エメラルドの消滅

天川裕司

エメラルドの消滅

エメラルドの消滅

 財宝箱には、右から、アクアマリン、エメラルド、ヘリオドール、モルガナイト、レッドベリル、ゴシェナイトが並んでいた。それぞれ、ご主人様によって付けられた愛称である。それぞれ、ご主人様の気分が良い時にだけ名前を心地よく呼ばれ、後は放ったらかしにされていた。しかしそのご主人様は、普段は空気のように宝石たちを見守っている。時には激しく、時にはとても穏やかな存在だと、宝石たちは思っていた。白い空が、いつ私の改心が始まるのかと、ずっと、待つようにして見詰めている。私はその空を、眩しさで両手をかざしながら見えないまでもその隙間から覗き見、時々その両手をワッと拡げて憧れに近付こうとする。「いつか私のところへ来て、ここから救って欲しい」と思っていた。何から救って欲しいのかは、私自身にも漠然としており、

それでも夢を諦め切れず、はじめから在るようにしてその夢は、心の奥底に眠り続けた。この時、「私」は満足していない様子であった。


 皆、着飾るのが好きで、町で年に12回催されるショウを密かに楽しみにしている様子があり、しかし、その楽しみにしている「心」については互いに誰にも言い合わなかった。素振りだけを見せて何も言わず、雰囲気を楽しむだけである。ご主人様はその辺りの皆の心境には既に気付いていたらしく、何も言わないまま、ショウの段取りをする。これまでにもう360回も行って来たショウの段取り等はもうお手の物で、年齢については、宝石たちが生れるずっと前から居た存在とだけその宝石たちから認識されており、明かした事はなかった。いつしか某劇団から独立して、その後、少々ギャンブルに明け暮れた日々を送り、身近に居た母親のようなウェイトレスと相性が合った様子であたたかく見守った事もあり、その後に別れた。ビールが好きで、よくその女に店の品物をくすねさせ、ぐいぐいと呑んでは遠くの夕陽を見た後で女の頬と尻を叩いた。仲が良いのか悪いのか、傍から見ただけではつゆともわからず、女の方が一方的に愛想を尽かして一人になった、という経緯を団長である「ご主人様」は持っている。その為、昔を思い出した際には、一番目立たないヘリオドールをよく殴りつけて鬱憤を晴らしていた。周りに居たエメラルドとモルガナイトは泣いているヘリオドールをよく庇い、特にエメラルドなどは、あろうことか、ご主人様に向かって唾を吐くように文句を言った後、甘く慰めを言い、ご主人様と対等の地位に居るかのような、そんな錯覚を周りの者に思わせる程、輝いていた。そう、エメラルドはこの劇団一の稼ぎ頭だったのである。稼いだお金の半分はご主人様が取るが、もう半分はエメラルドが取り、自由の金として使えた。当時のショウ・ビジネス界に於いて、各劇団、詰まり会社と、所属する従業員との関係とは、結構シビアな関係があった様子で、大抵が、従業員が稼いだその儲けの8割程が会社側に取られるというのが常套であったが、このように、一躍有名になった女優に対しては、それなりの恩赦が付けられる。エメラルドが正にそれである。入団当時は、肌の色が浅黒く、器量は並で、技量については相応の定評があった彼女だが、未だ「これぞ」というものがなかった。客の日替わりの気分次第でどうとでも成るその基準に明け暮れて、一度は退団、又その退団しようとした際の自身の陶酔が物を言い、身投げしようとした事さえあった。まるですべてに絶望したような彼女だったが、自殺騒動の際には、何年か先輩のゴシェナイトが留めた甲斐もあり、大事に至らず、再び、下っ端女優としての道に復調することが出来た。当時エメラルドは満10歳であって、ほんの子供だったのである。時が経つにつれてメキメキ演技力が上がり、その肌は化粧によって白くなり、浅黒かった顔の陰は、彼女の振舞いと、肌に付ける化粧とは又違った特別のクリームによりプラチナ色に輝いていた。この器量と技量が、彼女を救ったのである。これ等を途中から見ていたヘリオドールは、彼女の強い生き方と、どこへ行っても通用するようなその完璧を呈するまでの美しさに圧倒され、彼女の虜になっていた節がある。彼女の行く方へ一々付いて回る癖が過去にあり、ゴシェナイトの「あなたらしくないからやめなさい」という忠告に耳を貸さないままに、やはり舞台に立っていたエメラルドがその舞台から下りて来ると何か特別な魅力に惑わされ、ヘリオドールは彼女のものとなる。ヘリオドール自身は心のどこかで、「未だ自分は完全にこの人のものにはなっていないわ。ちゃんと自分は自分のテリトリーを持っているもの。大丈夫、ゴシェナイト姉さんがあんなに言う程、私は染まっちゃいない、あのエメラルドに」などと自分に言い聞かせてはいたが、その「テリトリー」が又はっきりとは掴めなかった。しかし、常に漠然としている自分ではあっても、いつかは飛び立てる、そう思っていた。そう思う事でこの次への活力としていた様子がヘリオドールにあった。

 

 ゴシェナイトはマイペースであった。食事を取る時も、顔を洗う時も、ご主人様の機嫌を取る時も、又、眠る前のお祈りをする時も、常にマイペースであった。そのため、エメラルドをはじめ、ヘリオドール、アクアマリン、モルガナイトなどは彼女に一目置いていた。しかしレッドベリルだけは別だった。彼女には、少し、他の者にはない野心の様なものがあり、それが身を滅ぼす程のものであることは当の本人も気付いてはいない。しかし彼女は他の皆の気質を少しずつ集めたような財産を持っており、それが時折、彼女が特に問題を起こす際によく発揮され、同情を集めていた。何か話の矢先に喧嘩の火花を想像させられる展開を感じた時には特に皆、このレッドベリルに相談を持ち掛け、一緒に解決を図らずとも、何か「楽にしてくれる特効薬」のようなものをくれるのではないかと期待して近付き、又利用した。利用されることに慣れていた彼女は、この劇団に諦めを見、ご主人様にも喰ってかかる気丈さを時々持つことが出来ていた。「いつかビッグになってやる」それが彼女の口癖で、稼いだ金を以て酒を買い込んでは周りに居る女を自室に連れ込み、夜通し秘話に耽る事も珍しくなかった。ゴシェナイトはこんな彼女の事をも大目に見ており、レッドベリルはよく、このゴシェナイトに身の上の相談を持ち掛けた。「劇団を出たい病」に罹った時も一応の相談を二人はしており、「まだなんとかなる」との思いの下に一件落着し、今の体裁が在る、というのもこの二人の絶妙の効果を奏でる気質があったればこそである。ゴシェナイトはここを出る気はないらしく、いっそ、この劇団が赴く地に骨を埋める気で居るのではないか、と思わせる程に何事にも忠実であり、ショウの出番にも、ご主人様の機嫌を取る順番にも遅れたことがなかった。肌はそれ程綺麗ではないが、いつも着用している純白のマントが彼女の効果を高め、見る者に安心と地に足の着いた母親の優しさを与えており、その強さは少々永遠に続くものと思わされる程であった。


 アクアマリンは元々、ご主人様の愛人であった。昔に拾われた女の成れの果てが効を奏して、それがそのままご機嫌取りと成り、我儘なご主人様に気に入られたのである。ここに落ち着く以前、彼女は人里離れた農家の家に住んでいた。しかし火事が起こり、両親共々焼け死に、上に一人居た兄は妹の彼女を捨てて、新しい女と駆け落ちする形を以てどこかへ行った。まるきり一人になった彼女は当時13歳であり、都会である、ここロンドンの片隅に流れ着いて遊女の様な仕事をしていたところにご主人様がやって来て、拾われたのである。悲惨な経歴が在る彼女でも、ここ(劇団生活)では一介の素人であり、何も特別な経歴は無かった。誰も彼女を認める処を見出せず、云わば、農村に住む一般的な家庭を担う熟した女、といった態である。器量よしでもなければ技術もなく、より言えば、頭もそれ程良くはなかった。何度もここへ来てからご主人様を怒らせている。怒らせては「自分が悪い」と言い訳をし、その言い訳を楯にして身の程を守っている、そんな様子である。彼女は今年で37歳となるベテランであった。ここへ来てから既に23年が経過している。しかし、ご主人様がこの劇団を始めてから一番長く居座っている甲斐が在り、ご主人様が喋り出す悩みの核心部分は、大体、このアクアマリンに持って行かれた。でなければ、ゴシェナイトである。ご主人様は余りこの財宝達に悩み事など言わない質であったが、劇団内で生れた悩み事については「この劇団内で片を付ける」といったご主人様自身の方針により、外界に持って行かず、この二人に運ばれて解決を図るのである。特に最近の悩み事とは、エメラルドの無鉄砲について、であった。


 モルガナイトはエメラルド、ヘリオドールについて歩く、所謂、腰巾着である。何をするにしてもこの二人の顔色窺い窺いして自分で決められず、そんな勇気のない自分について現在悩むことはせず、唯、流れに任せようと決めていた。そんな調子であるからいつもレッドベリルには馬鹿にされ、その度泣き笑い、即席の「悩み事」を会話の種にしてエメラルドとヘリオドールの下へ持って行き、二人の傍に居る幸せを感じているのである。そんなモルガナイトの内実について二人は知って居り、又許容していた為に煙たがらず、むしろ、自分の後ろを歩く妹のように可愛がった。彼女は現在15歳でありもうすぐ16歳の誕生日を迎えるが、一番年下であった。そして彼女は劇団一の優しさを持っており、アクアマリンが不幸に在る時、ヘリオドールが泣かされた時等は一番に駆け寄り、自分のスカートで彼女たちの汚れを落として、一緒に笑った。その後、三人で、行きつけのバーで安酒を呑むのが楽しみにもなっていた。勇気のない者と彼女を決め付けていたのは、レッドベリルとエメラルドだけである。


 エメラルドは、常に自分がナンバーワンでなければ気が済まず、周りの者には程良い笑顔で優しく振舞うが、その実、周りの者を見下していた。メイクアップされたその顔が放つ笑顔の効果は男女問わずに魅了するものであり、特にヘリオドールには、満面に近い笑顔を常に用意していた。ここ最近のヘリオドールには、何か異変が起きたように演技力、又器量に磨きが掛かり、ご主人様もその頭角を現した彼女のスタンスには定評と共に恋愛感情を抱き始め、その関係は傍から見てもわかるものだった。レッドベリルはこの様を見て嫉妬を覚え、ヘリオドールには近付かなくなった。しかし特に何か仕掛けて来るといった調子もなく、気まずい雰囲気は在りながらも食事は一緒に取れるという、そんな仲である。一条を留めた互いの約束事が同様の夢を見た為、彼女たちは一線を画したテリトリーに城を構えるが如く一定のスタンスを取り決める事が出来た様子であり、次第に、仲の良い喧嘩が出来るまでになった。このヘリオドールの実力の出始めを当初甘く見ていたのがエメラルドであり、「こんな小娘に何が出来るか」といった調子でふんとそっぽを向き、自分は自分で、と、又歩き始めた道の先に光り始める希望を見ていた。その「希望」はエメラルドが作り上げている。


 エメラルドは或るショウに出る前に、ヘリオドールに特価で売られていた高級クリームを買って来るように言い、ヘリオドールが居ない間に、彼女がいつもショウの前に使用している化粧品に毒を混ぜた。丁度ショウの一幕を終えて戻って来たモルガナイトに、その一部始終を見られた。エメラルドはその気質の為か、自身を昇華させる事に夢中であった為、気付かなかったのである。しかし従順なモルガナイトはしばし動きを止めて、唯、彼女の顔を見ているだけであった。ここにつけ込みエメラルドは、今見た事を決して誰にも言わない、とモルガナイトに約束させて、彼女を自分の下に留めておいた。次は、モルガナイトを手放さない事に気を遣った。ヘリオドールが帰って来て、注文通りのクリームをエメラルドに手渡す。何も知らないヘリオドールは、いつもの自分の鏡の前に座って、その日の化粧をし始めた。最近頭角を現し始めた彼女は、気が鋭敏になっており、いつもと違う自分の化粧品の様子に気付いた。その日に使おうとしたクリームは買って未だ使用していないものであった為、軽く掘られたような誰かの指の模様がクリームの表面にうっすら残っていたのである。これまで自分の昇華だけを心掛けて来たエメラルドには、他人を蹴落とすだけの技量は未だ整っていなかった様子であり、こんな時でもすぐに「バレた」と頷いてしまうくらいの容易い罠しか仕掛ける事が出来なかった。エメラルドは溜息を吐きながら、今度は、モルガナイトを手放さない事への気遣いと、詮索し始めるヘリオドールの推理と周りからの重圧に対して、アリバイを作るように逃れる算段を弄しながら耐える気力を付けねばならなかった。「人間は策を弄すれば弄する程、限界がある」という、ご主人様が以前におどけて見せたショウのワンシーンの台詞をその時、思い出していた。思い出しながら、そのご主人様が言った台詞を題に冠して一つのシナリオを作り上げ、そのヒロインを始めは恐れながら、後に段々と大胆な動作を取り入れるようにして、演じる事となる。実感としてわかるその興奮と恐怖により、いつものショウで見せる演技には見られない一種の鋭さが、それから見せる彼女の演技を支配した。


「誰か、この私の化粧品に触った?」というヘリオドールの第一声に、丁度隣の椅子に座って化粧をし直しているゴシェナイトが耳を貸す。


(ゴシェナイト)「いいえ、私は触ってないわ。どうしたの?」


(ヘリオドール)「いえ、なんでもないけど、ただ、買ったばかりのクリームなのに誰かの指跡があるの。ほら。」と、彼女は片手でクリームの入れ物、もう片手にその入れ物の蓋を持ちながら、ゴシェナイトに見えるようにして見せた。


(ゴシェナイト)「…あら、本当ね。あなたは触ってないの?」


(ヘリオドール)「私、触らないわ」


(ゴシェナイト)「じゃあきっと誰かが間違えてあなたのクリーム使ったんじゃないの?」と、顔に下地クリームを両手で擦る様にしてすり込みながら彼女は言う。


(ヘリオドール)「でもいつもはこんなことないわ。皆、自分の化粧品だけは必ず自分の箱の中にしまうもの。」首を傾げながら彼女は言い、又続ける。


(ヘリオドール)「おかしいわ。でも、他の人に借りられないし、これを塗るしかないようね。」と、頭を左右にふりふり、いつもの陽気な顔を取り戻して、ちょんちょんと右手の中指でクリームを拾い、顔に塗り始めた。


そう、ここ(劇団内)では、各自の持ち物には触れ合わないという決まりがあった。それは暗黙の内に出来たものであり、特に化粧品に関しては絶対であった。もう遠い以前であるが、宝石たちが集ってピクニックに出掛けた時のことである。日頃の憂さを晴らすことが目的であったそのピクニックで、ふざけて互いの化粧品を手に取り合いながら川のほとりで遊んでいた時、うっかり皆の化粧品を持った二人が、丁度川の上を跨ぐようにして架かっていた丸太の上で立ち上がった際にバランスを崩し、流れは緩いが深い河底に、その化粧品を皆落してしまった事があった。その日はご主人様に皆こっぴどく叱られて、夕食は抜かれ、朝までの日雇いで、女郎屋で働かされた。そんな事が5回あった。それ以来、絶対に自分の持ち物は各自が自分で責任を持ち管理をし、なくなっても、他人に「貸して」とさえ言わない約束事を取り決めていた。化粧品がなければ、ショウの舞台に立てず、飯の食い上げになる恐れが顔をちらつかせるからである。そう、それは自分達にとっても災難であり、その取り決めはずっと守られていた。その「取り決め」を破った行為がエメラルドの為したものであり、やはり、自分の為とはいえ、無鉄砲な一面がここでも現れた、と言わ去るを得ない局面であった。


 エメラルドは、二人の会話にどぎまぎしながらも、すっと二人から気取られる事のない距離を保ったまま、ドアに隠れてその光景を覗いている。


(ヘリオドール)「なにか顔が熱いわ、なんなのかしら。(暫く黙ってクリームの表面を見ている)ああっ、痒い、痒い!痛い、痛い!」と彼女の目前に並べられた化粧品をすべて床に落とし、彼女は鏡の前の台にうつぶせになって苦しんだ。


(ゴシェナイト)「ちょっと、ちょっとどうしたの!?ヘリオドール!どうしたのよ!?」と自分の化粧はさておき、彼女のもとに駆け寄り、両肩を抱いて心配そうにヘリオドールを見詰める。


 エメラルドが入れた毒とは、肌をボロボロにする効力を持つものであり、みるみる内にヘリオドールの顔は醜く焼け爛れたようになった。病院に担ぎ込まれたヘリオドールは、顔を包帯でぐるぐる巻きにされた後、注射を何本か打たれ、肌の腐敗化はなんとか防ぐ事が出来た。しかし、せっかく頭角を現し始めていた彼女であったが、流石に舞台に立てる姿ではなくなり、少々気落ちするご主人様であったが、劇団の経営の為にと、すぐさま気を取り直し、代わりを探し始めた。エメラルドがその代役のようにあてがわれ、やはり未だに劇団一の美貌は物を言う様子で、時を経る毎に、頭角を現し始めていたヘリオドールの姿は忘れられていった。しかし、ヘリオドールにはこの劇団にはない夢があり、又、空を見上げ始めた。「いつか私のところへ来て、ここから救って欲しい」と、何か、肩の荷が下りたような気持を持ったままで彼女は病院で呟く。いつも自分の隣に居る知った顔が誰もいない病院の一室である。ここでする発言は自由であった。気兼ねなく何でも話せる。しかし、ゴシェナイトとモルガナイトだけは、ここへ連れて来たいと思った。例え劇団を辞めても、あの二人とは結びあっていたいと思っていた。彼女は、何となくではあるが、毒を入れた犯人の正体に気付いていた。「きっと、エメラルドだわ…」そう言う彼女の心の内にはもう、争うだけの気力がなかった。あれだけ慕った彼女に、あれだけ魅了された彼女に、追い付く前に、その憧れの彼女により自分は傷付けられた。憧れた分だけ彼女を恨む事が出来そうなものであったが、未だに確信がなく、確実に恨む、という境地にまでは達していなかったのである。しかしこの病院に担ぎ込まれた後、モルガナイトが来て、一部始終を話してくれてはいた。信じる事が出来なかったのである。モルガナイトは自分の妹のような存在ではあるが、又他人でもあり、その複雑な関係の内のずれが一層信憑性を生み、妙にはっきりと、モルガナイトの言う事に真実を見ていたが、余りにも急な、奈落の底に落された失意に暮れて、彼女は一定の気持ちを留める事しか出来なかった。仕方なく彼女は、いつまでもエメラルドを、自分の心の内の憧れと題した額縁の中に飾ることにしたのである。


 エメラルドはその後、最高のショウを何度も繰り広げていた。お客の入りは次第に増え、ご主人様から寵愛を受けると共に、よく一人にもなっていた。ご主人様は或る日より、アクアマリンと、ゴシェナイトに相談を持ち掛ける回数が多くなった。エメラルドは日に日に新しい化粧の仕方を覚え、あの事件の事も忘れていった。しかしモルガナイトが居る。あの子をどうにかしないと自分の安泰はない、そう考えるようになっていた。しかし、モルガナイトは変わらず従順であり、自分を裏切る素振りを見せない為、エメラルドはすぐさま行動に移す必要はないと考え、胸を撫で下ろす日々を送った。モルガナイトが例えばご主人様と、又他の宝石たちと、自分の知らないところでヒソヒソ話している姿を見付けてしまうと胸中穏やかにしては居れず、一度は殺し掛けた。しかし、ヘリオドールのあんな一件があって以来、劇団内でも一応の目を光らせては居り、小さい出来事ではあるが傷害罪であり、犯人探しは穏やかに続けられていた。動けない。何か、騒然としたような雰囲気がない。その辺りにエメラルドは一応の覚悟をしてはいたが、やはりスターの座を手にしてからは手放す事が惜しく成った様子で、その独り舞台には何も邪魔なものがあってはいけないという風にどこか走る様子も在り、傍から見れば、以前と比べ、彼女の様子はどこか落ち着きがなくなっていた。彼女の様子は益々エスカレートする。ご主人様の顔色を窺うようになり、周りの者達の言動に対して過敏になった。


 或る四月の下旬、しとしと雨が降っていた。その日は休演日であり、皆一同、食卓に集まっていた。エメラルドも居る。エメラルドが居る前では、彼等は一様にしてヘリオドールの事を話さなかった。彼等の目は時折一点を見据えるようにして座り、又視点を変えるが、一様にして落ち着きがあった。エメラルドは、自分専用のカウンセラーが欲しい、とさえ思い始めていた。自分がする行動の一部始終が常に周りの皆から見詰められている気がして、生きた心地がしなかったのだ。そんな環境にあれからずっと居るが慣れる事が出来なかった為、初めて気付いたように、自分には専用のカウンセラーのような人が要る、と思い始めたのである。ここの人達ではだめだ。誰か他の、ここの人達ではない、他所の人でなければ、自分が思う夢は達成出来ない。「自分にはカウンセラーが要る」この言葉は次第に彼女の心の中で居座る存在と成り、その言動に効果を発揮し始め、エメラルドはここ最近、よくショウの舞台に立つ時以外は、出歩くようになっていた。


 舞台小屋を出てすぐの雑貨店に、エメラルドはよく通った。警察が窓の外をゆっくり通っただけで怯えるようになった自分が、その店内に置かれて在る何かの鏡に反射して映るのを見る度、自分が情けなくなり、自分の才能について、考えるようになった。自分はなんて醜い女なのか、ライバルだと思った人を蹴落として勝ち取った地位がこれか。この悩みばかり溢れているこの地位なのか。こんなものが私は欲しかったのか。あの時、まともに勝負をしていればよかったのだ。まともに勝負をしなかった私とは、自分で自分に敗北と書かれた引導を渡したようなものだ。何がロマンスなのか、地位なのか。ヘリオドールに会いに行こう。未だ、少し、心の準備が出来ていないから、明日、会いに行こう。行ってすべてを告白して、謝ろう。その「謝罪」の後に、許してもらおう、という彼女の本意があった。その時は、モルガナイトも連れて。このように、雑貨店に来てみれば、様々なまともな事を思える彼女ではあったのだが、いざ、小屋に帰ると、ご主人様がいて、アクアマリンが居て、モルガナイトが居て、未だレッドベリルが居て、ゴシェナイトまで居る。きっと、アクアマリンはご主人様に味方して、一層、自分を攻め立てるだろう。モルガナイトはここでは良い顔しない、連れて行ってからの方が得策だ。レッドベリルは何を言うかはわかってる。ゴシェナイトなんか何を言い出すか、裏切られたくない人なのに、裏切りたくない人なのに。そしてご主人様だ。きっと、私を捨てなきゃいけなくなる。絶対に凄い形相をして、私なんか奈落の底に捨てるだろう。きっと、あの頃の栄華なんて言って余韻になんか浸って居られない現実がご主人様にも私にもあって、自然の内に捨てられる。当然の内に捨てられる。当たり前のことだ。これが当たり前のことなんだ。私は、もう、ここに居ちゃいけない人間だ。ここから出てゆくのはヘリオドールではなく、私だ。ここまで時間が経つと、そうは思っても、やはり怖いんだ。どうしても体と口が言う事をきかない。黙ってしまう。変な行動をとってしまう。何か契機はないものか。そういう契機が、今の私には必要だ。


 雑貨店から帰ったエメラルドは、いつものように黙っていた。妙な行動はしなかったが、自室に一人居て、あの時買った高級クリームを眺めていた。眺めている内に、少し付けてみたくなった。鏡を前にしたエメラルドは、ちょんちょんと、右の一指し指でクリームの表面を撫で、顔に付けた。流石に綺麗に成る。確かにエメラルドは綺麗であり、誰が見ても、高嶺の花を思わせる風貌をしている。しかし彼女には、高給取りの遊女の体裁も繕う事が出来、他人を惑わせる節もあった。持って生れた質とは、常に磨きをかけて居なくては正しい色合いを失うエメラルドであり、正しい色合いを失った彼女には、心の中で悪い虫が付く、といったような古い傷を作っていた。その浅い傷の溝には汚れが溜まり、浅い故にすぐにその汚れは取れるが、又何かの拍子に汚れがその傷の溝に溜まるといったそんな調子である。いつしか、彼女はその繰り返しに疲れ始めていた。疲れる故にも又、自分の才能に対して苛立ちを覚えていたのだ。


 ドアを隔てた向うで、エメラルドを除く皆が集い、何やらボソボソ話し合っていた。陽気なムードではない。真面目な雰囲気を醸し出す。エメラルドは当然その光景に注意が行き、暫くドアの前まで行けずに、又自室に戻ったり、鏡の前に立ったり、外に出たり、雑貨店に行ったりしていた。


(ご主人様)「エメラルドをどうするか迷っている?このままあいつの美貌を利用して、客入りを誘う為に、又主役に押そうかと思うのだが、しかし、いつまでもそれでは刺激がない。今度のショウの主役は誰か違う者を立てたいと考えているのだが」


(アクアマリン)「御意のままに」


(ゴシェナイト)「でも誰を?」


(レッドベリル)「あたしが成ろうか?彼女になんか負けない演技をして見せるわよ。」


(モルガナイト)「私はエメラルド姉さんがいいと思うなぁ」


(ご主人様)「しかしここ最近のエメラルドは疲れているようだ。まぁ、こう何度も主役で登場させれば、誰でも疲れるだろうが。うーむ、やはり、エメラルドしか居ないか」


(ゴシェナイト)「私はヘリオドールがここに居ない事が残念だわ。ヘリオドールが居ればきっと彼女よ。エメラルドに無い素質を持っているもの。」


(ご主人様)「いや素質は誰でも持っとる」


(ゴシェナイト)「今の事を言っているの。さっき主役を立て変えようかって言っていたじゃない。さっき言った事も忘れるんだから。」と言うが、ご主人様は、唯、微笑んでいるようである。


(ゴシェナイト)「彼女にはやはり、罪を償わせるべきじゃない?幾ら私達の為だからといって…」


 会議の雰囲気は次第に疲れたものになった。そこへ、エメラルドが駆け込んだ。


(エメラルド)「やっぱり、私のした事、皆気付いているのね!ごめんなさい!私が悪かったわ。一心不乱になってたとはいえ、してはいけない事をしたわ。自首するわ」


威勢良く飛び出した彼女を、水を差すような言葉が襲う。


(ご主人様)「いや、そうじゃなかったんだよ。今ここで皆と話していたのはお前を主役にするか脇役にするか、という事だ。我々は、お前を手放したりしない。するもんか。守ってやる。我々の利益の為にね。」


(アクアマリン)「御意のままに」


(モルガナイト)「やっぱりね。あなた謝るべきよ、ヘリオドールに。そしてあなたが言うように自首するべきだわ。でもあなたが居てくれなきゃ私は困るけど。」


(レッドベリル)「私はあんたの事なんてどうでもいいわ。自首したきゃ勝手にしなさいよ。まぁ、私は、丁度良いライバルが消えてちょっとは寂しい気がするけどさ。でも居てくれなきゃ私が今度スターに成る為の場所がなくなってとても困るわ!私の言う事を、否、皆の言う事を聞きなさい!ここに居なさいな」


(ゴシェナイト)「あなたが思うようにしなさい。皆のことを思うならここに留まりなさい。でも自分とヘリオドールの事を思うなら自首しなさい。」ゴシェナイトだけは、エメラルドにとって、自分の心のようであった。


(ご主人様)「あの時、皆でした約束の事を思い出しなさい。共存する我々が生きるには、ルールは守るべきなんだ。お前達に教えられたことだ。ここに居なさい。」


 エメラルドの心は決まった。いつしか、ヘリオドールは劇団に帰って来ていた。それでもすぐには行き場を決められず、もう暫くの間、ここに居るという。エメラルドは帰って来たヘリオドールを今度は快く持て成し、仲間意識を携えて、以前以上に互いの結束を固めようとした。ヘリオドールはあの一件を懐かしく思い、一段高い位置からエメラルドをからかう事もあったが、エメラルドは優しく微笑み、互いに許し合った。エメラルドは、やがて、何をしても周りの皆が自分を守ってくれると信じて、ここに居る仲間のことだけは裏切らないように努力をし、堕落していった。或る時、エメラルドは又罪を犯した。しかしエメラルドは、その罪がこの小屋の外に於いて、どのように裁かれるかについては知らなかった。

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エメラルドの消滅 天川裕司 @tenkawayuji

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