第10話景勝の上洛
「それがしと同い年なのに政宗公は伊達家の当主として、内外の敵と戦っておられます。背負ったものの重さに押しつぶされないために闘っておられます。それに比べて自分は」
ふうう。大きなため息をつく信繁。
「自分の未熟さを痛感した旅でございました」
「人にはそれぞれ生まれ持った星がある。そなたにはそなたの星がある。焦らず、ご自分の道を進まればよい。そなたには、お父上というよいお手本もある」
天正十四年正月、春日山城への帰途を急ぐ兼続一行、兼続と信繁(幸村)が話し込んでいる。政宗公とのつなぎも付けたし、まずまずの旅じゃった。それに信繁(幸村)殿を知れたことも収穫じゃった。この男、若いが、なかなか考えが深いようじゃ。帰ったら早速に御実城様の近習に推挙しよう。きっと気に入られる。
春日山城に戻った兼続、さっそく景勝に報告する。
「ふむふむ、政宗公は心根のつかめぬところもあるが、蘆名に関しては協力の余地があるという感触じゃたということか、それでよい。あまり伊達に深入りすれば佐竹との関係もおかしくなるし、関白殿下の疑念を呼ぶことになる。そなたの弔問は公になることはないのじゃな」
「はい伊達の方も秘密にしておきたいようでございます。最上のこともありますし」
「よしよし、そなたに行ってもらってよかった」
「ところで真田の次男・信繁殿のことですが」
「おお、真田昌幸から信繁殿を関白殿下に出仕させたいとの願いが出ておるぞ」
なんと。
「御実城様の膝下で学ばせたいと考えておりましたが、真田には真田の存念があるのでしょうな」
真田は、上杉の与力ではなく関白殿下の直臣になりたいのじゃろう。安全保障を考えたら当然の願いじゃ。関白殿下の名前が出れば反対することはできぬ。
「信繁殿をお呼びして関白殿下の元に快くお送りいたしましょう」
「うむ」
「それがしは御実城様・御家老様の下で学びたいと考えておったので残念でございます」
「関白殿下は天下統一の総仕上げをされておられるところじゃ。関白殿下の下で学ぶことができるのは千載一遇の好機でござる。無駄にしてはなりませぬ」
「信繁殿、そなたの名前は武田典厩信繫様から頂いたものじゃろう。信玄公を助け忠節を全うしたお方じゃ。そなたも名前に負けぬよう研鑽するのじゃ」
珍しく景勝も餞の言葉を言う。
「ありがたいお言葉、胸に刻んでおきまする」
景勝・兼続主従に見送られ、真田信繁は慌ただしく大坂に旅立ってしまった。
天正十四(1586)年
一月 秀吉、上杉景勝に家康攻撃のための準備を命令(九日)
二月 秀吉、家康と和睦。朝日姫(秀吉妹)との婚姻を承諾
聚楽第の建設始まる
四月 大友宗麟、上洛し秀吉に臣従する
五月 朝日姫の花嫁行列、浜松城に到着(十四日)
六月 上杉景勝、上洛し秀吉に臣従する(十四日)
八月 九州征伐、毛利勢が九州に上陸
九月 秀吉、朝廷より豊臣の姓を賜る
滝川一益死去(62歳)
秀吉、徳川に上洛を要請する使者を送る(二六日)
十月 秀吉、大政所(秀吉母)を朝日姫を見舞うために岡崎城に到着(十八日)
家康、京に向かって出発
家康、大坂城で秀吉に謁見、臣従する
十一月 家康、岡崎城に戻る(十一日)大政所、大坂に向けて出発する(十二日)
十二月 豊後戸次川の戦い(十二日)
天正十四(1586)年正月、雪に埋もれた春日山城。
「関白殿下より、二月に徳川討伐に出陣する。上杉も参陣せよとの仰せじゃが」
景勝と兼続が相談している。
「織田信雄様が家康を説得しておるようですが、難航しておるようでございますな」
「戦には勝っておると考えておる家臣の反対を抑えて上洛するのは簡単ではあるまい。それに重臣石川数正を調略され信濃の大半が関白殿下側になった。家康も追い込まれておる状況で弱気を見せることはできないじゃろうな」
「そういえば、昨年十一月末の大地震(天正大地震)の被害は大変なもののようでございます。越中木舟城が倒壊して多数死傷したことは、すでにご報告しておりますが、近江長浜城・伊勢長島城・美濃大垣城なども大変な被害が出たようでございます。長浜城は関白殿下の旧領であり兵站基地、長島城は織田信雄様の本城、大垣城は兵糧を集積した前線基地、とても戦ができる状況ではございませぬ」
「関白殿下の苦境は家康も承知しておるじゃろう、どうなることやら。ともかく出陣の用意だけはしておかねばなるまい」
ところが二月になると、和睦がまとまったから討伐は中止されたと関白殿下の使者が到着した。引見する景勝、折悪しく与板城に戻っていた兼続も急遽春日山城に戻る。
「関白殿下の徳川懐柔策が明らかになったぞ。なんと、関白殿下は、ご自分の妹を徳川の嫁に差し出すそうじゃ」
なんと。
「関白殿下には妙齢の妹様がおられたのですか」
「いや四十を越えておるとのことじゃ」
「その妹様は結婚されておらなかったのですか。それとも旦那様が亡くなったのじゃろうか」
「いや生きておる。しかも仲睦まじい夫婦ということじゃ」
「その夫婦を別れさせ家康に差し出すということですか」
なんとまあ、そこまでするか。あまりのことに驚く兼続。石田が言っておったのは、このことか。
「実は落水で関白殿下と二人きりになったとき、それとなく聞かされておった。天下を静謐にし万民に安寧をもたらすことができるなら、何でもする覚悟じゃ。場合によっては妹を離縁させて家康に差し出す覚悟じゃと。しかし二人だけの秘密にしておいてくれと言われたので、そなたにも言うことができなんだ」
決まり悪そうに打ち明ける景勝。なんとお実城様は律義者じゃ。関白殿下は、それがしに伝わることは計算済みじゃったと思うが、ちょっと苦笑する兼続。
そういえば御実城様は、落水会見から秀吉公のこと関白殿下と尊称をつけて呼ばれるようになっておられる。御心に変化があったようじゃな。
景勝の前を下がりお船に会いさっそく相談する。
「納得できますか」
「ふむ、例えれば、わらわがそなたと別れ新発田重家のところに嫁するようなことかのう」
少し考えるお船。
「しかし政略結婚とは押しなべてそういうものじゃ。考えてもみよ、わらわも信綱殿が不慮の死を遂げられてすぐに、そなたを婿に取らねばならなんだ。わらわは家老の娘に生まれ、幼き頃よりよき思いをしてきた。ゆえに自分の意に沿わぬことでも受け入れねばならぬと思い定めてきた。それが武家の娘というものじゃ」
“意に沿わぬ”“婿取り”話が危ない方向に向かいそうになったので慌てる兼続。
「おお、そういえばお土産がござる」
「おお、これは岩魚ではないか。好物じゃ」
ほっとする兼続。
「しかし関白殿下の妹様は武家の出ではない。故に大変つらい思いをしておられるのではないじゃろうか」
そうじゃな、関白殿下のご家族は地下の出身。われらと違って素直なお方たちじゃろうな。権謀術数の世界のなかに放り込まれて、さぞ難儀しておるじゃろう。
「それにしても家康は受けるかな。今川の人質時代、今川一門の関口の姫を押しつけられて、その権高さに大変苦労され夫婦仲も悪く、それが結局信康事件に行きついたと聞いておるが」
お船殿は徳川家康のこと調べ上げておるようじゃね。
「これは人質のようなものじゃから、呉れるといえば断る理由はありますまい」
兼続、冷たく計算して言う。お船は兼続の方に向き直り
「そなたは、ほんに最近腹黒くなっておるようじゃ。謙信公の薫陶を受けた身であることを忘るるでないぞ」と説教を始める。
「そういえば石田殿より書状が届いておるぞ。一応先に読んでおいたが、徳川より先に上洛せよということじゃ」
「しかし徳川は臣従するそぶりも見せてないのに気が早いのではございませぬか」
「分かっておるくせに聞くな。いつもの手じゃ。徳川をだしにして、われらの上洛を急かせる。そして、それを徳川に見せつけて焦らせるのじゃろう」
石田というより関白殿下のいつもの遣り口じゃ。どちらでもよいぞ、といいながら相手を追い込んでいく遣り口じゃ。少し恐ろしいな。
翌日、さっそく景勝と打ち合わせする。
「人数はどのくらいにする」
「謙信公が二度目の上洛をされた時は五千の兵を率いていかれました。新発田へのおさえ、徳川へのおさえ、向こうの受け入れ態勢などを勘案せねばなりませぬが、できるだけ多くの兵を率いて上洛し、上方の者どもに変わらぬ上杉の武威をみせつけねばなりますまい」
「まったくその通りじゃ。田植えが終ればすぐに上洛せねばならぬじゃろうな。誰を連れて行くかの人選も含めて、そなたに一任する」
「ははっー」
春日山城直江屋敷、兼続とお船で相談している。
「京都駐在の外交方も選任せねば、心利きたるものを選ばねばなりますまい」
「千坂殿がよいのではないか」
「千坂景親殿でござるか。千坂殿は謙信公以来の重臣、人柄も練れておりますし、よきお考えかと思われます」
「なにか屈託があるようじゃな」
「気になっておるのは上条宜順様のことでございます」
「何やら不穏な動きでもあるのか」
「石田の引き抜き工作が進行中でございます」
まったく石田の奴、それがしのために好意でやっておるつもりじゃから、まことに始末に負えぬ。どうも関白殿下もそうじゃが、うちうちまで口出ししてくるつもりのようじゃ。一挙手一投足、いちいち伺いを立てねばならぬのか。嫌な世の中になりそうじゃ。
「昨年、織田信雄様が大坂を訪問、その後上洛されておる。先例として参考になるのではないか。さっそく調べさせようぞ」
それにしても織田信雄というお方、佐々攻めの先鋒にされたり、徳川との和睦の仲介をしたり、思い切り利用されておるが屈託はないのじゃろうか。
初春の春日山城。
「上条宜順様、逐電された模様」
朝早く、まだ寝ていた直江夫妻に細作の報告が入る。やはり出奔したか。細作を張り付けておいて正解じゃった。
「行方を追っておるのか」
「はっ」
「傷つけたり妨害してはならぬぞ。かりにも御実城様の義理の弟じゃ。行先を突き止めればそれでよい」
石田もよう働いておる。どうせ上条様も上手いこと言われて、その気になったのじゃろうが憐れじゃ。
「御実城様にもお知らせするのじゃ。それがしもすぐに参上するとお伝えせよ」
隣で聞いていたお船に
「いずれ出奔されるとは思うておりましたが、なぜこの機会なのでしょう。しかし二階に上がって梯子を外されることも知らず憐れですな」
と言うと
「そなた、最近腹黒くなっておるが自分のこととなると、よく話が見えておらぬようじゃな。これは関白殿下のいつもの手じゃ」
いつもの手、どちらでもよいぞという話なのか。
「おそらく上条様は関白殿下のところに行って、そなたのことを君側の奸であると、あることないこと讒言するであろうよ。さすれば上洛した折、そなたに詰め腹でも切らせて上条様が大威張りで帰参する、そういう段取りじゃろう。あるいは御実城様を隠居させて、大坂に証人として出しておる上条様の御子を次期当主にし上条様が後見するという話になっておるやもしれぬ」
「しかし、これは石田の調略でございますよ。石田は、それがしと上条様の関係が悪いことを承知しております。それがしがやりやすいように上条様を調略してやると、以前言うておりました」
「まだ、いつもの手ということの中味が分かっておらぬのか。そなたが上洛して、関白殿下の意に沿わぬ者であると見切られたら、上条様の讒言が真実に変わるということじゃ。わかったか」
おお、やっと分かった。
「つまり関白殿下は、それがしが執政する体制でも上条様が後見する体制でも、どちらでもよいぞということですか」
「そうじゃ、佐々とわれら、新発田とわれら、徳川とわれら、いつでもどちらでもよい、そなたらの気持ち次第じゃ、というのが関白殿下の手じゃ。関白殿下はなかなか恐ろしい男じゃ」
たしかに。
「上条様が甘言慫慂されて出奔したのは間違いないが、完全に騙されたかどうかは、これからのそなたの行動次第じゃ。ことによったら、本当に詰め腹を切る羽目になるやもしれぬぞ。家政不行き届きとか、なんとか理由つけられて」
なんという悪辣さ。石田に感謝しておる場合じゃないぞ。
「それがしは内心、石田に感謝しておりました」
「そなたは阿呆じゃ。もっと裏を読まなければならぬぞ。関白殿下や石田殿は緻密な計算をして物事を進めておる。これと対等に渡り合うことができなければ、上杉の安泰も、そなたの命もないぞ。本当に分かっておるのか。こたびの上洛は物見遊山ではない。われらにとって川中島以上の難しき戦じゃ」
朝一番に大説教をくらう兼続。
「深読みでしょうか」
兼続、景勝にお船の洞察を話す。
「いや、そうとも言えぬぞ。妹は残ったようじゃが、上条は領地も家臣も捨てて出奔したのじゃから、よほどの成算があると思い込んでおるようじゃ。石田あたりに相当うまいこと言われておるのに相違ない。そなたに詰め腹を切らせ、わしを隠居に追い込むくらいのことを言うておるやも知れぬのう」
なんと切腹の作法を調べておかねばならぬやもしれぬ。
「しかし心配いたすな。あくまで万が一の場合じゃ。わしは関白殿下の天下統一事業に誠心誠意協力する決心をしたからこそ上洛を決意したのじゃ。関白殿下の意に沿わぬことなどをする気はない。関白殿下も天下統一を急いでおられるこの時期に、わざわざ波乱を起こすようなことはされまい」
ふうむ。
「こたびの上条の出奔は、あくまで万が一の場合に備えての布石と見るべきじゃろう。そして、われらに対する牽制じゃな。われらは知らぬ振りをして予定通り上洛すればよいのじゃ」
御実城様は冷静じゃな。
「それにしても、お船は、そなたのことを本当に愛しておるのじゃな。ほんに得難い女性じゃ」
御実城様、それは少し違うと思います。心の中で呟く兼続。
上洛の準備を急がねばならぬ。石田と打ち合わせをせねばならぬのう。
石田よりの使者が引きも切らずに来る。
関白殿下の妹様の徳川への輿入れが四月に決まったとのこと。
関白殿下と徳川の和睦交渉が急に進展しているようじゃ。
ふむふむ、われらを接待するため雨田利家殿が帰国された由。
石田も、われらの上洛を重視しておるようじゃ。
しかし油断も隙もない。戦仕立てで準備せねばなるまい。
上洛軍の編成、残しておく家臣たちへの配慮、事務仕事に忙殺される兼続。
そこに菊姫のお使いが来る。なんじゃ、急いで御前にまかり出ると
「お子のことは心配に及ばぬ。わらわが責任を持って、お守りするゆえに」
御台所様、何の話ですか。さっぱりわからない、お船殿に尋ねよう。
お船の部屋に行くと、お船は自分用の鎧兜を出して侍女に手入れさせている。
「なんですか」
「わらわも上洛のお供をすることになったぞ。えへん、えへん直江景船じゃ」
「お松のことは」
「わらわも後ろ髪引かれる思いじゃが、御台所様に面倒を見ていただくようにお願いした」
聞いたことないぞ。家臣の子どもを主君が面倒見るなんて、あべこべじゃ。
「御実城様に言われたのじゃ。与六を助けてやれと。それに」
お船の眼がキラリと光る。
「そなたには前科がある。そなたをひとり京の都にやることは、鰹節だらけの庫裏に猫を入れるようなものじゃ」
なんと。
「お船殿、こたびの上洛は、以前言われたように難しき戦のようなものでござる。それがしに浮気する暇も余裕もござらぬ」
「冗談じゃ。しかし上条様のお子が人質の意味をなさなくなったので御台所様が人質として上洛せねばならなくなるのは火を見るより明らかじゃ。わらわは、その準備のためにも行くのじゃ」
どうだ文句あるか、勝ち誇るお船。
一度でいいから言い負かしたいと思う兼続である。
天正十四年五月、上杉勢四千が春日山城を出立する。
越中に入ると、そこには石田が待っていた。
「こたびの上洛、関白殿下もことのほかお喜びで、それがしに迎えにあがるようにとお指図がありました。沿道の大名たちにも、心を込めて接待せよとのご命令が出ております」
ふん白々しい。しかし調略も接待も一切手抜きはないということか。石田が続ける。
「前田殿は、わざわざ帰国され接待の準備をされておるとのこと。くれぐれも、よしなにとの伝言を預かっております」
「何もかも行き届いたご配慮、痛み入ります」
上条宜順、能登におるようじゃが、聞くのも面倒じゃ。石田が白状するまで、こちらから聞かないようにしよう。
「ところで関白殿下の御様子は如何じゃ」
景勝が石田に聞く。
「薩摩の島津が勢いを増し、九州全体を席巻する形勢となっております。豊後の大友宗麟が先日大阪まで救援要請に来られる程に。すでに黒田殿を先行させ、毛利と四国勢を派遣する準備をしておるのじゃが、徳川との和睦交渉が進捗しないので関白殿下は焦れています」
石田にしては真顔で話す。
「それゆえこの時期に上杉殿が上洛して下さることは、徳川に対する何ものにも代えがたい示威行為になりますので、関白殿下始めわれら一同心から感謝しております」
石田は、こういう挨拶が本当にうまい。
「ところで前田殿とは、どのようなお方であられるのか」
道中も情報収集に余念のない兼続である。
「前田殿は関白殿下にとって古い朋輩であり無二の友と言っても過言でないお方でござます。元は尾張荒子城主の次男に生まれ、総見院様(信長)の馬廻りとして勇名を馳せたお方です。槍を持たせれば天下無双で、名のある武者の首を幾つも取り、総見院様に大変愛されたお方であります」
ふむむ、柴田勝家の与力として、われらと戦っておったことが遠い昔のように思えるのう。
「前田殿の武勇伝、ご存知ならば教えて下され」
上杉勢が道中休息している間、景勝の意を体して石田に頼んでみる。御実城様は前のめりで話を聞こうとしている。
「それがしも若年ゆえ詳しいことは存ぜぬが、桶狭間の戦い、美濃攻めなどで名のある武者の首を幾つも取っておられる。首取り足立とか、ものすごい大男の豪傑だったらしい。もっとも前田殿自体六尺を超える大男じゃが」
「なんといっても有名なのは元亀元年九月の春日井堤の戦いの活躍じゃろうな。石山合戦の緒戦じゃ。総見院様が三好討伐のため、石山本願寺近くの摂津野田・福島城近くまで陣を進めたところ、本願寺から一揆勢が繰り出して戦う態勢をとったそうじゃ。しかし相手は百姓・女子供も混ざっておる。何事かあらんと、織田勢が先を争って攻めかかったところ、じつはそれは擬態で雑賀鉄砲隊三千が射線を敷いて待ち構えておったのじゃ。雑賀鉄砲隊は日本最強の鉄砲隊じゃ。正確無比な射撃で織田勢の名のある武者がばたばたと倒された」
「総見院様も鉄砲隊を繰り出して反撃しようとしたのじゃが相手が一枚上で、鉄砲隊の指揮官だった佐々成政が負傷して後送される始末じゃ。織田の陣が乱れたところを見計らって万余の一揆勢が突撃してきた。絶体絶命じゃ。総見院様も、やむなく撤退を命じたのじゃが、それさえままならぬ形勢じゃ。雑賀鉄砲隊の弾幕に騎乗の士分が被弾して戦死するものじゃから指図する者がおらん、指揮系統も滅茶苦茶じゃ。全軍潰滅の危機となった」
「その時じゃ、前田殿がわずかな手兵を率いて万余の一揆勢に突っ込んだのは。まさに万夫不当の勇士というべき活躍じゃ。たった独りで長柄の槍を振り回して一揆勢の突撃を食い止めたのじゃ。それに勇気づけられた他の武者たちも反撃に転じ、織田勢は潰滅の危機から救われ無事退却することができた。総見院様も又左(前田利家)の槍は日本一じゃとお褒めになったと聞き及んでおる」
なんと、流石信長に寵愛されておっただけのことはあるな。
「総見院様は万事厳しきお方じゃ。へつらうだけでは信頼を得ることは出来ぬ。引いてはならぬ時は、どんなに恐ろしくても引いてはならぬのじゃ。前田殿は本物の武人じゃ。ゆえに織田家中でも、みなに好かれておった。今でもそうじゃ」
石田、素晴らしい武勇伝を話す。景勝の顔を見ると感動しているようだ。よかった。
前田殿は越中・能登・加賀の太守。隣国同士仲良くしていただかねばならぬ。
御実城様が前田殿に好印象を持たれたのは収穫じゃ。
上杉勢が金沢に近づくと前田の重臣が迎えに来た。それを見た石田、突然
「それがし能登に用事があるので少しの間失礼する。すぐに合流するつもりじゃ。景勝公にお伝えあれ」と言う。
上条宜順様に会うつもりじゃな。
一体何を考えておるのやら。われらが上条様が能登におることは掴んでおることは知っておるはずなのに。どうも石田の心が読めぬ。そうじゃ、お船殿に聞いてみよう。
お船殿は「直江景船じゃ」というて強引に与板衆の指揮官になっておるが、わがまま言って皆を困らせておるのではないかのう。与板の者どもは、お船殿に甘いからのう。急に心配になった兼続、使い番を呼ぶ。
「直江景船殿を本陣にお呼びせよ」
「えっ、どなたですか」
うむむ。
「与板衆の陣に行けば分かる」
「そんなお方は存じませぬが」
本当に勘弁してほしい。冷や汗が出る兼続。お船がやって来る。
「何事じゃ。思ったより鎧というものは重いのう。それに馬に乗っているだけで退屈じゃ。鉄砲を撃ちたい」
金沢城目前の、この場所で鉄砲撃つと戦になりますよ。
「では与板衆の指揮は志駄義秀に任せて、お船殿はそれがしの幕僚として本陣に詰めて下され」
「お船ではない。直江景船じゃ」
はいはい。それ、妙に気に入っていますね。
「わらわは、そなたの軍師じゃから、それでもよいぞ」
これ以上、勝手なことされてはたまらぬ。そばにおいて監視せねば。
「ところで石田のやつ、能登に行くと別行動をとりました。上条様を受け入れるためじゃと思いますが石田の本心は那辺にあると思われますか」
「本心と言うても流動的なものじゃろう。われらの行動次第で変わるものではないか。あまり気にするでない。御実城様は誠心誠意、関白殿下に協力するお気持ちになったから上洛を決意されたのじゃろう。そなたも、この間そう言っておったのではないか」
そうじゃ切腹せねばならぬと脅かされて神経過敏になっておるのじゃろうか。まだまだ修養が足りぬようじゃな、密かに自分のことを恥じ入る兼続。
「そういえば前田殿の奥方様は金沢におられるのじゃろうか。御挨拶したいものじゃ」
ほほう「内助の功というやつですね」
「内助の功は家の中でやるものではないか。世間に知られず夫を陰で支えることじゃろう。そなた使い方間違っておるぞ」
内助の功とか、やる気全くないですよね。
「もし奥方様がおられるならば、ご挨拶できるように御実城様にお願いいたそう」
確かに御台所様の上洛(と人質生活)のことを考えれば、豊臣政権の実力者前田殿の奥方様と仲良くさせていただくことは必要条件じゃな。
上杉勢が金沢城に到着する。前田利家が城門の外まで直々に出迎えてくれている。
「これはこれは、わざわざのお出迎え痛み入ります」
恐縮する上杉景勝を城中にいざなう前田利家。すでに酒宴の用意ができている。
「上杉殿には佐々討伐のとき本当に世話になったのう。それに、われらが越中の過半、四郡のうち三郡を頂いたので、ただ働きさせたようで申し訳なく思っておる。
われらは隣同士じゃ。これからも仲良くやっていきましょうぞ」
なんか無骨な頑固者を想像しておったが、長身で端正な美男子で、いやに愛想のよいお方じゃな。ちょっとびっくりしたぞ。
天文七(1539)年生れの前田利家は、この年四七歳。この年の九月、羽柴筑前守秀吉は朝廷より豊臣姓を賜るがその際、羽柴筑前守の称号を前田利家に譲ることになる。それほど秀吉から信頼されていた人物である。
前田家と上杉家、数年前まで殺し合っていた両家の重臣による酒宴も時が過ぎ座が乱れてくる。
利家が内輪の話をしたいと、景勝と兼続を茶室にいざなう。
「茶室と言えば、面白い話がある。去年の暮毛利一門の小早川隆景(元就三男)殿と吉川元長(元就次男・元春の長男)殿が関白殿下にお礼をするため大坂に来られたことがあった。小早川殿は四国征討で大功をあげ伊予一国を賜ったそのお礼じゃな」
利家が主人役となり、二人にお茶を振舞う。
「茶の湯というものが上方の社交の中心となっておる。そなたたちも慣れねばならぬぞ」茶を喫する主従を見ながら、話の続きを思い出した利家。
「関白殿下はたいそうお喜びになり二人を歓待し面白い茶室を見せてやると案内しようとしたところ二人の顔色が変わった。どうも様子が変なので、よくよく聞いてみると二人は仕物(暗殺)にかけられると思い込んでいおったようじゃ。後で関白殿下が大笑いして、わしに話して下された。毛利は西国の要、四国征討でも働いてもろうたし、九州征討でも働いてもらわねばならぬのに、なんで仕物にかけるはずがあろうか。小早川ほどの男でも疑心暗鬼になることがあるのじゃな、と」
兼続、まるで自分の心の中を言い当てられたような話で驚く。
「しかしわしは、その話を聞いて心の底からは笑えなかった。わしにも同じような経験がある。賤ケ岳の後、わしは許され本領を安堵されたばかりか加賀の二郡も加増して頂いた。そのお礼のため大坂に出向くとき、わしは恐ろしかった。神社に無事を願う願文を出したほどじゃ」
大笑いする利家。追従笑いがひきつる景勝と兼続。
「前田殿は関白殿下の古き朋輩。そして賤ケ岳の戦いにおける関白殿下勝利の立役者ではありませぬか。なぜ恐怖を感じたのですか」
兼続が質問を続ける。
「総見院様が晩年、北陸の国人領主を安土に呼び出して片っ端から仕物にかけておられたのを見ておったせいですか」
前田殿は親切なお方じゃな。われらに何か教えて下されようとしておる。
「うむむ、上様(信長)の粛清は手あたり次第じゃったからのう。しかし、わしがなぜ恐怖を感じたのか、いちばんの原因はわし自身が変わってしまったからじゃ」
どういう意味じゃろう。
「関白殿下は慈悲の心を持ったお方じゃ。ある意味、上様より大きな度量をもっておられる。めったやたらに人を殺すお方ではない。それにわしは昔から関白殿下と親しくさせていただいておる。清洲でも安土でも隣近所じゃった。その上、わしの四女豪は関白殿下の養女になっておる。関白殿下と北政所様の間には、お子がなかなか産まれないので、是非下されと何度も頼むものじゃから、しぶしぶ承知した。あの夫婦はおまつ(利家夫人)の出産に立ち会って産まれた赤子を拉致していった。そして実の娘のようにかわいがって下さっておる」
これほど深いつながりのある前田殿が、なぜ恐怖を感じたのじゃろう。前田殿が変わったとは、どういうことなのじゃろう。
おお、お船殿のこと頼んでみよう。
「いずれ、われらも人質を上方に送らねばならぬと考えております。その準備のため、こたびの上洛には、それがしの妻が同行しており、おまつ様にご挨拶申し上げたいと申しております。お許しいただけますでしょうか」
「おお、それはよい考えじゃ。女同士の話もあろう。さっそく、おまつに申しつけよう」
すらすら事が運ぶ。景勝の顔を見ると大きくうなずいている。
「万余の一揆勢にひとりで立ち向かっていく勇気のある前田殿がなぜ恐怖を感じるようになったのですか」
珍しく景勝が直接尋ねる。
「おお、その話の途中じゃったのう。わしは変わってしもうたのじゃ。わしは若い頃は本当に手のつけられない暴れ者で自分でいうのもなんじゃが命知らずじゃった。上様の前で上様の寵愛する、なんとかという坊主を斬り殺したことがある」
なんと、よく命がありましたね。
「わしが大切にしておった笄が盗まれた。上様のお側に仕えるなんとかという坊主の仕業じゃ。わしが上様に訴えたら上様は
少し間を置き茶を啜る利家。
「又左、そこで待っておれ、成敗してつかわす。上様は叫びながら刀を抜き、わしに迫ってきた。寵臣を目の前で殺された信長公は、自分への面当てと思われ激怒されたのじゃな。わしは覚悟を決めて般若心経を唱えておった。そこに柴田勝家殿と森可成殿、ほれ長久手で戦死した森長可の親父殿じゃが、この二人が居合わせなかったら、わしは十中十、手討ちにされておったな」
「又左、そこで待っておれ、と叫ぶ信長公を後ろから羽交い絞めにする柴田殿、前に立ちふさがり信長公を止める森殿。前田、逃げよ逃げよと、お二人が叫んでおった」
「それで」景勝が話に入り込んでいる。
「それからが大変じゃった。命ばかりはお助けを、と皆が頼んでくれたお陰で勘当されただけで済んだのじゃが、上様はなかなか許して下されなかった。本当に困ったぞ。わしは手柄を立てれば帰参がかなうと簡単に思っておった。それで許されてもないのに桶狭間の戦いに参陣し兜首を三つ獲った。しかし許してもらえなんだ」
なんと大根でも引いてくるような口ぶりじゃが。まこと万夫不当、抜群の勇士じゃな。
「美濃攻めで、首取り足立という豪傑の首を獲ってやっと帰参が許された。長かった丸二年じゃ。わしは勘当される前は上様の使い番・赤母衣衆筆頭じゃたし、家中でも一目置かれた存在じゃった。ところが勘当されると世間は冷たい、上様を憚ってか誰も相手にしてくれぬ。牢人のわしに親切にしてくれて、何かと力になってくれたのは柴田殿や森殿だけじゃった。お二人とも、わしの命の恩人じゃな」
その恩人である柴田勝家を結果として裏切ったことを、どう考えておるのじゃろう。
「しかし今から思えば、勘当され牢人した二年間は、わしにとって有益なものじゃったな。わしは尾張の城持ち領主の四男坊」
石田、次男ではないではないか。
「上様の覚えもめでたく、肩で風を切って歩いておった。あのまま順調に出世しておったら上様の寵愛と武勲をかさに威張り散らし下々の苦労の分からぬ鼻もちならぬ男になっておったかもしれぬ。まだお小人頭くらいじゃった関白殿下と親しくなることもなかったであろう」
命知らずが何故に恐怖を感じるようになったのか片鱗もわからぬが、前田殿の話は面白いのう。
「若き日の関白殿下は、どのようなお方じゃったのですか」
景勝が訊く。
「前田殿が関白殿下に初めて会ったときのことを覚えておられますか」
兼続が話しやすいように展開する。
「それがじゃ、よく覚えておらぬのじゃ。いつの間にか上様の馬の
利家がにっこり笑う。
「しかし関白殿下の精勤ぶりは、われらの想像以上じゃったな。どんな場面でも必ず万全の準備をしておられた。本当に誠心誠意、上様にお仕えしておった。それゆえ、上様の信頼を得て一歩ずつ出世していかれたのじゃ」
ふーん。
「それに関白殿下には、われらにはまねのできない能力があった。関白殿下は、そなたらも見て知っておろうが非力なお方じゃ。恐らく兜首など、ひとつも取ったことはないじゃろう。しかし人使いは上手いのじゃ。清洲城の塀の繕い、墨俣一夜城、そなたらも聞いておろう。いずれも関白殿下の出世の糸口となった有名な話じゃ。清洲城の塀の繕いは十日かかる予定を三日で仕上げられた。墨俣一夜城は、その名の通り一夜で城を築いたものじゃ。なぜ関白殿下は他人にできないことができたのか。それは人使いが上手いからじゃ。では、なぜ人使いが上手いのか、わかるか」
利家が二人に尋ねる。
「関白殿下は、若き頃より気前がよく度量が大きいお方じゃったと聞いております」
兼続が答える。
「若き頃より気前がよかったのは、わしも存じておるが人に呉れてやる物を何も持ってない時から人使いは上手かった。なぜか分かるか。それは、関白殿下はどんな下賤な者のことも理解しようとされたからじゃ。足軽・雑兵など明日も知れぬ境遇じゃ。関白殿下は、ご自分が苦労に苦労を重ねてきたからじゃろうが、それらの者どもの悩み苦しみを、わがことのように考え少しでも、それらの者どもの身が立つように工夫されておった。物を呉れてやるばかりではない、身の上話を聞いたり悩みの相談に乗ってやっておった。根が優しく親切なのじゃ」
「それに配下の者がしくじっても決して怒ったりされなんだ。怒らないということは責任転嫁せぬということじゃ。それゆえ関白殿下の配下になった者は、このお方のために一所懸命尽くそうと頑張るのじゃ。“士は己を知る者のために死す”というが、それは士だけのことではない。下賤な者も同じじゃ」
「関白殿下の出世譚は当意即妙の機略にあるという風に世間では言われておる。たしかに関白殿下の才知は眩いが、それだけではないのじゃ。それに常に冷静じゃ。わしは関白殿下が怒りに我を忘れた場面など見たことがない。まあ、芝居気があるお方じゃから怒った振りは、よくされたがのう。優しく親切で頭脳明晰で冷静なお方なのじゃ」
「それゆえ総見院様が何度も招誘しようとしても決して靡かなかった蜂須賀の一党も関白殿下のため、墨俣一夜城の築城に協力した。竹中半兵衛殿もそうじゃ。総見院様にはお仕えできぬが関白殿下ならお仕えすると言われ亡くなるまで関白殿下の覇業を助けられた。要するに関白殿下は生れは賤しくても万人の上に立つ器量を持った大きな男なのじゃ」
ここで利家が溜息をつく。
「ところが、わしは最初それが分かっておらなんだ。佐々に至ってはいまだに分かっておらぬようじゃ」
主従、時が経つのを忘れる。
「人間というものは落ち目にならなければ分からぬことがあるのじゃなあ。わしにとって桶狭間の戦以降の牢人生活は本当につらいものじゃった。武勲を挙げればすぐに帰参が許されると思い込んでおったからのう。ところが総見院様は許して下されなかった。勘当の身じゃからということで首実検に出ることさえ許されなかったのじゃ。わしは絶望した。兜首三つ取っても許されないならば一生許されないのではないかと不安になった。今思えば笑い話じゃがのう。捨て鉢な気持ちになり生活も荒れた」
「そんな時、おまつが仲良くさせていただいておった北政所様から美濃攻めのことを聞いてきた。関白殿下が前田に教えてやれと北政所様に言うてくださっておったのじゃ。美濃攻めの時期は軍機じゃ。それが漏れたとなると関白殿下もただでは済まないのに、わしの挫けそうな心中を推し量って危険を承知で教えて下さったのじゃ」
「関白殿下は優しい男じゃが、その優しい心遣いを形にする勇気のあるお方なのじゃ。佐々成政は関白殿下のことを阿諛追従だけで出世しておるだけの奴と、ひどく嫌っておったが、わしはそれだけのお方ではないことに初めて気がついたのじゃ。明日をも知れぬ牢人のわしに便宜を図って何になろう。関白殿下は身分は低いが友になってもらいたい男、値打ちのある男じゃということに気づいた。それから、わしと関白殿下は友だちじゃ」
本当に心温まるよいお話じゃな。関白殿下は本当に大きな男じゃ。立派じゃ。しかし前田殿は、これほど古いつき合いで友でもあるのに関白殿下に恐怖を感じるのじゃろう。不思議じゃ。
ばたん、突然に茶室のくぐり戸が大きな音を立てて開く。な、なんと仕物か。
緊張する利家と景勝と兼続。
「おお、叔父貴殿、ここにおられたのですか。上杉殿も、ここでしたか。残念じゃ。わしの座興を見て欲しかったのう」
べらべら喋りながら子猿を連れ、珍妙な格好をした大男が入ってくる。
余りの無作法に呆然とする三人。
よく見ると大男の首には紐が巻かれ、その紐の先を羽織を着せた子猿に持たせている。そして大男は、達筆で日本無双の槍と書いた旗指物を背負っている。
なんと、この大男は前田殿になっておるつもりか。さすれば子猿は関白殿下か。
これはやりすぎではないか。笑えないんですけど。
関白殿下に操られている前田殿を風刺しておるのか。
叔父貴殿と言うて入ってきたが前田殿の一族なのじゃろうか。
兼続、めまぐるしく考える。そして利家を窺う。
利家の顔は蒼白になったと思うと、みるみる赤くなり、こめかみには青筋が何本も浮き出ている、激怒する寸前じゃ。
どうしたらいいのじゃ、何か言わねば、兼続が考えていると、景勝が大笑する。
「これは愉快。前田殿の家来には本当に面白いお方がおられる。よく慣れた子猿じゃのう」(実は猿は上杉景勝の笑いのツボで猿で笑った逸話がある)
利家の怒りを知らぬ振りで調子に乗った大男
「ここまで手なづけるのは苦労でございましたぞ。なにしろ猿を回すのではなく猿に回されるのじゃから」とほざく。
しかし笑い声に怯えたのか狭い茶室を嫌ったのか、子猿は狂ったように茶室中を駆け回り、ついには障子を破って逃走する。
「これはしたり猿関白殿。待ってくだされ」
大男も子猿を追いかけ出てゆく。
打って変わって沈んだ様子の利家。
「大変、ご無礼いたした。あれは、わしの兄の後妻の連れ子で、今は兄の養子になっておる前田慶次という者でござる。腕も立ち学もある、なかなか見どころのある男じゃが、どうにもこうにも、わしの手には負えぬ目茶苦茶な男じゃ」
なんと。しかし座興というても、あれでは命がいくつあっても足りぬじゃろう。なんで、あんなことするのじゃろう。
「わしは、あの男に大きな借りがある。あの男は実は滝川儀太夫の息子じゃ。滝川儀太夫をご存知か」
「おお、賤ケ岳の戦の前哨戦となった伊勢の戦いで武名を挙げたお方でございますな。本能寺の変直後の上野沼田城の攻防でわれらとも縁があります」
すかさず兼続が答える。
刀の収集と同じくらい武勇伝の好きな景勝も身を乗り出す。
「われら柴田軍が南下する前に、滝川一益を潰そうとして伊勢に進攻した関白殿下の軍勢は七万余、この大軍の前に国府城・亀山城などが次々と陥落したが、ひとり儀太夫だけが峯城を堅守した。業を煮やした関白殿下は、坑道作戦で城を落とそうとしたが儀太夫はこれを逆手にとって火薬と草を混ぜて坑道に投げ込み、坑道に突入してきた決死隊を窒息させたそうじゃ」
「最終的には先に降伏した滝川一益の開城勧告に従って降伏したが、関白殿下は儀太夫のあまりに見事な戦ぶりに五万石で配下に迎えようとおっしゃった。関白殿下は有能な者は敵味方の区別なく取り立てようとされるお方じゃ。しかし儀太夫は伯父を裏切れませぬというて一益の元に戻った。戦ぶりだけでなく進退も見事な男じゃ」
「もう一服せぬか」
前田利家、自分の気持をおちつけようとしているのか、お茶を点てる。
「桶狭間の後の美濃攻めでわしが許されて帰参した頃の古い話になる。この滝川儀太夫の妹が、わしの兄・前田利久の妻となり、あの男を兄の養子とし荒子城二千貫(四千石)を相続させることとなった。わしも全く異存はなかったのじゃが総見院様より横やりが入った。家督はお前が継げときついお達しじゃ。仕方なく、わしが家督を相続することになった。立場の無くなった兄の面倒はわしが見るつもりじゃった」
「ところが、あの男は養子になった以上、養父に孝養を尽くすのは子としての務めでございますと、わしに言い、十年以上の長き間、兄の面倒を見てくれていたのじゃ。本当に助かった。兄は温和じゃが誇り高い男じゃ。あのまま荒子に置いておけば憤死したやも知れぬ」
「あの男は実父である儀太夫の縁を頼り滝川一益の軍に属しておった。しかし本能寺の変で総見院様が亡くなり、一益も北条に裏切られて関東を失い、伊勢長島に命からがら逃げてきた。あの男は所領の激減した滝川のことを慮って、能登の国主となっておった、わしに頭を下げて、わしの配下になったのじゃ。どうじゃ、なかなか実父儀太夫と同じくらい進退の見事な男じゃろう」
ううむ、なかなかの男のようじゃが、どうしてあんなに変になったのじゃろう。
「わしは、あの男がこれまで兄にしてくれた孝養に報いるため、あの男を取り立てようと考えておった。しかしわしが柴田勝家殿を裏切ったので、あの男は、あんなおかしい手のつけられない男になったのじゃ。あの男は、あの猿に回される芸を関白殿下にお見せするのじゃと一所懸命、猿を仕込んでおるようじゃ」
利家、溜息をつく。
「あんな芸、もし関白殿下がご覧になったら、その時、前田家は滅亡じゃ」
利家が呟く。そして深い溜息。
「しかし、あの男のやるせない気持ちもわからんでもないのじゃ。あの男が、わしの兄などを連れて能登に来たのは、ちょうど清洲会議の直後じゃった。関東を失って逃げ帰った滝川一益は宿老の地位から滑り落ち、領地も伊勢長島だけになった。それゆえ、あやつは滝川に負担をかけまいと、わしのところに来たのじゃ」
「しかし、あの当時いずれ関白殿下と柴田勝家殿の戦が始まらんとしていたのは誰の目にも明らかじゃった。もし戦が始まれば、われら柴田軍は南下し伊勢の滝川殿、美濃の信孝様と連携する計画もできておった。あやつは柴田軍と滝川との連絡役として北陸に来たつもりじゃったのじゃろう」
「滝川一益は、正直一途な柴田殿と違って謀略にも長けておったから、あやつに言い含めておったのやも知れぬ。ところがじゃ、このわしが裏切ったのじゃから話にならんわな。わしは、あやつに五千石を与え、わしの兄・安勝の娘を娶せることにしたが、そのことにも何も言わなかった。しかし、あの奇行が始まったのじゃ」
おおっ、何やら屈折しておるようじゃ。
「わしは変わってしまった。総見院様のお側におるときは天下布武の理想を実現するため戦い続けることしか考えていなかった。しかし越前が平定され柴田殿に与えられわしも佐々・不破(光治)などとともに与力として付けられることになった。十万石の三分の一じゃが、わしにも自分の領地ができた。そして北陸の平定が進み能登一国がわしの領地になった。すると、わしの気持が変わってきたのじゃ。せっかく得た領地を守りたい、息子に譲りたいと思うようになってきたのじゃ。戦を厭い平穏を望む気持ちがむくむくと沸き起こってきた。これは、わしだけではない。総見院様の天下平定が進むにつれ領地の増えた織田家中全体の風潮じゃった」
「もちろん慧眼なる総見院様が見逃すはずもなく、理由にもならない理由で突然、佐久間信盛殿や林秀貞殿が追放された。われらの弛んだ気持ちに活を入れるための、いわば一罰百戒じゃな。もっとも人間は道具ではないので、総見院様の思い通りになるはずもなく、これは明智の謀反の一因ともなった。明智は果てしなき戦いの先が見えないことに疲れ切っており嫌気がさしておったのじゃと思う。わしもそうじゃったから。われらは北陸で一向門徒衆の掃討を命じられておったから、無辜の民草を何千何万と虐殺した。無抵抗な弱き女子供も釜茹で殺した。地獄じゃった」
「賤ケ岳の戦いの時、茂山に構えたわしの陣に関白殿下の密使が来た。内応の依頼じゃ。以前のわしなら、にべもなく断り密使を斬り殺したであろう。しかし、わしは考えた。もし、この戦で柴田殿が勝ったとしても残念ながら柴田殿に天下を治める器量はない。わしにとっては、よいお人じゃったが人を容れる器量がないのじゃ。信孝様など論外じゃ」
「総見院様が平定した地域も四分五裂し、また戦乱の世が始まる。そしてまた地獄のような果てしない戦をせねばならぬのかと思うたら裏切る決心がついた。わしは、柴田軍の先鋒・佐久間盛政が鬼神も泣かしむるような敢闘の末やっと虎口を脱出した時を見計らって撤退を命令した。あのまま推移すれば、佐久間も柴田殿の本陣に合流できたかもしれぬ。さすれば戦は、どう転ぶか分からなくなる。柴田殿を勝たせてはならぬ、と撤退命令を出した」
「その時本陣に詰めておったあやつ(前田慶次)の顔、蒼白で静かな顔じゃったが眼は刺すように鋭く、わしを睨んでおった。今でも鮮明に覚えておる」
「われらの軍が撤退を開始すると、金森・不破なども撤退を始めた。われらは先鋒の佐久間隊の後に控えて、周囲の関白殿下の部隊を牽制する役目じゃったから、佐久間隊から見れば後が、柴田殿の本陣から見れば前が崩れたように見える」
「一昼夜に渡って戦い続けておった佐久間隊も、それを見てついに精魂尽き果てたか総崩れとなった。ようやく味方の援護が得られる地点まで来て助かったと思ったら援護してくれるはずの友軍が撤退し、その友軍が牽制していた敵の大軍が攻めかかってきたのじゃから、流石の佐久間盛政も処置なしじゃ。柴田殿の本陣からも逃亡者が続出した。そして関白殿下の大軍による追撃戦が始まった。柴田殿の北陸軍が編成されて十年近く、苦楽を共にしてきた戦友がみな死んだ。すべて、わしのせいじゃ。わしが保身を考えたからじゃ」
「わが軍は無傷で越前府中城に戻った。そして関白殿下の軍を迎える準備をしていた。すると、そこに十騎足らずの供を連れた柴田勝家殿が飯を食わせてくれと上がり込んできた」
なんと、柴田は前田殿を裏切り者と面罵したのじゃろうか。
「柴田殿は、わしの裏切りについては何も言わなかった。わしは、ここで関白殿下、この時点では、まだ関白ではないな、羽柴殿の軍を防ぎますので、北庄城で再挙を、と言うた。柴田殿は笑って何も答えなかった」
「ああ、柴田殿は羽柴殿と和睦したいのじゃろうか。その仲介をわしにせよと考えておるのかな、と思うた。保身のみを考える臆病者の考えそうなことじゃが、現に滝川一益も許されておることじゃし仲が悪いと言うても古き戦友同士じゃ、助けたり助けられたりしてきた仲じゃ。それに北庄城には、お市の方様もおられる。羽柴殿も柴田殿の降伏を認めて、高野山に登らせることで、この戦を収めてくださるのではないかと思うたのじゃ。柴田殿を見送るとき、わしは柴田殿に思い切って訊ねた」
前田殿は、ほんに正直なお方じゃのう。
「羽柴殿との和睦、わしが仲介しましょうか、と。すると柴田殿は、にっこり笑った。長いつき合いじゃが初めて見た、ほんに良い笑顔じゃった。そして又左、わしは余りにも人を殺し過ぎた。わしが生きながらえては、わしが殺した者ども、わしのために死んでくれた者どもに、申し訳が立たぬ。そなたは羽柴と昵懇じゃ。これからは羽柴を頼めというて下された。柴田殿は、わしの心中を知っておったのじゃ」
柴田勝家、長年苦しめ続けられた天敵じゃったが、よい男だったのじゃな。
「翌日、関白殿下が大軍を率いて進軍してきた。そして飯を食わしてくれと上がり込んできた。わしは柴田殿の助命の余地はないかと尋ねた。関白殿下は、そなたが先鋒になれと言うて下された。わしは一縷の望みをもって北庄城へ向かったが結果は、そなたらも承知しておる通りじゃ」
「柴田殿は、お市の方様などをご自分で手にかけた後、天守に火をかけ腹を十文字に切り
「関白殿下のやることなすこと寸分の無駄がない。そして関白殿下は、柴田軍の他の者は許した。佐々成政もわしも許された。わしは思うた。関白殿下は天下を平定されるじゃろう。さすれば古き頃より関白殿下の友であった、わしも安泰じゃ。すると、わしは怖くなってきたのじゃ。わしは自分の領地を守り、せっかく得た富貴の暮らしを守り息子に継がせたいと思うておった。そしてそれが現実のものとなると、何から何まで怖くなった。関白殿下の鼻息を窺うへつらいものになってしまったのじゃ」
「本領安堵と加増の御礼のために大坂に出向くことになったが、その間生きた心地がせなんだ。関白殿下に三女摩阿を側室にして頂いて、ほっとしたくらいじゃ。世間から見れば、わしに対する関白殿下のご厚情は揺るぎのないものじゃ。四女豪は関白殿下の養女となり可愛がっていただいておる。それでも、怖いのじゃ」
戦乱の時代が終わり平和への胎動が始まったのじゃな。みな長い戦乱に飽いておる、そして安穏な暮しを望んでおる。それは前田殿だけではなく、われらも同じじゃ。
「城を守っておって、強攻されれば覚悟ができますが、降伏勧告をされると気持ちが揺れますな。それと同じことじゃろうか」景勝が言う。
前田利家、笑って
「わしは、そなたらの上洛の
「いや、前田殿のお心遣い、真心、われらの心に沁みました。今後とも、上杉をよろしくお引き回し下さるようお願いいたしまする」
景勝と兼続が丁寧にお辞儀をする。
すると遠くの方で「猿関白殿、待たれよ」と叫び声。
「なんじゃ、まだ捕まえておらぬのか」利家、深い溜息。
「あの男の恰好、実はわしの若い頃をそっくり真似たものじゃ。柴田殿が滅びた後、今度は関白殿下と信雄様・徳川殿の間の戦いが始まると、滝川一益は関白殿下に許されて伊勢の戦線に投入された。しかし敵中に孤立して徳川に降伏する羽目になった。今は越前に蟄居しておる。滝川も晩節を汚したのう」
「このことも、あの男をさらに屈折させたようじゃ。滝川に長いこと仕えており、そのことがあの男の誇りじゃったからのう。わしの若い頃の様子を皆に聞きまわり、そっくりまねするようになったのじゃ。あの男は、なんでも根をつめる男じゃ。槍さばきだけではなく伊勢物語や和歌とか、わしはとんと暗いので、よくわからぬが、よく学んでいるようじゃ」
何と変わっておるのう。
「兼続と気が合いそうじゃな」景勝が言う。
「兼続も書物に埋もれておるような男でございます」
「そうか直江殿、そなた、あの男の話し相手になってくれぬか。お頼み申す。あの男は、若き頃のわしのまねをすることで臆病者になったわしを批判・非難しておるのじゃ。わしは、そのことがよくわかる。あの男はふざけておるようで、よく世の中を見ておる。そして世のあり方に不満を持っておる。潔く男らしく生きたいと思っておるのじゃ。わしも昔はそうじゃったから」
利家が悲しそうな顔をする。
「浮世を生きていくことは、ままならぬことが多いのう」
一方、別室に控えていたお船のところに侍女がやってきて、おまつ(前田利家正室)のところに案内するから用意せよという。ふむふむ、兼続殿も仕事しておるようじゃな。おまつ殿は天文十六(1547)年生まれというから三九歳くらいじゃな。
金沢城の奥に案内される。
「上杉景勝が家臣直江山城の室、お船でございます。よろしくお頼申します」
「おお遠路はるばるご苦労様。上杉殿の御家中に直江殿と言われる切れ者がおられることは以前より知っておったが奥方もなかなかの豪傑じゃな。その格好よく似合う」
お船は、鎧こそ脱いでいるが男装のままである。
「わらわも幼き頃より弓や乗馬が好きじゃった。男に生まれて、思うように生きてみたいと思うておった。そなたは、どうじゃ」
なんと。
「
なんか気が合いそうじゃ。
「おまつさまは北政所様とも親しい間柄。関白殿下からも一目置かれておる女性と聞いております。御謙遜がすぎるのではござりませぬか」
「しかし、わが亭主殿は、わらわの言うことを聞かぬ。佐々成政殿に攻められた時もそうじゃ。佐々殿が数多の勇士を召し抱えておるのに、わが亭主は銭勘定のほうが大事で、わらわがわれらも負けずに勇士を召し抱えましょうぞ、と言うても、なんのかんのと言うことを聞かなんだ。あげく兵の少なさを侮られ末森城を攻められる始末じゃ。わらわは、あんまり腹が立ったので、出陣する亭主殿の目の前に金袋を突き出しこれに戦うてもらえと言うてやったわ」
なんと、まあ、おまつさまは、
「こたびの佐々殿との戦い、上杉の皆様にもご苦労をおかけしたが、元はわが亭主の吝嗇が原因じゃ。亭主殿が、わらわの進言を聞き入れておれば侮られることもなく攻められることもなかった。亭主殿は目先の銭を惜しんだばかりに、莫大な戦費を費やし往生しておる。はっきり言うが、わが亭主殿は一騎駆けの勇士ではあるが大軍を臨機応変に運用するような才はない。昔は総見院様、今は関白殿下の御威光あっての男じゃ」
なかなか手厳しく冷静なお方じゃ。
しかし、わらわに前田殿の悪口を言うて、どうするつもりじゃろう。
「ウキキ」
突然、部屋に子猿が入ってくる。なぜか羽織を着せられており、よく見ると頭に冠を被せられている。子猿は部屋中を走り回った後、なぜか、お船の膝の上に座った。流石のお船も、ちょっと驚く。しかし、おまつは全く動ぜず「そのまま、そのまま」とお船に言った後、侍女に「慶次郎殿を呼んで参れ」と命じた。
慶次郎殿?誰じゃろう。お船が考えていると
「こんなおかしな猿、慶次郎殿が関係してないはずがない」と、おまつが呟く。
「叔母上様、何の御用でございますか。おお、猿関白殿こんなところにおられたのですか。よかった、探しましたぞ。失礼いたします」
奇天烈な格好の大男が入ってきて、子猿を確保しようとする。
「その前にお礼とご挨拶をなされよ。こちらのお方は、直江山城殿の奥方じゃ」
「おお直江山城、そういえば先程お見掛けした、あの美丈夫でござるかな」
どこで会ったのじゃろう。
「それがしは前田慶次郎と申す。前田家中一の馬鹿者でござる。お見知りおきを」
なんと、格好も行動も口上も変じゃ。
「どうして、私の膝に乗ったのでございましょう」
違和感よりも好奇心が勝った、お船が尋ねる。わらわの美貌は猿にも通用してしまうのか。などと考えていると慶次郎、くんくん匂いを嗅ぎ
「わかった、それがしの日頃焚きしめておる香と、お船殿がお使いの香の配合が偶然似ておるようでございます。猿関白殿は、あなたを、それがしと見間違えたようでございまする」
「慶次郎殿、その猿の芸、上杉の皆様にお見せいたしたのか」おまつが尋ねる。
「はい、しかし殿と上杉殿は茶室で密談されておりましたので、お見せすることができませんでした。故に、茶室まで猿関白殿と赴きましたところ猿関白殿が逃亡、今の今まで探し回っておった次第でござる」
なんと兼続殿も度肝抜かれたであろう。それにしても猿関白殿とは笑えぬ芸じゃな。誰も止めないのじゃろうか。お船が考えていると、慶次郎
「それにしても叔母上は幾つになっても美しい」とお追従を言う。
おまつ、すこしも動ぜず
「孫も出来た婆に何を言う」と切り返す。
すると慶次郎の態度が急変する。ふざけた様子が消え真顔になり目には真剣な色が。
「おお、幸姫様。無事出産されましたか」
「一昨日のことじゃ。男の子じゃ」
「それは本当にようござりました。これで尾張前田家の再興も夢でなくなりましたな。お喜び申し上げます。お祝いの品を用意せねばなりませぬな。それがしは、これで失礼いたします」
急変した馬鹿丁寧な態度で子猿を抱いた慶次郎が下がる。
なんと不思議な男じゃ。狐につままれたような心境になるお船。
馬鹿者かと思うたが、丁寧な態度もとれる。おまつが笑いながら解説する。
「あの男は前田慶次郎と申す者。わが亭主殿の兄上様の養子でございまする。あの男の変な格好、振る舞いには、さぞ驚かれたでありましょう」
「それにも驚きましたが態度が急に変わったことに一番驚きました」
「そうじゃったか。一昨日、わが長女幸に子供ができたことを聞いた慶次郎殿の態度が変わったのには深い事情があります。慶次郎殿は元は滝川一族の出身で望まれてわが亭主殿の兄上様の養子になったのじゃが、事情があって滝川一益殿に長い間仕えておった。あの男が前田家に仕官したのは、ほんの三年前じゃ。滝川殿が関東を失って伊勢に撤退した後じゃ」
「滝川殿は賤ケ岳の戦いのとき関白殿下と戦い敗れ降伏したが、小牧・長久手の戦の時は関白殿下に許され伊勢で信雄様や徳川殿と戦われた。しかし尾張・蟹江城を略取したまではよかったが、徳川軍に包囲され関白殿下の援軍が間に合わず降伏することになった。降伏する時に、調略した信雄方の武将の首を差し出すことを条件にされたので、その武将、今の今まで共に籠城して戦っておった武将を討ち首を差し出し命を助けられた。滝川殿に討たれた武将は前田種利と申す。わが前田家の本家筋の当主でわが長女幸の義父に当たるお方じゃ。あの男は、自分が滝川の出身じゃから、一益殿の裏切りを苦にしておるのじゃ。ああ見えて、結構繊細な男なのじゃ」
利家が、ぼかして景勝・兼続に伝えた話を、おまつは明快にお船に話す。
この話、後で兼続殿と
お茶とお菓子が出てくる。
「これは“こんへいと”とか申す南蛮のお菓子じゃ。食してみよ」
お船、こわごわ食べる。おいしい!
「これは堺で売っておるのですか」
「気に入ったか。これは北政所様から頂いたものじゃ。そなたも北政所様にお目通りした時に、ねだれば良い。あのご夫婦は、ひどく気前が良い」
「関白殿下と北政所様は、どのようなお方でございますか」
「わらわと北政所様は古い間柄じゃ。北政所様の方が五歳ほど年長なので姉様のような存在じゃな。わらわは前田家の養女、北政所様は浅野家の養女、似た境遇じゃった故、気が合った。わらわはいずれ利家殿の妻になるという含みの養女じゃったがな」
「しかし北政所様、当時はねね様じゃが、関白殿下のところに嫁に行くと打ち明けられた時は驚いたぞ。なにしろ総見院様のお気に入りとはいえ身分が違いすぎる。ねね様はれっきとした武家の娘、それなのに関白殿下、当時は藤吉郎殿じゃが藤吉郎殿は上様の轡取り程度の小者じゃ。わらわは、まだ子供じゃったが故、藤吉郎殿の偉さが分かってなかったのじゃな」
そんな古い知り合いなのか。
「関白殿下の偉さとは、どのようなところにあるのでしょう」お船が訊く。
「一言で言えば構想力じゃな。ねね様が結婚して三年ぐらいして、わらわも利家殿と結婚した。利家殿は、総見院様の旗本・馬廻りとして順調に出世した。怒りに任せて総見院様お気に入りの坊主を斬って勘当されたことは余分じゃったが二年ほどで許された。そのことを勘案しても、まあまあ順調な出世といえよう」
「しかし藤吉郎殿の出世は目も眩むような速さじゃった。利家殿が帰参を許された頃には一手の大将になっておったし、総見院様が上洛される頃には重臣になっておった。わが夫婦は関白殿下夫婦に、色々助けていただいておったが、実はわが亭主殿もわらわも嫉妬し羨望した。わが亭主殿は戦場で兜首を挙げることしか考えておらぬ男で、どうして藤吉郎は戦功もないのに出世するのじゃろう不思議じゃと不平をもらしておったが、わらわは藤吉郎殿のことをだんだん恐ろしいお人と思うようになった」
なんと、恐ろしい人なのか。
「考えてもみよ。人には、その人に合った分というものがある。身分が低き時は光り輝いたお方も、その功績が認められ上の役職に引き上げられると案外使えぬということが多いものじゃ。その役にふさわしい器量がないせいじゃな。関白殿下は、上様の小者から最終的には数カ国の軍勢を統べる大将にまで取り立てられた。これほど短い間に、これほど出世したお方は、開闢以来、前代未聞じゃろう。しかし関白殿下は、どんなに大きな役目を申しつけられても、どれだけ地位が上がっても、余裕でこなしていった。関白殿下のことを嫌っておった佐々成政殿などは、成り上がりの追従者がいずれ馬脚を現し大きなしくじりをするであろうと言うておられたが、そんなことはなかった。何故じゃろう、とわらわは考えた。羽柴殿にあって、われらにないものは何じゃろうと考えた」
何じゃろう?
「それは物事を成し遂げていく実行力じゃ。あのお方は、いつも一所懸命で優しく、下々のものに慕われた。そのことも出世の大きな力になったが、一番の長所は企画力と言うか構想力じゃな。ほれ関白殿下が武将としての名声を確立した中国の城攻め、鳥取の渇泣かし・高松城水攻めなど、誰も思いつきそうで思いつかないことじゃ。万一思いついても実行することは凡人にはできぬ。わが亭主殿などは逆立ちしても発想さえ浮ばぬであろう。商人を派遣して城の米を売らせておいて包囲して兵糧攻めをする。巨大な堤防を築いて城を水没させる。こんなこと着想から実行まで天才のみがなせる業じゃ」
「そなた、なぜ四国の長宗我部が、あれほど短期間に降伏したか知っておるか。長宗我部は関白殿下の攻撃を総見院様の四国攻めと同じようなものじゃと考えて、阿波に全軍を集結させておったが、関白殿下は宇喜多、毛利・小早川を動員して讃岐・伊予を攻撃した。わらわが言う構想力とは、こういうことじゃ。誰にでも出来そうで実は出来ないことじゃ」
ふむむ、おまつさまは軍事にも詳しいようじゃ。
「北政所様は、どのようなお方でございますか」
この機会に聞けるだけのことは聞いておこう。
沈着冷静なおまつさま、急にせき込んだように早口になる。
「北政所様も関白殿下と同じく、わらわなど及びもつかぬお方じゃ。なんというか覚悟の据わったお方じゃ。人間は立身すると、どうしても守りに入るものじゃ。わが亭主殿など今や完全に守りの人じゃ。ところが関白殿下は小成に甘んずるお方ではなかった。そして、その関白殿下を支え励まし協力して来られたのが北政所様じゃ。世の中には、男に羽をつけて天翔ける龍にする
「若年の頃の関白殿下は、調略・諜報が得手でござったから金がいくらあっても足りぬ、いつも家計は火の車じゃ。しかし北政所様は自ら金策に走り回って協力されておった。わらわの所にも何度もお金を借りに来たから、よく知っておる。そして関白殿下をいつも励ましておられた。そなたは、もっと大きな仕事をされるお方じゃ、もっとできる、きっとできる、と。あるいは関白殿下は北政所様の励ましを道しるべに、がんばってこられたのかもしれぬ。わらわは親しくさせていただいておったから、すべて見てきた」
ここでおまつが苦笑する。
「わらわも少し反省して亭主殿を励ましてやったことがある。ちょうど長篠の戦に出陣する時じゃった。最強武田軍との決戦じゃったから、亭主殿もいつになく緊張されておった。そなたなら、きっとできると北政所様のまねをしてみた。すると、わが亭主殿、鉄砲隊の指揮官であったにも関わらず敗走する武田軍を深追いして足を斬られ命を取られかねない深手を負う始末じゃ。村井長八郎(長頼)に助けてもろうて命からがら戻ってきた。張り切りすぎじゃ」
やっぱり冷静じゃ、おまつさまは。
「わが亭主殿は、若き頃は常に敵の豪傑と格闘するようなお人じゃったから、いつ命を取られるのか気が気ではなかった。冷静を装っていたが心中はいつも不安じゃった。亭主殿が死んだら子供が何人もいるのに、どうすればよいのか心配しておった。じゃから、亭主殿には、気をつけよとか、余り張り切るなと、よく言うた。北政所様とは逆じゃ。わらわは、男の羽をむしる女子じゃったかもしれぬのう」
なるほど、わらわも兼続殿を励ましてやらねばならぬのかのう。いつになく反省するお船である。
「石田殿をどう思われますか」
わらわも改心して少し仕事しよう。
「石田治部少輔のことか、何か腹の立つことでもあったのか」
おまつさまは何でもお見通しなのじゃろうか。
「いいえ、とんでもございませぬ。石田殿には上杉の取次ぎをして頂いており、直江も懇意にさせていただいております」
「石田のことは北政所様より聞かされておる。北政所様は石田治部は目から鼻に抜ける才子じゃが、ものごとを真面目に考えすぎるところがある。関白殿下の取次ぎとして情に流されてはならぬと思い定めておるようじゃ。ゆえに人の気持を忖度しないように見えることがある。損な性分じゃと、言うておられた。そなたも腹の立つことをされたのか」
いや、一門のものを調略されたとも言えぬのう。
「こうも言うておられた。関白殿下の機嫌に関係なく諫言できるのは石田治部だけじゃとも。石田に信念と勇気があるということじゃが関白殿下も、それだけ石田のことを買っておると言うことじゃろ」
「石田には経綸の才があるようじゃ。懇意にしておるならば、そのきずなを強めることが上杉のためじゃと思うが。石田治部は誤解を受けやすい男じゃが、これから関白殿下の政権の中枢を担う一人であることに間違いない」
ここで、おまつさま少し不気味に笑う。
「しかし石田のような関白殿下の子飼いと、われら外様の領主の利害は根本的には対立することが多い。いずれ、そなたらにも分かるであろう。上杉の家を守っていくためには距離の取り方が大事じゃな」
なんと、この氷のような冷静さが家を守っていく秘訣なのじゃろうか。世の中には、計り知れないようなお方がおる。前田の家は利家殿の武勇だけで持っておるのではないな。わらわも冷静に物事を見て行かねばならぬのう。
道中の疲れがどっと出たような気持になる、お船である。
天正十四(1586)年六月
上杉勢四千が北国街道沿いの各地の領主の歓待を受けながら南下する。
「昨年の地震の傷跡も方々に残っておるのに、食糧・馬糧も各宿場に充分集積されております。まことに至れり尽くせりでございますな。関白殿下の威令も、すみずみまで行き届いておるようでございます」
馬上の景勝と兼続が会話している。
「謙信公の上洛もこのようなものであったのかのう」
おおっ、御実城様、謙信公のことをお考えじゃったのですね。
「謙信公は天文二一(1552)年と元禄二(1559)年に上洛されております」
なし崩し的に既成事実化されている兼続の副官、直江景船(お船)が口出しをする。
「永禄二年の謙信公の上洛の際は、朝倉・浅井・六角などの領主が歓待したようでございます。将軍のお召じゃったから」
それに謙信公は筋目を重んじるお方じゃから、他人の領地に対する野心など毛頭ないから、朝倉なども安心して歓待したのじゃろう。そこが信玄公との違いじゃ。しかし、何から何まで違うお二人じゃな。兼続、ひとりで考えていると、お船が話しかけてくる。
「石田殿は、どうなったのじゃ」
おお、そういえば、あいつ同道するとか言うておったのに、まだ合流しておらぬ。何を企んでおるのじゃろう。上条を先に京に連れて行って、われらを陥れるつもりなのじゃろうか。天気は良く日本海の景色に歓声を上げる家中の者どもと、ひとり浮かない表情の兼続である。
「それがしは堀秀政が家臣、堀直政でござる。主人が皆様をお待ちしております。ぜひぜひ、お立ち寄りくださいませ」
「丁寧なご挨拶、痛み入ります。折角のお誘い、喜んでお受けいたします」
兼続が答え、越前北庄城に景勝、兼続など上杉家の重臣たちが招かれる。
そこに、やっと石田も合流する。「遅くなりました。ご無礼いたしました」
堀秀政、石田治部と景勝・兼続を茶室に誘う。
「狭いのが難でございますが打ち明け話には、もってこいの場所でござる」
前田殿も言うておられたが、茶の湯が流行っておるのじゃな。
「こたびの上杉殿の上洛、天下静謐のための大きな礎となることでございましょう。われらも大変うれしく思っております」堀秀政、温和な風情で話す。
それなのに
「堀殿は、こたびの関白殿下のなさりよう如何お考えか」突如、石田が口火を切る。
「上杉殿の前で話すことではないと思うがの」
「かまわぬ。上杉殿は関白殿下に東国の取次ぎを任されるほど信頼されておる。われらの内情も知ってもらわねばならぬ」
いやいや、あまり知りたくないんですけど。相槌打つだけで命取りになるやも知れぬ。言質を取られてはならぬ。
「徳川は朝日姫様(秀吉実妹)が御輿入れされたのに上洛を承諾せぬようじゃ。思うた通り、徳川をつけあがらせるだけじゃったわ。関白殿下は何故ここまで徳川に気を使われるのじゃろう」
「徳川の兵は強い。北条との同盟もある。長期戦になれば何が起きるかわからぬではないか」やんわり秀政が返す。
「天下人が地方の大名に膝を屈する。関白殿下は、ご自分の度量の大きさを示したつもりじゃろうが相手はそうは取ってはおらぬ。逆に増長しておるわ。ここにおられる上杉殿にも協力して頂いて、徳川・北条を討つ態勢を整えるべきではないか。堀殿からも関白殿下に諫言して下さらぬか」
「やるかやらないかは別にして関白殿下は、それぐらいのことはお考えじゃと思う。それに戦はしなくて済むならば、しないにこしたことはない」
何と。信長公のお気に入りじゃから、千軍万馬の勇将じゃと思っておったのに。
「わしは総見院様に小姓からお仕えして大名まで取り立てていただいたものじゃ。総見院様の武略を以てしても天下統一がならず中途に挫折されたのは何故じゃと思う」
ふむふむ、信長公の寵臣と秀吉公の寵臣との対決じゃ。見ものじゃ。
余計なことは言わないようにしよう。こんな時無口な御実城様は安心できるな。
「それは明智が謀反を起こしたからじゃろう。堀殿は関白殿下の片腕、柴田勝家の旧領・北庄城に封じられるほど信頼されておるのではないか」
「後始末ばかりさせられておる」
「北庄城は本丸まで攻め込まれ落城した。領民どもの難儀も計り知れぬ。その後始末は堀殿にしかできぬと関白殿下に見込まれておるのじゃろう」
「わしは関白殿下に買い被られてる」
「なんの、堀殿は総見院様から馬廻り衆の総指揮を任されたほどのお方。関白殿下も、わが片腕と頼みに思われておるほどのお方じゃ。なにとぞ諫言して下され」
「そなた、総見院様の武力をもってしても天下統一がならず中途に挫折したのは、何故じゃと思う」
「じゃから明智が裏切ったからじゃ。もう答えた」石田が苛立つ。
「総見院様は、謀反に苦しめらえた。始まりは浅井長政の謀反じゃ」
浅井の敵対を謀反と言うていいのじゃろうか?
「総見院様が浅井に諮らず独断で朝倉を攻めたことが、浅井の謀反を引き起こした。
その後、将軍の画策もあって武田を中心とする信長包囲網が形成された。武田、浅井・朝倉、六角、三好三人衆、それに本願寺一向門徒まで加勢した。武田信玄が急逝しなければ天下はどうなっておったか、分からぬような有様になった。総見院様も人間不信になり、佐久間・林などの重臣を追放し、ついには明智の謀反を招来することとなった」
「何が言いたいのじゃ」さらに苛立つ石田。
「一見盤石なように見えても天下政権というものは精巧な積み木細工のようなものじゃ。関白殿下の政権も同じじゃ。関白殿下の器量によって覆い隠されておるがのう。考えてもみよ。関白殿下の臣下は、加藤清正・福島正則などの尾張衆、そなたや大谷刑部など近江衆、宇喜多など中国衆と、われら総見院様の旧臣の連合じゃ。元の身分も中間まがいのものから国主まで様々じゃ。様々な不平不満も渦巻いておるじゃろう。敵につけ入られる隙も無いではない。小さな波紋が大きな波乱を呼ばぬとも限らぬ。関白殿下は、そのことを深くお考えになって徳川に対する融和策をとっておられるのじゃ。老子は“大国を治むるは小鮮を烹るが如し(大国を治めるには小魚を煮るようにするとよい。煮ている小魚を触ると崩れるので触ってはいけない。転じて細かいところまで干渉しない方がよいという意味)”と言うておる。わしも関白殿下のお考えは正しいと思う」
堀秀政殿は、温和なようで見るべきところは見ておるお方じゃな。
「その程度のことは、それがしも分かっておる。しかし膝を屈したままで、徳川を政権に包摂することが後々の禍根になるのではないかと考えておるのじゃ」
「流石じゃな。石田殿は考えが深い。石田殿が関白殿下のお側におられる限り、関白殿下の政権も安泰じゃ」
堀秀政、あっさりかわす。
ここまで静かに聞いていた景勝、心身たる興味を持って堀秀政に尋ねる。
「長久手の戦は、どのようなものだったのですか」
「それがしは敗軍の将でござる」
景勝と秀政の話が始まった。
石田が兼続に目配せする。二人だけの話があるようじゃな。
「そなた、堀殿をどう思う」
石田が再建された北庄城の天守閣に兼続をいざなう。
「一言で言えば明哲なお方じゃな」
「明哲なあまり保身の術を心得たお方じゃ」
「それは、言い過ぎじゃろう」
「考えてもみよ、長久手の戦いでも、羽柴秀次様の軍勢を蹴散らした徳川勢を迎撃して打ち破ったのはよいが、そのまま撤退しておる。このため池田・森勢は敵中に孤立して全滅じゃ」
「羽柴秀次様は別動隊の大将、お守りする為に撤退する判断は間違いではないと思うが。それに戦場では真偽取り混ぜた様々な情報が入ってくる。そのなかで正しい判断をすることは難しいものじゃ。それを後で批評しても始まらぬぞ」
ちょっと冷たい兼続。上条宜順のことが引っかかっている。
「堀秀政殿は関白殿下の天下取りの立役者じゃ。本能寺の変の時は、総見院様直率の増援部隊の先触れとして、われらの陣に上使として参っておったから難を逃れた。われらが中国大返しと称する強行軍で取って返し明智を打ち破れたのは、堀殿が増援部隊のために集積しておった食糧・馬糧などを融通して下さったからじゃ。清洲会議でも関白殿下の後押しをして下さった」
「関白殿下もわが片腕と頼みに思い、羽柴の名を与え同名に編成し、近江佐和山城を与えた。佐和山城は北国街道と中仙道が交わる天下枢要の地じゃ。総見院様が信頼する股肱之臣・丹羽長秀殿を配置しておった城じゃ」
「しかし堀殿の関白殿下に対する忠義は、わしには物足りぬものがある」
ちょっと可笑しくなった兼続。
「それは無理な話じゃ。堀殿は総見院様の小姓じゃったお方じゃ。総見院様に対する忠義と関白殿下に対する忠義を同列に論ずることはできまい」
石田苦い顔をする。言い過ぎたかな。
「しかし関白殿下の器量は宏大無辺、天下を治めるに何の不足があろう。徳川も近いうちに上洛するであろう。あまり気を揉むと禿げるぞ」
冗談を言ってみる。
「わしも、いずれ徳川が臣従することは分かっておる。しかし譲歩し過ぎじゃと言うておるのじゃ。それで物は相談じゃが、真田を動かしてもらいたい」
なんと。真田に挑発させて戦争を再開させるつもりじゃろうか。
「というても、われらも上洛しておるし大戦になれば対応できぬが」
「大戦になれば勿怪の幸い、すべての軍勢を動員して今度こそ攻め潰すことができる」
「真田は放っておいても、ちびちび領地をかすめ取っておる。佐久郡にも手を伸ばしておる。おお、そうじゃ」
閃いた兼続。
「真田の次男・源二郎信繁(幸村)というもの、昨年より関白殿下の小姓として出仕しておる。機会があれば紹介するぞ」
石田、腕組してロンパリ空目。頭の中に悪だくみが溢れ出ておるようじゃな。
関白殿下の和平工作が最終段階なのに、真田を動かして挑発すれば、真田の方が粛清される可能性すらあるんじゃが。石田にとって、われらは所詮将棋の駒のようなもの。真田が滅ぼされても石田は何の痛痒も感じることはないじゃろう。剣吞じゃな。
日本海から吹く風が心地よい。
「おおっ、ここにおられたのですか。探しましたぞ。石田殿、大谷殿が到着されました。お会いしたいと申されております」
堀の家臣が石田を呼びに来た。
「そうか。直江、そなたにも会わせたい。ついて参れ」
階段を降りながら石田が話す。
「大谷吉継は、わしの小姓時代からの古い朋輩じゃ。なかなかできる男じゃ。賤ケ岳の戦いの直前、長浜城を調略し無血開城させるという大功を立てておる。関白殿下の信頼も厚く、いずれ敦賀の代官になる予定じゃ」
敦賀の代官、つまり日本海の交易を差配するお役目につかれるお方か。ぜひにも、お会いせねばなるまい。昵懇願いたいお方じゃ。
「わしは堺の代官になる予定じゃ」
聞いてないのに。
流石、関白殿下の腹心。やはり仲良くしてもらわなければならぬ、お方じゃ。
先程の冷たい受け答えを反省する兼続。
しかし石田が堺の代官になるということは、九州征討の準備のためじゃろうか。いろいろ探らねばならぬのう。
「紀之介(大谷刑部)久しぶりじゃ。こちらは直江山城、関白殿下も舌を巻く用意周到な男じゃ。そなたに会わせたくて連れてまいった」
「大谷刑部でございます。お噂は、石田より聞いております。以後、昵懇にお願いいたします」
こちらこそ、と兼続が言おうとすると、石田「首尾は如何」。
石田、お前はほんに性急な男じゃのう。
大谷慣れているのか、余計なことを言わず本題に入る。
「さる五月十四日、朝日姫様と徳川殿、つつがなく結納の儀を執り行われた」
「大谷は、朝日姫様に随行して今戻ってきたところじゃ」
石田が教えてくれる。
「それで徳川家中の空気はどうじゃった」
「われらに対しては、いたって丁重な対応じゃった。しかし家康殿の上洛については、家臣の大半の者が反対しておるようじゃ」
「やはりそうか。徳川は長久手の勝利を高く売りつけようと売り時を測っておるのじゃろう」
「いや、どうも仕物にかけられること(暗殺されること)を心配しておるようじゃが」
「いや徳川は、長久手の勝利で膨らんだ自分の虚像を、関白殿下と世間に強く印象づけようと画策しておるのじゃ。食えぬ男じゃ」
「深読みしすぎではないか」
「わしは、徳川に勝たせたまま、こちらが譲歩して臣従させるのは先々、大きな禍根になると思う。ゆえに直江に真田を動かして徳川を挑発するように頼んだ。もう一度、戦に持ち込んで、徳川を叩きのめして臣従させるべきじゃと思うておる」
「時間がかかりすぎるのではないか」
「真田の次子が昨年末より関白殿下に出仕しておるそうじゃ。通信役になってもらおうと思っておる。そなたも、いろいろ忙しいじゃろうが、この件、そなたが担当してくれぬか」
「承知した。では、直江殿に一筆紹介状書いて頂こうかの。その方が手っ取り早い」
おお、話がテキパキ進むので、ぼうっとなってしもうた。
酒が運ばれて、夕食になるようだ。
「そういえば、上条殿には往生したぞ」
おお、石田、白状する気になったか。吐け、吐いて楽になるのじゃ。
「どうも、そなたに仕物にかけられることを恐れておるようじゃ。直江は幼きものでも平気で殺すことができる冷酷な男じゃというておったぞ」
なんと、道満丸様をそれがしが殺したことになっておるのか。本当のことだから別にいいんだけどね。
「上条宜順様は謙信公の御養子でございます。われらが手を出すことはござらぬ」
護衛のために派遣した細作を刺客と思ったのやもしれぬな。上条殿も百戦錬磨の武士じゃったが、すべてを捨てて気が弱くなっておるのじゃろうか。
「それを聞いて安心した。上条殿のことは心配いらぬ。そなたのやりやすいようになったじゃろ」
恩に着せられた。
石田、それがしは、そなたのことを全部信用しておるわけではない。
その夜の上杉軍陣所、景勝と直江夫婦が密談をしている。
「なんと石田殿は、真田を使って徳川との戦争を再開させようとしておるのか」
「はい。源二郎信繁(幸村)殿を連絡役にするつもりらしいです」
「真田が南進して再戦することになれば、徳川・北条の連合軍とやりあうことになります。援護するわれらの準備も必要かと思われます」
「ところで御実城様、堀殿とのお話はどのようなものでございましたか」
「堀殿に、謙信公が亡くなった時どのような心境じゃったか聞かれた。まさか信じられぬという心持じゃったと答えたら、堀殿は、それがしも同様でござると言われた」
ふうむ。
「本能寺で信長公と小姓・馬廻りが亡くなったこと未だに信じられぬと言われた。信長公の天下統一の理想を受け継ぐものとして関白殿下に従っておるが、自分は何時までも総見院様の家臣でございますとも言われた。どうも織田家に対して特別な感情があるようじゃ。それゆえ信雄(信長次男)様と和睦がなって内心ほっとしておると言うておられた」
「やはり小牧長久手の戦いは、堀殿にとって葛藤のあるものじゃったようでございますね」
「うむ。それに徳川殿に対しても好意的じゃった。徳川殿は総見院様に対する忠義の延長線上で信雄様に助力されたのじゃから、その進退一点の曇りもないと言われておった。徳川殿は織田家の家臣に高く評価されておるようじゃ。関白殿下が御妹様を差し出してまで和睦せんとしておるのは、織田家中の空気をひしひしと感じておられるからじゃろう」
「さすれば、再戦しようと工作する石田の策謀は無理筋なのじゃろうか」
お船が呟く。
「いや、そうともばかり言えますまい。九州征討が日程に登っておる現在、再戦工作は徳川を牽制し、和睦に追い込むために必要なのかもしれませぬ」
全く、どこまでも腹の底が見えぬ。本当に恐ろしいのう。何も考えずに従っておったら将棋の駒の様に使われるだけじゃ。
「われらはどうするべきじゃと思う」景勝が尋ねる。
「堺や西国に細作を派遣して、九州征討の準備がどれほど進んでおるか、調査する必要があります。自分で調べ、自分で考えねば、相手は天下を動かす切れ者、とても対抗することはできませぬ」
何やら上洛、気が重くなってきたな。三人とも心の中で同じことを考える。
天正十四(1586)年六月、近江大津に到着した上杉軍。
明日の上洛を控えて、景勝と直江夫婦が最終打ち合わせをしている。
「われらの宿舎は六条堀川の本国寺と決まりました。これからの案内役は木村清久殿が務められるようでございます。木曽義昌殿も、わざわざ上洛され、われらを待ってくださっておるとのことでございます」
「関白殿下よりは滞在中の物資の手当てをして頂きました。なお朝廷での叙任の根回しも済んでおるとのことです」
万事隙無き男・直江兼続、流れるように説明する。
「上洛は上杉の武威を天下に示すまたとない好機じゃ。そなたのことじゃから抜かりはないと思うが」
景勝は、入京する上杉軍の陣容が気になっているようだ。
「その点につきましては、兵の端々まで徹底させるよう、みなに申し渡しております」
「うむ」満足げにうなづく景勝。
「謙信公より二七年ぶりの上洛じゃ。天子様にも拝謁できる。謙信公が何をお感じになったか、何をお考えになったか、少しでも知ることができればよいが」
おお、御実城様は謙信公のことをお考えなのじゃな。そうじゃ、われらは謙信の家の者じゃ。相手が天子様でも関白殿下でも怯むわけには参らぬ。気合が入る三人。
景勝の前を下がり直江夫婦で打ち合わせをする。
「木曽殿の上洛は関白殿下の好意なのじゃろうか。御実城様は、どのようにお考えなのじゃろうか」
お船は気になっているようだ。
「木曽殿は信玄公の婿、御実城様の義兄に当たられます」
「しかし武田家滅亡のきっかけを作られたお方じゃ」
「木曽殿も名家を守るための苦渋の選択をされたのでございましょう。御実城様もそのことはお分かりかと」
「そうか。ところでこたびの上洛の目的を、どう考えておる」
「一言で言えば、上杉の臣従をどれだけ高く関白殿下に買っていただくかと言うことじゃと思います。われらは他の大名に先駆けて上洛したのじゃから、そのことを評価して頂かなくてななりませぬ。もちろん関白殿下は、われらの思惑を百も承知。ここは相手の台本通り演じるべきかと」
「そなたのことじゃから抜かりはないと思うが、新発田のこと、庄内のことなど、詰めておかねばなるまい」
「もちろん抜かりはございませぬ。石田などにも内々に話をしております」
「それとじゃ、わらわに二組ばかり細作を使わせさせてもらいたい。紀伊や近江では刀狩りや検地というものが行われておるようじゃ。その詳細を調べてみたいのじゃ」
ふうむ。
「関白殿下や石田殿から、いずれ天下の仕置きについてのお話があるじゃろうが、その実態を調べてみたいのじゃ」
ふむふむ。
自分で調べて、考える。大事なことじゃ。
「それがしも興味があります。お船殿にお任せいたします」
何故かぴったり意見の合う夫婦。似た者同士なのか。
天正十四年六月十四日、上杉軍入京。
誰も口を開かない、頭を動かさない、まっすぐ前だけを見た静かな軍勢が京の町中を行進する。うむ、まずまずじゃな。しかし鉄砲の数が少ないかもしれぬな。堺の代官になるという石田に鉄砲の調達を頼んでみよう。
馬上でも目まぐるしく考えをめぐらす兼続。
本国寺に到着すると木村清久が待っていた。
「暑かったでござろう。それがしの屋敷へどうぞ、風呂の用意が出来ております」
「かたじけない。いつもお世話になっております」
木村殿は石田などと共に上杉家の取次ぎをしてくれている関白殿下の側近じゃ。
兼続、木村の屋敷に赴き風呂を馳走になる。
「生き返った心地でござる」
「直江殿、茶でも一服しませぬか」
なにか相談したいことがあるようじゃな。
「総見院様の軍勢さえ討ち破った上杉殿が、こたび上洛して下さったこと関白殿下はたいそうお喜びでございます。ところで、それがし新発田重家のところに和睦の使者として赴くことが内定しております」
度肝をぬかれる兼続、まったく油断も隙も無いのう。
東国の平定に上杉軍を動員する。一兵でも多くの兵が必要だから新発田と講和せよ、われら豊臣政権が仲介するという通告というわけか。
「では関白殿下は、東国への進攻を決定されたのでございましょうか」
兼続、内心の動揺を見透かされないように、さりげなく聞く。
「はい、関白殿下は年初より富士山を見たいと申されております」
富士山。富士山は相模からも駿河からも見えるが、相手は北条なのか徳川なのか。それともただの牽制なのか。九州征討の準備も進んでおるようじゃし、何が目的か?
「九州進攻作戦の先陣として派遣される四国勢の戦闘序列が発表されましたが、やはり主力は毛利になるのではありますまいか。それを東国に当てはめれば毛利に該当するのは上杉殿でしょう。しかし上杉殿は国内に新発田の反乱をかかえたままで、このままでは大兵力の動員は不可能でございます。故に関白殿下は、それがしに講和の使者として赴くことをお命じになったのでございます」
われらの事情は完全無視で、自分の都合を押し付けてくる。これが臣従するということか。
本国寺に戻った兼続、お船に相談する。
「そなたは疲れておるのか。御実城様を戴いて初めての上洛じゃから気が張っているのは分かるが、ちょっとおかしいぞ」
「それがしの話を聞いておられましたか。新発田と同陣して北条・徳川と戦うことができましょうか。というか、そもそも新発田を許して家中の統制がとれましょうか。そんなこと絶対できません」
「絶対ない話じゃ。落ち着かれよ」
「関白殿下の御意向じゃと木村殿は申しておりましたが」
「ええい、黙ってわらわの話を聞きなされ。関白殿下が富士山を見たいなどと言って東国進攻をほのめかすのは、なんとしてでも徳川を臣従させたいからじゃ。御妹様を嫁入りさせて和睦の道筋を立てる一方で、強硬策も準備させていることを示して、徳川を動かそうとしておるのじゃ。そのことは、そなたもわかっておるじゃろう」
「しかし関白殿下は何を焦っておるのでしょうか」
「ううむ。堺に駐在させておる細作より報告があった。島津は鹿児島に大軍を集結中とのことじゃ。すぐにも北上を開始する心づもりのようじゃ。もはや九州で島津の相手になる者はおらぬ。竜造寺は戦死、大友は関白殿下に泣きつきに大坂まで来ておるような有様じゃからな」
「関白殿下は一日も早く親征して島津を討伐したいのじゃが、徳川のことが気になって動けないのじゃ。じゃから硬軟取り混ぜた術策で、徳川を臣従させようとしておるのじゃ。真田を動かすのも、新発田と和睦せんとするのも、全てその術策の一環じゃ」
ちょっと落ち着いた兼続、お船の差し出した水を飲む。
「関白殿下は、ご自分が中心で世の中が回っておると考えておられるところがある。成功の連続で、ついに天上の高みまで登られたお方じゃから無理もないが、新発田が和睦の申し出を受諾するような性格の男かどうか、われらが一番分かっておる。絶対に和睦はない。それに和睦がなったら、それはそれで悪い話ではない。難攻不落の新発田城から新発田重家を引き離して仕物にかけることもできよう」
“調虎離山”か。腹黒いことを言い出したお船に同意する兼続。
やはり似た者夫婦か。
六角堂での猿楽鑑賞など秀吉政権の上杉に対する歓待が続く。そしてついに大坂城での秀吉との謁見の日程が確定した。
本国寺・上杉家本陣では、直江夫婦が景勝の出座を待っている。
「わらわはそなたの軍師じゃから、当然わらわもついていくぞ」
なんと、関白殿下はことのほか女子に手が早いお方じゃ。心配じゃ。
どうしてそんな心配をするのか。兼続。本人も自分の心が分からない。
「お船殿が大坂城に同行すれば、関白殿下に上杉が証人(人質)を連れてきたと勘違いされて、そのまま留め置かれる危険性もあります。関白殿下にお船殿は大坂におれと言われたら、それがしも御実城様も反対できませぬ。おまつ(直江夫婦の子ども)にも会えなくなってしまいます。こたびは京で待っていてくだされ」
「直江景船で行くから大丈夫じゃ」
「関白殿下の諜報機関は、直江景船がお船殿であること、とうにつかんでおるはず。男装しても見破られます」
何としても行かせたくない兼続、ついに色仕掛けの泣き落としに出る。
お船の手を取り
「そなたは、わが掌中の珠。離れ離れになるのは、つろうござる。でも、今回ばかりは聞き分けておくれ」
そっと抱いて囁く。兼続、必死である。
「ごほん」
知らぬ間に景勝が近習を連れて入ってきていた。
「邪魔じゃったか」
景勝も、周りの者も含み笑い。
「きゃっ」
可愛い悲鳴を上げて駆けだすお船、取り残される兼続。
また誤解された。どうしてこうなるのじゃ。
「そなたたちも夫婦になったら直江を見習え。上杉家中一の愛妻家じゃ」
兼続の胸中に無常感が湧く。
諸行無常じゃ。
人は一人で生まれて一人で死ぬ。
誰にも本当のことを理解されることはない。
「しばし失礼いたします」
ふらふらと外に出るとお船が待っていた。
「ふん、そなたがそこまで言うなら京で待っていてやろう。ほんに、そなたはわらわがおらぬと何もできない男じゃからのう」
なんと。そうなのか。それがしは、お船殿を愛しておるのか。
自分のことが分からない兼続。
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