修理屋の人形

@stenn

第1話

 それは時の長くなるほど遠い未来なのかも知れないし、既にあった過去なのかも知れない。いずれにせよ、些細でちっぽけ。歴史の積み重ねにもならない世界の一幕だった。




「あぁ――ダメだなぁ。トキちゃん。オイル持ってる?」



 何もないただっ拾い荒野に乾いた風がふく。とどこまでも続く地平線には遮るものなど無い。空を見れば雲一つない青。それは些か霞んで太陽の光を幾分か柔らかくしていた。



 それでも炎天下と呼べるのは間違いないだろう。こんがりと焼き上げられた紙面の上で、一人少女が自身より大きな二輪車のエンジン部分を覗き込んでいた。スパナを投げ出して近くにいたトキと呼んだ何かに目を向けた。



 人間を模した金属製の何かは少女より小さく――それは手に乗るほど――ちょこんと後輪の荷台に腰を掛けていた。窪んだ眼はもちろん人間と違う。レンズがはめ込まれたそれは小さな音を立てて少女に目を向けた。



「いんや。もうオイルは使い果たしたはずだぜ? だから前の街で仕入をしろつて言ったのに。馬鹿じゃねの?」



 人間とは違う人工的な声である。飾りの様な口は何も付いておらず、声は喉のあいだにあるスピーカーのような所から発せられていた。



「え――次の街は?」



 少女――クロノは不服そうに口を尖らせる。



「俺らが行くより向こうから来るのを待った方が早いぜ。とりあえず座標は送ったからそのうち来るだろ? 」



 うーんと考えてクロノは天を仰いだ。考えるのは食料がいつまで持つか、だろう。トキはともかく人間であるクロノは補給なしでは生きていく事は不可能である。そしてそれを考慮してくれる依頼者はいない。



 この世界に人間はクロノ一人なのだから。



「死ぬ前に来るよね?」



「一か月?」



 コテンとトキは小首を傾げた。トキも例外ではなく人間と言うものを知らない。長い時を生きていると言うのにどう言う事なのだろうか。



「死にますぅ。ったく、待つのは三日ね。あと三日かはトキが呼びに行って帰ってくることでいい?」



 トキの足はクロノの前にあるバイクよりも速い。であるのにバイクに乗って移動してくれるのはクロノに合わせているためかそれとも歩くことを面倒だと思っているかは分からない。面倒と言う感情があるのかは甚だ疑問ではあるのではあるのだが。



「え?」



「『え』じゃありません。私死にたくないので。命令ですぅ」



 トキは。と言うよりこの世界の支配者は機械である。それはかつて人間が創造し残したもの。始めに創り残された者を第一世代。残された物が作り出した機械たちを第二世代と呼んでいる。第一、第二世代ともに共通するのは人間は彼らの支配種。人間には『絶対的』に従わなければならないという事だった。



 つまりクロノには従わなければならない。ということで。『命令』と言われ不快な空気が漂う。ちなみにトキは第一世代。人間を模したものを作ろうとして打ち捨てられた機械であった。作者は完璧を目指して諦めたのだろう、打ち捨てられていた所をクロノが拾って再起動を掛けた。



 これでも天才なのよ――クロノの談てある。ねじ一本忘れたり、オイルをこうして使い切ってしまうなどしなければそうなのだろう。



「分かったよ。分かりました。は。年寄りにムチ打つ若い人間の鏡はちげーよな」



 本当に機械なのか。という不貞腐れ気味の声をクロノは聞き流しながら本日休む所を探す。夜は寒い。少しでも風を遮る所にテントを張らなければならなかった。ぶつぶつと言いながら手伝ってくれるトキもそれなりに優しい。



 大きな岩を探して小さなクロノは荷下ろししている。



「ったく。トキちゃんは。年寄りにしては私のが早く逝ってしまうのは酷くない?」



 いや。機械に『死』と言う概念があるのかは知らないが。



 トキはまた小首を傾げた。心底分からないのだ。理解はしても本当の意味で分かることは無いだろう。トキだって『直って』ここに立っているのだから。本人にしてみれば少し眠っていたような感覚だ。少し違うかも知れないが。



「直せばいいだろ? 俺が直すぜ」



 頼もしく言うが無理だと内心笑う。ただ否定だけはどうしても出来なかった。本人は出来ると信じているから。人間らしく作られた不完全な機械は姿だけを除けば本当に人間のようだ。



「さすがに部品なんて何処にも無いんだよね」



 クロノはふと思う。自身がいなくなった世界でこの機械は何を思うのだろうか。寂しいと感じるだろうか。それとも普通に今まで通り生きていくだろうか。



 また打ち捨てられるまで。



「どうしたんだよ?」



 なんとなく思ったことが『おかしい』気がしてクロノは軽く頭を振り、ヘラリと笑った。胸の内を覆い隠すように。



 おかしい。



 寂しいと思っているなんてどうかしている。自分の心を叩きつけるようにしてかんっと杭を打ち付けた。



「なんでも。時ちゃんに直して貰えるなんて光栄だなぁって。いつも私の修理見てるだけなのに」



「任せろ。絶対に直してやるから」



 その自信は何処から来るのか、小さな胸を張る。でもそれがとても頼もしく思えた。



「うんうん。いつも頼もしい。大好き」



 一拍。さあっと二人の間を冷たい風が吹き抜けていく。ややあってからトキがうんざりしたように口を開いていた。



「いつも考えるけど俺を馬鹿にしてるだろ?」



 分析によれば。と小難しい事を言い出したのでクロノは無視してテントをせっせと張った。






 この世界の『街』は何処も例にもれず高い壁で囲まれている。これは『人間』が造ったものではなく機械たちが街を風化と自然から守るために造ったものだった。



 いつか帰ってくるはずの人間の為に。そこでは今も人間がいたころと変わらない生活が繰り広げられている。



 生きているものは誰もいないけれど。



 迎えに来てくれた機械にお礼を言って別れ、クロノとトキは誰もいない――掃除機械だけが空しく店舗や道を清掃している――道を行く。



 開けられた店舗の中をちらりと覗けば劣化は免れず何もかもが古びて見えた。服などはもはや元の柄は分からない。その中では清掃や、服を畳み直したりと甲斐甲斐しく働く機械の姿が見えた。壊れているのかもしれない。どことなく動きはぎこちなかった。



 機械ととはいえ永遠に動き続けることは出来ない。



 えも言われない気分になり、クロノは持っていたスパナを軽く握りしめていめていた。



 クロノは『修理屋』である。この世界の機械を直しながら旅をしている。だけれどいくら直したところで――意味はあるのだろうか。そう時々思ってしまう。彼らは壊れ行く運命しか無いのに。



「べつに頼まれてもないのに直す必要はねぇと思うし余計なお世話。だいたい部品だって足りないだろ。それにあれはもう……」



 何年も一緒に過ごしている為か、もはやクロノの行動を読み切った――学習したの方が正しいいだろう――トキが抑揚などなく言った。



 納得いかない。そんな顔でクロノが呟く。



「分かってるけどさ。トキちゃんはいつも小言ばかり」



「ったく。いいから、行くぜ。依頼者はもうすぐだし。行く――って。クロノ?」



 くいっと服の裾を引っ張るトキを無視してクロノは店の中に身体を滑り込ませる。カランと小さく音を立てて入ると店員の機械は大きな一眼のレンズを好き死だけ軋ませてクロノに向いた。少しだけ宙に浮いた身体。それを滑らせるようにしてクロノの前に立つ。



「あら、あら。『お客様』なんて何年ぶりでしょうか? しかも人型の可愛いお嬢様なんて。あら。ちびっこもいらっしゃいますのね?」



 骨組みがむき出しの指。それががっしりとトキの首根っこを掴み持ち上げてまじまじと観察している。



「お洋服は貴方には必要ありませんねぇ」



 ぺいと捨てられたトキはししたたかに背中を打ち付けて『ぴー、がー』と機械的な雑音を発しながら抗議している。壊れてはいない。ただ、衝撃があったとときの警告音のようなものだ。



「ったりめぇだろ? んな事よりクロノ。何のつもりだよ」



「最近また大きくなっちゃって。きついんだよね。だから買おうと思って」



 クロノは最近十四になったばかりだ。とは言え正確な誕生日は知らないが育ててくれた父親がそう言っていたのでそうなのだろう。であるの手気まだまだ成長期だ。低い身長も少しずつ伸びつつある。少々栄養不足気味で成長が遅いとはいえ。



「……横に? そう言えば太……」



「縦に」



「あらあら、まあまあ。太る機械なんて初めてですわ。ふふふ。ほらほらこっちに来て試着なさいな」



「ちよっと。だから太っていないってば」



 ずるずると思った以上に強い力で試着室まで連れていかれるクロノ。気付けばその手には沢山の衣服が積まれている。これを全部着ろ――と。言いたげな目を向けてみたが何一つ伝わることはない。口に出さなければ機械に伝わらないのは当たり前で、父親とトキが特殊であったのを思い出していた。



「あの。こんなつもりでは。普段着を少し欲しかっただけで」



「大丈夫です。お嬢様を私が綺麗に仕上げて見せますわ。腕がなります。これでも昔は人間のコーディネートをしてたんですの」



「いや。だから普段着を――」



 では宜しく。と空しく閉められたカーテン。後ろに積まれた服を眺めてクロノは溜息を吐くしかなかった。





 茜い色に染まる街にカラカラとシャッターが静かに閉る音が響き、街灯がぽつりぽつりと淡く照らされる。相変わらず行き交う人はなく、虚しくただ刻を刻んでいく。道路の脇に打ち捨てられた車は錆びつき、その形跡を綺麗に留めてはいなかったが誰一人気に留めることはない。機械はそれを『廃棄物』とは認識していない様であった。



 その脇を抜けて路地を歩く。時間の為か元々なのか太陽の光は届かず薄暗く、クロノは持っていたランタン形式の灯で足元を照らし出す。ちなみに前を行くトキは夜闇でも目が効くらしくいつでもすいすいと歩いていた。



「結局買わなかったのな」



「買えなかったんです。合わなかったとかじゃないから。鞄に入らなかっただけだから」



 謎のいいわけであるがこれは事実。それに可愛らしいなど旅には不要であるし、劣化していて使い物にならないのもあった。で買ったのは結局二着ほど。買ったというより貰ったと言うべきなのだろうが。もはやこの世界の金銭はほぼ無意味なものになりつつある。そのためクロノも少しの金銭しか持ってはいない。昔父親にもらった子供のお小遣い程度で悲しい現実。こればかりは心の中で父親――もういない――を思わず罵倒してしまった。



 店員に可哀相な目で目られたのは否めない。



「太っ」



「太ってないですぅ。そこから離れないとその動力炉引っこ抜くから」



 考えながら衣料店の三軒隣。パン屋から貰ったパンを齧っているのを思い出してふと手を止めた。



 誰も食べることの無い食料。それがあるのは人間がいた時のまま機械が生産していた。もっとともその規模は急減に小さくなりつつあり、今では街の外れで細々と作られているだけである。それでもクロノ一人養うなど軽いものだった。ちなみに作られているのは野菜と小麦くらいで畜産は行われていない。そのためクロノの特技は狩りと言って過言ではない。



「そんなことより。なんで?」



 なんで、あの店に入ったんだとトキは続けた。服が欲しかったわけではないだろうと。その大きなレンズはカコンと小さな音を立ててクロノを見つめる。その視線を受け止めてクロノは肩を竦めた。



「ん。あの機械さん明日、終るかもだし……終るんだったら楽しい方がいいかななんて。嬉しい方がいいと思って」



 直すことが出来ない変わりに。何もできない自分自身の贖罪なのかも知れないとクロノは思った。簡単に言えば自身のエゴである。



 楽しいねぇ――と考えながら呟いて一拍。言葉を続ける。



「……俺たちはプログラムですべて計算されている。そんな事意味ないのにな。俺たちは人じゃないし。非効率的だと思うぜ」



「うーん。冷たい目で見るの止めようよ」



 路地の奥まったところにある古びた扉は所々塗装が剥がれて金属が腐食している。そのノブを引っかかるように回せば蝶番が軋む音がして、ゆっくりと扉が開く。



 その奥は暗い。光を翳せばこれまた腐食した階段が見えた。ここはどうやら機械が管理していないようであった。



 床が抜けないように祈りながらゆっくりと進む。



「でもさ。トキちゃんを見てると時々思うんだよね。心があるんじゃないかってね」



「うーん。無いぞ? 俺を形作ったやつが天才なだけで」



 即答しなくてもと眉尻を下げながらむぽつりと零す。確かにそうだけれども。



 そう思ったのにはそれなりの理由があった。出会った時のトキはよくも悪くも機械らしくあった。抑揚のない喋り方。言われたことを忠実に行う。無駄な事などしない。であるのにいつからだっただろう。解けるように言葉が変わり始めたのは感情が溢れ出したのは。心があるように感じたのは。人間らしく動き始めたのは。



 もはやクロノの中ではただの少年であった。



 怒ったり、笑ったように見えたり。それは本人が言いうようにプログラムなのかも知れない。



 だけれど。



「ま。思うくらいよくない?」



 暗い世界でも銀色に輝く小さな身体は何も答えることは無かった。答えても無駄だと思ったのだろうか。実際の所はよく分からない。クロノはその背中を導にしながら歩いていた。






「ようこそいらっしゃいました。修理屋さん」



 床が抜けそうな程の古びたビル。その一角は驚くほど整備されていた。見たこともない機械が立ち並び昔どこかで嗅いだような薬品の臭いが立ち込めている。気持ち悪くて窓を開けたがトキを筆頭にここにいる機械はなにも感じていないようだった。……鼻が無いのが心底羨ましい。



 ともかくして出迎えてくれたのは金属製の人型機械。身長はクロノの二回りほど高い。銀の身体には白衣のようなものを身に着けていたがそれは薄汚れて破れている。



 基本機械には名前が無い。勝手に『シンロ』と名付けた機は申し訳なさげに声を発していた。



「街に来る途中にトラブルがあったと伺いましたが大丈夫でしたか? お迎えに行けずに申し訳ない」



 近くのソファにクロノを促す。なぜかクロノの膝の上にちんまりとトキは座った。重くはない。トキの性能で軽い。当時の最新技術が詰め込まれているのがよくわかる。トキが言いうようにトキの作者は本当の天才だったのだろうといつも感心する。



「お気になさらず。近くを人が通りかかってくださったので」



 あのまま誰も通らなければ餓死コースだったかもだけれど。と薄笑いを漏らすしかなかった。その様子を窺うようにシンロは見つめている。



「あ――お茶を飲みますか?」



 基本『お客様にはお茶を出す』がインプットされているのだろう。飲ま成すことを分かっていてもお茶と言うものを出されることがあるが……お茶のような何かである。皆一様に家事が出来る機械では無かった為に惨事しか起こらなかった。



 嘔吐と腹痛はいいい思い出だった。一瞬遠のいた意識を遮るようにしてトキが膝から滑り落ち、シンロを見つめた。



「あ、それは俺が淹れる。葉っぱと水は?」



「トキちゃん」



「任せろ」



 きりっと親指を立てて奥に消えていく。頼もしい。出会ったばかりの頃は何もできなかったというのに頼もしい。大好きと内心呟いておいた。



 ……基本クロノが生活力皆無な反動であるがきっと本人はそのことに気づいていないだろう。出来ると思っている。料理でさえも。



「それにしても。貴方は本当に人間のようですね」



 『よう』ではなくてそのものであるが。ここまで旅してきた中で人間など見たことないのでクロノは自分自身がこの世界で最後の人間だと思っていた。だからとといいって特別な事は何もない。人間であると言いう事を明かして機械たちの『上』に立ちたいとは微塵だって思っていない。どう考えても楽しいとは思えなかった。



「人そっくりに作られてるんですよ」



「なるほど」



「そんなことより。今回の依頼と言うのは」



「ああ――ええ」



 そのタイミングでトキがお茶を持ってきた為かシンロは少し言い淀む。クロノは軽くお礼を言ってからお茶を手に取った。葉っぱは古くないもので確りと紅茶の味が出ていた。久しぶりのその味にふぅと軽く息を付いた。それを不思議そうにシンロは見つめている。



 お茶を出しても今まで本当に飲む客などいなかったのだろう。



「本当に人間のようですね」



「……水をと動力として動いているんですよ」



 それはトキであるが。当のトキは再びクロノの膝に飛び乗っていた。飼ったことは無いが偶に猫かなと思ってしまう。まぁ見た目は何の生命も感じさせない無機質な人形なのだが。



 なるほど。と抑揚なくシンロは言ってゆっくりと立った。見つめるる先には小さな扉。あちらに今回の修理対象がいるのだろう。ただクロノは天才を自負しているが、必ずしも直せるかと言うのは別。例えば――トキの動力炉が壊れてしまえば直すことはできない。部品と技術が付いて行かないからだった。もちろん勉強は常にしているけれど。



 気合を入れて拳を握りしめる。



「さぁ。こちらです」



 その言葉に、クロノは顔を引き締めて立ち上がっていた。





 閉ざされた空間に見たこともない機材。低い唸りの音を立てて数々の画面が青く輝いている。再程よりも強い薬品の匂い。それを遮るようにして口元に手を当てながらクロノは辺りを見回していた。画面の中では様々な書きかけのプログラム。残念ながらパッと見ただけでは何が会いてあるのかは分からない。とんと画面を押せばパッと切り替わり様々な写真――主に機械の構造などが映し出されていいた。それは見たこともない構造で研究中のようであった。



 興味深かったものの今はじっくりと見ている場合ではない。



「トキちゃん」



「ん。まかせろ。後で見られるようにアーカイブしておく」



「さすがぁ。役に立つ。大好きっ」



「うっせ」



 そんな馬鹿げた会話を交わしながら進むと一つの寝台が見えてくる。骨組に薄いマットレスを引いた簡素なもの。その上に寝かされている物を見てクロエは軽く息を飲んでいた。



 そこには人間そっくりの何かが寝かされていたのだ。指の先から髪の毛に至るまで人間としか思えない造形。人形としてもこれほど繊細で精密なものは初めて見た。



 年の頃は二十代前半だろうか。その骨格からいって男性のように見える。長い睫は動くことはなく、唇からは息が漏れている気配はなかった。



 その時点で人間では無いのだろうとクロエは息を付いた。安堵なのか残念に思ったのか何なのか自分でも分からない。



ゆっくりとシンロに目を向ける。気のせいだかどこか嬉しそうに見えた。



「人間そっくりでしょう?」



「これは?」



 人間が作ったものだろうか。しかしながら人間が滅んでから結構な年数が経っている。壁に囲まれた街以外、人間の痕跡など風化してしまうほどに。



 何を言いたいかと言えば恐らくトキ――は怪しいが――やシンロも皮膚を持っていたはずだ。それは真っ先に剥がれて今に至っている。真っ先に劣化してしまうためであった。



 青年の頬に触れればそれなりの弾力が返ってくる。それが新鮮でペタペタと触ってしまったがトキの呆れたような咳払いに我に返っていた。



「人間の研究を元にして我々が作り出したんですよ。偶然見つけましてね。そう。素材さえ揃えば簡単だったんですが――」



「起動しない、と?」



「それで貴方を呼んだんです。専門家ですよね?」



 専門家と言えばそうだがと、クロエは青年に視線を滑らせた。



 見たところ物理的な損傷はない。ましてや一度だつて起動した様子すら無かった。恐らくソフト的なものだと思うが――残念ながらプログラムの損傷はクロノには苦手とする部分だった。溢れる汎用プログラムであれば何ととか出来るのだが、クロエごときに何とか出来るプログラムならとうの昔に起動していることだろう。



 溜息一つ。



「申し訳ありません。私には何とも。損傷であれば何とか出来るかもでしたが、エラーとなると私にはどうしようも出来ません」



「そうですか――それなら仕方ないですね。私たちは再び『人間』に――主人に会いたかっただけなんですが」



 主人。召使をする機械か何かだったのだろうか。それがここまでするには相当な改造が伴ったはずだ。基本機械が自身の分を超えて動くことはない。考えもしないというのに。この機械も長い時の中どこかでバグが生じたのかも知れない。それはどこか痛々しく、申し訳なく思えた。



「ごめんなさい」



「……仕方ないですね」



 ぽつりと響く様な静かな声だ。それはなんだか嫌な予感を孕む。ぱちんと何かが耳元とで弾ける音とがした。同時にじゅっと嫌な何かが焼ける音。何-―と考える前にクロエは床に叩きつけられる。視界に入る自身の腕からは嫌な煙と茶色い痣が浮き上がっていた。



 ――は?



 混乱のまま顔を上げれば小さな銀の背が私を護るように立っていた。対するのはシンロ。その手には小手のような物が握られて、その切っ先は黒く、微かに煙を放っていた。



「なら、貴方のプログラムをコピーさせてくださいな」



「え?」



 ジンジンと痛みを持ち始めた腕を強くクロエは抑える。少しでも痛まないように。ぐっと奥歯を噛んでいた。



「馬鹿か。そんなこと出来るわけないだろうが。基本俺たちは汎用でもない限り個体に対してプログラムが生成されている。移したところでそれ動かねぇよ」



「やってみると言うのが我らが主人の口癖でね。壊れるわけでもないし、コピーさせて頂きたい。どきなさい。……子守りごときが」



 ぱんと大きな音が響いてトキが近くの叩きつけられた。バラバラと資料や本。画面ががたんと大きく立てて机から落ちた。『ぴー・がー』と警告音だけが辺りに響いていた。



「トキちゃんっ」



「さて。貴方は何処から接続すれば……まぁ。煩いので一度停止してもらいましょう」



「させない――」



 慌ててクロノは鞄から大きなスパナを取り出していた。異様に痛む腕。それでもここで使わなければ確実に死ぬ。



 振り下ろされた小手をスパナで受け止めて、全力の限りで振り切った。身体の性能はそれほど強く作られていないのだろう。よろめいたシンロを無視してクロノは警告音に向けて走る。そのままぐたりとしたトキを抱えあげると身を翻してからドアに向かった。



「クロノ?」



 再起動したのかぼんやり呟くトキを無視して扉に向けてスパナを振り上げる。素直に開くとは思えなかったのだ。マスターキーはいつだつて万能。そんな合言葉を言いながら扉を叩き壊して躍り出る。



 だけれど――。



「待ちなさい」



 目の前にいたのはシンロと同じような機械だった。





 後ろと前。絶体絶命の状況。どちらにもいけないのなら――。



「前に進むしか無いじゃない」



 大したことの無い身体能力なのは分かっている。分かっているからクロエはぐっと足に力を入れて走っていた。ぐっと握りこむスパナ。それを弧を描いて振り上げて一気に振り下ろした。



 壊すのは嫌いだ。直すためにクロノはここにいるのに。それがとても空しくて悲しい。ぐしゃりと何かが潰れる音。それと共に悲鳴すら上げず『それ』は崩れ落ちていた。



「ごめんね。ごめんなさい」



 脇をすり抜けて前に――と思ったが乾いた音が耳に響いた。がくんと崩れる身体。再び何が起こったのか分からずトキを見た。



「トキちゃ……」



「クロエっ。つ――。てめぇ」



 べちゃりと床に身体が沈む。遠のく意識の隅でトキがシンロに駆けていくのが分かる。止めようとしてくれているのだろうけれども、なんとなく『無理』と考えていた。



 どうやらここで自分は終るのだと感じていた。



「とき、ちゃん……いかないで」





 死ぬときは誰かが迎えに来てくれるなんていつかどこかで聞いたことがある。あるけれど、どうして誰も来ないのたろうとクロエは思っていた。



 育ててくれた父親だって迎えに来てくれないとクロエは膨れていた。まぁ、人間ではないのでそんなもの存在しないと言えばそれまでなのだけれど。



 それでも薄情すぎるし寂しい。そしていつまで待ったら天国の扉は開かれるのだろうと悶々と考えている。考えても開かないし、やはり寂しい。



 暗い地面に落書きをしつつ、クロエはトキの事を考えていた。大丈夫だろうかと。もう直して上げることが出来ないのだから身体は大切にして欲しいと――そう願う。



「どうなったか見せてくれてもいいのに」



 神さまのケチと呟いてまた膨れた。



「クロエ」



 声が響いた。それはとても優しくて懐かしい。その声がトキだと気づくまでに数秒を要した。なぜならは余りにも肉声の様に聞こえたから。



「トキちゃん?」



「目を開いてくれ。――頼むから」



 祈るような声と共に遠くに光が見える。クロノはそれに向かってゆっくりと歩き出してた。





 まず、耳障りな警告音が耳に届く。それは収まることないが、次第に弱々しくなって消えていく。それが何なのか分からないまま目を開けば白い天井があった。手を上げれば白い包帯が腕に巻かれている。



「起きたか?」



 覗き込む銀色の顔にクロエは瞬きを返していた。なぜ生きているのか分からない。そう言う様に。そう生きている。痛みも怠さも重さもここにあってうんざりした。



「なんか生きてる」



「病院っていうのがあったから。試しにかけこんだ。人間ってのは病院ってところで直すんだろ?」



 どこか不服そうなのは直そうとして直せなかったからなのかも知れない。しかしながらそんなことより。クロノはヘラリと笑って見せ、それを不信そうにトキが見返した。



「今回は酷かったねえ」



「……殺されかけたのに、笑ってる場合かよ。でもいつまで続けるんだ? こんなこと。つうか、何を探してる?」



「父が言ってたから。出来ることをしなさいって。だから出来ることをしてるだけ。――探してるのは何だろうね。よくわかんないや。でも、トキちゃんは付いてきてくれるでしょう?」



 トキは何を思ったのか窓の外を見つめた。あれからどれほどの時間が流れたのか青空には白い雲がぷかぷかと浮いている。



「そうだな。仕方ないから付いて行ってやる。心配だもんな」



「ありがと。大好き。トキちゃん。抱きしめていい?」



「いっつも思うけど、猫やなんかと勘違いしてね?」



 そう言いながら素直に膝の上に乗るのか可愛らしい。クロエはきゅうと冷たい身体を抱きしめていた。



「してない、してない。トキちゃんはトキちゃんだもの。大好き」



「ぁあ。うん――ありがとう。俺、頑張るから。ずっと、頑張るから……だから」



 その先の言葉は紡がれることはなかった。疲れたのだろうか。クロノは空に目を向けてずっと雲を流れるのを見つめていた。

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