「………え?」

 カップラーメンの蓋を開けて、麺につけようとした箸が止まる。

 …おかしい、やけに自信が満々だ。

 オカルト信者はこう言えば黙るんじゃないのか。

 昔読んだネット記事でダメ男を好きになる心理は、根拠のない自信に惹かれている、という文言があったか。ここまでくると見上げたものであるが、恥をかく可能性が高い以上真似をしたいとは思わない。

「宮藤が言いたいのはつまりこうだ。世界にオカルト数あれど、映像や写真じゃ改ざんの余地があるから信じられない、だろ?」

「…まぁ。そうなります、かね」

「無理もないな。いままでもオカルトは生まれては捏造がバレ、失望と共に消えていった。その度にワクワクして裏切られれば自然と信じる気力を無くすってもんだ。つまり宮藤が求めているのはデータじゃなく実体験か、その提供は俺でも流石に難しいんだがー」

「そりゃそうですよ、だから」

「そうだなー。これはどうだ!」

 わざとらしく首を傾げた後に、びしっ!と長い人差し指が俺に向いた。

「俺が宮藤の家に幽体離脱をして潜入する。そして家の間取り、家にある物を紙に書く。それがお前の家のまんまだったら、俺は幽体離脱をしてお前の家に行ったってことにならないか?幽体離脱ってのはイコール、霊体の証明になるだろ」

「俺の家、ですか?」

「どうせお前、まだ友達とか同僚とか誰も家に呼んだことないんだろ?俺がわかるわけがない」

「いや、あの」

 この人の口、止まらねえ。

 なんだこの流れ、黙るどころかヒートアップ。進んで自ら恥に飛入ろうとするばかりの眞田さんの様子に、俺はそら恐ろしさすら湧きはじめていた。

 営業成績のいいできる社会人である眞田さんは所謂空気の読めない種類の人間ではない。のべつまくなしに言い立てるのは丸め込むためなのだろうと察しはついているのだが。

「だろ?」

「え、まあ、俺の家は誰も知らないとは思いますけど、ですね」

 短い追撃に、深く考える前に俺はそう答えさせられてしまう。

 ここに配属されてまだ一ヶ月。

 新居に引っ越してからの片付け、仕事を覚えるために家での勉強、などをしていたから学生時代の地元の友達を呼ぶタイミングはなかった。

 父親は息子の一人暮らしに興味はなく、家に来るかどうかなんて話もしていない、親も知らないのだから誰も知らないということになる。

 正確に言うと1人だけ来たことがあるのだが、彼女からの眞田さんへの情報提供は何よりも考えられない。

 彼女は俺が他県にいた時に付き合って、ここに戻ってきてから遠距離恋愛だった。コンタクトを取れるわけがない。

 眞田さんの言うとおりである、のだが。

(引くに引けなくなってこんなこと言ってるなら、ちょっとかわいそうだな…)

 オカルトの、何がここまでさせるのか。

 それとも、この人は恥というものを知らない人種なのか。

「でも幽体離脱って、あんなのはよくできた夢でしょう?」

 反論したものの眞田さんのペースに飲まれていることは分かっていた。

 しかし俺としても、大の大人が恥をかくところをわざわざ見たいわけではない。

 ただ単に、止めるのが遅かったのだ。

「そう、経験者は夢みたいなもんだって言うんだよな」

 だから、眞田さんがゆっくりと目を瞑るのに静止は間に合わなかった。

 椅子に腰掛けたまま手を太ももの辺りで繋ぎ、上を向いて目を閉じている。

 それは儀式めいていて、シャーロックホームズのようだ、と思った。

「はは」

 時間は数十秒もかからなかった。

「結構古い家だな」

 目を開いた眞田さんは、休憩室の机の端にある重ねられたチラシを一枚手に取った。会館の地図が書かれた表面を裏返す。胸ポケットから取り出したボールペンを、白地にすらすらと走らせていく。

 あっというまに白地に出来上がっていく図。

「どうだ?」

 信じられない、という気持ちだった。

「眞田さーん、お客様から電話来てまーす」

「お、はーい」

 年配の事務員さんが休憩室に顔を覗かせた。

 眞田さんはボールペンを戻し立ち上がる。

「わり、ちょっと行ってくるわ」

 俺を残して行く背中を目で追うこともせず、机の上に残された紙に釘付けになる。

 フリーハンドで描いたにしては真っ直ぐな線で描かれた図。

 1LDKの素朴な間取り。

 玄関から目を滑らせて、記憶の中と照らし合わせていく。

 玄関から入ってすぐのトイレの四角。

 廊下を渡った先のリビングの四角。

 それに対するキッチンの四角の対比、比率。

 リビングの中に書かれた、四角の中に収まった一番小さな四角。

 …この四角は。

(白いハンカチ)



 

 

 

 とんとんとん。

 階段を降りる俺の後ろから、二重になった音が響く。

 最近の俺は後ろから誰かに着いてこられるのが多いみたいだ。

「どこまでついてくるつもりですか」

「感想聞いてないと思ってよ。な、びっくりしたろ?」

 眞田さんの声が階段に反響する。

「今からお客さんのところに行かないといけないんです、もういいですか」

 休憩を終えて事務所に戻った俺は支配人から午後の仕事を言い渡されていた。片脇に持つA4の茶封筒には礼品のパンフレットが入っている。

 このまま階段で一階の駐車場まで降りて車に乗り込めばしばらくは会わずに済む算段だったのに、廊下と階段の交差する隙間から、エレベータを待つ眞田さんに運悪く見つかった。そして、なぜか追いかけられている。

「なんだ、宮藤はこういう話し始めてからだんだん冷たくなってくな。不思議アレルギーでもあんのか?」

 本当にどこまでついてくるつもりなんだ、この人。他にやることないんだろうか。

 俺は足を止めた。

「アレルギーって、ちがいますよ」

 振り返ると俺の五段ほど上に眞田さんは立っていた。

 普段から身長差によって見下ろされることは多いといっても、いい気分にはならない。

「絵空事を考えているより、現実の物事を処理するようにしてるだけです。誰だってそうしてますよ。来月の単価高くなるって言ってたでしょう、先輩も」

 オカルトばかりに気を逸らしていると達成できませんよ、と言いかけて、やめた。

 この人はうまくやってまた一位なんだろう。

 ぶっちぎりの棒グラフがボードに張り出される未来になれば後々後悔することになるという保身から口を紡ぐ。新人の俺が先輩に対して言っていい一言でもない。

「…じゃあ、急いでるので」

 俺は一瞬迷ったが、早足で階段を進むことにした。

「おい、言い逃げかよー」

 後ろからかけられる声を無視してひたすら進んでいけば、眞田さんも無理に追ってくることはなかった。

(最初からこうしておけばよかった)

 先輩だから、お世話になってるからとひよって訳のわからないオカルト話に付き合うより、健全な距離感というものだ。俺と眞田さんは近づきすぎたのだ。

 車を走らせ、『神坂條』と仰々しくめづらしい表札の玄関のチャイムを鳴らす。

 少し待つと、人の良さそうな70ほどのお爺さんが出てくれた。

「おー、駐車場狭かったろう。入ってはいって」

「失礼致します」

 促されて中に入る。外見は古い民家だが、中は清潔感のある綺麗な家だ。

 廊下を通り、仏間に入る前に右手の台所の机に年配の女性が腰掛けているが目に入った。

 この家の奥様だろう、挨拶をしようとして、シワシワの手が顔を覆いしゃくりあげているのに気づく。

 葬儀部門で働いていた時は親族の涙というのは見慣れていたものだが、不意をつかれ、驚いてしまう。

「まだ泣いてんのか、もう葬儀屋さん来たっていったろお。気にせんでください」

 挨拶もままならず、仏間に通され、仏壇にお参りをする。

(泣いてた、よな…)

 この家は一周忌に向けての礼品だったはずだ。

 亡くなってからすぐの話であれば理解がしやすいが、1年経っても悲しみは癒えないということか。

 死に対しての心の処理の個人差はある、その人にとっての誰が亡くなったのかにもよる。

 むしろ、一年経つということで思い出してしまったのかもしれない。

 奥さんが泣いているため、お爺さんが台所からお茶を持ってきてくれた。

 湯呑みに入れられた緑のお茶を置きながらため息を吐かれる。

「昨日の夜、写真が落ちてなぁ」

「写真、ですか?」

「ああ」とお爺さんは後ろを向いた。

 見ると、仏間の奥の渡り廊下、箒と新聞紙が置かれた中に表面のガラスがバラバラに砕けた遺影写真があった。

(あぁ…、これはひどいな)

 上に飾っていた遺影が落ちてしまったのか。

 俺が来る前にある程度新聞の上にまとめて、仏間から渡り廊下に出したのだろう。

 遺影写真は昔から仏間の高い位置に飾ることが多い。宗教上の決まりは特にないのだがその方が光が当たらないので写真の劣化もしにくいし、遠くから確認することができるためだと思う。

 だが上に飾っているため、こういった落下の危険は常にある。

「それが怖かったんか知らんが、朝からずっとあんな感じなんだ、片付けも満足に進まん」

 線の細い、見るからに気の弱そうなお婆さんだった、怖がるのも無理はない。身内の写真でなくても嫌な気持ちになるのに、身内だとよっぽどだろう。

 俺は、お婆さんが気の毒に思えてきた。

 離れているので写真はよく見えないが、額の光沢はまだ新しい。

 この部門のお客の9割はうちで葬儀をしたご葬家だ。神坂條様も例に漏れない。うちで取り扱っているタイプの写真額で間違いない。

(本当ならお金をもらって取り替えるんだけど…)

 一年前の葬儀の時に作った遺影写真であるなら使えるはずだ。

「そうだ、そちらで額を新しく注文することはできるかい?同じ会社だったよなあ」

「あ、はい。写真に傷は入ってませんか?傷が入っていたら写真も発注し直さないといけないと思いますが」

「どうかなぁ、外してないからわからんが…」

「わたしが確認してもよろしいですか?」

 許可をもらい、立ち上がって写真に近づく。

「ああ、足元には気をつけてな」

「はい」

 飛び散ったガラスに気をつけながらしゃがみこんだ。

 黒い枠に入ったカラー写真には予想よりも若い男性が映っていた。年は40.50くらい。表面に目立った傷はなく、運良くガラスだけが割れていることが確認できる。

「写真にも額にも傷は入ってないので、額を注文されなくてもガラスだけ取り替えれば大丈夫ですよ。車に予備を積んでいるのでちょっと待ってください」

 まさかこんなところで役に立つとは思わなかった。

 俺は車に戻り、昨日車に詰め込んだ粗大ゴミたちの中から写真額を取り出した。

 額に傷がついて不良品扱いになっただろうそのガラスは、スーツの腕で軽く拭くと表面の薄い埃が取れて綺麗になる。

 お客の前でガラスを取り替え、綺麗になった遺影を手渡した。

「もう高いところに飾るのは怖いでしょうから、棚の上とかに写真立てを用意された方がいいかもしれませんね」

「ええ、ありがとう。いいのかい?」

「ガラスだけですし、どうせたくさん在庫ありますから」

 廃棄予定だったことは伏せた、気分がいいものではないだろう。

 お爺さんは「そうかい」と明るい声で言い奥に隠れると、お盆を持ったお婆さんと一緒に戻ってきた。

 お婆さんの目は赤く晴れているが、ニコニコと線になった目が可愛らしい。しわくちゃの手が俺の前に和菓子を置いてくれる。

「良かったぁ、昨日からずっと怖かったの」

「ご心配でしたね、お役に立てたのなら良かったです」

 笑顔や感謝をもらえると、昨日の肉体労働も無駄ではなかったと思える。

 お菓子を置くと、お婆さんはお爺さんに言われ、小刻みな仕草で仏壇の横の机に遺影を飾った。

 こちらを向く写真の男性に深々と合掌をしている。

「事故でなあ」

 机に置いたパンフレットを広げながら、お爺さんは呟いた。

「そろそろ一年。早いような、短いような。先立たれるなんて思ってもなかったから。もうこの歳になって、どちらが先かなあと考えていたら…」 

「そうですか、それは…突然でしたね」

 病気か事故だとは思っていた、どちらにしろ突然、お二人は子供に先立たれてしまった。

 死に優劣はつけられないが、遺族の心情として覚悟していた死と突然の死、驚きが強いのは突然死ではあるだろう。

 お爺さんは湯呑みを揺らして、表面をじっと見る。その横にお婆さんはちょこんと座った。2人の顔は穏やかだが、一言では言い表せない哀愁を感じさせた。

「小さい会社だけど、俺の親の代からの会社で継がせてたんだ。悩み相談もなんもしてこんで、こんな突然に逝くから、これでよかったのかって後悔ばっかりだったよ。もっと、自由にさせてやるべきだったんじゃないかって」

「あんた、そんなことこの人に言っても仕方ないわ…」

 隣に座ったお婆さんはまた泣きそうになってしまっている。

 お爺さんはお婆さんの背中をぽんと叩いた。

「こいつも塞ぎ込んでしまって、葬儀の後はしばらくは手続きやらなんやらで大変だったよ。会社のことも、身内がせんないけんことが多少あって。でも、忙しい方が色々考えずに済むもんだな」

 俺はうなづきながら話を聞く。

 吐き出すことで楽になる感情はある。

 葬儀部門では先輩にとにかくお客の話を聞くこと、と教えられた。

 ご遺族は身内の死をどう処理すればいいのか分からないことの方が多い。

 感情の整理のためにも葬儀という区切りは必要であるという考え方がある。

 担当者はお客に親身になって、信頼してもらうために傾聴する姿勢を持つことが大切だ。それが売上にもつながる。頭で考えたテクニックでもあるが、2人の様子を見ていると形だけではなく自然と親身になってしまう。

「一周忌が終わって区切りがついたら、なんだか本当に死んだんだって、なぁ」

 他人事ではなく、俺にもその気持ちが分かる。

 お婆さんが少し落ち着いたのか、声を発してくれる。

「最近夜になると、仏壇から音がするんですよ。一周忌が近づいたからだろうなぁって2人で言っててね。頑張れってあの子が言ってくれてるんだろうなあって、そんなことを考えたりするんですよ、馬鹿みたいだけどねぇ」

「…そんなことありませんよ」

 2人の言葉をオカルトなんて、と吐き捨てることが誰にできるだろうか。

 話終わったお爺さんはすっきりとしたように見えた。

 お婆さんも目を拭いて、赤い瞳をパンフレットに向けてくれる。 

「話を聞いてくれてありがとう」

「いいえ」

 いいご夫婦だと思う。仕事柄多くの人間と接することになるが、よくしてあげたいという気持ちになる2人だ。

「あんた、こんなに良くしてもらったんだからご相談しようよ」

「お?…おお、そうだな」

「何でしょうか?俺に答えられることならいいのですが…」






「宮藤くんよかったねえー!」

 支配人の声が事務所に響き、ボードにマーカーが走る音がキュ、と高く鳴る。

 他に比べ真新しいマグネットに書かれた宮藤の文字。

 明らかに急拵えの俺のバッチの上には30と書かれている、端数を削って大体の単価が書き込まれていくシステムだ。

 お祭りみたいに盛り上げてくれる事務員さん達に揉まれながら、中居支配人に頭を下げた。

「受注を許可していただいて、ありがとうございます」

「お客に頼まれるなんていい始まりじゃないか、良かったよほんと」

 神坂條夫妻の相談内容は『仏壇を新しくしたい』だった。

 一周忌を迎えるにあたり綺麗な仏壇にして気持ちを切り替えたいという考えが、元々あったそうだ。

 途中で変えてもいいのかどうか、から相談は始まり、注文するならあなたに頼みたいと言われ流れで見積もりの話へ。支配人に電話で確認をしたところ軽い口調で受注のGOが出た。

 受注の勉強は終わっていていつ出すか、という段階だったとはいえ、いかんせんタイミングが急だったので、慌てて車にタブレットを取りに行くなど慌ただしい事態になってしまった。欲を言えばもう少し準備をしてからこちらでの初受注はしたかったが、受注後のご夫婦はニコニコしていたのでよしとしよう。

「初受注おめでとうー」

「これで眞田さんも楽できるわねー」

「ありがとうございます」

 思いがけずに売り上げを上げた俺に事務所の人たちがわーわーと声をかけてくれる。

 高校入学くらいの祝福加減で若干気恥ずかしい。向こうの葬儀部門でも受注はしていたが俺はここでは新人扱いだ。

「やるじゃねーか、おい」

 ペコペコと頭を下げていると眞田さんが話しかけてきた。

 タブレットを片手に持ち堂々と立っている。

 表情は余裕そのもの、階段で無視されたことなどは意にも返していないようである。

「あ、お疲れ様です」

 俺は、何事もなかったようには眞田さんの顔を上手く見れなかった。

 眞田さんの言葉を全面的に信じたいなんてこれっぽっちも思ってはいないが、無視というのは露骨だった、と帰ってくる道中考えていた。

 オカルトに明るいだけで俺の教育係として受注を教えてくれた恩もある。関係性を悪くするメリットはない。

 先ほどの幽体離脱などの仕組みは頭の隅で考えてもいまだに分からないが、それは後で聞けばいい。

「…眞田さん、あの」

「ま、俺と一緒のタイミングだっだのが残念だったな」

 謝ろうとする俺の横を、眞田さんは飄々と通り抜けた。ボードの前に立つ支配人に向かい、持っているタブレットを渡している。

「眞田くんも上げてきたの?どれどれ」

 画面を見て、支配人の口がおお、と大きい丸になった。

 振り返り、記入した支配人が横にズレると、ボードに記入された文字がこちらから見えるようになる。

 ボードには100の数字。

 集まっていたその場の人たちが一斉に声を上げた。

「えっ」

「えー!?!」

「すご!なんでよぉ?」

「普通の家でしたよね?葬儀も大きくなかったって言ってたのにー」

 感心はボードから眞田さんに移される。

 俺も流石に眞田さんを見た。

 100万の仏壇なんてそうそう出ないだろうと思っていた、葬儀なら一件100万はよく見るが、仏壇単体であれば俺は先ほど30万を出してやっとくらい感触だ。

 1000万プレイヤーというのが現実味を増してくる。

 場の話題を掻っ攫っていった当の本人は、サラッとした態度で言い放つ。

「何にお金をかけたいかはお客さんが決めること、おれは後押しをしただけですよ」

「言うねえー」

 胡散臭い言葉に中居支配人は若返ったようにケラケラと笑った、普段の細い目がもっと線のようになり、随分と楽しそうである。

 壁際のボードのすぐ近くの席の年配の経理事務員さんが茶々を入れる。

「いつか詐欺で訴えられるわよー」

「そんなヘマしないですよ。言っても100は久々ですけどね、先月はゼロだし」

「今月はいい調子ってことだ。宮藤くんもこんなに早く独り立ちしたし、うちは安泰だねえ」

 満足げな支配人が腕を組んでこちらを見た。

 俺と、横に来た眞田さんを見る視線は生暖かい。

「俺の生徒ですから教育が良かったんでしょ。俺くらいになるもんなあ」

「眞田くんを目指すなら宮藤くんはまだ一人前とは呼べないかなぁ」

 あっはっは、と賑やかな声に包まれる。

 葬儀部門の職場はここほどは賑やかな場面は少なかったのであまり慣れないが、いい職場だと思う。

「眞田さんくらいは荷が重いですけど、頑張ります」

 うんうん、とうなづく支配人。

 眞田さんは何故かニヤニヤしていた。

 祭りのようなほとぼりは自然に冷め、事務所は静かさを取り戻していく。

 この後の仕事は特にないとのことで、俺は昨日から車に積んだままのゴミ達を下ろすことにした。

 これのおかげで売り上げに繋がったと言っても過言ではない。棚からぼたもち。仕事を押し付けてきた支配人のおかげだとは思いたくないのでゴミに感謝する。

 ゴミ捨て場で物を下ろしていく。積むよりも下ろす方が楽だ、ものの10分ほどで片付き、ゴミ捨て場の扉を閉じる。

 顔の左側に視線を感じる。

 気づかないふりをするのもおかしいだろう。

「なんですか?」

「機嫌は治ったか?」

 横を向くと、眞田さんが壁に体を預けて俺を見ていた。

 視線自体は少し前から感じていたが、見てるなら手伝ってくれてもいいと思うんだが。

 眞田さんのこう言うところが、改めて素直に謝ろうと言う気持ちを削いでくるんだ。

 俺は汚れた手を払って素直に聞くことにした。

「あれ、どういうカラクリなんですか?」

「100万仏壇か?高いものを売るにはまずその家のランクより高いものを見せてー」

「違いますよ、わざと言ってます?」

 俺はポケットに入れていた紙を広げる。

 ゴミ捨て場に誰もいないことを確認し、それを差し示した。

 チラシの裏に描かれた俺の部屋の間取り。ここまで正確なものになると個人情報になるのではないかと思い、思わずポケットにしまったのだ。

 眞田さんは俺の前に来てわざとらしく薄く笑った。

「もう忘れてると思ったわ」

「…忘れていいんですか?」

「できるんならな」

 間違いない、分かっていて言っている。

 忘れられたら苦労はしていない。

 午後は丸々、この図が頭に浮かんでいたと言ってもいい。

 話してもないのに自分の家がバレているって普通に気持ち悪いだろう、心理的に。

 こちらからも眞田さんに寄る。

「どうやって分かったんですか」

「タネも仕掛けもない、何せ超能力だからな」

「…幽体離脱だったんじゃないんですか?」

「ああそうだったか、まあどっちだって、小細工で当てて見せたんじゃないって意味は同じだろ」

 さっきは幽体離脱で今は超能力って。

 テレビに出るエセ霊能力者だってもっと設定はしっかりしていることだろう。

「信じてくれねえなあ」

「あたりまえです。俺のこといくつだと思ってるんですか、常識的に考えて…」

「俺は宮藤が無理に常識に当て嵌めようとしてるように見えるけどな」

 眞田さんはつまらなそうにあくびをする。

「先輩を無視して逃げやがって。傷ついたらどうするんだ、あぶねえな。俺じゃなかったら傷ついてるぞ」

「…変なことを言うからでしょう」

 というか眞田さんは何をすれば傷つくんだ、教えてほしい。

「宮藤はたとえ変な奴に変なこと言われたって人に強く言えない、日和見主義の人間だと思ってたんだけどなあ。過剰な反応をされて俺も多少は傷つくなり、驚いてはいるんだぜ?」

 言い返したいことは何点かあったが、一つの言葉に引っかかって口にしてしまう。

「…過剰、ですか?」

 じ、と見つめられる。

 見透かすような目に晒される。

 また、眞田さんの空気に乗せられている。

「俺は営業の仕事長いから何となくわかんだよ。そいつが本心に従って生きてるか、他人の尺度に自分を押し込んで生きてるか」

 じわり、と近づく体に、足が後退する。

「俺の経験上、何かに対して過剰な反応を見せる奴は自分に心理的な抑圧をしてる。自分の生き方を制御されてて、はみ出そうと乱してくる何かを敵だと見なす。そいつにとっては賢い生き方だって思ってるのかも知れねえけど、はたから見ててつまらないよなあ。それって誰のための生き方なんだ?って」

 これは棘で、攻撃だ。

 眞田さんの言葉は俺に痛すぎる。

「…何が言いたいんですか」

「頭が硬い奴はモテねえぞ」

(うぐ!)

 …ブッ刺さった。

 とどめに、言ってはならないことを。

 まさか、俺が1週間前に振られたと言うことを知ってるわけはない。

 にもかかわらず、こんなにクリーンヒットな攻撃を繰り出せる眞田さんは、やはり俺にとって危険すぎる。

「お疲れ様でーす!」

 あたりに明るい声が響いた。

 向こうで通り過ぎる車から森さんがこっちに手を振っている。車が続けて二、三台と走っていく、葬儀部門ではありえない定時ダッシュの光景だ。

 俺たち営業社員は帰る時間はまちまちだが、この部門の事務員さんは定時が多い。

「…俺も帰ります」

 俺は逃げた。

 

 

 

 

 今日はいつもと違う日だった。

 受注デビューをまあまあのスタートで飾り。

 何故か心は傷だらけ。

 嫌になってきた。

 全部。

 夕暮れの帰り道、昨日よりも違う痛みを感じている。

(不思議アレルギー…か)

 眞田さんの厄介なところは、破天荒なようで現実的で、人の確信をついてくるところだ。加えて、眞田さん自身の生き方に欺瞞がないから、誰に言われるよりも何倍も言い負かされた気分になる。

 俺の反応はそんなに過剰だっただろうか。

 神坂條様のようなオカルトへの考え方が普通なのだろうか。

(…心理カウンセラーにでもなればいい)

 眞田さんはやっぱりできる人だ。

 図星を突かれ、俺は黙ってしまった。

 俺はオカルトというものに対して拒否反応を持っている。これは反動だ、と思う。高校生が中二病をバカにする目線というのか。とにかく、見ていていたたまれないのだ。

『またそんなこと言って。あまり外ではそういうこと言わないでよね、お母さんまで変な目で見られるわ』

 共働きだったが、父親が怪我で仕事を辞めざるをなくなってから母親の働きっぷりは目を見張るものがあった。現実で戦っている母の前では。俺の話す話は荒唐無稽で、馬鹿馬鹿しい夢の話だった。

 あの日、光の中で見たという幽霊は母さんのことだ。

 亡くなって6年になるが、あの当時は生きていた。

 ベランダにいた母さんに足はあった、と思う。

 カラーバス効果、夢遊病、夢みがち、夢だったんじゃない?

 ネットで調べれば勘違いだと納得できる理由は無数にあっで、信じる理由は記憶だけだった。

 俺の幻想は砕かれてしまった。

(眞田さんはそんな経験がなかったんだろうか)

 だからずっと信じていられるのか。

 俺は眞田さんを羨ましいと思っているのか?

『岬は現実主義だよね』

 そんなことを彼女からも言われたっけ。

『悪いわけじゃないけどさ、なんか』

 悪くないならなんだって言うんだ。

 散々言われて、俺だって言いたいことがないわけじゃない。俺はサンドバッグじゃない。ふつふつと体に湧き上がるのは苛立ちだ。

 言ってしまおうか、という気持ちになってくる。

 言ってしまうのは簡単だ、ラインの画面を開いて、文字を打ち込んで送ればいい。

 ライン画面を開く。

『100』…

「…やめよう」

 打ち込んだ文字を消す。

 終わったことだ、どうしようもなく終わっている。

 神坂條様も言っていた、現実で忙しいということは、思考を圧迫して嫌なことを考えなくさせてくれる。

 夢に逃げるのか、現実に逃げるのか。

 どちらの方が人間としてまともなのか。

 考えることは別の誰かに任せてしまいたかった。

 哲学者、宗教者、眞田さんでも、誰でもいい。

 …とりあえず、家にかえってまず、まだ現実的な可能性である監視カメラや盗聴器をつけられてないか確認しよう。

 今ならその方が救いがある気さえしている、俺もだいぶ参っている。これも過剰だというのか。もういい、なんでも。

 顔を上げると、道の前に人が歩いていることに気づく。

 あの後ろ姿には見覚えがある。

「最所くん?」

 夕暮れに染まる彼は昨日のような人外じみた異質感は薄れていた。昨日と同じパーカー姿で、振り返った彼は「宮藤さん」と反応してくれた。

(うわ、まつ毛長いなぁ…)

 近づくと、夜よりもくっきりと見える顔をまじまじと観察してしまう。最所くんは人に見られることには慣れていそうで、にこりと微笑まれる。

「奇遇ですね」

「奇遇、だね」

 学生なのにむずかしい言葉を使う子だ。俺は感心しながら「着替えてどこに行くの?」と質問した。

「着替えてませんよ?」

「え?でも今日平日だよね」

 シフト制ゆえに曜日感覚がなくなる仕事だが、今日は平日だ。

「学校いま休んでて」

「あ、そうなの?大丈夫?」

「心配しないでください。ただの不登校ですよ」

「…あ、ああ、……そう?」

 当たり前のように返された。

(体調不良よりも心配になるんだけど…)

「どこに行くと言うわけでもないです。散歩をしてました。懐かしくてこの辺りをうろついてて、いえ、期待はしていたんですが」

「期待?」

「宮藤さんにまた会えるかなって」

 透き通るような笑顔を向けられる。

「会えて嬉しいです」

「え?そ、そう」

 何かいい返事を返したかったが、俺は満足に返せなかった。

 年下にこんなふうに好意を持たれることに慣れていないということもあったが、やっぱり、違和感があるのだ。

 彼にそんなに好感を持たれていたとは思ってもみなかった。

 あれからもう10年近く経ってる、忘れられてもしょうがない年月で、実際、俺は忘れていた。

「えっと、でもそっか、この辺りに来るの久々なんだね。あの後、引っ越したきりなのかな」

 彼が母親に連れられて出ていったらしい、と言う話は母親からの又聞きだ。

 俺の記憶では、2人はいつのまにか消えていた。

 2人がいなくなった後にも父親も引っ越したとか言っていたが、俺も休みには高校でできた新しい友達と遊ぶようになって、よくは知らない。

「はい。あの後はここからは遠くの都心に引っ越したので、こうやって空が開けている場所は過ごしやすいと実感します。色々と変わって、町の景色も前と全く一緒というわけではないけど、この空は変わりませんね」

 そう言い、最所くんはスラリと長い手を空に伸ばした。

 空に向かって伸びる白い肌に新月が透けていく。

 心を掴まれてしまうような、絵になる光景だった。

「宮藤さん、俺がいなくなってから不思議なことは起きました?」

「え?」

 彼の声に現実に引き戻される。

 最所くんは手を戻し、俺と向き合っていた。

「俺が遊びに行った時、いろいろ話してくれたじゃないですか。楽しい、不思議なお話」

 …そうか。

 何故気づかなかったのか。

 俺は顔を覆いたくなった。

 高校のあの時期といえば、中学の受験期に見たあの光景のおかげで俺の頭はオカルト一色だっただろう。

 なんでもスポンジのように吸収し、あらゆる可能性をあの日の光景に重ねて妄想していた、俺の痛々しい青春。

 向けられる目は、期待の眼差しだ。

 俺にとって嫌な思い出なんだ、とは口が裂けても言えない。

 思い出すのも苦しい黒歴史なんだ。

 それは正しく脳の抑圧だろう。

 心理的抑圧。

「ごめん、これと言ってないかな」

 この世界に、不思議なことなんかない。

 

 




「…ないな」

 部屋の端に積み上がった荷物が小さな山を作っている。

 もともと物が少ない俺の家に、もう探すところはない。

 監視カメラも盗聴器の線も、現実的には俺のカバンに仕組むくらいしか方法はないが、カバンはいたって普通。なんの細工もなし。その時点で可能性はつぶれているのだが、足掻いた結果が部屋の大掃除だ。

 本棚を動かしたため腕が疲れ、俺は床に大の字に寝転がった。

「はぁ…」

 ガサガサといろんな物を動かしていたので、止まると途端に静かになる。

 外からトントンと階段を登る音がする。続いて鍵の開く音。隣の人が帰ってきたのだろう。

 隣の人はどうやらパソコンや機器などに興味があるらしい、何度か何かしらの機器の画像がプリントされた大きなダンボールを抱えた宅配員が訪れているのを見たことがある。

 挨拶をした時にひどく暗い顔をしていたので、あまり人と関わりたくないタイプかと思い、それ以来会っていない。

 事務員さんには隣に挨拶に行ったと言ったらしっかりしてると驚かれたっけ。関わりを持つのは普通だと思ってやった行動だったが、一般的にはどこも、人との関わりは薄くなっているらしい。

(まあ、うちの母親がそういう感じだったからな)

 最所くんの家に関しても、母親がああだったから複雑そうな彼らと関わりを持てたんだろう。そう考えると、最所くんと再会できたことは不思議な感じだ。

 ぶぶ、とベットの上のスマホが鳴る。

 スマホを取り、電源をつけるとディスプレイには”眞田さん“から着信の文字。

 飛び起きた。

『よお』

「…なんですか」

『家になんもついてなかったろ』

 がら!

 俺は廊下側の窓を開けた、廊下には誰もいない。

 まさかと思っていたが。

「俺のストーカーですか」

『誰がお前みたいな冴えない男のストーカーだ』

 澱みなくツッコまれた。

 茶番だ。

「俺に何を言ってほしいんですか、何の電話なんですか、これ」

『そうだなぁ、この世界に不思議なことはあるって認めてほしい、かな』

(…いい加減にしてくれ)

 頭が痛くなってきそうだ。

 何が悲しくて年末でもないのに大掃除をやっていると思ってるんだ。

 良かったことといえば彼女の忘れていった櫛を処分できたことくらいだ。

 メッセージで捨てておいてくれと言われていたので手に取ればゴミ箱に入れるのにためらいはなかった、だがタイミングは確実に今じゃなかった。

『間取りを当てて見せただろう、不思議なことなんてこの世に一切ないんだったらあれは現実的にどう説明できるんだ?教えてほしいもんだな』

「いくらでも説明できますよ、監視カメラとか、俺の家を誰かから聞いた、とか」

『ふーん、で、カメラなんかあったのか?宮藤の家を知ってる人間は俺に話すような人間なのか?そもそもそんなやついるのか?』

「…」

 知ってる人間はもういない。

 彼女の櫛もゴミとなった。

『認めろよ、俺は超能力者だ』

「ついにそっちを自称するようになりましたか」

 思わず突っ込んだ。

 この人は結局何者だと主張したいんだ。

『あ、一応言っとくがお前の住所は会社の書類には書いてあるだろうが、個人情報の取り扱いが厳しくなってから支配人のデスクから取り出せないからな、あと聞くのも厳重に禁止されてる、それは知ってるよな?』

 知っている、その線はすでに考えて潰している。

 自分で言うのはいいが他の社員が教えるのは絶対にNGだ、エリアマネージャーよりきつい通達がされている。

 入社時までは他の会社より個人情報に関して古臭かったのだが、葬儀社も時代の流れには逆らえず、見積書が紙からタブレットへ移行する段階でコンプライアンス意識もパッキリと改善された。

「…別の可能性だってあります」

 もはや意地だ。

 眞田さんの言い方も悪い、こんな全てお見通しみたいな言い方をされればムキになるのも当然だ。

「たとえば…そう、たとえば、俺の帰り道をつけて家の間取りを調べたらいい。ネットで調べれば、俺の家はそこまで古くないから間取りは出てきます」

『お前は俺をどうしてもストーカーにしたいらしいな、それで間取りを当てたとして、物はどう説明するんだよ』

「それは…」

 ハンカチのことか。

 嫌なところをついてくる。

 たとえ俺の言う方法で間取りは分かったとしても、ハンカチをもらったことや、どこに置いているかは分からない、この図にはテーブルも書いてあり、テーブルの大きさや位置も合っている。

 これらをクリアできるのは監視カメラだけだったのだが、それはなかった。

「……」

『もう反論はおわりかー?』

 腹立つ…。

 煽りを受けながら紙に目をやり、考える。

 何かがあるはずだ。

 頭は違和感を覚えている、言語化できていないだけ。

「とにかく、俺は、オカルトは嫌いなんです」

『なんか言ったかー?』

 眞田さんを無視して、俺は部屋を見渡した。目の前のテーブルを見て、図のテーブルを見る。交互に視線をやり、ふと、テーブルのハンカチの位置が図と違うことに気づいた。

 紙を確認する、図の小さな四角は机の真ん中に置かれているように見える。だが、現実のハンカチは机の端に置いてある。

 あまりに正確な間取り図の中で、やはりこれだけ違う。

『おーい』

 うるさい、今は考えているんだ。

 素っ頓狂な茶番を解決してくれる現実的な答えを探してるんだ。

 予感だ。このハンカチに秘密が隠されているような気がしているんだ。

『やりすぎたか?』

 ボソリと、聞こえるか聞こえないかの声が耳に残る。

 俺は思考を止めた。

(…?)

 その口調はなんだ?

 まるで誰かに話しかけているような。

『いいから、俺にまかせろって、おいっ』

 なんだ?

 その、まるで言い争っているよう

 『がたた!』

「っ!」

 耳元で響くつんざく雑音。一緒のタイミングで、隣の壁から物音がした。

 静寂。沈黙。

 電話越しに『やべ』と声がして、俺はすぐに動き出した。

 ぴんぽんぴんぽんぴんぽん

 ピンポンピンポンピンポンピンポン

「おいストーカー!いるのはわかってるんだよ!!」

 隣の扉の前で、どこぞの取り立て屋のような声を俺は出していた。

 こんな言葉が俺の口から出る日が来るなんて、天国の母親はさぞびっくりしていることだろう。

「なにが幽体離脱だ!なにが超能力だ!この詐欺師が!早く訴えられてしまえ!!」

 無言を貫く扉にインターホンの鬼凸を喰らわせる。血が沸騰した頭にもういっそ突き破ってしまおうかという考えが掠め、

 扉が勢いよく内側から開いた。

「うわ!?」

 当たるのではないかという扉をすんでで避ける。

「あぶな」

「宮藤さん!」

 誰かが扉から出て俺の名前を呼ぶ。

 反った体のまま視認する、そこには、最所くんが立っていた。

「兄さんが、怖がらせてごめんなさい!」

「は?」

 

 

 

 

 俺の部屋の間取りと、白いハンカチを知っている人間が1人だけいた。

 最所くんだ。

 彼はいつからか、俺の部屋の隣に住んでいた。

 先ほど会ったのもここが最所くんの家だから、帰り道に偶然鉢合わせてしまったということなのか。

 子供らしくなく口達者な彼に騙されかけていたが、会いたくなって、なんて恋する乙女のような言葉を吐く理由も彼にはない。

 彼は眞田さんと兄弟で、眞田さんは彼から聞いた情報を元に間取りを書き、あたかもオカルト的スピリチュアルによって当ててみせたのだと俺を騙そうとした、ということになる。

「………」

 俺の部屋よりも少ない家具、リビングにある小さなローテーブルを俺と眞田さんと最所くんの3人で囲んでいる。テーブルの上には俺が部屋から握りしめて持ってきた紙が、可哀想なくらいくちゃくちゃになって置かれている。

 俺は絶句していた。

 なんだ?

 おれは新手のオカルト詐欺に引っ掛けられようとしてたのか?

 警察案件か?

 消費生活センター案件か?

 情けないことに弄ばれた怒りよりも、空恐ろしさが勝ってしまっている。部屋に入るよりも、逃げるべきだったんじゃないか。そのまま警察に駆け込むべきだったんじゃないか?

「いやーいい反応だったな」

 俺があれだけの威勢で突撃したにもかかわらず何も言葉を発さなくなったので、沈黙を破ったのは眞田さんだった。

「俺が宮藤のストーカーって、くくく あんな大声で。ご近所さんびっくりしたんじゃないか?騒ぎになってないといいけどなぁー」

「兄さん、混乱してる宮藤さんをあまり刺激しないでよ」

 2人は横に並ぶと系統の違う美形同士で大変目に麗しいと思う。

 今はそれどころではないが。

 眞田さんのニヤニヤとうるさい顔に怒りがぶり返してきて、思考停止状態から若干の回復を遂げる。

 2人の雰囲気は俺が肩身を狭くする必要はないものだと判断できる。少なくとも反社や、犯罪絡みの切羽詰まった空気はない。

 ドッキリ大成功〜くらい言ってくれたら、普段ならイラつくかもしれないが今はありがたいだろう。

「…まず」

 慣れない大声をあげてしまい掠れた声を出す。

「最所くんがほんとうにあの時の隣の彼なのかどうか、それから聞いてもいいですか」

 俺の耳が腐ってなければ、最所くんは眞田さんを”兄さん”と2回も呼んだ。

「俺は最所です」

 彼は柔らかく断言する。

 記憶は確かに朧げだが、俺だって最所くんの家族構成くらい把握している。ここははっきりとさせておきたい。

「でも、最所さんのところにはお兄さんの話なんて聞いたことなかったよ」

 2人が兄弟であるならおかしいのだ。と言外に告げる。

 彼に怯んだ様子はなかった。

「全くの他人でも、家族になることはあります」

 淡々とした、なぞなぞのような言い方だと思った。

 俺は少し考えて、思いついた答えを言葉にするか一瞬迷う。

 2人を見ると俺の答えを待っているようだった。最所くんは綺麗な微笑みを浮かべているくらいで、俺はなんともいえず、間違っていればいいと口に出すことにした。

「…それって、養子?」

 彼はいいえ、と首を振った。

「俺と兄さんは同じ施設育ち。母さん、死んじゃったんですよ」

「…」

 予想外の答えに、言葉を失う。

 脳裏に、涙を流す小さな少年が彼に重なった。

 扉を開けて家に入れる時、彼は申し訳なさそうに俯いていた。目の前の伏せた目が間違いなくあの時の隣の最所くんだと思わせる。

「大変、だったね」

 絞り出した返答に力はこもらない。

 眞田さんも施設育ちだったのか、俺は何も知らなかった。

「お気遣いありがとうございます。大変だったのはその後でしたけど」

「そっか…」

 最所くんは子供であるうちに母親を失い1人で残されてしまった。彼の父親について俺は詳しくはないが、家庭に問題があって2人が出て行ったことは知っている。

 亡くなってすぐに施設に行ったのなら一人息子を引き取らなかったのだろう。碌でもない男であるのは想像ができる。それからどうなって今に至るのか、想像するだけも苦しいものがある。

「その後に、俺は宇宙人に攫われて」

「………………は?」

 うちゅう、じん?

 俺はこんな大事な場面で聞き間違えたのか?

「宇宙人に攫われて、それから、俺は感覚が鋭くなったんです」

 念押しのようにもう一度言われてしまった。

 俺は隣で柄にもなく大人しくしている眞田さんに目を向けた。

「あーいい、いい」

 意外にも眞田さんは助け舟を出してくれたが、期待していたような助け舟ではなかった。

「こいつは宇宙人っていうよりも、どちらかというと超能力者よりなんだよ。ああ、言っとくと、おれは幽体離脱なんかできない。あれは全部はじめが言ったことを聞いてただけ。わるいな」

 そんなことは言われなくても分かってる、最初からこれっぽっちも信じちゃいない。

 幽体離脱も、オカルト詐欺も、それらはもはやどうでもいいのだ。

 それを上回る話が出てきた。

 宇宙人???

「…あの、ごめ、感覚が鋭くなったって、どういう意味?」

 なにか、比喩的な話だろうか。

「俗に言う千里眼です。俺には千里眼のような能力が備わっているんです」

 ガチガチの超能力のことを言っていた。

 葬儀の受注で「この棺はひのきを使っているから値が張るんです」みたいな言い振りだった、そんなにこやかに、流暢に言うことじゃない。またしても2度強調され、聞き間違いに逃げられないことに震えた。

「千里眼…」

 眞田さんは幽体離脱で、最所くんは千里眼って…どんな兄弟だよ。

 笑いどころかと思ったが、眞田さんには強く言えても若い高校生には強くいうわけにもいかない。

「はい。信じられませんか…?」

「いや、信じる、というか、ええ…?」

 そういうのは大学生になる前に治したほうが…、いやでも、そう言う時期ってあるよなぁ、かく言う俺もそうだったし、なぁ。

 大人として若者にかけるべき言葉に頭を悩ませていると、最所くんは机の上で、指揮棒を振るようにスッと手を上げた。

「今、この場で証明することができます」

 しわくちゃになったテーブルに置かれた紙を、しなやかな指がなぞる。

 指は図に書かれた四角の左側の端でピタリと止まり、呟いた。

「本棚の本の奥、千円札が隠れています」

 俺は、驚きの声を発した。

「っえぇ?!」

「1000円?」

 眞田さんの冷静な声を俺の声がかき消す。

「これは、たとえ何らかの方法で部屋に監視カメラを仕掛けていても分からないでしょう」

 俺はほとんど衝動的に立ち上がった。

 今度こそ、誰にも、1000円札のことは話していない、俺がそれを探していたと言うこと自体誰も知らないはずなのである。それを見事に言い当てられたのだ。驚きもするし、確認しなければと焦る。

 急いで部屋に戻り、2人がぞろぞろと続けて入ってくるのに気にもしない。

 指の位置に該当する棚に向かい、入ってる小説、参考書を取り出していく。確かあの日も彼女はこの辺りに座り、くつろいでいただろうか。記憶を思い出しながら棚の中の全てのものを出し終わるよりも前に、それは見つかる。

「…あった」

 本の奥、1000円札の顔が覗いている。

 その端をつまみ、助け出した。

「帰って来てたのか…」

「なんでこんなとこに挟んでんだよ?へそくりか?」

 手のひらの1000円札を覗き見て、眞田さんは当然の疑問を口にした。

「いや、これは俺じゃなくて」

「おそらく風水ですよ」

 立ったままの最所くんを見上げると、彼は部屋をぐるりと回って本棚の方向を指差した。

「ここは西の方角です。西の方角からお金は入ってくるって言いますよね。金運アップのために入れていたんじゃないでしょうか?」

「なんだ宮藤、風水は信じてるのかよ」

「…俺が置いたわけじゃなくて、彼女が、…置いてたんだ」

 1週間前。

 こっちに異動になって、彼女が初めて家に来た日だった。

 部屋でゆっくりした後、美味しいものを作ってくれるといい買い出しに行く彼女に千円を渡し、その後、喧嘩になった。

 喧嘩の内容は、今思い返せばなぜあんなにイラついたのか分からない。

 出かける前、彼女はスマホをいじっていて、俺に話しかけて来た。

『ねえ、この町って昔から魂を見たって報告があるって知ってる?』

 彼女はそう言うのに興味がある子だった。無邪気な子で、夢みがちで、そういうところが好きになったのに、あの日は無性に苛立った。

 あしらおうとしても彼女はその話を聞きたがった。

 段々と嫌になり、最後には『もういいよ、いつまでそんな感じなの。俺、疲れてるんだよ』と切り出すと、彼女は嫌な顔をした。

 表面に出ていなかったものが、浮き出たような表情だった。

 会話の流れで、それまで見えないようにしていたものが溢れてきた。そういう瞬間は今までにも何度もあった。俺は彼女の話を聞いて、いつものようにやり過ごそうと思った。

『悪いわけじゃないけどさ、なんか…』

 その後に続く言葉に、俺は多分傷つけられた。

 反射的に彼女の嫌なところを言った、そうしたらエスカレーションした。お互いの言葉に傷つけあって「つまらなくなった!」と一撃を喰らわして、彼女は出て行った。電話で別れ話を切り出されて、ただ終わった。

 漫喫の契約社員だった彼女は、給料が低いということに同調してくれて『そのうち上がるよ』と励ましてくれてたっけ。

 他県からここに来るのも、旅費代は安くはなかっただろう。そんな苦労への気配りもせず、考えずに、俺は彼女にひどいことを言った。

「……あー、」

『岬、あまり困らせないで、疲れてるのよ。分かるでしょ』

 母さんを困らせたいわけじゃなかった。

 俺は母さんにあの日の出来事を信じてもらえなかった。だから押さえつけようとした。母親にそうされたように、彼女を押さえつけた。

 彼女はそれが嫌だったのだ、考えれば当たり前のことなのに。

「ああ、宮藤の彼女が置いてったのか?」

 しゃがみ込む俺の後ろから、得心のいった声がする。

「…千円を貸してたんです。なあなあになって、結局どこに行ったか、何に使ったか分からなくて」

「?そんなの直接聞けば済むだろ、なんだってこんな隠して返すみたいなことするんだよ。変なことするな」

「その、言いづらかったのかなあ、と。変な感じでその日は帰ったので」

 千円を隠していたのは、最所くんのいうように金運アップのため、なんだろうか。

 変わった子だったけど、この行為には俺に対する同情があったのではないかと思えた。

 感覚の話だ。風水も、行動も、全て馬鹿馬鹿しいが、彼女らしい。そういうところが好きだったな、と思えた。

「…もしかして、振られたのか?」

「…」

 咄嗟に返せない俺に、眞田さんは真顔で口を紡ぎ

「ぶはっ!」

 思いっきり吹き出した。

「く、そうだなあ、1000円くらいを気にしてるちいせえ彼氏なんか、嫌気が差してもおかしくはないよなあ」

 眞田さんはわなわなと肩を振るわせている。

「あっはっは、ちょ、待て?もしかして振られた傷心で連続殺人やら、魂やらの噂が身に入らなかったのか?ぶははは!!ちっせぇー!!」

「…」

(ウゼーーーーー!!!)

 眞田さんに対して、初めて的確な表現ができた。

 悪魔みたいな笑い声しやがって!!

 俺が、母親が死んでから何年間も、頭でこねくり回した悩みにも関連することでもあった。あっさり、あっさい言葉で片付けられたこの怒りをどうすればいい。弁明なんかする気も起きない、むしろ絶対に話したくない。この人に一生俺の心は分かるまい。分かってたまるか。つか笑いすぎだろ!

(だから知られたくなかったんだ!)

「俺たちの話に耳を傾けてくれればと思って、信ぴょう性を高めるために、俺がこの計画を立てました」

「え、あ、おお…」

 最所くんの声に、頭に上った血が急速に下がる。

「本当は俺が言うはずだったのに、兄さんが先走ってしまって、すみません」

 最所くんはいつの間にか俺の後ろで正座をしていた。

 俺もならって向き直る。

「俺は春から施設を出てこの近くの高校に入学したんです。兄さんから宮藤さんのことは聞いていて、あの時の、隣の宮藤さんだってすぐに分かりました。隣に住んでるのは…以前たまたま通りがかったら宮藤さんを見かけて、後をつけました。すみません。それからこの計画を思いついたんです。俺の能力はある程度近くにいないと使えないので、隣に住むくらいじゃないとこの芸当は行えません」

「…はぁ」

 能力、と聞き、俺は改めて手の中に収まる1000円札を見る。

 事実として、彼は棚の奥に挟まっていたこれの所在を見事に当てて見せたわけだ。

 最所くんが眞田さんのエセ幽体離脱に協力していたのであればハンカチと間取りのいい当てはクリアできる、でも、この1000円札は一体どう説明できるというのか。

「どうでしょうか。まだ、信じられませんか?」

「……」

 記憶の中の子供より随分と大人になった最所くんは俺の納得はさておいてきちんと経緯を説明してくれた。

 紡がれていく言葉に騙そうとする悪意は感じ取れない。逆に、感じられるのは純粋な誠意、という始末である。

「……なんで俺なの?」

 俺は困惑のままに問いかけた。

「超能力のことは…、ひとまず置いておいてさ。わざわざ隣の部屋に住むなんてただの平社員1人相手に手が混みすぎてる、っていうか」

 彼の目は、きらりと光ったように見えた。

 まっすぐな瞳。

 緑がかった澄んだ虹彩に吸い込まれそうになる。

「宮藤さん、空から光が降ってきたことがあったって言いましたよね?宇宙人が、空から降りてきた光だって」

「うん…それは」

 俺は過去、最所くんににいろんな話をした。

 思い出すのも恥ずかしくなるような絵空事の妄想話、陰謀論、宇宙、魔法。

 光の降って来た夜の日のこと。

 嫌な予感がした。

「俺を攫った宇宙人は、まさに”それ”だと思っています。この町には本物の宇宙人がいて、今この瞬間にも人に紛れて生活しているんです。一緒に探しませんか?宮藤さん」

 これは、俺のせいなのか?

「きっとあなたも魅入られてる」




 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る