幽牢ーかすかろうー

褥木 縁

【幽牢ーかすかろうー】

 一字千金・一字連城れんじょう


 なんて言葉があるけれど、私が知る限りこの言葉を綺麗にまとうことのできる人物は石出いしで幽、彼女をおいて他には居ないと思う。

 今、こうして読み手であり紡ぎ手である貴方を相手に独り言のようにつらつらと言葉を並べている私がこの物語の主人公なのだろう。まだ、今は。

 突然にそして唐突に始まったこの一人語りを語っている私はネットの隅で少しばかり名の聞くことができる程には認知が広まった事のある一物書きだ。


 そんなことより、どんなことより、石出幽。彼女の話をしよう。彼女の書く文字は、原文、白文はくぶんそして乱文ですらも綺麗で美麗、秀麗で秀逸と言っても差し支えが無い程に人を魅了した。


 強い女性という言葉がしっくりと来るほどに読者にも、編集者にも媚びず、周りに配慮こそすれど、遠慮はしないのが彼女の人柄だった。


 姿勢で見せるというよりは知識・知見・知性が人望と人徳を引き連れて歩く様な女性だった。

 そんな彼女はもう居ない。というより居なくなってしまったと言ったほうが酷く正しい。


 突如、打ち抜けにそして出し抜けに行方を眩ませた。元々必要以上の連絡を寄越さない彼女の失踪を私はテレビの報道で知ることになった。


 それから半年情報も、音沙汰も無くなった頃、私は全くの脈絡も無い書店の名前と其処に住む物語の文脈の中に彼女の名前を見ることとなった。


 ◯

 さぁ段落的にも、お気持ち的にも一段落をしたといったところなのだけれど語りのたすきはまだ私だ。

 先程も話したが私は、私も、物書きの端くれだ。ネタを探しに放浪することもある。といった次第で今から、これから本の虫が集まる本の街。大帝都にして大都市東京の中央にして中心、千代田区神田神保町かんだじんぼうちょうに今しがた付いた鉄の箱から降り立った所だ。

 此処、神保町。街の隅に佇む喫茶店の中にすらも本が顔を並べるほど本に生かされ、本と生きる街だ。

 並ぶ書店を彷徊ほうかいし、徘徊しているとビル上の電子パネルにノイズが走った。

 走るノイズは更にそして、いやが上にも酷くなり最後に電子パネルは黒に染まった。


 常識的にも常軌を逸しているのだけれど、周りは気にしていないと言うより気づいていないといった様子で人の流れを尚加速させる。

 そんな常人からすると異常とも呼べる違和感にためらい、そしてたじろいでいると、先の摩天楼の上の上。

 電気と電波を失った黒板が9つの赤い文字で形成された短文を浮かび上げる。

 その文字には見覚えがあった。”私は”。


 【座牢に微かな天命を】。

(ざろうにかすかなてんめいを)。


 その短い文字の羅列の意味を、意図を作家の私が理解するのは容易だった。


 タイトル。


 そう、その浮かび上がった文字は世に出るはずだった書籍のタイトルだ。

 この流れで察しのいい聞き手で読み手の一人である貴方は気づいたであろう。


 行方不明の作家。私の唯一無二の親友で、先程名が上がった石出幽。


 彼女が現世うつしよから消えなければ、もしくは幽り世かくりよに惹かれなければ、日の目を見るはずだった次回作のタイトルだった。その下に追記のように、追随のように初めて目にする書店の名前が書かれていた。


 「纏屋書店……。」

 

 読み方が合っているかは些かいささか不安だがこれでも語彙は豊富な方だと思う。にしても演出だろうか、縁故えんこでもあるのか妙に頭に残る店名だ。

 携帯で調べても出てこなかった。

 だけれど気になる。そう凄く。気になりすぎる。

 ここ、古い本屋がひしめき合い乱立するこの街ならもしや、よもや、もしかしたらあるのかもしれない。

 そんな微かな希望を胸にネタ探しなんて当初の目的から逸脱し頭の片隅にでさえ無くなって、【纏屋書店】を求め、探して回る。

 すると唐突に、突然に偶然を装うこともせず、さも必然といったように意識外から赤い鳥居が視界の端に現れた。

 今まで此処にあったと言わんばかりに、当然のようにさもありなんと言った様子で私の横にこじんまりとした神社が姿を見せた。


 酷く古びていて住職も見えない、御神体ですらあるかどうかも怪しくてあやしい。その両脇に、その両端に後ろへ続く石畳が続いていた。

 続く裏手が嫌に気になる。まるでこちらの気を惹く様に、袖を引くように、妖幻ようげんな雰囲気が私に纏わりつく。恐怖・怖気・恐懼が心を掴む。

 この神社と、この世界の裏に呼ばれる様に私の身体は、私の心と真逆に脚を進めていく。


 奥に見えたのは古民家のような小さい母屋だった。包む壁を作るのは木材・建材というよりはもはや廃材と言っても差し支えがない程に、いやその字のほうが酷く適切に思える程にさびすたれている。所々木板きいたに空く、裂け穴から漏れ出た闇が外光がいこうに焼かれ消えた。


 でも目を引いたのは、端ではなかった。


 正面。

 

 私からすると対面。両引きのガラス戸の斜め上から垂れ下がっている掛け軸に先程の電子を失った黒板に書いてあった未刊で未完のタイトルがえらく達筆な書体で書かれていた。


 「……座牢の幽に天命を……」

    “いらっしゃい”。

 

 そのタイトルを口に出したと同時。重なるように冷徹で透き通るような女性の声が直接、頭に流れてくるように言葉が聞こえ後ろを振り返る。だがもちろん誰も居ない。


 なんだったのだろう。心が尚の事、萎縮いしゅくする。固まる心と首を無理に動かして正面に顔を向ける。

 先程まで外の世界を受け入れないかのように固く閉じられていたガラス戸が開いている。

 光に蹴散けちらされ霧散した暗闇の中から中奥にある帳場へ続く石廊下が舌を出す。


 前言撤回。


 どちらかというと中の闇を外へ出さない様にしているようだ。なんにせよ、どちらにせよ不穏で不浄。その言葉が、いの一番にあてはまるだろう。

 その両端に四段の本棚が見えた。その本棚の中には綺麗に敷き詰められた、あらゆる色の巻物が鎮座、列座れつざしている。すべてくすんではいるのだけれど。まるでこの廊下を歩く人、そう私を見定め、値踏みしてやると言わんばかりの威圧感と違和感を漂わせ佇んでいた。

 

 「こ、こんにちは。」


 奥の帳場からさっきの冷たくも艶やかな女性の声が返ってくる。

 

「やぁ、ようこそ。纏屋書店へ。滅多に訪れない客人だ。」


「ありがとうございます。にしても珍しいですね。今のご時世に巻物だけの書店だなんて。書店というより文殿と言った方が近しい様な…。」


「ほう、文殿とは稀有な言い回しをする。凡そおおよそ当たりだ。」

 先の発言からして帳場に片膝を曲げて座っているあの人が、多分この書店の店主なのだろう。にしても偉く整った顔つきをしている。もはや造形は人形だ。

 人間味というものがまるで無い。そんな蠱惑的で魅惑的な店主を筆頭に周囲から意識外にいる"何か"に袖を引かれる様な不気味な空気が私に纏わり付く。あぁ、嫌な感覚だ。冷や汗が首をなぞり垂れていく。それを見たのか店主さんが声を掛けてくる。


「あまりいい顔はしていないようだが、君には此処の雰囲気は合わないようだ。すまないね。」


「いえ、職業柄文字と触れ合うことも多いもので、空気、空間はとても好きなのですがなんというか、文字に見られているようで文殿というより伏魔殿のようです。」

 

 発言したあとで言うのもおかしいのだけれど、勝手に訪れて伏魔殿という言い方も些か失礼な話だ。だがこれこそ、それこそが本音だ。


 それを聞いた店主は意外な反応を返してきた。普通なら、普段なら怒られても致し方ない言葉を向けたこの私に。

 ふふっと僅かわずかに片口を上げ、言葉を私にくれる。


「伏魔殿か。確かに、言い得て妙だ。君はふみの才と文彩があるようだね。君は勤め人には見えないが、何をしている人なのかな?まぁ私に教えてくれるのならだがね。」


 その笑いは不敵で不気味に私には見えた。教えてしまったらなにか、何故か、どうにかなってしまうかもしれないと殺伐とだけれど雑踏ざっとうな思考が巡る。その間に出来た沈黙は店主と私の関係をその距離で止めた。店主が一言私に告げる。不安を煽る笑顔を向けて。

 

「君は賢い。なんにせよここは書店と名乗ってはいるが売ったり貸したり、ましてや追体験をさせてやれるわけじゃ無いのさ。此処はね"物語"を紡ぐお店だ。」

 

 確かに物語は"紡ぎ語られる"のが本質として本懐ほんかいだろう事は誰が見ても周知の事実なのだけれど、この店主が言う意図は一般の常識を、認識をすべからく、どだい無視した上での。そう、ありきたりでありていな言葉で言う所の"特別"な意味合いで言っているのだろう。そう、きっと。


「なんにせよ、せっかく来てくれたんだ。ゆっくり見ていくと良い。君の疑問と欺瞞ぎまんを晴らすよすがたりえる"物語"があるのかもしれないからね。」


 そう言われ、周りを見渡してみる。やっぱりだ。見れば見るほど此処にある本、いや物語たちは生きている様な印象を受ける。私も色々と、様々な本と文字達と触れ合い読み漁っては来たがごく稀にあるんだ。言ってしまうとごくたまにしか無いんだ、こうゆう本達は。


 なのにも関わらずこの書店に置いてある、いや居座る物語達は総じて須く意志がある。その不気味で不思議な巻物語りまきものがたりに目を向けて回った。意外にあっさりと多分私が読むべき物語は見つかった。

 

「青白い…。」


 そう、ひしめき合う様に並ぶ書物の中に一際分かりやすいほどに、綺麗に青白く光を放つ巻物が左の棚の中央に鎮座している。気づくと私は手を伸ばし引き抜ぬいた。狼の様な蠱惑的な店主がそれを見て嬉しそうに漏らした呟きで我に帰る。


「うん、はやりその子を呼んだのは、いやその子に読んでほしかったのは君だったか。」


 何を言っているのだろう、なんと言った?

 いやいや、確かに物語に綴られている文面文脈にはそれなりに作者の想いが乗り、写りする事があるのは甚だはなはだ、概ね理解はできるのだけれど。さも、物語に意識・意図・意思がある様な、それこそ1人の人間に語りかけるみたく話すこの店主には尚のこと違和感が増す。

 にしても。

 「綺麗な色合いです。」

 しまった。思わず、想いに反して、いや想いに準じて声が出てしまった。


「そうだね。その色は白縹しろはなだと言う。平安の初期。宮殿の中で取り扱われていた染料の1つでね。」

 「白と水が綺麗に混ざったような色で、禁中きんちゅう、今で言えば皇居で行う儀式や祭事の方と法が記された文書・【参代格式】の1つ、延喜式に載っている格式もそして品としての品格も高い染色だ。白の色言葉は「真理」。青の色言葉は「知性」だ。それが混ざりあった高潔で浄潔で綺麗な色だ。君を呼んだその物語の様な。」



 うん、謝罪をしたい心が、心の底から溢れ出す。恐れ入った。割と知識も、知見も雑学としてそれなりに持っていると内心では自負していた私だけれど、自惚れだと知った。

 まさか此処まで博識だったとは。余程、どれ程に文字といや、さいと関わってきたのだろう、尊敬を超えて恐ろしい。色と学に圧倒されながら思うままに結び目を解く。

 さぁ、図々しくも仰々しい物語を今から巡ろう。


「いってらっしゃい。」




 ○

 事実は小説より奇なり。

 その言葉通りに、言葉の意味そのままに私に降りかかった奇妙で奇怪な出来事を振り返り綴りそして語ることにしよう。


 ◯

 突然に、唐突にいかにもありていでありきたりな告白なのだけれど私には俗な言い方をすると霊感があった。そう、昔から。正しく言うと私自身に、私自体に霊感と呼ばれる第六感なんていうたいそれた能力は無い。


 ただ、見えるというよりどちらかというと魅せられていたと言った方が酷く正しい。

 それがたたっていろんなモノが見えていた。魅せられた。人間以外のモノから。


 その昔、幼少時。私も可愛らしい幼女だった。お盆、彼岸や此岸しがんの時期が訪れる度、外内そとうち関係なく周囲に怯え、祖母に泣きついていた。そんな私の頭を撫で祖母は温かい笑顔を浮かべて同じ言葉を投げかけてきていた。

 

「幽はひいおじぃちゃんの面影が色濃いから良く好かれる様ですね。」


 祖母以外の大人からはいずれ見えなくなるよ、などの言葉を貰いそれを信じていたがそんなことは決してなく大人になった今の今まではっきりと、くっきりとしっかり見えていていなくなることなど無かった。


 それは救済の合図なのか禍福かふくの|きざしなのか。魅せてくるモノも、まちまちである。

 


 永遠にビルから飛び降り続ける女性。

 切り落とされるたびに生え変わる指を見て泣き叫び続ける幼女。

 マンホールから隙間なく出てうごめく青白い手。

 郵便ポストの投函穴とうかんあなからこちらを覗くうみに埋もれた目。

 


 もはや幽霊をも通り越し異形や、怪異と呼ばれるものさえも私の目は捉える様なった。

 それが功を奏したのか私の書く恐怖を題材としたホラー小説や怪異文庫はことごとくウケが良く、名が通るほどに有名になった。


 少しばかり名が通り始めた頃に日本の中心にして中央。東京に仕事の関係で住み始めた。都会の喧騒に混ざり、いやどちらかというと飲み込まれその異形や怪異、幽霊や心霊と呼ばれる類のモノたちは人間の濁流、生者の奔流に揉まれ流された様で見ることはなくなっていた。


 だけれど引っ越した先での生活の中。僅かに、微かに影を落とす出来事があった。

 夢。はっきり言ってしまえば悪夢だ。


 俯瞰ふかんから始まるその夢の中で私は私を見ることができた。そう見る事だけだ。黒漆の様な純黒じゅんこくの闇の中、目の前に格子を広げる牢屋の様な座敷牢の前に私はいた。


 見た事もないお爺さんの後ろに。所々赤く粘っこい液体に侵食され、赤錆に塗れた牢の扉が痛々しい悲鳴の様な金切音を上げ開く。牢の後ろに広がる真黒の下には違和感が混ざる、綺麗な白い花が咲き広がっていた。


 立つお爺さんに手を引かれ2人でゆっくりと座牢ざろうの中に歩いていく。見ている私自身が入っていく訳ではないのにも関わらず寒気が体を刺し、怖気おじけが内から溢れ出す。


 そうして扉が閉まり2人と姿が闇に覆われ見えなくなった時、耳元で声が聞こえ現実に飛び起きる。そんな悲惨で無惨な、不気味で不吉な夢を見る様になっていた。


 継続は力なり。この言葉が用いられる時と場合は大体が良い意味として励ましや鼓舞として使われることが多いが今の私にとってはまるで違う。全く持って真逆だ。


 継続は悪夢。力はむしばむ悪意。悪い夢でも一度や二度なら数知れず、いつ終わるともわからないまま毎日毎夜、毎晩魅せられていては、どんなに強く硬い鉄芯てつしんのような心でも削り折ってしまう。


「引っ越して来てからと言うもの夢が詳細にそして繊細さを増して来て厄介な事この上無いわね。」


 目覚めの悪さを取り払ってしまおうと珈琲を淹れて腰を下ろす。目が覚めて数時間、特に午前中、それこそ白露はくろかすむ早朝は頭が活性化して作業や仕事がはかどるなんて聞いたことはあるのだけれど、その恩恵を受けた試しがない。


「そもそも、初秋しょしゅうでもないしね。」


 言ってしまえばだがこの私。小説兼台本作家である石出幽が瞼を開けて、夢から覚めた今は早朝どころか夕刻なのだから活性化も、糞もあったものではない。



「まぁ、作家なんてこんなものよね。」


 実のところ執筆なんてものは時間が掛かりこそすれど時間に縛られることは殆どない。だから私みたく夕刻に起きて深夜を通り、朝まで筆を進め昼に寝るという様な生活パターンの活動家は意外にも多い。


 なんならその時間帯のルーティンをしている執筆家の方がデフォルトと言って良いほどだ。総じて私もだけれど類に漏れることもなく血色が悪い。


 ふける物思いに惹かれて深々と落ちつつ、いや堕ちつつあった心境と、心象にストップをかける様に珈琲が無くなった。


「さて、公園に行かないと。この時間帯なら程よく”居る”だろうから」

 

 つぶやきとともに眼鏡を目の上に置き、大きい灰色のダッフルコートを羽織り外に出た。外吹く風が黒く長い私の髪を撫でる。

 行くところは十思じゅっし公園。此処ここだ。


 最近はめっぽう足の向きはこの公園を向く。ただでさえ、普段でさえいらぬものが見えてはいるがこの公園に関しては別格だ。一言で簡単に言ってしまえば【不気味】。日が沈み掛けている今、黄昏たそがれと呼ばれるこの時間なら尚の事。深夜とは違った属性の恐怖を纏う。


 深夜、丑3つ時と呼ばれる時間帯に潜む恐怖は1つ1つが重く濃ゆい。それ故に人と怪異の境がはっきりとする。だからこそ関わってしまえば、覗いてしまえば戻れなくなるのだけれど。

 黄昏、別名宵の口よいのくちはそれと比べて質は軽くとも質が悪い。繋がりやすさが夜とは違う、それも向こうからの一方的というのだから厄介な厄害やくがいこの上ない。

 

 

 ベンチに腰を下ろして周囲を軽く見渡してみてもおどろおどろしい。


 地面に仰向あおむけに抑えられ、両目に無数の針を射し込まれ激痛に絶叫する者。

 股間を潰れるまで蹴られ血液混じりの泡を吐いて失神する者。

 生きたままお腹を開かれ苦痛と苦悶の中、朱殷に濡れた臓物を自分の手で引きちぎる者。


 恐怖に体は震えを覚えるが、同時に発想がとめどなく出てくるから小説家は、私は狂っている。

 まぁ業界自体が狂気と狂喜で構成されている世界なのだから致し方もないのだけれど。


 瞬間、そう一瞬ひとまばたきの間にその怪異にも似た幽霊達は一息に霧散した。言葉そのまま、言葉その通りに霧の様に細かい粒子になって散り散りになった。

 その時私に声がかかる。

 少し隣に座らせておくれ。そう優しくも妖艶で透き通る声が聞こえてきて、とっさにはいと返事をしてしまった。


 「おや、どうしたのかな?あまり息災には見えないけれど。」


 そこには毛先が銀に染まった綺麗な黒髪が頸を沿う様に垂れて、宛ら銀色の狼を思わせる妖艶で麗美な女性が銀の煙管から吸ったであろう煙を空に吐いていた。


「君はどこかで見覚えがあるのだけれど、どうだったかな。あぁ、そうだ。確か名が通った物書きだろう?名前は確か…。」


「石出です。石出幽と言う名前で書籍やら文庫を出させてもらってます。まさかお顔を覚えていただいているとは、光栄ですね。」

 まぁ、私もしがない古書店の店主をしている身だからね、と返され気になった。


「そうだったんですか。書店はなんてお名前でされているのですか?」

 そう純粋に聞くと店主をしているのだろう女性は薄い笑いを浮かべて纏屋書店と教えてくれた。


「此処の近くで細々とやっていてね。本を扱い関わる身としては君の名前は通り過ぎている程に知っている。特に怪異、妖怪。恐怖と恐懼を扱う奇譚が目を引く作家だね。」

 

 此処もそうだ。と石碑に目をやる。


「あそこに石碑があるだろう。そう小伝馬町牢屋敷こでんまちょうろうやしきの慰安碑だ。この牢屋敷の歴史は酷く歪でね。人間の負の遺産。そう拷問や尋問が過酷に過激に行われていてね。死に人が大勢出たんだよ。酷く凄惨だった。」


 不思議な話し方をする人だ。まるで、直に自分で見てきた様な口ぶりで。この土地は立地とはまた別で気と心が惹かれていたのは確かなのだけれど。


 だとすると”と話の内容は不気味に、不審にすり替わる。


「君からするとこの場所は、この土地は、忌み地だ。いや忌み地以上に相性が悪い様だ。視るモノを変えるとすれば良すぎるとも言えるのだけれどね。」


 どう言う事ですか?と私はその言葉に返す。


 「君の生い立ち。見えざる、知られざる家系の歴史を辿って、訪ねてみると良い。はからずも知ってるそして見知っている人が身近にいるだろうからね。」


 この纏屋と呼ばれる書店の店主はすべてを知っている様なそれでいて含みのある言葉を並べ伝えてくる。先ほどもそうだったがなんとなく他とは違う独特な言い回しを使う御仁ごじんのらしく、余程文字や書物に触れてきたのだろうことは同じ穴のむじなとして確信があった。


 「貴方には怖いほどの慧眼と神様にも似た慈眼じがんがあるようですね。貴方の事を、あなたの言葉を素直に聞いてみることにしましょう。不思議なお人です。」


 そして不気味だ。

 

 慈眼。本来は仏教、仏が慈悲慈愛を持って人々に向ける眼。けれどこの人に限っては仏と言っても一説の文献に出てくる妙見みょうけん様の様な人の生死を見聞し、扱い定める無常で残酷な眼と言ったほうが近しい。


 口角は上がるがその白銀の眼は笑っていない。そんな不気味な含み笑いを浮かべ、煙管から吸った甘い紫煙しえんを空に吹く。その煙に意識が向いた瞬刻その店主はもうこの公園には居なかった。



 ◯

 何んせよ切羽せっぱ詰まり、精神的にも肉体的、にもしんどさが限界を突破しそうになっていた為、気分転換も含めて遠い祖母の家を訪れた。


 大きい庭を囲む隙間なく詰められそして積まれている石垣をへだてるのは大きい漆が塗られた黒木くろきで作られた門扉もんぴ。扉を潜ると白い小石が敷き詰められた庭に所々大きな松が堂々たる姿で立ち上っている。


 晴れた日の光が跳ね返り白い庭は尚の事それこそ天国の様に光に白を織り混ぜ反射する。真っ直ぐに細い石畳が続きそびえる二階建て合掌造りの家屋が姿を現す。

 全体的に高床になっていて2つ階段の様につまれている沓脱くつぬぎが玄関の前に鎮座していた。圧巻にして圧倒、堂々たる我が実家だ。

 


「あら、幽。久しいですね。」


 そう語りかけてくるのは幼少の頃からしたい可愛がってもらっていた祖母その人だ。

 曲がった腰、細く白い髪を全て後ろで結い上げて綺麗に纏められている。肩にかかる緑が混ざる灰色の羽織が似合いすぎるほどに似合っていて江戸に生きていた人がそのままそっくり現代に移りきたかの様な違和感が仕事をする。


 くる前に連絡を入れていた為か15畳ほどの大きい畳間に一枚板で出来た座卓ざたくを挟んで中央に姿勢よく座っていた。


「ええ、久しいわ。婆様。」


 昔から察しも、器量も良い祖母の事だ。私が尋ねてきた理由もある程度は、いやあらかた予測予想しているのだろう。


「私の家系について教えてほしくてね。今まで特別で特異な体質だと思ってはいたのだけれど、特に気にしたこともなかった。でも最近。」


 変わった夢を見る様になった。それを口にしたのは祖母だった。


「な、なんで。」


 黒い座牢の中、白い無数の手に招き誘われ、白い老人に手を引かれ闇に進む夢。

「それを私も見たことがありました。その時から今のあなたと一緒。家系を疑い血筋を辿る事にしたのですよ。」


 そこからは因縁というかの話を聞いた。


 かつての祖母の高祖父こうそふ、私からすると七世しちせの祖父になるであろう石出吉深帯刀よしふかたてわきは私が住んでいる小伝馬町の牢屋敷で善意ある善行を行なった看守だった事。

 その大火から救われたのち穏和おんわな死を遂げていった囚人の霊達の思いが石出の家系に長らくの安寧安定そして繁栄授けてくれた事。


「それに加えて何世代かに一人、吉深の生まれ変わりとでも言うのか霊や怪異と呼ばれる類の異形に好かれ魅せられる人間が、生まれ落ちることがありました。」


 貴方も自覚自認はおありでしょう。そう語る祖母。


「ええ、婆様もそうだったのね。昔から親族親戚皆言っていたもの。私は婆様によく似ていると。」


 それを聞く祖母は嬉しそうに口角を上げたがその笑顔には不安が覗く。


「ですがそれは何世代にも受け継ぐたびに少しずつねじれ、歪み、犠牲を欲するようになったといいます。吉深を喰い、満たしていたものが無くなった今。それらは代わりに吉深の面影を写す者をそばに置こうと手を伸ばす。」

 

 私が見ていた黒に纏われた座牢の夢。あれが見えるということ自体が吉深の当て代わりあてがわり、そして成り変わった人物の証拠であり証明なのだという。


「ねぇ、幽。貴方があの土地に移り住むと知った時はなんの因縁か、どんな因果かと思い私も戸惑いを隠せませんでした。」


 祖母が話す血筋の呪い。


「ねぇ、婆様。その口ぶりからすると婆様も同じ夢を見ていた様で、ましてやその先に何があるのか、何が起こったのか知ってるふうに聞こえるわ。何があったの?」


「夢が幽世、現実が現世としましょう。夢をみる頻度が高くなっていってるのは貴方も、貴方が1番よくわかっているわよね。それがいつしか、ひっくり返る時が来る。その時現実になった夢に手を引かれて連れ去られる。」


 私にもそれが来た。そう言って肩を格段かくだんに落とす。そこで1つの疑問を口にした。

「なら、何故婆様は今生きて此処にいるの?」


 実に、はたから見たらこれほど残酷な質問を、ましてや孫から祖母に対してというこの対談は残忍と言ってもいい。だけれど私と祖母2人に取っては当然すぎるほどの疑問であってこの質問を受け止めないことこそが無惨に等しい。


「ええ、そうね。昔のよしみというのかね。どちらかというと祖父との馴染みの書店がありましてね。私が幼い頃で祖父のほうは老衰ろうすいが目に見える程の老体だった時に連れていかれた事がありました。その書店の店主に何の因縁か、因果か夢にうなされていた時。再会というか再来というかで顔合わせることがありましてね。その時に助けて貰ったのよ。呪言じゅごんに囲まれ呪禁じゅごんを扱う。そうゆう不気味で不思議なお人だったわ。」

 

 七世の祖父。吉深とその書店の店主の関わりは何だったの?

 小刻みに震える手を握り直し祖母は答えてくれた。


 「祖父はね、帯刀という看守としての顔とはまた別に詩人としての姿もあったの。今の貴方とそこも呪いのようによく似ているわね。文教ぶんきょう・文章も綺麗で華麗なものだっわ。」


 ただね。その後からしわが深くなり、顔が濁る。


 「妖怪や怪異に関してもよく調べたり興味を持っていたようでね。そのときに呼ばれ行き合った。それからの付き合いらしいのです。」


 そうか、祖母はその店主に助けてもらったのだと知り、その書店の名前を聞いた。なにぶん祖母の若い頃の話だ。その店主と呼ばれる人が生きているかも怪しいが、小さい書店なんて言うものはありていにして家族や家系で代々やっている所がほとんどだ。行ってみる価値はある。


 "纏屋書店"。


「婆様。私も最近同じ名前の本屋をしている人に出会ったわ。確かに不思議かどうかはわかりかねるけれど、さっせれる程度には不吉な人だったわ。綺麗な人ではあったけれど。あの話ぶりだと古い本いわゆる古書店をしているようだった。」


 滅多に焦りに顔を歪めない祖母に嫌な皺が深く刻み出る。少しの間が空いて、あまり深入りをしないようにとの前置きをして一言。


 「ならいずれ必ず行き着くはずだからそのときは、その一度だけは手を取りなさい。一度だけね。」


 そう告げてお茶をすする祖母の手の震えは増していた。


 ◯

 帰ってきた小伝馬町はただでさえ人の往来が少ないにも関わらず輪をかけて出歩く人が全く持って見えなくなっていた。まるで廃村と言っても差し支えないどちらかというと廃都はいとと言われても信じるほどに森閑しんかんとしていた。多分に原因があるのは蠢きが激しさを増していた十思公園だろう。


 苦しげに痛々しく体を捻る黒い影たちを他所にそんなことは気にも留まらない言わんばかりにベンチに1人座りこちらを見てくる赤髪の少女がいた。


 紅と言うより燻んで濁った赤、乾き固まった血のような嫌に黒々とした赤、朱殷と呼ばれる色の髪の毛がショートに切り揃えられ後ろ髪だけが腰まで長く風もないのになびいている。目があったその時。


「やぁ、お姉ちゃん。君みたいだ。」


 普通なら聞こえない程の距離だが声高で悪戯心の混ざる声が耳に入ってくる。少女が八重歯を出して笑ったのを見てこの声はきっとあの子なのだろうと何の根拠もない絶対的な自信だけの確信が私の背中を押した。


「物書きのお姉ちゃんが、主人の御客人だね。さぁ、着いてくるんだぜ。此処はお姉ちゃんには合わなすぎる。私は楽しそうだと思ったんだけれどね!」


 まぁ、いいさ!そう告げると私の手を引いて公園から引き離し、近くの裏路地に引っ張って行った。

 陽が傾き、茜が街を燃やす中。その路地裏は刺した光が伸びた影の中にあった。その暗い通路の更に暗いところに提灯ちょうちんが光っていて達筆な行書で纏屋書店の文字が浮かぶ。


「此処だぜ。おや、なんて顔をしているんだぜ?御客人。まるで初めて見た聞いたって感じの顔を浮かべるんだぜ、主人は御客人と一度相対したって言ってたんだ。そんな怖がる事もないんだぜ?あんたは…まだ此方こちら側じゃないからな!」


 そうやって開いた扉から漏れる闇に背を向けてあかく光る瞳と朱殷の髪を持つ少女が私にニカっとくしゃくしゃな笑顔を向ける。

 

 中は真ん中に伸びる廊下の先に9畳程の帳場が広がり4つ端と帳台ちょうだいに蝋燭の炎が揺れている。挟む本棚には巻物が綺麗に重なり連なっているが語りかけてくる文字や言葉は無い。


 "いらっしゃい"そう言われた瞬間、巻物達が一斉に色を帯びた気がした。それ度同時に私の身体は総毛立つ。そして、帳台に片膝を曲げ腰をえた白銀狼はくぎんろうを思わせる美人の後ろにドスが付く程に黒いもやが蠢き出ているのを私の目は見逃さなかった。


 煙の立つ煙管を横に置き、巻物をスルスルと解いて眺める姿は妖艶。耳をくすぐる声は蠱惑といわざる負えないほどに不気味を纏った綺麗さがあった。


 「やぁ君だったのか、石出の憑き子つきごつむぎさんは息災だったかな?」


 まさかこの若い店主から祖母の名前が出てくるとは思わなかったけれど気にしていられない。長居すればする程、すればするだけ外へ繋がる後ろの引き戸がゆっくり閉まっていく嫌な感覚があったからだ。話はなるべく短いほうが良い。


 「ええ、祖母。石出紬いしでつむぎからの言伝もありきで頼らせていただこうと訪れた次第です。」


 巻物から私に変わる店主の青が少し混ざる白銀の双眸そうぼう。恐怖と狂気なんて孕んでいないが気圧され後ずさりをする。


 「昔語った、私の物語の残穢ざんえがあるだろうから、其れを対価として使ってもらいなさい」と。


 それを聞いた店主はほう、と、どこか合点のいった様子でその願いを受け取った。

 「今日は帰るといい。ではまた宵の闇に。」


 家に帰り扉を閉めると恐怖から生まれ、切れた緊張の糸と自宅に帰った安心からか、疲労と過労が同時に体を襲い力が抜けた。なんとかベットまで向かい身体を埋めて数分後、意識は現実を離れ夢に沈んでいった。


 その夢はまた襲ってきた。黒い牢屋と手を取る老人。そして手招きする座牢の白い無数の手。けれど普段より偉く現実味がある。握られている感覚も嫌に肌を刺す冷たい空気も。何より俯瞰じゃなく一人称というからバツが悪い。


 一歩また一歩闇に待つ座牢へ老人に手を引かれ近づいていく。振り解こうと抵抗するも強く握りられることはないが振り解けない。まるで血肉に塗れた手錠のように抜け出せない。


 滴り落ちる冷や汗に、立つ鳥肌。掴まれた手は抵抗の末、甲の皮がめくれて白い脂が血に塗れて外を見る。

 痛い、離してと泣き叫ぶ声を皮切りに手招きしていた白い手が、小刻みに揺れ牢の錆鉄さびてつに当たり、まるでこちらを嘲笑うかのようにケタケタケタケタと音を鳴らす。


 ヒッ。と引きり途切れた私の漏れた声をきっかけに白い手達が一斉に飛び出て私の身体のあちこちを掴み、包み座牢へ力強く引き寄せた。


 触れた手に目をやると段々と傷跡がにじみ血を纏う。刀疵かたなきずから火傷、凍傷に打撲痕。内出血の跡が浮かび、溢れた黄色い膿が血と混ざりぼとりぼとりと落ちて骨が見えだす。


 私の目はそれと同時にそれぞれの傷を作った拷問の記憶が頭を掻き回し嘔吐する。朦朧とした意識に当てられ項垂うなだれた首と地面を見ることしかできない霞んだ視界。


 そのとき、地面に白い光を帯びた銀色の小さい花がポツポツと咲き広がった。

 その花は座牢の扉の下を埋め尽くしたと同時、ガラスの様に粉々に砕け散って細かな破片が青白い光を纏いながら扉の真ん中に集まって1つの巻物が出来上がった。


 その浮かんだ巻物に触れる手があった。


 線の細い綺麗な手。纏屋の店主その人だ。

 巻物を広げて、片手で吸っていた煙管から紫煙を吹く。


 すると、上から血の様な紅い雨が降り血に塗れたところから腐敗をして鉄牢は酸に当てられたかのように溶けてがたんがたんと崩れおち、白い腕は霧散してその空間の全てが巻物に吸い込まれた。


 手を引っ張っていたおじいさんの眼が黒に染まり原油のようなドロドロとした黒い体液を垂れ流し苦痛に歪む。握る力が強くなる。腕の関節がきしみ、激痛が襲った瞬刻。頭から吸い込まれて消えた。


 残っているのは奥に立って微笑んでる初老のお爺さん。分身で苦悩の化身ようだったもう一人と打って変わって温かい笑顔で私を見ていた。


 罅割れ、瓦解して崩壊する黒い世界の中。複数の痛々しい生首の髪を両手に掴み微笑むそのお爺さんこそが石出吉深その人だと直感的に認識する。


 当然見たことも、会ったこともない。知りもしなかった七世の祖父を前に何か決心がついたように、勝手に声が張り上がる。


「貴方の仍孫じょうそんが我。石出"幽"帯刀いしでかすかたてわき。意志継ぎ果たす。」


 それは自然と、ほぼ無意識的に出た言葉だった。言い放ってすぐ意識が闇に落ちる。最後に見たのは振り返り歩き出す吉深の背中だった。


  ◯

 

 痛みで目を覚まして最初に映ったのは真ん中に帳場がある広い畳間だった。4つ端と帳場に立つ蝋燭が火を照らし視界が鮮明になる。つまれた巻物、纏屋書店の奥間に寝ていたらしい。


「起きたようだね。よく耐えられたものだ。」


 その声は女店主のものだった、名前は…。なんだったか覚えていない。もしかしたら名乗ってもらってすらいないのかもしれないが…。


 この初夏の時期。震えているこの身体は決して寒さでは無いのだろう。腕や首に残る切り傷や裂傷の痕、青く鬱血うっけつしている太もも見るにあれは夢なんて生易しい類のものではないのだろうと自覚する。


 「妙に現実味がある悪夢でした。夢の中で貴方を見た気がして……。あれは、あれが、祖母が言っていた……。」


 「あれらは、此処。小伝馬町牢屋敷で凄惨な拷問を受け理不尽な扱いをされ死んでいったモノたちだ。吉深に救われたものもいたようだが、救われなかったものも当然居る。それらが歪み捻じれ助けを求めて吉深の面影を残す君に取り入ったという訳だ。」


 煙管を吸い紫煙を吹いて尚続く。


 「君の祖母。紬さんに至っても同じことが起きたのさ。少し前にね。あぁ人の感覚でいうと随分前になるんだったか。紬さんからはその時に物語を貰ったのさ。」


 「ちなみにだけれど、二人居ただろう?君の手を引いていたのは拷問で顔を潰された首無し囚人の一人だ。顔を無くされ、吉深を喰ったときに顔の皮を剥ぎ取ったのだろう。そして奥に佇んで居たのが本人だ。けれどあれは残像と言うか残穢というかそうゆうものだ。元はもう食べられてしまっているからね。」


 美しい女店主は楽しそうに微笑を浮かべ、喉がクックと音を上げる。


 「君が縛り、自分の物とした語りだ。物書きというべき行いだった。」


 その言葉の真意は知るところではないが、この人に救われたのは確からしい。


「え?あぁ……。なんにせよありがとうございます。助かりました。祖母の事も含め石出の者として頭が下がります。」


 「構わないよ。もう君はもう支払った。求むべくもない」



 ◯

 だいぶ読み耽って居たらしい。横から刺す陽の光も気がつくと随分傾き茜に染まっていた。それこそ血が撒かれていても気づかない、気づけない程に。そこに異様で異常に長く伸びた影が地に写る。鼻を擽る甘ったるくも苦々にがにがしい紫煙の香りが終わりを見ようとしていた幽語りかすかたからわたしを引き摺りあげる。


 なんとなしに呼んでいたこの物語の名に目を通す。


 ー座牢の幽に天命をざろうのかすかにてんめいをー。


 読んでいてまさかとは思っていたが名前も、名前から変わるとは…。

 そしてわたしの耳に、わたしの名を呼ぶ、わたしの探していた、わたしの知っている声が聞こえてくる。





「う、うつけ?。なぜ貴方が……。」

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幽牢ーかすかろうー 褥木 縁 @yosugatari

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