王国軍の進軍
侵攻を悟らせないようにと、王国軍の先発隊は大々的な閲兵などをすることなく、個個人が一週間程度の糧食を持ち、出発して行った。
王国軍の先発隊は今頃は新たにエンシナル侯爵領となった旧ヴァリラ連邦占領地の東端にたどり着いていることだろう。とはいえ、ヴァリラ連邦ではハビエル王国領になったことを認めていないので、新しい国境にエンシナル侯爵は急造の砦を作り、そちらに兵を籠めているので、そちらまで進軍するらしい。
その先発隊を含む、侵攻軍の為の糧食を輸送する輜重隊が、今は出発の準備をしている。この輜重隊が侵攻の成否を担うのだが、ヴァリラ連邦側にも危機感が募れば各公爵の私兵が集まっていることだろう。ただ、各公爵領の民は、他の公爵の民の動向など気にしているわけではなく、ヴァリラ連邦を団結の上護ろうとは考えていないようで、義勇兵という義憤にかられた民は皆無で、その点ではハビエル王国に有利と言える。
ハビエル国王は、進軍の準備を整えたと報告を受け、後発隊の進軍の許可を出した。出発を認める所にサインしたが、国王は今回の大がかりな規模になった侵攻が失敗できないと理解しており、ハビエル王国建国時以来の侵攻の成功を祈らずにはいられなかった。
沿道に詰めかけた王都民の内で、軍隊を見ていた子供たちが、その延々と続く荷馬車を数えることに飽き、ゆっくりと進む荷馬車の先頭を目指して笑いながら駆けていくのが傍目に見れば滑稽に見えた。あんなに笑えないはずだ。彼ら兵士は自国の民の金を使って手に入れた食べ物を手に戦場に行く。そしてその補給された食べ物で腹を満たした兵たちが対するヴァリラ連邦兵を殺しに行くというのに。
荒む心を隠し、国民から王城の魔女と呼ばれるようになったアストリットの侍女であるイレーネ・バイルシュミットは自分の主筋である斜め後ろに立つ、地味目な装いに身を包む王城の魔女の姿にちらと視線を走らせた。
アストリットは無表情で進んでいく荷馬車の列を見つめていた。
その姿にイレーネは前にアストリットが呟いた言葉を思い返していた。
『・・・ようやく納得してもらったけど、頑固で自分の意見が最強と思う人を説得するのは疲れるわねえ・・・』
イレーネはアストリットが自室の椅子に深く座り込みながらぼやくのを見ていた。
『アストリット様なら、お相手の貴族の心を操ることもできるのではありませんか?』
アストリットの様子に、イレーネがそう話しながら、目の前にお茶を準備する。
アストリットがそれを見、カップに手を伸ばしながらありがとうと礼を言った後、カップを取り上げた。
『・・・出来ないことはないのだけれどね、操るとねえ、執着されて追いかけまわされたり、顔を見ただけで嫌悪で顔色を変える人もいて、都合が悪いから操らない様にしているのよね』
操れるということに対して否定はせず、操った後の面倒な動きについてだけ、アストリットが言及する。
こくりっとお茶を口に含んで飲み込み、ほっと息をつくアストリットを眺めながら、イレーネはこの国に現れた魔女が戦をする国に味方することを意外に思っていた。
・・・私なら、このまま何もかも捨てて逃げるのだけれど、アストリット様はどうして逃げないのかしら。
そう考えていたイレーネが思わずアストリットに尋ねる。
『・・・アストリット様、どうしてここから逃げないのですか?』
その言葉にアストリットが椅子に座ったまま、傍らに立つイレーネを不思議そうな目で見上げた。
『・・・逃げるとは?』
『アストリット様は、戦があまりお好きな様子ではありませんでしょう?・・・なのに、陛下のお言葉のままに、国を守ろうと戦場に出て行かれます』
『・・・』
アストリットはイレーネを見上げるのを止め、頭を戻してから、カップのお茶をまた一口口に含んだ。口を挟もうとしないアストリットだが、続けなさいと言っているように感じ、イレーネはさらに言葉をつないだ。
『・・・戦では人同士が戦い、殺し合います。・・・私はその殺し合いが恐ろしく感じます。私なら、それに我慢できなくて、逃げてしまうでしょう・・・』
イレーネの言葉に、アストリットは口からカップを離して、テーブルに戻した。
クスリと笑うと、アストリットは口を開いた。
『・・・わたくしは逃げませんよ、準備がまだ終わっていない今はね』
『今は、というと、いつか逃げられると?』
『・・・そうね、いつかね・・・』
アストリットとのやり取りを思い出していたイレーネは、イレーネの影に隠れるように斜め後ろに控えめに立って輜重隊を見送っていたアストリットが、満足したように安堵の意を漏らすのを聞き、振り返る。
「アストリット様、気は晴れましたか?」
イレーネの問いにアストリットは延々と続く輜重の列にちらっと目を向けてから答える。
「・・・ええ。国王は約束を守ってくれたわね。・・・一万の兵が侵攻に三月の間掛かっても飢えることの無い糧食を準備してくれるという約束をね」
アストリットの答えに、イレーネが違和感を覚えた。
「・・・アストリット様はこの侵攻を成功させたいとお望みなのですか?」
イレーネの言葉に、アストリットは微かに面白がるような表情になった。
「・・・ふふ、わたくしはこの侵攻が成功しようとしまいとどちらでもよいのです。・・・ただ、この戦に注意を向けていてくれれば、ね」
アストリットの言葉に、イレーネは一瞬眉を寄せたが、王城の高級女官としての侍女の立場を思い出した。
「・・・左様でございましたか。・・・アストリット様が満足されたのであれば、もう戻りましょう、国王陛下が、魔女殿、魔女殿と騒ぎ出さないうちに」
「・・・あの人、うるさいのよね、いつも。・・・ここの王族は、騒ぐのが多くて、嫌になるわよね。・・・国王と言い、王太子と言い、あの王弟と言い・・・ね」
・・・王弟とは、どの王弟なのだろうか。
アストリットの言葉を聞いたイレーネは考えた。
・・・リナレス殿下のことだろうか?それともダリオ様のことだろうか。
そう考えたイレーネだったが、アストリットが眉を顰めた為、思い直した。
アストリットが踵を返したため、イレーネも後ろに従うつもりで、踵を返す。
ハビエル王国の王弟は全部で三人いる。強制的にアストリットの婚約者とさせられたリナレス・ハビエルと、貴族の家から嫁を娶って臣下の公爵になったダリオ・ハビエル新軍務大臣と、未だに国王の不幸時の継承者として婚期の遅れてしまったルシアノ・ハビエルのすぐ下の弟であるエメリコ・ハビエルという三人だ。そして、この王弟たちはいずれもアストリットが執着されているとこぼした者たちであり、そして嫌われていると言っていた者だった。
・・・いや、王弟全部かもしれない・・・。
アストリットの姿を追いかけまわすハビエル公爵の姿に対抗心を燃やした、継承順が王太子の下になり第二位となった為に、地位を何とか固めようとしている王弟エメリコもアストリットを追いかけるようになり、軍事について色々と議論を吹きかけるようになっている。アストリットはアカデミア・カルデイロではそれなりの才媛であったため、軍事についても相応の知識を持っており、それが王弟エメリコの負けず嫌いの性格によって言い負かす相手として選ばれたのだろう。とはいえ、付け焼刃の軍事知識しかない王弟では、アストリットの相手にもならないのだが、アストリットは時間をかけて実現できそうもない自説を力説する王弟の姿に面倒と感じて、さっさと切り上げるために、力説するその案を国王に伝えればどうでしょうと、笑顔で伝えて回避することにしている。
アストリットの苦労を知る専属の侍女であるイレーネは、王城の姿を見上げると、不敬だがアストリットを主筋として仕えている自分にもとばっちりが来ないようにと、王城に戻るアストリットの後ろに従いながら祈らざるを得なかった。
『・・・相手の一部だけが士気が高いか・・・』
『・・・そのようですな・・・』
『・・・絶好の機会だな・・・』
『・・・後の奴らは、明日は我が身だということに気が付かんようだ・・・』
『・・・仕方あるまい・・・昔の栄光がすべての古い慣習にとらわれた古い貴族どもだからな・・・』
ハビエル王国の軍の指揮官たちが陣地の兵舎の中で談笑している。
『・・・では、諸将よ、機は熟した・・・離間もうまく行った・・・総攻撃に移る・・・手筈通りに頼む・・・』
その言葉を聞き届け、兵舎近くの木の枝にとまった黒い影が羽根を拡げ、空に舞い上がる。バサバサと羽搏きながら、黒い影はこの戦場を見下ろすことに最適な高い木を目掛け、飛んで行った。
そして一万のハビエル王国軍と五千のヴァリラ連邦軍は激突した。
ハビエル王国軍は楽観しており、半数近くの兵を後方に残しての攻撃をしたのだが、ヴァリラ連邦軍の一部が文字通りの死兵と化して戦い、ハビエル王国軍を一度は押し返した。
ハビエル王国軍はヴァリラ連邦軍が押し返したのを見、楽観視はやめて、予備とした兵を投入して総力戦に移った。この総攻撃の前に、ヴァリラ連邦軍は敗退し、昔の栄光を享受していたヴァリラ連邦を構成する公爵家の一つは消滅し、その領地はハビエル王国に吸収されたのだった。
ただ、ハビエル王国も無傷ということはなく、一万の兵のうちの一割強が失われることになった。勝利に浮かれるハビエル王国だったが、ハビエル王国軍としては侵略を続けるのであれば、このような戦をこれからも行っていくのであれば、いずれ息切れするのではないかと思わせるような戦いだった。
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