5
夜になりチエロが出撃の準備をしていると、衝立の向こうからゴソゴソと物音がした。
(天飼が起きたのかしら)
チエロが少しそちらに意識を向けると、衝立の布の隙間から天飼が顔を出した。酷くやつれ、たった一日で白髪がとても増えたようである。
「体調はどう?」
「………………」
天飼は呆然としたように部屋を見回していた。そしてその空虚な瞳の焦点がチエロに合ったかと思うと———
「……茜鐘、か?」
「——————」
チエロは言葉を失った。
「茜鐘か。久しぶりだな。元気にしてたか。大きくなったな」
天飼はあらぬ世界を見ているような表情でチエロに近づいてきた。チエロは全身が総毛立つのを感じた。怖気により指先の温度が急速に奪われる。
天飼の首には鎖が巻かれている。あれはパスカルによって巻かれたものであり、やましい気持ちでチエロに近づくと鎖がキツく締められるという効果があった。
しかし今の天飼に対して鎖は反応していない。
天飼は自分に危害を加える気はないらしい。それを一先ずの安心材料とし、チエロはじっと動向を窺うことにした。
「茜鐘、また髪が伸びたんじゃないか。兄ちゃんが結ってやろうか」
今の天飼を下手に刺激すると何をしでかすか分からない。チエロは黙って後ろを向き、座った。
背後に天飼が座る気配がする。天飼は震える手で、チエロの桃色の長髪を三つ編みに結い始めた。
「久しいなぁ。こうして結うのも、ずいぶんやってなかったもんなぁ」
「………………」
チエロは逃げ出したくなる衝動を必死に抑え込んで座っていた。かつて自分に乱暴を働いた男がそこにいるからではない。全くもって狂ってしまった人間がそこにいるからだ。破綻した人間の狂気がこんなに恐ろしいものだとは思わなかった。
「学校は大丈夫か?」
「………………」
「そうかそうか。そういえば今朝、恐い夢を見たと言ってたな。大丈夫だ。夢の内容なんて、何日か経てば忘れてしまうもんだ」
「………………そうね」
「………………」
「………………」
「……守ってやれなくて、ごめんなぁ」
「………………」
「ごめんなぁ。兄ちゃんが弱いばっかりに。痛かっただろう。辛かっただろう」
「………………」
「ごめんなぁ。ごめんなぁ。ごめんなぁ。ごめんなぁ。ごめんなぁ。ごめんなぁ。ごめんなぁ。ごめんなぁ。ごめんなぁ。ごめんなぁ。ごめんなぁ。ごめんなぁ。ごめんなぁ。ごめんなぁ。ごめんなぁ。ごめんなぁ。ごめんなぁ。ごめんなぁ。ごめんなぁ。ごめんなぁ。ごめんなぁ。ごめんなぁ。ごめんなぁ。ごめんなぁ。ごめんなぁ。ごめんなぁ。ごめんなぁ」
天飼がチエロの背に寄りかかってくる。臀部の辺りに、熱くて硬いものが押し当てられる。鎖は反応しない。チエロは黙っていた。
熱いそれが、ドクドクと、じんわりと湿り気を帯びる。
(あぁ、茜鐘も、こうやって殺されたのね……)
天飼は呻きながら崩れ落ちた。部屋に臭いが充満する。チエロは立ち上がり、下手くそな三つ編みを撫でた。
「……パスカル」
『よく耐えた。英断だったと思う』
「……あんがと。さっさと今日の仕事に行くわ。座標を送ってちょうだい」
チエロは天飼を布団に寝かせると、夜の町に繰り出した。今日も悪魔を狩るのである。天界に戻るために。
腰の裏には未だに、不快な熱が存在感を放っているようだった。
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