アドレス帳

なぎ

アドレス帳

 誠二だって、子どもの頃は自分の携帯に麻里のアドレスや番号を登録していたのだ。ただあるとき親の転勤で遠方へと引っ越すことになり、麻里とはもう会えなくなってしまった。。

 それでも、せっかく聞いた麻里の連絡先は消せなくて、それで電話帳に、違う名前で宝物のようにしまっておいたのだが、しばらくしてから消してしまった。


 どれほど違う名前で登録してあったとしても、誠二にはその連絡先が麻里のものだとわかるのである。そうなるともう、ダメなのだ。なにかことあるごとに、麻里に連絡を取りたくてしかたがなくなる。


 学校でおもしろいことがあった時。庭の花が咲いた時。近所の犬が仔犬を産んだ時。素敵な店を見つけた時。夕焼けや朝焼け、月がとてもきれいだった時。つらい時。悲しい時。寂しい時。嬉しい時、楽しい時。そんな色々な時に、まだ子どもだった頃の誠二は、なんど携帯を握りしめたかわからない。


 夜中にふと、麻里の番号に電話をかけてしまいそうになったこともある。そのたびに思いなおしてじっとこらえていたのだが、やっぱりある日限界が来た。


 どうしても我慢できなくなって、つい麻里に(たぶん麻里には意味のわからなかったであろう)メールを一本送ってしまった。そして誠二は、その後すぐに麻里のアドレスや電話番号を削除した。

 電話帳からも、過去の履歴も、書きかけのまま保存してあったメールもすべてだ。

 そしてそのままアドレスと番号を変えて、……というよりも、けっきょく携帯自体を新しいものに変えてしまい、それ以後、麻里とは連絡をとらなかった。


 ただ麻里は誠二のそんな葛藤を知らなかったから、誠二が携帯を変えてから数日後に手紙をよこしてきた。実家近くの公園の、季節の花の写真を同封してある、近況報告のような手紙だった。

最後のほうに麻里の名前とアドレス、それに携帯の番号が書いてあり、


“もしかして携帯を変えたの?この前、メールに返信をしようと思ったらつながらなかった。電話もつながらないみたいなんだけど、何かあった?”


と添えられていた。次いで、


“もし返信をくれるなら、前回のメールの意味を教えてほしい。難しくて、何がいいたいのかよくわからなかったんだ”


ときれいな文字で記されていた。


 誠二は麻里のアドレスと番号をさっと脳裏にやきつけると、そんな未練がましい自分が嫌になって、その手紙を机の奥にしまいこんだ。

 結局、返信のメールも手紙も送らず、その後何通か来た手紙にも、すべて返事を書かなかった。最後のほうは、たしか読みすらしなかった。


 すまないとは思ったが、誠二としても、もうどうしようもなかったのだ。

 軽いメールや電話のやりとりだけでは、とてもではないが満足できないほどの強い想いが、誠二の胸にはうずまいていた。

 ただそんな想いを抱え続けていた所でもうどうしようもないことは、子どもながらにも誠二にはわかっていた。

 このまま自分が突っぱねれば、おそらくもう、彼女と会う機会もないだろう。そんな風にずっと信じていたので、誠二は御縁を得て入学することになった少し遠方の大学で、まさか麻里と遭遇することになるとは思わなかったのだ………。



 「え!?誠二って、麻里のアドレスとか番号を携帯に登録してないの!?」

 大学に入学してしばらくたってからの昼休み、麻里の友人の加奈子が、パックのお茶を飲みながら驚いたように目を見ひらいた。学食での出来事だ。

 麻里や誠二と同じ授業を取っている、華と司もびっくりしたように、まばたきをしてこちらを見ている。


「ええ~……、そうなんですか?でも幼馴染で、今はマンションも近いんですよね?」

と華。司もパックのヨーグルトドリンクにストローをさしながら

「おいおい、お前ら、そこまで仲が悪いのかよ……」

と苦笑する。


 びっくりしたような二人の口調に、誠二は内心しまったと思った。


「まあね。麻里にわざわざ連絡するような用事もないし、……」


 誠二がどうしようか迷って、結局そう言葉を濁した時、後ろからトレーを持った麻里がやってきた。彼女は他の人にはあまりむけないであろう冷やかな視線で誠二を見やって、誠二とは一番遠い席についた。

 加奈子が嬉しそうに、身体ごと麻里のほうにのりだした。その手に携帯電話を持っている。

「あ、麻里!ちょうどよかった!さっき教えてくれたアドレス、もう一回確認してもいい?なんかね、エラーで返ってきちゃったんだよ」

「そうなんです」

と華。

「エラー?」

 麻里が両手を合わせていただますをしながら首をかしげ、友人二人を見比べた。

 加奈子が元気に頷き、携帯を差し出す。

「うん。ちょっと見てもらってもいいかな」

「あ、桜岡、ついでだから俺にも教えて、アドレス」

 と、司までが話に加わった。


誠二は肩をすくめると、箸をとって先に食事を始める。

麻里をのぞいた他の三人に、せっかくだから誠二も登録しちゃいなよ、というような目で何度か見られたが、誠二は気づかないふりをした。

 一番連絡を取りたかった時期に耐えしのんで消去したあのアドレスや番号を、今さら登録するなんてことは、子どもの頃の自分に申し訳ないような気がして、どうしてもできなかったのだ。



 ただその日以来、麻里の誠二に対する態度はますます硬化した。こっそり人づてにきいた話によると、麻里はあの日、携帯に残したままにしておいた誠二の古い連絡先をばっさりと削除したという。

 そう告げられて、初めて誠二の心は痛んだ。


 ある日の夕方。他には誰もいない、ゼミ用の研究室で、何か別のことで麻里と口論をしていた時、誠二は自分のことは棚にあげて、ついこう言った。


「そんなことを言うなら、お前だってだいぶおとなげないじゃないか!」

「何の話よ!」

「携帯だよ!俺が登録してないってわかったとたんに削除するなんて」


 麻里は驚いたように目を見開き、それからすぐに不機嫌そうに誠二をにらんだ。


「誰に聞いたの?華ちゃん?」

「そこは秘密。だけど俺、お前の友達の中にも、色々と知り合いは多いからね」

 アドレスの件を誠二に教えてくれたのは、華を経由した司であったが、誠二は二人をかばうつもりでそう言った。

麻里はますます不機嫌そうに誠二をにらんだ。


「そんなことを、誠二に言われる筋合いはない!」

「それはたしかにそうだけど!でも俺だって、悪意があって、麻里の連絡先を消したわけじゃないんだよ!」

「へえ、……よく言えたわね。さんざん私の書いた手紙を無視しておいて」

「う、………」

「悪意がなかったというなら、どんな理由かきかせてもらいたいものだわ。子どもだった頃、私が家で、どれだけ誠二からの返事を待っていたか……!」


 麻里はそう言って誠二をにらむと、ほんの一瞬だけ、なんとも頼りのない表情をうかべて顔をそらせた。誠二は驚いて目をみはった。……麻里が、ほんの一瞬だけ、泣いてしまいそうに見えたからだ。


「麻里?」

 誠二が思わず麻里の肩をつかもうとすると、麻里はキッとした強い目で誠二をにらみ、その手をふり払った。

 その目が、これ以上は私に近づかないでと言っている。

 誠二はのばしかけた手を握りしめ、肩を落とした。麻里がまた顔をそらし、ほんの少しだけ泣きそうな顔で、どこか遠くを見た。


「……まったく、あなたを信じる人は報われないわ。あなたに夢中になっている私の友人たちに、教えて回りたいくらい」

「いやいやいや、ちょっと待ってよ!なんで携帯のアドレスを消しただけでそんな大層なことになるんだよ!」

「アドレスを消して、さらにあなたは、私に何をしたの?」

「え?」

「変なメールを送りつけたまま、いきなり音信不通になって!ならばと思って手紙を書いてみたらそれも無視され……。受け取り拒否で戻って来なかった所を見ると、手紙はきちんと、あなたのところに届いてはいたんでしょう?……親しい人間にいきなり手をふりはらわれた、あの時の私の気持ち、あなたにわかる?」

「…………」

「子どもの頃にした中途半端な約束だって、私はずっと覚えているわ。だからこそ、あなたのことを信じて、……アドレスの件も、手紙の件も、すべて好意的に解釈してきたというのに。……結局あなた、ただただ私のことが嫌いになったから、アドレスを登録していなかっただけなんじゃない……!」

「…………、」


 誠二は立ちつくし、大きく目をみひらいた。そんな誠二の目の前で、麻里は傷ついたように唇をかみしめてうつむいている。誠二にとっては信じられないことであったが、どうも麻里は、誠二との連絡が一方的にとれなくなったことで、大きなショックをうけていたらしい。


「……ごめん」

「ごめんですむ問題!?もう誠二のことなんて知らないわ!どこへなりともいけばいいじゃない!」

「いやいや、どこへなりともって、一応ここ、俺の研究室でもあるし……」

「じゃあ私が出て行くわ!」

「ちょ、待ってよ、麻里!誤解なんだ!」

「何が誤解よ!」

「いやだから、麻里のことが嫌になったから、連絡を取らなくなったわけじゃないんだ」

「わけがわからないわ」

「だから、落ちつけって!」


 誠二は今度こそ麻里の腕をつかむと、視線を泳がせた。


「だからな、……なんというか、……その、」

「あなたは!さっきから、いったい何が言いたいの!」

「いや、だから、……ああ、もう、察してくれよ!」

「だから察してあげたんでしょう!?あなたが私のこと、大嫌いだったって!」

「違う!真逆だよ、真逆!」

「真逆…?」

「だから、別に嫌いだから連絡をしなくなったわけじゃなくて、……ああ、もう!!」


 誠二がそう叫んで、頭を抱えた時だ。ゼミ室のドアが遠慮がちに叩かれた。


「ちょっと待って!今取り込み中だ!」

という誠二の声と、

「あいているわよ、何の用?」

という麻里の言葉がほぼ同時にして、……結局ドアは、遠慮がちにひらかれた。おずおずと顔をのぞかせたのは加奈子である。いや、その後ろに華と司もいた。めずらしいことに、誠二ととても仲の良い祐也も一緒である。4人は、ゼミ室の真ん中で突っ立ったまま口論していた誠二と麻里の二人をみやり、お互いに顔を見合わせた。


「……なんか、誠二と麻里がケンカをしてるみたいだって言われて、来てみたんだけど」

と加奈子。

「話を聞いてたら、なんかアドレスがどうのって……」

と華。

「ごめんな、……もしかして、俺が誠二に余計なことを言っちゃったからか……?」

と司。

 三人の後ろに立っていた祐也が、一人だけあきれたような顔をして、肩をすくめた。

「本当の原因はそこじゃないような気するけどな。ほら、廊下だと邪魔になるから部屋に入って」

 

そして祐也は、他の三人をさっさとゼミ室に押し込むと、自分も入り、後ろ手に扉をしめる。

 誠二はいきなり現れた四人に、毒気を抜かれて黙りこんだ。


 祐也がトントンと指で壁を叩いて、誠二と麻里の二人を見やった。

「この部屋、ところどころに壁のうすい所があるからね。……あまり大きな声で喧嘩してると、漏れてはいけない話まで、外に聞こえるよ」

「え……、」

 麻里が息を飲み、しまったという顔をする。祐也が笑って麻里を見て、それから誠二の方を見た。

「というのは嘘で、まあ、そこのドアにはりつけば、なんとなく聞こえるくらいかな。ま、そんなことをしていたら目立つから、たぶん皆、しないとは思うけど」

「祐也、何をしに来た。お前、このゼミ生じゃないだろう」

 誠二が不機嫌そうに祐也をにらむ。だが祐也は、誠二の不機嫌をいっこうに気にしたふうもなく、ただ小さく肩をすくめ、からかうような表情で微笑した。

「友人のよしみで、誠二にひとつ、アドバイス」

「アドバイス?」

「言いたいことがあるなら、直球で言わないと伝わらないと思うよ。連絡先が目の前にあると、いつでも連絡したくなるからつい削除してしまっただなんて、……多分、桜岡さんにはない発想だと思うから……」

 祐也が目を細め、小さく笑った。誠二が驚きの声をあげて肩をゆらせる。麻里がそんな二人を見やって、困惑したように眉をひそめた。

「……どういう意味?」

 祐也がそんな麻里をやさしく見やって

「二人の喧嘩の内容から推察してみたんだけど、……どうかな?なあ、誠二」

「……え?いや、でも、なんで祐也がそんなこと」

 誠二が困惑したように、急にそわそわとし始めた。それを見て祐也が楽しげに笑う。

「やっぱり当たってた?」


 祐也は慌てふためく誠二と、眉をひそめる麻里を見やり、とても楽しそうな顔で笑った。それから加奈子達三人をふりかえり、


「ケンカはケンカでも、これは大丈夫なほうのケンカだよ。行こうよ。俺たち、このままここにいてもお邪魔になるから」


そう言って、三人をうながして、「ばいばーい」と手を振って、ゼミ室から出て行った。

それを見送った麻里が、怪訝そうに首をかしげ、閉まってしまったドアを見る。


「あの人、いったい何をしに来たの?」

「……俺達の口論をとめに来たんじゃないか?」

「そのわりにはずいぶんとあっさり帰ってしまったけど。というか、そもそも祐也は、いったい何を言っていたの?………連絡を取りたければ、好きなだけとればいいじゃない。どうしてそこで、アドレスを削除しようという発想が出るのよ。削除したら、連絡できないでしょうに」


 誠二はため息をつき、そばにあった年季の入ったソファの背もたれに軽く寄りかかった。


「そうだよね。麻里的には、絶対にそういう発想になるよね……。でもね、麻里。世の中には、ただメールをしたり、電話をかけたりだけじゃ満足できなくなる衝動ってものがあるんだよ」

「……衝動、」

「そう。たとえメールで返事が返ってきても、電話で声が聞けたとしても、……これからもずっと、もう会えないんだって思った時の絶望、麻里にはわかる?」

「………そんなに絶望を感じるような出来事があったの、あなたには」

「あったんだよ……。子どもの頃に」


 誠二は額を押さえるとうなだれた。麻里は、今度はとても気の毒そうな顔をして、同情するのように誠二を見ている。誠二の絶望を引き起こしたのが自分だとは、露ほども考えていない様子であった。


「そう……。それは、なんというか、誠二もつらい過去があったのね」

「うん。でも、どちらかというと、今のほうがつらいかも。なんというか、この一方通行な感じが」

「そうなの?……ねえ、誠二。そんなにつらくて、会いたい人がいるのなら、今からもう一度、連絡を取ってみればいいじゃないの?もしかしたら相手も、なんだかんだ言いながらも、誠二からの連絡を待っているかもしれないし。……ああ、でも、連絡先がわからないんだったっけ」

「いや、連絡先はわかるんだ。メールアドレスも、番号も、ちゃんと今でも覚えている」

「そうなの?……ずいぶん、記憶力がいいのね。うらやましいわ」


 そう言って小さく笑った麻里は、ゼミ室の中央に置かれた楕円型のテーブルの上に放り出されたままになっている、誠二の携帯電話を取って、誠二へさしだした。

「なら、メールだけでもしてみればいいんじゃない?ためしにさ」

「驚かないかな」

「そこは……わからないわ。私だったら、驚くかもしれない。でもやっぱり、あの、ずっと連絡を待っていた時に、誠二からどんな形であっても連絡が来たら、私はとっても嬉しかったと思うわよ」

「…………」


 誠二は携帯のメール作成のページをひらくと、手動でアドレスを入力した。そして簡単な文面を書き、ちらりと目をあげて麻里を見やる。

 麻里は、少しだけ寂しそうな、けれどもとてもあたたかい色の微笑をうかべて小さくほほ笑んだ。

「誠二のそういう顔を見ていたら、怒っていたのがばかばかしくなっちゃった。ねえ、誠二。その人から返信が返ってきたら、後で私にもメールをちょうだい。最後にもらったメールの、あの言葉の意味が未だに気になっているの。いい加減、種明かしをしてほしいわ。……アドレスは、」


 言いながら自分の携帯電話を取りだした麻里は、何かに気づいたように瞬きをした。

誰かからメールが届いているようである。

首をかしげながらメールをひらいた麻里は、すぐにぼう然としたように息を飲んだ。

 その様子を見て、誠二は苦笑する。


「まさか本当に届くとは思わなかった。携帯は変えているくせに、なんでアドレスはずっと変わってないんだよ」





「……そんなの、待てど暮らせど返信のない、無責任な誰かからのメールをずっと待っていたからに決まってる!」


 麻里のふてくされた声がゼミ室に響いて、誠二は思わず笑ってしまった。 

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