「男女模様。」~10代から20代に書いた詩~
天川裕司
「男女模様。」~10代から20代に書いた詩~
「男女模様。」
先行不安だ。今、ここで、こんな白紙を前にして、文をかいてはいるけれども、この所作でさえ、苦しくなる程、今後の糧にしようと思い込んでいるのだ。今日、アルバイトの夜勤を終わらせて、一日休みの水曜日を暮らしているわけだ。
アルバイトが終って、いつも通りの、休息の安心の一時を過している。このこと一つでさえ、たった今の、今だけの休息にしかならないのだ。明日になれば、又、学校がいつも通りにある。学校の行きしなにある、ドトール・コーヒー店で、一杯のカプチーノを飲んで休息をし、そして、学校への電車に(阪急)乗って学校までを乗りつける。京阪でも同じこと。単位不足の状況変わらず、受けている授業もやがていつもの如く、つまらないと息をもらし、教室を出て行く。そして、ゲーム・センターだ。
誰か友達はいないか、とそれだけを期待に行きつけ、様にならないカバンをぶらさげて、歩き回る。時に、スピードを上げ、時に、やりきれなさにスピードダウンし。いつ、KOされても、おかしくないくらいだ。まわりは、就職活動でそわそわ始めている。それを気にしながら、顔の映る掲示板を横目に、少し、格好をつけながら、後の輩の的になる。既に、次に行く場所を捜してる。“学校”はせまいなぁ、などと知った愚痴をふりまくしかない手立てを携えながら、次の場所は大抵、本屋か、又、ゲームセンターだ。まぁ、健康を気にしての大学内のベンチも試みもしているが。
我には、そこは、人が多すぎるのだ。それでも、いい隠れ蓑になるとは、その多さに感謝しているが、しかし、同年代ぽいのがどうも気になるのである。(その日の電車内での冷たいいざこざが原因して。)細かなことで気を病める我は、息つくことが少ない。仕方なく校内の自動販売機まで足を運び、どれを買うか迷う振りをしてみる。本当は、それ程買いたくもないのだ。
横行く女を尻目に、つい、我の心もとなさを改悛する。先手を打たれた気分だ。(ふと、気付く。今、こうしてつらつらと文章が奔放にかけているのは、街中でかいている時のように、後からの手直しを覚悟した上でのものかきの体を、保っているからだ、)なにしろ、その日を過さねばならぬのだ。木曜日はアルバイトがあったかどうか、考えてみる。否、金曜日のアルバイトを、土曜日を入れかわったから、木曜日はないのだ、と勝手に頷く。細かく調べもしないで。いい加減な輩にはなれない我は、行きしの電車でも、帰りの電車でも、考える。左後頭部の痛みを少々憶えながら、いつしか、ここ(大学)へ来ると、自殺を考えてしまう、と言ったことを、思い出してしまう。
自由で、きまりがなく、そのくせになにもできない我の姿。無様と嘆く前に、先ず、自殺である。自殺と言っても、そんな大袈裟なものじゃない。この世から失踪するだけのこと、である。表見、あれだけ明るく振舞われた横で、これだけ暗い我の姿を間近で見続けているわけである。校内の自由さを色彩った噴水の体(テイ)も、その意味を成さぬであろう。畢竟、我にとっては無意味なことに思われる。
もはや、ベンチに座って、煙草を吹かすだけの体に陥って、“死に急ぐ鯨たち”のまっしぐらである。挙句の果てに、ゲームセンター。我に、本を読んで落ち着かせる場所はもうないのか。ドトールのコーヒー店でも、いつもの事にて心臓がばくばくなり響き、微熱の体に陥入る状況、もはや、そうに違いない。
そこで考えられるのは、大抵、女の体裁である。自分がもしも、生れ変わって、絶品の美顔の持ち主で在ったなら。恐らく、今のこの境遇も異なっていただろう、否、絶対に違っていたものに相違ない。
時に、女の立場に立てる我だけに、その言葉の説得力は大きい。すべてが違ってくるのだ。細かなことで言えば、友達への対偶、そして、世間での持ち前の在り方、アルバイト先での対偶、行く末は将来のビジョン(生業)の足掛かりまで。きっと、絶品の持ち主であったなら、その女というだけで、まわりがちやほやと支えてくれるのに違いないのだ。我が、女から教わったことは、それである。
ただ、ただ、健康のことを気にして、先ず、長生きの秘訣を知る。そして、まわりにいる、ぱっとしない男達を配下にまわして、ステータスを固める。絶品ならば、それくらいの事当たり前の所作(コト)である。もう、なにも、暗い将来の過程など気にしなくても良いのだ。絶品ならば、会社のお茶くみでも、華があるというもの。それくらい、会社の社長ともなれば、見落とす筈はない。何処からでも、自ら華を添えることができる存在なのだ。
美貌とは。明日にでも、ゲームセンターへの通い詰めは止め、同様に入り込むとしても、浮浪者の吐き溜めに降り立った天使の体で、降り立つ自分の姿を見るのだ。同じ、ゼミナール教室でも、困った顔をして行けば、いやでも教授が気に掛けて呉れ、まわりのぱっとしない連中どもがケアしてくれる。とにかく、そこに行けばいい。問題は自滅する。あとは、自動販売機に優雅に行き、カフェオレのカロリーの低いのを選んで、座って飲むだけである。剽軽な顔をして、飲んでいればいい。
絶世の美女となれば、男(連中)を魅惑してどれ程、その手を逃す手はないのである。助けてもらえるなら、一生、利用すればいいのである。大抵は、手に入る。何かとかこつける基本理念は他(ヨソ)にして。そして、あと、美女に生れてからは、懸念すべきものが、AV業の存在である。そんじょそこいらの女(モノ)でさえ、これ(AV)に流れればそこそこ儲けられるという話。憧れの念を、幼少より抱いていたあの歌手(女性)が、元AVの仕事やっていた、という事実を知った以上、もはや、気に掛けるものは鈍る。“所詮は濁った世界、”友人のこれも又美顔のあいつでさえ、そんな愚痴を説教気取りで話していた姿が瞼に映る。
これからも、その友人とは何かと縁を共にしなければならない仲、ここで壁を作ってしまっては、生れてきた私のためにならず。
要は、付き合いにしろ、出世にしろ、生活にしろ、お金である。金があれば大抵のものは手に揃う。“ナンバーズ”などいう、頼りない、チャチな稼ぎに明け暮れている男の友達とは、けたが違うのだ。当然、一人立ちもしやすい。“毎日、々、サンクン(校内の広場)を通って、重そうなカバンを背負って、ゲームの話をしながらゲームセンターに通う帽子男を見てると、哀しくなるわ。”呟いていた。
しかし、どの道、その男の存在も、この美顔には関係がなくなる。この時世にも感謝したい程。日々、愚痴しかこぼさなくなった男にとってのこの世間に、“感謝”なんて言葉を吹きかけるのだけでも、大したものだ。あとは、一億程の大金を目の前にした沙汰でも、ビクつかない程の神経を成長させれば、この世の勢いは完全に女に味方する。時代も又、人間界におりて、女のように身変わりするものなのだ。女ならば、絶世の美顔を持ち、学内のコンパへでも行けば、そこらの男を文句なしにたぶらかせる程の女なれば、明日は変わろう。――――――-。
しかし、男である。巷で、一寸(チョット)は“おぼこい”などと囃される程の、男である。グラビアには載れない。明日も又、生と死との狭間を過剰に意識しながら、歩き詰めの日々が待っているのだ。男には、調子の良い女は現れない。どこからかプライドがあるのか、女は高飛車に止って動こうとはしないのだ。“恥かしさ、”という言葉も出てくるが。明日からも又、基本理念と躍動理念その間の行き来をくり返しながら、日々を暮れさせてゆく。“時よ、早く経て、”と、うそぶきながら。
先程でも話したが、女の体裁とは、実に便利なものである。特に、細かなところでは、その質がものを言って、他人のつけ入る隙を見せない。細かなところというのは、日常の一連のことである。現実では、男が議論すべく、どかっと腰をおろして、さも、大きいことを吐くような体ではいるが、実際、現実は、細かな連続が多い。男が、議論で吐くこと程、大きな出来事は、この現実ではそう、起らないのである。
やはり、女の方が現実的とでも言うべきか。細かなことが多い現実というのは、例えば、写真のことでも在る。よく、観光地などへ行けば、きまって、女が撮りたがるあの写真。至極、日常的な所作であり、誰でも撮れるものだ。
その想い出づくりの写真に映るのは、男の身なりよりも、女の身なりの方がそのまま奇麗に映るものである。日頃、化粧の鍛錬をし、その一連のステータスが質になっている女からすれば、写真という躍動は(所作は)、十八番(オハコ)なものであろう。又、想い出づくりとはいい名称(ヒビキ)なもので、その想い出写真をあとから見ることもできるのだ。そこでも、やはり、写真の色あせ以外は変わらず、男よりも女の方が陥(ハマ)って映っているのである。
写真とは、万人に一目瞭然なもので、その者の美徳を示すのには、うってつけの証拠にもなる。そこで奇麗に映れば、その者にとっては、この上ないステータスの糧になろう、とも言うべきである。そこで陥る女というのは、他人からの目にも、自分の今後への糧のためにも、やはり便利なものであろう。あとから見て、「ああ、この時の桜並木 奇麗だったわぁ。」などと呟きながら、心内では、『ああ、この桜並木の奇麗さも、前に立ってる私のために囃した道具ねぇ。私の“映り”がいいわ。』という状況も無きにあら非、在っても良いものだ。何にせよ、満足のいくものになる。
女は、細かなことで喜ぶ質に出来ている。あと、他には、爪である。吉田拓朗の唄にもあったが、昔の女は自分の身を外敵から守るために、爪を伸ばしていたという。よもや、これを男が真似れば、陥りはしまい。これも又、細かなことである。
よく、仕事先や、街中で見かけるのでも、女の小指や、四指を覗いてみると、爪を伸ばしている輩が多い。覗かねば見れはしまいが、覗いてみると、ファッションとも言うべきか、女は今でも爪を伸ばしている者が多いのだ。まぁ、これはビジュアル系などと囃されているアーティスティックな男達も、やってないことではないが、しかし、生業的には、この街中の女の方が分が大きかろう。やはり、男は、爪などという小手先でなく、その大きな体を利かした、腕力で身を守るもの。目を閉じるのは、男の方である。まぁ、これにしても、拡大してみれば、陥ってるといえる。爪も、女の武器なのだ。あと、少し拡大した細かさをいえば、痴漢騒動である。
幼少の頃より、男は、母親から厳しく言い聞かされたものであろう。少しでも、妖色の匂いのする場所であれば、私など、母親に、目隠しをされた経験(コト)を覚えている。それだけに、二十歳を過ぎた男となれば、性行為の許容がたまらなく飽きないものになり果てよう。聞く話によれば、七十歳を越えた老人でさえ、女の裸体には惚けないというらしい。そういう、社会ぐるみの環境の中で、一段、上に上げられている様な体裁の女である。古えからの、“姫”という名の貴重の由来さが、わかるというもの。基から言えば、女の存在なくしては、男の権力があったとしても、子孫繁栄は出来ない。
日常に、女の存在の常識が生き続けるわけである。男は、女に魅せられる。男には女の存在がこの現実からかけ離れたロマンの地での理想でも、女にとっては、男の存在は、一種の躍動写真のモンタージュな体(テイ)なのである。ロマンへの現実的かけはしは、相手との間に生れてくる、子供に向けられるのだ。根本が、既に、違っている。美貌の女が増えている。とぼけた男が、それに連帯して増えている。時代の流れは、元来、男にも女にも止められはしまい。(勿論、個人において、)現実では、細かなことしか起らぬのだ。
動画はこちら(^^♪
(前編)
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https://www.youtube.com/watch?v=cG6jjLmpQN0&t=45s
(後編)
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https://www.youtube.com/watch?v=i2cGwk41QFM&t=291s
「男女模様。」~10代から20代に書いた詩~ 天川裕司 @tenkawayuji
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