第一章 Gnomus
第1話 パッフェルベル/カノン
~大洋view~
タイヤがアスファルトを撫でるロードノイズ。
耳の横で生まれるカルマン渦がかき鳴らす風切り音。
遠くでこだまするクルマの走行音。
聞こえる音はシンプルな三重奏。
視界に映るのは、荒川河川敷の長い長い一本道と、清々しい青空と、
放課後、自転車で下校するこの小一時間は俺――
明日のことを考えてもよし。昨日のことを考えてもよし。今日のことを考えてもよし。何も考えなくたっていい。適度な運動こそストレスを解消し、身も心も健康にするのだ。
三重奏のうち、風切り音がボリュームダウンする。それは追い風が吹いた合図だ。その証拠にペダルが軽くなっている。
すかさずシフトレバーを押し込みギアチェンジすると第四の奏者が現れる。その奏者はカシャッと軽い金属音を奏でて、重いギアにチェーンが移動する。スピードが伸び、再び風切り音が演奏を再開する。
遠くからヴァイオリンの音が聞こえてくる。第五の奏者の登場だ。正真正銘の奏者はこのヴァイオリニストだけだが。
このヴァイオリンの音色は、先月ごろから河川敷の所どころで楽器練習をする人々の仲間入りを果たした新入りだ。この時間帯にいることが多い。河川敷では管楽器の練習をしている人は珍しくないが、ヴァイオリニストは見たことが無かったので印象に残っていた。
不意に、タイヤが鳴らすロードノイズが変化し、コン、コン、コン、と振動を感じた。
「ああ、これは……」
―――パンクだ。
空気の支えを失い大地に屈した車輪は、バルブの位置が地に着くたびに不快な振動を生み出しながら滑稽に回っている。
慎重に減速して、路肩の芝生に寄せ、停車。ロードノイズと風切り音が止まり、遠くのクルマの音も今は聞こえず、音源の至近まで来たことでよく聞こえるようになったヴァイオリンの音だけが残った。
さて、面倒だけど直しますかね。
面倒だ、面倒だとつぶやきながら替えのチューブを取り出していると、最後に残ったヴァイオリンの音も止み、一瞬、静寂が辺りを支配した。
顔を上げると、ヴァイオリンと弓を手に持った女性が遠くからこちらをじっと見ていた。練習の邪魔をしてしまっているのだろうか。
「邪魔してすまない。すぐ直すから、続けてもらって大丈夫だ」
その声が聞こえたのか聞こえてないのか、女性はトコトコとこちらへ歩いて来た。
近くで見ると小柄な少女だ。かなり年下だろうか。
「パンクしたんですか? すぐ直せるんですか?」
彼女のやや垂れ目な大きい瞳は、興味深そうに自転車へ向けられている。
「もちろん。パンク修理はサイクリストの必須技能だから」
自力でパンクぐらい直せなければ路頭に迷ってしまいかねない。
今回は修理と言っても、手っ取り早くチューブを取り替えるだけだが。
「へ~。なにかお手伝いできることありますか?」
「いや大丈夫。慣れない人が触ると手とか服が汚れるから近づかないほうがいいよ」
慣れてても汚れるが。
「なるほど……でしたらここで見ててもいいですか? こういう自転車、近くで見る機会って全然なくて」
ロードバイクなんて最近じゃ珍しくないと思っていたけど、女の子にとっては縁の無いものなのだろうか。
「なんか恥ずかしいけど、まあ好きに見ていって」
「ありがとうございます!」
興味津々な視線を感じながらも、ロードバイクをひっくり返して車輪を外し、タイヤからチューブを引っ張り出す。ひとつひとつの動作に「おー」とか「わぁ」とか小声の感嘆詞が聞こえてくるので、ちょっと照れくさい。
スペアの新品チューブを入れて車輪を付け直し、携帯ポンプを用意して彼女へ声をかける。
「あとは空気を入れれば終わりだよ」
「もう終わりなんですね。空気入れはどれくらいかかりますか?」
「数分かな。空気圧次第だけど」
高圧まで入れようとすれば小さな携帯ポンプでは時間がかかる。今回は家に帰れさえすればいいので、緩めの圧力でも構わないのだが。
「じゃあ、空気入れ終わるまで一曲演奏しますよ! いかがでしょう?」
「え? いいの?」
「もちろんです!」
そう言う彼女は満面の笑みでヴァイオリンの構えを取ってみせる。譜面は無い。暗譜してる曲だろう。
「せっかくだし、拝聴しようかな」
「では始めますね。あ、私の演奏はBGMぐらいの感じで、真剣に聴かなくても大丈夫ですからね。空気入れに集中してください」
お言葉に甘えてポンピングを始めさせてもらう。
シュコシュコと手を動かし始めたこちらを見て、彼女も演奏を始めた。
それは有名なクラシック音楽だった。
「パッフェルベルのカノン……」
誰もが聴いたことのある名曲だ。主旋律のコード進行はカノン進行と呼ばれ、邦楽でも多く応用されるほど心地よい響きを生み出している。
これを紡ぎ出す彼女の演奏もまた心地よいものだった。人の演奏の評価なんてできるほど殊勝な人間ではないが、少なくともミスは全くなく、ビブラートも手慣れたもののように見受けられた。
演奏の途中で空気は充分入れ終わっていたが、曲が終わるまで空気を入れるふりをして聴き入っていた。
「素敵な演奏だった。ブラボー」
「えへへ。ありがとうございます! 私の
「なるほど。素人の感想だけど、プロかと思った」
「ええー。私なんてまだまだですよー」
これが謙遜でないのであれば、演奏家の世界は狭き門なのだろうな。
「さて、パンクも直ったし、そろそろ行くかな。どうもありがとう」
「はい。ではお気をつけて」
ヴァイオリン少女に手を振られながらペダルを漕ぎだす。
「ああ、そうだ」
このまま立ち去るのも気が引けるのですぐに停車してメッセンジャーバッグを漁り、キーホルダーを取り出して投げ渡す。
「これは素敵な演奏へのチップ」
「わっ……とと」
彼女はキャッチに失敗して取り落としてしまったが、すぐに拾い上げようと屈む。
その様子だけ見届けて、俺は改めてペダルを踏み込みこの場を立ち去る。
「あ、ありがとうございます!」
遠く背後から聞こえてきた声に、片手を挙げて応えた。
**
「ただいま」
「おかえり。ちょっと遅かったな」
帰宅した俺を出迎えたのは
「帰りにパンクしてな」
「パンクかよ。画鋲でも踏んだか?」
あの河川敷は稀に悪意のある人間によって画鋲が撒かれていることがある。
「いや、軽くチェックしたけど変なのを踏んだ痕跡は無かった。たぶんチューブの劣化かな。パッチふたつも貼ってたやつだし」
「ふーん。俺にも外したチューブ見せて」
大河に旧品チューブを渡すと、軽く空気を入れて耳を当てる。
「あー、パッチのとこが劣化して漏れてるのかな。捨てるか」
「パンクが今日で良かったな」
「まったくだ。交換したチューブは新品?」
「もちろん」
「オーケー。じゃあ明日に備えて軽く整備しますかね」
大河はそう言ってチェーン洗浄に取り掛かる。明日、明後日は大河がこのロードバイクを駆ってレースに出るのだ。本番でパンクしてしまったらご破算だったので、結果オーライとも言える。
「あ、そうだ、大河。冬コミで作ってたアクキーまだある? もう一個欲しいんだけど」
彼女に渡したキーホルダーは、大河が昨冬の同人誌即売会で制作したオリジナルのアクリルキーホルダーだった。補充するには作者本人と交渉しなければならない。
「あるっちゃあるけど、どしたん? 失くしたの?」
「失くしたというか、あげたというか」
「あげた? 誰に」
「んー。パンク直してたら近づいてきた人」
「赤の他人かよ。手伝ってもらったわけ?」
「いや、なんかヴァイオリン弾いてくれてさ。上手かったからお礼にって」
「手伝いじゃないのかよ。しかもヴァイオリンって。珍しいな」
河川敷でサックスやトランペットを練習する人はわりと見かけるが、ヴァイオリンはなかなかお目にかかれない。そう言うのも頷ける。
「まあそういうことでさ、アクキーもう一個くれない?」
「いいよ。五百円」
「カネ取るのかよ!」
「当たり前だろ! あの一個は家族サービスでタダだけどそれ以上は有料だ」
「家族割とか無いの?」
「元々の頒布価格は千円だ。家族割適用済みだぞ」
「まあ五百円ぐらい払うけどさ。後で渡す」
「了解。……あっ」
「どうした?」
大河はポケットからスマホを取り出し何やらタップしている。
「夏コミの当落速報メールが来た」
「当落今日だったか。どう?」
「受かった」
「良かったじゃん。何作るの?」
「まだ決めてない」
「適当だなぁ……」
「まあ何かしら出すから」
「俺だってお前の絵は楽しみにしてるんだから、頑張ってくれよ」
「まあ、ほどほどに期待して」
昔はコミケとなったらあんなにも情熱を注いでいたのに、今じゃこの調子だ。とは言っても、コミケへ戻ってきただけマシになったほうではあるが……。
大河が昔のように絵に励むようになる日が戻ることが、果たしてこれからあるのだろうか。
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