第6話 ハイドン/交響曲第101番『時計』
〜大河view〜
「行ってきます」
「行ってきまーす」
水曜日。いつものように玄関で声を掛けると、いつものようにリビングから「行ってらっしゃい」と返事が返ってくる。
いや、今朝の声は母さんの声だけしか聞こえなかったな。泉美は寝坊か?
うちの妹様がギリギリ隊なのは今に始まったことではない。まあ、あいつの舵取りは母さんに任せよう。
平日の俺の朝は、都内の高専に通う双子の弟の大洋と共に始まる。
河沿いをずっと走って遠くの高専へ向かう大洋に合わせて、俺も途中まで一緒に走る。俺の目的地の西園高校までは遠回りになるが、トレーニングも兼ねているので何も問題はない。ちなみに、雨の日は二人とも電車に切り替えてバラバラに出ていく。
公道へ滑り出す二台の自転車。ロードバイクに乗っているのが大洋で、ノーブランドのクロスバイクに乗るのが俺。兄弟でシェアして乗っているロードバイクは、平日は大洋、休日は俺といった具合で取り決めが成されている。背格好はほぼ同じなので、サドル高などの調整をせずに共用できるのだ。
市街地を北進し、すぐにお馴染みの河川敷へ入る。
「今日は風が無くていいな」
前を走る大洋が言った。
今朝の風は穏やかだ。河口から上がってくる向かい風が強烈な日は辛い。なので無風は助かる。追い風ならなお良い。
「まあ無風は助かるよな」
「泉美のやつは寝坊したのか? 俺だって眠いのに、学校が近いやつは羨ましい」
「お前も昨日は夜更かししてたよな。ゲーム? 配信?」
「配信観てた。〈
「ああ、よく観てるっていうVTuberのか」
〈有栖ルナ〉。動画サイトの配信で活動するバーチャルアイドルで、主にゲームの
大洋はそこそこ前からチャンネルを観ていたらしいが、最近は特に注目していない俺でも稀にファンアートを見かける程度には人気があるようだ。キャラデザも評判がいい。
「昨晩のは神回だった。ワールドレコードもあわよくばってところでお祈りポイントに嫌われた。かわいそうだったけど動画としては傑作だったから、大河もアーカイブ観たほうがいい」
「まあ気が向いたら観るよ」
VTuber動画はあんまり観ないけど、そこまで推すなら切り抜きがあったら観てみようか。
「そういえば昨日、学校で〈ハナネ〉さんに会ったんだよ」
「〈ハナネ〉って、ヴァイオリン少女か?」
「そう。そのヴァイオリン少女。しかも泉美のクラスメイトだった」
「マジか! へ〜。あの子、西園の一年だったのか」
大洋は流れる景色の先、戸田橋の下のほうを指差す。
「先月ぐらいからあの辺にいるんだよ」
「何が?」
「ヴァイオリン少女」
「ああ……」
あそこで演奏してるのか。
「今日の帰りはいるのかな」
「放課後は俺と会う予約してるからいないかもよ」
「へー。なんでまた?」
「なんか絵を描いてほしいって言われて」
「それ、引き請けたのか」
「……生徒会に勧誘する交換条件でな」
「それで絵を描くのか」
「まあ……」
「…………」
大洋のロードバイクがスピードアップし、こちらもそれに合わせる。会話が途切れる。
そこからは、いつもの場所で別れるまで無言だった。
**
三年の教室へ入る。
クラスの連中は一瞬だけこちらを一瞥し、すぐに居住まいを戻す。
俺も無言で席につく。
このクラスの一員になって三ヶ月目。自業自得なとこがあるとはいえ、いよいよ空気扱いの度合いが濃くなってきた。
居心地の悪さを誤魔化すように、机にノートを広げて、脳内のデッサン人形をこねくり回しながらラフスケッチを描き出していく。
授業サボりたいなぁ。この二ヶ月でサボりにもすっかり後ろめたさは無くなったが、今日は一限からサボれない科目だ。
朝の濁った空気に溺れながら、ホームルームが始まるまでのやけに長く感じる時間を過ごしていった。
**
息苦しい時間からようやく解放され、放課後になった。
いち早く教室を抜け出し、途中自販機で乳酸菌飲料を買って生徒会室へ逃げ込んだ。鍵は昼休み中に武藤から受け取っていた。生徒会室は俺にとって数少ない校内のオアシスだ。
他の生徒の喧騒や視線に晒されず、穏やかに過ごすことが許された聖域。安住の地。最終防衛ライン。
このオアシスに来期から出入りするであろう生徒会新役員とは、自分のためにも良好な関係を築く必要がある。ハナネさん……いや、飯山さんだったか。彼女はありがたいことにあのキャラを気に入ってくれたようだ。このまま役員になってくれれば、いろいろ問題ないだろう。
そのためにもこの依頼、確実に果たさねば。
気持ちを新たにいつもの席に座る。
静かな放課後だ。壁掛け時計の音だけがこの場に響く。
ちく、たく。ちく、たく。
煩わしく感じることもある時計の音だが、今日は不思議と嫌ではない。
「時計か……」
確かそんな曲があったな。
スマホで動画サイトのアプリを開き、検索。
ハイドンの交響曲第一〇一番『時計』。
「これだこれ。暇だし聴きながら待とうかな」
流れ出すシンフォニーは、時計の音をかき消した。
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