朝吹さん、先日は申し訳ないことをしてしまったと反省しています。
ごめんなさい。
叔母さんの精神的抑鬱、何となく分かります。
僕の親戚にも音大を目指している子がいました。
僕には訳も解らない譜面とにらめっこして1日何時間もピアノを弾いていました。
本人は譜面通りに弾いても、納得がいかないようで悩んでいました。
レッスンに行っても、上には上がいるようでこれも悩みの種だったようです。
結局、受験に失敗して希望の大学に合格しなかった従姉妹は音大に行きませんでした。ピアノも弾かなくなりました。その後、何をしていたのか知りませんが、今は、趣味でまたピアノを始めたらしいと聞いています。
朝吹さんは、自分のことを凡人と仰っていますが、貴方こそ非凡の才能の持ち主だと僕は思います。
度々言っていることなので、辟易していると思いでしょうが、毎回僕はそう思うのです。
朝吹さんの、お話は勉強になります。先生と今後は呼ばせてください。
作者からの返信
沈黙は金?さん
こんにちは!
音大を目指している方が近くにいらっしゃったのですね。わたしも友人がそうでした。でも幼少期からあれほど練習して、すごく上手なのに本命の音大は不合格。
だったら狭き門をくぐり抜けて合格した人たちはよほどの逸材揃いなのかな~と思うのに、全員が飛び抜けるわけではこれまたない。
たとえ超一流の音楽家の登竜門をくぐったとしても、世界に名が知れ渡るような人は、十年に数名程度なのですよね。
その音大を目指せる人なら全員がほぼ上手に、県一レベルで何でも弾けるというのに、なんと難しい世界なのでしょうか。
親戚の方が再びピアノを弾き始めたというのは素晴らしいことです。
どれほど上達しても、どこかでピュアな気持ちで、音楽を愛し、尊敬し、友達にならないといけないのだと想っています。
趣味として弾き始めた今の方が、きっと音色は良いのではないでしょうか。
わたしは天才に憧れる凡才ですよ~(笑)
天才とはこういうものなんだなっていうイメージはあるんですけど、それではないですね明らかに(笑)
音楽の庭に入っている人とそうでない人の演奏の差は一目瞭然(一耳?)で、それってどの分野にも言えることですよね。
小説も、物語の庭に入って書いた文章と、ブロック組立みたいに書いた文章は違うもの。
ただ、それは自分も実際に庭に入ったことのある人がわかる違いであって、そうでない人の方が圧倒的多数だから、単にミスが少なく形式が整っているものに評価がいきがちなんですよね。
本当の天才は、そんな世間一般の気風すらもブチ破るマグマみたいなものを抱えている人のことなんだろうなあ……と思います。
作者からの返信
鐘古こよみさん
創作論などをみていても、唯一の絶対的正解の作り方があり、部品を組み立てるようにして全員が同じ手順と方法で小説は書くものだと堂々と述べていて、くらくらしてきます。
その方法で書かれたものしか認めないし、他のことには一切眼が向かない。
ただセオリーに従っているかどうかだけが判断基準なんです。
判定も、白・黒はっきりしていますよね。
でも、先日亡くなったフジコ・ヘミングさんのように、たとえ異色であっても心で弾いている方のほうが、多くの人の心を震わせるのです。
でも前者の公式オンリーさんたちは決まった方法で書いていなかったらそこでブブーと失格ブザーですよね。
決まった手順で書いてあるミスのない小説を最上とする。それしか分からないから。
かくして権威アカデミーみたいなのが生まれていく。
小説が「型」を見るものならそれでもいいのでしょうが。
これは朝吹さんが複数の課題をクリアして、たぶん短時間に、その上かっきり2000字で書き上げられ作品。すごい。朝吹さんこそ、天才じゃないですか。
でも、課題で書いていると知りたくなかったなぁという感じ。テーマが先にあって、書いていると思いたかったです。だって、叔母さんがかわいそうじゃないですか(なーんて、変な感想ですね)
作者からの返信
九月ソナタさん
そもそもちょっと課題を勘違いしてまして、エッセイとして書いたものをあちこち直していくうちに、ああこれはもうと頭を抱えていたのですが、まあド派手に失敗したというのもいいかなって、そのままやけくそで出しました。
意外と好評(笑)
カクヨムコンの最中に「作品で競うのは苦手」と呟いた方がいて、分かる~わたしもそう~としみじみしたのが発端です。
逆に「やるからにはトップでないと」という人もいて、言葉どおりに、不動のトップを取りますよね。バイタリティが違うというか、生まれつきのものなので、やろうとしても他の人には出来ないし、向こうから見たら「どうして他人を押し退けてでも勝とうとしないのか理解不能」というところなのでしょう。
>叔母さんには「音楽の庭」に続く道が見えた。
いいですね……そうだそうだ、きっとそうです。素敵な追悼をありがとうございました。
天才はエネルギーもすごいですよね。ライバルを蹴散らし、身近な人は巻き込まれて疲れてしまう位に。叔母さんは繊細な人だからそんな事はできないし、ただ自分の音楽を奏でたかったのでしょうね。
繊細なラフマニノフが酷評されて鬱になって作曲した『ピアノ協奏曲第2番』を思い出しました。あれ、本人の演奏のは悲壮感が濃くて真摯で胸が締めつけられますよね。
作者からの返信
葵 春香さん
天才がすでに「すごい人」となった今、すごい人って大体は似てるな~って。
ベンチャー企業の社長に似たところがあるかな?
アイデアが欲しければ人を招いて語らせて、そこからアイデアを盗って自分がそれで儲けようとする。アイデアを盗まれた人が「こちらに一言もなかった」ってびっくりされてましたけれど(笑)、まあその盗用アイデアで興したことは失敗に終わってザマァなんですが、とにかく「有名になりたい」「金持ちになりたい」と現実的な目的がハッキリしていて、そちらに爆走してくんです。
芸術分野でも遺憾なことにそういう人は多いですよね。
ラヴェル「ボレロ」なんかも発表当初は酷評されて、今では愛される名曲ですが、『成功のレール』に沿って昇りつめた方々って自分サイドにあるものしか評価できないし見えないというきらいがありますよね。
そしてライバルになりそうなものは叩きまくる(笑)
この年になると普通にパソコンで文字打つのすら上手く行かなくて若い頃みたいに指が動かない……こわっとなるのにピアノなんて一音も間違えられないしそもそも上手く引いて当たり前の世界で長くいる人達って……と考えたら恐ろしい世界だなと最近ちょっと思いました。
作者からの返信
海猫ほたるさん
あれだけ練習すればミスタッチはなくなります。体操選手のように自動的に身体(指)が動いてるんです。
音大ピアノ科にいるような人は幼少期からピアノを習っていて、大方は親も音楽関係者で英才教育を受ける人がほとんどですから、完璧に弾けて当たり前。
十代にして技術の方が異様に高いんですよね~。
でもそれと「人の心をとらえる演奏」とは全然違います。
うまい先生だと、恋愛感情なんてまだ分からない子どもにも、「飼っている子犬のことを考えて弾いてごらん」と、感情との繋がりを教えてるみたいです(笑)
叔母さんのピアノを是非聴いてみたかったです。優しい方だったのでしょうね。
数々の天才達に踏み固めたクラシックの轍の上に、時々現れる優しい音楽や、絶望の淵から見上げた針の穴みたいな光の点に向かって立ち昇る音楽は、きっと乱暴な心では奏でられないと信じたいです。
作者からの返信
深川我無@「邪祓師の腹痛さん」書籍化!さん
レビューをありがとうございました……!
○○音大出、○○所属とのたまいながら、心のこもらない演奏を得意げに弾く人間のなんと多いことでしょうか。ただ完璧な演奏をして、「ここがフォルテ、ここがピアニッシモ」という指示を忠実になぞるだけ。それならAIに弾かせておけばいいのです。
もっとも、心を込めた演奏といっても、「そうか~心か~」なんて突然云い出してるようなのは駄目ですね。
音楽と蜜月を築ける人が見地を拡げて技術を磨いていく音大、この段階でけっこう素質のある人がふるい落とされちゃうんですよね何故か。
編集済
への応援コメント
他の方のコメントを拝見いたしまして、それから書くコメントなわけですが……
以前、ご親戚筋に有名な小説家?がいらっしゃると聞いて、やはり血は争えないと云うか、創作の魂の片鱗を見た気がしましたが、こちらの作品からは天才というものを身近に見ていた時の心境といいますか、それらを取り巻く環境といいますか、そのようなものをひたひたと感じました。
天才の描写がすばらしい……!
という、才能の欠片も感じない感想が飛び出しそうになるほどw
作中に出てきた、「趣味で弾いているのならば家の中で閉じこもって弾けば? 本当は認められたいくせに────」と言っていたという同期とは、果たして『天才』側の人間か、『凡才』側の人間か……はたまた、中途半端な才能を持ってしまった為にその宙ぶらりんな立ち位置からの苛立ちが言葉になったものだったのか。作者様の見解を聞いてみたい気もいたしました。
神々の戦いの中に進んで身を投じられる人というのは、それだけで天才のような気がします。普通ならそこに入っていこうとは思わない、若しくは自分の身の程というものに気づいてしまうのが、常人だと思いますから。
楽しいから書いている、という状況に我慢できず色気を出してどこかに発表したくなる気持ちはわかりますけど、名だたる賞レースに進んで身を投じるというのも中々に修羅の道だと思ってしまいます。でも、書くことは止められず、そこに価値を見出してしまったら、もう辞められないのかもしれませんね、創作というものは✨️
作者からの返信
天川さん
親戚に変人がいたというだけですし、その変人も親の代にすでに「そんな人がいた」になっていたので、わたしにとってはまったくの他人ですw
昭和の文士は濃いですよね。
天才を目指す方は人並み外れた努力をしますし、それが叶うポテンシャルもお持ちですし、何としても頂点に立ってやるという気概があるのですが、いざその狭き門をくぐって、超がつく立派な履歴をつくっても、びっくりするくらい音楽のことが分かってない人っているんですよね。
そんな方の演奏は「巧い」しか感想が出て来ない。音楽の園からは締め出されている。
それはやはり、芸術の世界というものが、迷い、躓き、弱さを内在し、やわらかな繊細さがないと深くは潜れないからではないでしょうか。
なのでやる気ギラギラで頂点を極めても、「エーッ」とがっかりするような人がいます。
小説もそうですね。あ、それを受賞させますか……と。
そつなく書く。これが一番大事。
まったく話が合わない方に長年ストーカーされてまして、その方がまさに「有名人になる=すごい才能」みたいな考え方で、「ああしろこうしろ」と後ろからがんがん蹴ってくるのですが、わたしの書いたものをコピーして自分が書いたように装う、わたしが書いたものを「指導してやったから書けるようになった」と外で自分の手柄として放言している、隙あらば「あんたよりもあたしの方が凄いから(※一文字も書かない)」と自慢する、わたしの交友関係にすべて顔を出していく、それらの態度をみるうちに、ああなんでこの人があんなにも憧れている『天才』の世界から締め出されてるのか分かるわ~と痛感したんですが、本人はそれすらも分からないんですよね。
他人のものを奪い去ることも平気だし、有名になるには手段は選ばない。そんなところには芸術の羽ばたきはありませんよ、と。
褒められたらうれしい、認められたらうれしい、賞をとれたらうれしい。
これは素直に嬉しいものですが、それ以上でもそれ以下でもない。私たちがやっていることは最初から最後まで、音符の音を1音ずつ追いかける、一文字一文字追いかける、地味地味作業です。
そしてそれを素晴らしい作品にするのは、ノウハウではなく、やはりその人自身に繋がっているその人の心のありようなんですよね。