テリトリー~10代から20代に書いた詩~

天川裕司

テリトリー~10代から20代に書いた詩~

「無題。」

 私の言葉は難しい。一度聞いたくらいでは普通の人ならきっとわかり辛く、もう一度聞き直すか、やめるかするだろう。自信を持つのは辛いことで、私、なんかもうあの時の殆どがなくなり果て、費やしてしまった。時代というものの流れに。おかしいんだよ。したいことをしているのに、出来ているのに、自然と、自分の自信というものはなくなっていくものなんだね。そのお陰で、すっかり今では、人とも満足に会話できなくなってしまったんだ。気にしすぎるからだろう、という自分からの言葉もいつかあった。「君は人の真似をし過ぎる」とね。自信さえ持てれば。煙草を吸いながらに、そんな事ばかり考える。誰に遠慮をする事もないのに、妙に何かを気にして、体裁を繕おうとするのだから、全くやってられないよ。果して、そんな事ばかり思うのは自分の欲なのだろうか。欲から出たサビとはよく言ったもので、一度、過ぎた身のサビはそう簡単には消えないものらしい。自分を磨き続ける事を自信持ってやっていこうとしたのだけれど、周りが許してくれなかったらしくて、私は初めて、こんな淵につき落とされたってなもんよ。本当に。あの時は楽しかった。本当に、心からそう思う事ができる。あの頃のままの私なら、どんな今では逆境と呼ばれる所に立っていても自信を失くさずに腐らないで自分の道を歩く事が出来たのに。これは惜しい。自分の言う言葉、この口から出た言葉の数々が、全て自信持てないままに、他人の側に吸い込まれるのを怖がる。やはり、ここではどうしようもない。あの時は全て納得出来ていた事が今ではむし返して、納得できないようになっている。これではこの先、どうして歩いて行けばいいのかさえ、目の前の標識に他人がうろちょろしてわからなくなってしまうのも仕方がない事かも知れない。大器晩成なんて言葉、信じるのはやめた。そんなものは今を逃げるための口実に過ぎないから。何か、自信が持てる事を身につけて、余裕さえ持てればいいのだけれど。


「色。」

 どこにでも、色のついた人はいるものだ。ロックがある場所には、ロックンローラーな人達、詩集が掲げられている場所には詩人のような人達、仕事が掲げられているある場所には、皆がキャリアーマン(ウーマン)のような人群れ、又介護が掲げられている場所には妙に親切そうな人達。今までに、私は沢山の場所を歩いてきたつもりだ。もっと他に行った場所もある。だが、ここで言う色とは、つまり、群衆の心の体裁の事である。これだけで、十分に説明がつく。私の呟いた感想は「どこもかしこも人がいっぱい居すぎてわかんねえや。」だった。これは正直である。「色のついた人」という言葉の意味は、今現在、その人が心の満足の向きに染まっているそれでも変動的な状態の事を言っているのだ。これに説明をつけるなら、流行というものがきっと近い。「流行色」という言葉がある。ある、その当時の物の売れ行きや、出来事の伝達性が抜群なら抜群な程、その掲げられたものは人を呑み込んで行き、人は、その流行色の色に染まるのだ。例えば、ある人が誰かのライブに、行きたくもないのに友人に誘われて、その友人が断りきれない相手であれば、その人はつい、ついて行ってしまう。しかし、毎日の付き合いで、その友人とはとても歯車が合っていて、ここで「おれは帰る!」などと言ってしまって、詰まらない事で、断絶などしたくないと思ったからなら、そのライブでつい、乗った振りをしてしまうのがその人の癖なのだ。でも、その乗った振りがどんどん時間が経つ内に本当の乗りに変ってゆく。友人の顔を覗えば、「誘って良かったな」なんて風な表情を浮かべていたのだ。それを見たその人は、思わず今までの皆の過程を忘れてしまい、「おれはここへ来て、乗って、良かったのだ」と思い込んでゆく。その人は、自分の心の内の、そう思うように拍車を仕掛けた奴の正体を知らない。その同じ色の人の雰囲気(ことば)に合わされて、楽しいと思い込んでいた事に。

 又例えば、その人の色というのがある。それは個性であって、俗に良い言葉として遣われているようにも思う。しかし、この「その人」が、誰それの芸能人だったならどうなるだろうか。又、その個性が、カリスマ性に溢れているようにマスコミが指図すればどうだろうか。その芸能人の色(個性)はたちまちそれを見ていた者達に支えられて、あたかも、簡単には崩れない流行のようなものが出来る。そう、それは流行である。K・Tがあんな服を着たなら、おれもこんな服を、というように、真似をする人が増えてゆくのだ。これは結局、立場が違うのでこのように芸能人と一般市民の差がついてしまうが、その立場を取ればその両者の持っているものは同じ色(個性)なのである。


「テリトリー。」

 ちょっとした考え方のちがいを、人は利口だという。私はそうは思わない。人、それぞれに、それぞれの考え方があるのだから、その人には、その人の利口さがあるように思う。それは、他人が決して、入って行けるテリトリーじゃなく、その人にしかわからない過程というものがそこに存在する。“偏見”という言葉をよく人は口にするけれども、あの言葉程、私は人を利口に(味があるように、)するものはないように思える。偏見。それは、人の性質を伸ばすものであり、又、人と人とが解り合える鍵にさえなるものだと、私は考える。しかし、その偏見も、実は、当り前のことで、人それぞれに隠し持っているアイテムなのである。だから、それを引き立てて、唯闇雲に、ああだこうだと言うのも、ちょっとどうかと思う。人は、他人の事にケチをつけるものじゃなく(道徳に反する者の事意外)、皆、自分のテリトリーの中だけの事を気にしていれば良いように思う。ちょっとした考え方のちがいなんて、誰でもそういう方向で考えてゆけば、様々に考えつくものなんだ。一人を引き立てるのは、それを引き立てた個人の偏見に溺れてしまう恐れもあるので、私は危険だと思っている。

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テリトリー~10代から20代に書いた詩~ 天川裕司 @tenkawayuji

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