「真実。」~10代から20代に書いた詩~
天川裕司
「真実。」~10代から20代に書いた詩~
「真実。」
今を、生きている。いろんなものをみながら迷い、迷いして、昨日よりも今日を見過ごすことは出来ず、とりあえず、生きている。生かされている、という言い方をする事もあるが、それもわからなくなってしまう時間の経過に身を浸している。
人との関係は、葦の茎の上を行き来する油虫にも似ており、他人の上を這ったり、下を這ったり、又地に落ちたりして、体を光らせながら上へ下へ、行き交ってゆく。茎とは現実のモラルの様なものであり、それ以上には歩けなく、朦朧としていれば、自ず、自らが、現実の見知らぬ地へと落ちてゆき、虫に食われるのだ。それも、これも又、太陽の光を受けて、風を受け、自然の恵みの中で繁栄しているものである。そこに、幸せがあるというのか。考察の事。
エサを獲ることが幸せなのか、獲るまでの経過に、楽しみと労苦を覚え、又、生きていることを実感する。いつしか、外界の物事にも触れ、自分の部屋だけでは、ないものを目にして、発見をした様な気分にもなる。そこに神秘、空想、芸術、現実とが混沌としている故、やはり容易ではなく、視点が絞れない。結果、苦しむ破目になり、身を持ち崩す。
”陰口は友情を裂く、”という言葉がある。・・・絶えず、この世では吐いている事であり、ついその言葉を聞くと、二通りの気持ちに分かれるものである。何が、真実なのか、わからない事があり、それはきっと、生れて死ぬまで変らずそこに置かれ、もしかすると、途中で、気付く事もあるのかも知れず、かといって消せる訳でもない。気付いていても、つい、現実の世界の中で、その現実の世界からのびたライフストームが、自分の体内にある”素直”、”愛情”、”思考回路”をマヒさせ、考える事も苦しみとなり、そのまま忘れようと、あぶく銭の様にものを書いて記録する事も億劫になり、ある程度行けば、何も書けなくなってしまうという一連の所作であることに気付く。ふと我に返れば、気がすすまず、懊悩の様に、横たわっている自分の姿を見る時もある。詰らないごたくは既に終っているのに、そんなキレイ事と、ごたくばかりを兼ね揃え、並べられているTV、雑誌がこの世にはある。一瞥しただけで、幼稚にみえ、はなれたくもなり、人との付き合いの内で、光をみたのに、次の瞬間には、別のものにかわっているという斬新さに、人の暗闇を知る事もある。誰もが感じているのか。きっと、心のチューニングポイントであろう。その変化は、止まる事を知らず、又、理解もできないものであり、何故にこんな輩が人間やっているのか!?と叫喚、疑いたくもなるほどの、境地に追い込まれる事もある。同じ場所でそのポラロイドをみているだけで、全く進歩がなく、イヤにもなる。
死んだ人は、きえてなくなるものではないのではないかしら?一つの疑問が、心を過った。天から下りる雲間の隙間のあの、陽光の様に、そこから感じ取る神秘も又、真実であり、現実のものである故に、それも突飛としたものではない様に思える。神が、生人を創ったのと同じく、終には死人の世界も創り終えているその結果からして、同様の事がいえる気がする。人はやはり、思考の生き物。人の生・死を説明し終えられる者は先ずこの世にはいない。それこそ、神の領域であり、人智は及ばず。不安とは、真実か?
人から受けた仕打ちが祟り、不幸にも奈落におちた者がその果てでみるものが復讐である。神なき教育が悪を作る、人は現実をみる事を全てだとして、そこに神からの、自分への一方的な愛があるのだと錯覚を覚えながら、神秘の光の内自分だけが得うる、相当の権威を授けられたのだと信じ込み、その物事は仕業として、淡々とこなしてゆかれる。それを遠方からそっと見つめ、自分の背後にある罪を見定めて白いため息をついている。生きがいとは、人の世では絶えず天を仰ぐものであり、それについての結末は自分の手でつけて、落ち着こうとする。もしかすると、人間はそういう生き物なのかも知れない。年をとって、生を全うしつつ、死を前にした人の群れをみながら、ここから離れたパラダイスの様なものを感じ、人の落ち着いた姿をみたことがあった気がした。だが、それでも死ぬまで人間であり、そこにも永遠性を秘めている安心はないにしても、希望とゆめは現実のものである。人とは複雑なもので、一つの事をしながら二つの事をすると、かならずその一つは失敗に終るらしい。地に倒れるまでの刹那の瞬間に、罪の謀略をうけた無双の屍を実際私は、見たことがある。
どこまでゆけば、人は安心を覚えることが出来、神の御手の中、自分と相まみえる他人を心底、愛することが出来る様になるのであろうか。いや、それでも、辛苦を乗り越えてきたここからでも、無数の苦しみは生きているのである。
自分の安心を、自らの手で創り上げようと試みた時があった。もし、異性が必要であるのなら、一心不乱に、理想の姿を創り上げて、命を神と共に見、私の傍に置けば、この世の、愛情というものは叶えられるだろう。やみくもに、身を浸らせるだけの自分に、のぼせ上った時期である。恋愛というものが、しっくりとも来ずに、きっと私自身の我儘さが理想の姿をかき消して、豊沃なゆめの地盤は身を持ち崩し、いっそ皆を、消滅に近づかせたのであろうか。所謂、期限付きの恋愛は、失敗に終っている。他人の幸せだけをみて、わらうのが、私のする事であり、その時間は長く、幸福にも光をみなかった。しかし、この有様は、この広い世界からみた時、普通の事だと素直に思うものでもあった。愛情を欲しがる事は生きている証の一つにも考えられる。まだ幸せはどこかにある、と身をひるがえらせながら、遊女は、甘い言葉を私の耳に囁いてくる。その内に、卯の花にも似た君を、見つけたいのだ。
真実とは、至極、かんたんなものである。生きていて、必要なものを手にし、淡々と食い散らかしてゆくのだ。その間にかいまみる、一瞬のゆううつに、人の本性はかがやいている。
「無題。」
私にとって、この世の異性の存在が間違っているんだ。唯、欲望と、自分の寂しさをまぎらわすためだけに、その手足を振って闊歩するのだとしたら、私はそれを「愛」とは呼べない。もう少し違ったところに、その事実があると誰か私に言うのならば、私にそれを見せて欲しい。きっと、私の内のこの事も、この現実にそう遠くはないと予感しているのだ。
この世の異性全てが、いい加減で、ずぼらで、都合が良くて、欲が深くて、二重人格で、格好つけで、軽弱で、幼稚で、その癖体を見せる事だけは得手で、冷たい生きものだと決めつける事ができたのなら、どれ程楽だろうと“異性嫌い”は思う。
恋をするのは良い事である。その中で、「失恋」を経験した者はより良い。「失恋」する時とは、決まって、自分が好きになった場合であり、その事で傷ついた深さにて、相応の真実を味わうことができるのだから。その事で「独身」を貫き通すのなら、それはそれで立派な事である。
「人生。」
人生とは交差点である。人の規定した青信号で渡ったとしても、突然走ってきた車にはねられることがある。手を上げて渡ったにせよ、その悲劇は言うまでもない。
又
人生とは、文学者の書いた本を読むことである。その意図につけこんで自殺をはかろうとも、その罪の有無を人は語れない。神にしかわかるものではない。その文学者の本には、人生を知り尽したようなことが書かれている。
「真実。」~10代から20代に書いた詩~ 天川裕司 @tenkawayuji
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