「不敗。」~10代から20代に書いた詩~

天川裕司

「不敗。」~10代から20代に書いた詩~

「不敗。」


 生き方がわからなかった。友達と会ってる時でも、何か嘘めいた言葉ばかり言っていて、何か本当の事が言えずじまいで、耐えられない時もあった。持って生れた人の質というのはなかなか忘れられるものではなく、その変わらない質が災いして心もとない行為をする事がある。何も素直に言えないというのが、日常では相当辛い事であると当り前に思った。今こうして文をかいているけれども、この文章でさえ、素直なものではない。きっとそれはかいている本人でしかわからないものなのだろう。これをかいている時には、その隣りには誰もいない。何とかして一人で生き方というものを見つけたかったのだ。当り前のものしか見ることの出来ない人間は、時としてこの現実をさ迷い続ける。生きるという事はいつも二つに板ばさみされている。その一つは意識であり、もう一つは未知なるものへの期待である。その他方の互い同士が時に大きく時に小さくなり、それをくり返して、困難をその人が通った時それが休ませてくれない事を見る。とてもあやふやな言葉では語り尽くせはしないと。脆弱よわくなった時その人は弱いものを脆弱よわいとしか見えず、つよいものに盲目になる。そして自らつよいものを捜しに行く。そんな時、嘘をつく事でしかつよさは見つけられない。以前マエに見た同じものを自分の意図で新しいものにつくり変え、その自分に頼ろうとする。しかし自分を安売りしてはいけないと思う。その安売りは自分をむなしいものに変えてしまい、その同じ過ちに成長するのではなく、その深い淵におちて行ってしまう事を考える。その淵からはなかなか這い上る事が出来ず、そこで暫くの間悶き苦しむ。その間に或る人は悪い方向へ光りを見、又或る人は良い方向へ光を見る事がある。そこで過ちを犯した人はなかなかなおる事が出来ず、時に一生なおらない人もいる。私は一度、その淵へおちて行ったような気がする。なかなか這い上れず、時に言葉を知らない飼い犬と話をした事もある。どうしても話したかった。人には話せない事などを。いくつもいくつも沢山あったのに、それらを全部自分で解決して独り言を知るのは嫌でたまらない時もあった。しかし、それしか出来ないのを自分は知っていて、友達が横に居ても出かかる言葉を寸止めしていた。不味い食べ物を呑み込むように、それを一気に呑み込み、腹の中でそれらを消化させる。その一つ一つを他の誰もが知る事がなく、自由であるのに自分自ら囲いをつくるのは、安堵を憶えると同時に、苦しかった。




神に挑もうとした時もあった。わからないその一つ一つを天へ放りなげて、ついでに自分のすべてをも放りなげようとした。しかし、それが出来たかどうかはわからない。人から離れるのは寂しく、孤独と向き合わねばならないから辛い。しかし、その向き合う時間を出来るだけ伸ばして、本当の意味で人生につよくなろうともした。その長さは半生でも良いと。それくらいしなければ自分の人より大きな臆病を克服出来ないと思ったからだ。この臆病がどこまで続くのかはわからない。その分、勇気も続けなければならない。人から見捨てられても良いが神には見捨てられたくない、と呟く人も居るが今の私にはそれがわからない。人に裏切られるのも、この世では体のすべての血がぬける程辛いものだ。神に見捨てられるのは、この精神こころの血がぬき切ってしまう程辛いものだ。しかし、その精神こころの血がぬき取られるという思いはどんな辛さか、人には見る事が出来ず、どうしても体の痛みに執着してしまうのを先に知る。天の蓄積とこの世の蓄積ならば、この世を取り、その幾日かで積み上げたものの多さで天が見えなくなる。その横には人が居り、その人は噂を投げかける。どうして神が必要なのか、とその人は言う。


私は不安なのだ。しかし最後は結局は、神のもとへと戻れるように生きたいと思う。私は今、二十二歳である。


 その人の横に他人が来てため息を吐いたが、その人にその他人のため息は聞こえなかった。又、その人の横に、同様に他人が来て立て前を振り撒いたが、その人にその他人の内側は見えなかった。又その人の横に同様に他人が来て親切を振り撒いたが、その人にその他人の心は見えなかった。又その人の横に同様に他人が来て思い出話をし始めたが、その人には面白くなかったので聞く振りをしていた。すべては、その人が健康であったからである。又その人が病に伏した時、まわりからはその横に座ってくれる他人が同様に居た。かるく見舞いに来てくれた者には無理してでも起き上り、会釈をした。


又食べ物を持って来てくれた者に対しては、その重い腰を持ち上げ、湯を沸し珈琲を入れてもてなした。又神様の事を話に来てくれた最寄りの教会の牧師先生には、その話してくれた事を深く吟味し、その余韻で小声を上げて泣いた。しかし人は、その一つところベッドの上に寝ているため、他人の訪れる時間は健康の時に比べて程少なかった。やがて一人になった時その人は、見舞いに来てくれた者がくれたその手鏡を見ずにその部屋に飾ってある壁の鏡にその顔を映した。


思ったよりも瘠せていたので、相応の不安が心に止り、その不安は後にも続くようだったのでその人はその不安に埋没した。幾日か経ってその床を去る時、又自分はもとに戻れるというかすかな声をその心に投げかけながら。窓から見える外には木の葉が一つもついていない木が立って居り、その木の枝には小鳥が二羽止まっていた。




形在るものには時期がある。生きる時があり、死ぬ時がある。その時期を越えて尚物事を続けようとする者は、徒労に終る。




他人ヒトに認められる事がその者にとっては最大の事であった。認められなければすべてがむなしく、又浮かれている世間の波に対してさえむなしい憎しみをぶつける事になった。唯、己が才能の柱を筆で以てかきつける事だけに、その半生を費やしたその者は他人の家から持って来た花をその地に植え、哲学の不毛の地に花を咲かせた。しかし根をはらせたその土が悪い土だったので、その花はそれ以上に成長せず、又造花の様でもあったので朽ちる事もなかった。その者はその僅かさを大切にする事に努め、それより他のものに盲目になった。その他のものの中には、神が示した真実も含まれていた。

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「不敗。」~10代から20代に書いた詩~ 天川裕司 @tenkawayuji

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