一触即発の謎解き

森本 晃次

第1話 都市伝説

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年6月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。


 世の中には、

「都市伝説」

 というものがある。

 都市伝説というのは、

「口承される噂話のうち、現代、近代に始まったもので、内容として、根拠が不明、曖昧なものをいう」

 ということだと言う風にされている。

 昔からいわれているわけではない事から、根拠が曖昧だというのも、当たり前のことであり、逆にいえば、それだけ昔からいわれているものというのは、それだけ、根拠も、正当性も、それなりにあるということになるのだろう。

 だから、

「都市伝説というのは、信憑性に欠ける」

 といってもいいものだろうか?

 確かに、都市伝説というと、曖昧なものだと言われるかも知れないが、その中でも結構ずっと言われてきているものもある。

 これらの都市伝説というのは、昔から伝わっている、

「恐怖物語」

 のようなものではない。昔からの話は、そもそも、口伝も多いが、どこかの寺や神社において伝わってきたことなどが、その伝承だったりするのだが、

 都市伝説というのは、そういう書物などは、ほとんどなく、そもそも現代における話なのだから、そのほとんどが、口伝によるものである。

 だからこそ、

「曖昧な話が多い」

 と言われるのだろうが、逆に、

「話としてはよくできている」

 ということになるだろう。

 つまり、

「オチがしっかりしていないと、伝え聞く方も、納得して聴いているわけではないので。話を聴いても、右から左である」

 といえるだろう。

 それを思うと、

「曖昧な話が多いということなのだが、それでも、都市伝説ということでキチンと伝わっているということは、途中が曖昧でも。最初とオチがキチンと結びついていて、話に信憑性があれば、忘れることもなく、話が繋がっていく」

 というものだろう。

 それだけ、オチに信憑性がないと、正確に伝わらない。

 そう思うと、

「都市伝説というものが、いかにして伝わったか?」

 確かに、昔のように、インフラなどなかった時代に、人が聞いて伝えるだけというのが当たり前だったので、伝説として、似たような話が結構それぞれの地域で、微妙に違う形で繋がっているのだ。

 かと思えば、たとえば、京都と大阪で、微妙に違っているのに、大阪と東京では、まったく同じ話だったりもあるだろう。

 それだけ、しっかりした伝い手さんによる口伝であろうということだが、本当に、都市伝説というのが、そんな甘いものなのだといえるのだろうか?

 最近の都市伝説というのは、曖昧なくせに、辻褄が合っていたりする、それだけ、内容としては、今の時代にも十分当て嵌まるというものであろう。

 都市伝説ではなく。昔のおとぎ話などで、

「これは、今の科学力で解明できないと、こんな話作れるわけはない」

 というような話があったりする。

 例えば、

「日本で最初にできた物語」

 と言われているのが、平安初期にできたとされる、

「竹取物語」

 である。

 あの話も月を舞台にした話で、実際には、絵本などの物語ということで、ほぼほぼ、割愛した形の話になっているが、これを、今の文庫本にすれば、数冊の分冊になるくらいではないだろうか?

 さらに、一時間番組でドラマ化すれば、どんなに少なくとも、ワンクール。つまり。

「13話」

 くらいにはなるのではないだろうか?

 それを考えると、

「大スペクタクル」

 といってもいいくらいで、それが、

「日本最古の物語」

 と言われるほどだというのだから、かなりのものであろう。

 しかも、このお話には、複数のいろいろな、のちに、物語の定義ともいえそうな話があることから、

「似たような話が、一つになって、できあがったものではないか?」

 と言えるのではないだろうか?

 たとえば、

「竹から生まれた」

 という話、

「3年で大きくなった」

 という話などは、まるで、ももたろうと同じ内容ではないか?

 または、

「求婚者に、何代を吹っ掛けて、誰も成功しないというような話」

 というのも、どこかで聞いたような気がするではないか。

 おとぎ話などのほとんどは、

「結構、いろいろなところに存在している話を、

「誰かが、聴いて回って、それを本にした」

 というような話も伝わっている。

「浦島太郎伝説」

 であったり。

「桃太郎伝説」

 などというように、

「一つのお話が、各地の伝説として残っている」

 というものであったり、それ以外でも、

「鬼退治伝説」

 などというような、前述のおとぎ話としての、

「桃太郎伝説」

 のようなものであったり、

「大江山の鬼伝説」

 というような、

「鬼がいて、それを、武将が退治した」

 というお話が、それぞれに残っていた李するではないか。

 前者は、普通に、

「おとぎ話の口伝説」

 であり、後者は、有名武将の、

「武勇伝」

 という形で話が残っているような場合などが考えられる。

 ただ、どちらの話もありがちではあるが、基本的には、前者ではないだろうか?

 武将の武勇伝というと、おとぎ話というよりも、ご当地に伝わる、神社やお寺の伝説などであろう。

 特に、昔は、菩提寺というものがあり、その武将を武勇伝として描くために、菩提寺に残されるというものがあったりする。

 しかも、菩提寺があるように、武将と、その支配地においての関係は、かなりの深いものがあり、

「全国のお寺や神社には、神格化された武将を、神様のように祀っているところも多い」

 ということだろう。

 実際に、その土地を収めるのに、かつての武将を神格化することで、その土地が、武将の祖先が、天皇からの皇胤などの子孫であれば、明治政府などのように、

「天皇を神格化」

 という意味で、その土地の神格化は、

「明治政府の全国支配」

 という意味でも大切であった。

 特に、徳川時代のものなどは、まったく、

「徳川は敵だ」

 ということで、片っ端から壊して回ったものだろう。

 そもそも、それまでの古い封建制度から、新しい、

「立憲君主制」

 として生まれ変わるために、国家を、天皇を中心とした君主国にしなければならない。

 しかも、

「憲法に守られた立憲君主の国」

 ということである。

 憲法制定は、念願である、

「不平等条約の改正」

 のために、必要なことであった。

 この国が、諸外国から、舐められないようにして、諸外国に、日本という主権国家というものの存在を認めさせなければいけないのだ。

 そのために、

「憲法を制定し、近代国家である」

 ということを示さないといけないのであった。

「西洋建築、散切り頭、肉食文化、などの文明開化。さらには、富岡製糸場などの工業製品を作るための、工場の建築などによる、殖産興業」

 というものが、大切になってくるのであった。

 そのためには、

「天皇の神格化」

 というのが、必要不可欠なのだ。

 だから、そんな時代だから、都市伝説のようなものが起こる。都市伝説というものを、

「最近のものと限らない」

 ということになれば、歴史の中には、結構怖いものが潜んでいたりする。

 有名なところでは、怨霊という意味で大きいのは、まずが、

「平将門」

 ではないだろうか?

 坂東武者に担ぎ上げられた結果になってしまったが、自分のことを

「新皇」

 と呼ばせて、まるで天下を取ったかのようだった。

 と言われているが、実際には、やはり祀り上げられたのかも知れない。

 しかも最後は、兵を、田植えがあるからなどということで、返してしまったことで、手薄になったところを襲われた形だった。最後は、完全に自殺行為の戦争だったようだ。

 ただ、このような戦闘であれば、実際にはいくらでもあった。

 鎌倉末期の、

「楠木正成」

 しかり、

「明治に入ってからの、西南戦争での、西郷隆盛」

 しかりである。

 ただ、それでも、

「平将門の怨霊」

 というのは、都市伝説というところから来ているのではないだろうか?

 都市伝説になりそうなことでいえば、

「乙巳の変」

 の時の、蘇我入鹿の首も、かなり遠くまで飛んでいったということであった。

 そもそも、蘇我入鹿というと、当時は、押しも押されぬ、天皇をも操れるくらいの、

「押しも押されぬ」

 蘇我氏の当主だったのだ。

 その怨霊もかなりのものだっただろう。

 また、平安時代では、蝦夷征伐に向かった坂上田村麻呂が、蝦夷地の英雄と言われたアテルイを平定した時、都に凱旋する時、

「命は保証する」

 と言っていたのに、田村麻呂の意見を無視した朝廷が、アテルイを処刑してしまったという事件もあった。

 さらには、平安時代で、一番、いや、歴史の中でも相当の恨みによって、人が死んだりしたという、いかにも、都市伝説として、

「菅原道真」

 が言われるであろう。

 これは殺されたわけではなく、左遷されて、失脚させられたことへの怨霊で、かなりのものだったに違いない。

 それ以降は、武士の時代に入っていくので、どれだけの武士の怨霊があることか、鎌倉時代の北条氏によるほとんどの御家人の粛清。そして、頼朝以降の源氏の将軍を切腹させたり、陰謀によって、暗殺させたりと、

「やりたい放題」

 に対して、かなりのひどい恨みがあったことだろう。

 その後は、

「後鳥羽上皇」

「後醍醐天皇」

 などもそうであろう。

 中には、女性の中にも、

「悲劇のヒロイン」

 と呼ばれる人がいる。

「静御前、お市の方、細川ガラシャ」

 などと、悲劇として描かれる人も多い。

 ただ、女性ではなかなか怨霊というものはないが、その代わり、江戸時代には、

「お岩さん」

 などの、女性の妖怪や怨霊というのが、物語に出てくる。

「このあたりから、一種の、都市伝説的な話になってくるのではないだろうか?」

 と、考えられるのだ。

 そんな怨霊のような都市伝説であるが、実際に恐怖のような話だけではなく、少し違う話もあるのだ。

 というのは、

「霊が宿る」

 というようなものが存在したりするというものも、結構あったりする。

 例えば、

「鏡」

 などが、よく言われるものではないだろうか?

 特に、

「暗いところで鏡を見たりすると、怖い」

 という話もある。

 他に、鏡以外の都市伝説の中では、

「夜中に口笛を吹くと、ヘビが寄ってくる」

 という話であったり、

「未確認生物」

 や、

「未確認飛行物体」

 などもそうであろう。

 さらに、昔から、絶えず言われているものとしては、

「コックリさん」

 などというのも、その一つであろう。

 また、都市伝説なのか、それとも、都市伝説としては、話として定着しすぎているのか、

「妖怪全般」

 ということになると、すでに都市伝説の域を出ているのかも知れない。

 もちろん、

「個々の妖怪」

 ということになると、メジャーな妖怪、マイナーな妖怪とそれぞれあるので何ともいえないが、実際に、コックリさんなどのように、

「話としては、誰もが知っている妖怪であっても、地域によって、微妙に違ったりするものは、一種の都市伝説としても、言われるだけに十分ば要素を持っている」

 と言えるのではないだろうか?

 そんな都市伝説の中で、一つ気になるのが、前述における、

「鏡」

 の話であった。

 鏡というものは、何も都市伝説にこだわることなく、恐ろしいと言われているものもある。

 正直、ハッキリと、分かっていないことも結構あったりする。

「確かにそうなんだが、いわれてみればそうだというだけで、実際に理論的にそれを説明することはできない」

 というものだ。

 その一つとして、代表的なものは、

「なぜ、鏡は左右が反転するのに、上下が反転しないのか?」

 ということである。

 普通にそのことを聞かれても、

「当たり前のことすぎて、誰も不思議に思わないだろう」

 しかし、実際に改まって言われると、最初こそ、

「何が不思議なんだ?」

 と一瞬は思うだろうが、すぐに、

「ああ、確かにそうだよな」

 と感じるに違いない。

 その時に、

「確かに、左右は反転するのに」

 と、まずは、左右が反転することを、最初こそ、

「何で左右が反転?」

 と思うが、次の瞬間、

「ああ、鏡だから当たり前か?」

 と感じ、上下が反転しないことを、最初は

「そりゃそうだろう」

 と思う。しかし、

「いや、左右が当たり前なら、上下の方がおかしいのか?」

 と考え、結局、そのことが基本となり、

「上下が反転しないのはおかしい」

 という発想に落ち着くと、そこで考えが袋小路に入ってしまうので、結局は何も言えなくなってしまうのだった。

 上下反転しないのがおかしいと考えると、

「鏡というのは、反転してこそ当たり前」

 と考えるのだ。

 つまり、この現象を。

「鏡というのが特殊なもので、鏡という媒体があるからこそ、錯覚を見るのかも知れない」

 と思わせるものなのだろう。

 しかし、

「鏡が、錯覚を見説のではなく、錯覚を見るのがか鏡なのだ」

 という鏡の特殊性を考えすぎるのではないだろうか?

 とにかく、

「自分を見ることができるのは、自分を写すものでしかない」

 と思うと、鏡を筆頭に、水面であったり、鉄の板であったり、というのが、一般的な考え方であろう。

 つまり、都市伝説的に考えると、

「鏡には何かが宿っているのではないか?」

 と考えられる。

 古来から、鏡が神聖なものだと考えられてきたのは、そのせいなのかも知れない。

 何といっても、

「自分を映し出すものとして、鏡というのは、時代を超えて君臨してきたものではないだろうか?」

 ということで、重宝されてきた。

 特に、天皇家の

「三種の神器」

 として、

「八尺瓊勾玉」

「草薙剣」

「八咫鏡」

 というものである、

 そのうちの最後が、

「鏡」

 ではないか。

 鏡というのは、世の中だけではなく、神格化されていた天皇家にも伝えられてきたものである。

「皇位継承の際に必要なもの」

 として言われてきた。

 それを、平安末期に、平家が、源氏に追われ、落ち延びていく時、幼い安徳天皇と一緒に三種の神器も一緒に持って逃げたのだ。


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