十三欠片目
沈んでいく。光の届かない世界に。溶けていく。冷たいのに温まる水泡の抱擁に。
泡が一つ、二つ、三つ、連なって次々に弾けていった。
深海に沈んで姿を消してしまった記憶は多い。けれど大切な記憶はまだ、形を失ってなんかいなかった。
泡が耳元で溶ける時、海の冷たさが引いて幻想だと分かる時、この夢が俺の潜在意識の奥底だと確信する時。これまでにない鮮やかな過去が息を吹き返す。
――夢は昼間の記憶を情報整理する過程で生じる幻影だと、いつかの記事で読んだことがある。
夢の海溝に落ちながら、失っていた記憶が激流のように、渦潮のように、現れ続けた。記憶を眺める間は、胸が満たされただった。
「こんな大切なこと、俺は忘れてたんだな」
『忘れてたんじゃないよ。思い出すのに時間がかかっちゃっただけ』
「ありがとう。つばめのおかげで、やっと思い出せたよ」
『えへへ。カズくん、また笑えるようになったね』
「ああ……さっき教えてくれたこと、実里にもしっかり伝えにいくよ」
『うん! つばめ、ミノリちゃんにも笑ってほしいからね』
顔の見えないまま、つばめは一緒に沈んで来てくれた。
「それとさ。あの時、酷いこと言ってごめんな」
『ううん、つばめ気にしてないよ』
「……って、夢の中で言っても、つばめ本人には伝わんないよな」
『そんなことないよ。カズくんの言葉、つばめに届いてる!』
「ははっ……だったら良いな」
うんうんと、何度もつばめは首を縦に振った。
「実里にはさ、まだ言えてないこと沢山あるんだ」
『それなら言わなくちゃ。伝えられるうちに』
「俺、今度はちゃんとできるかな?」
『大丈夫、きっとできるよ』
――つばめがそう言った瞬間に、深海の水は蒼空に変わった。
水泡は集まって入道雲になり、魚たちは涼しげな風と化す。
晴れ渡る空に昇った太陽が照らす時、つばめの顔についた真っ白な絵の具が流される。
あの夏と同じ、満面の笑みを浮かべたつばめの顔がハッキリと瞳に映った。
『だってカズくんは、つばめのつまんなかった夏。変えてくれたんだから――』
ずっと続いていた夏の一日が、ようやく終わった気がした。
ツバメは透明な空の彼方まで、夏の匂いを残して飛び去っていく。
※ ※ ※ ※ ※
「――――つばめッ!」
意識が繋がると同時、俺は布団を跳ねのけて飛び起きた。
目覚めた部屋には誰もいない。布団もカーテンも天井も白い無機質な空間があっただけだ。
見慣れない光景と薬品の匂いで、ようやく自分が病室にいることに気が付く。
「ここ、は……病院?」
地元にある小さな診療所の病室だった。ここには予防接種の時にしか来ていなかったから、それが今はベッドに横たわっていたことが新鮮だった。
「実里が、連れて来てくれたんだな」
夢に沈む直前の記憶をパラパラと思い出す。今回ばかりは熱で忘れてしまった、なんてことはない。
「そうだ、伝えないと! つばめの言ったことの、本当の意味――っておもっ、なんだこれ?」
ベッドから立ち上がろうとした時、俺は妙に体が気だるいことを不審に思った。
インフルエンザで数日寝込んだような、何日も動かなかったことによる体の重さだ。
ここで俺は、病室に差し込む陽光が朝日なことを理解した。
「待て、今は朝……? 今日は何日――」
壁掛けのデジタル時計に目をやると、山に行った日から二日が経っていた。
「どよう、び……実里が、街を出る日!」
錆びたように固まった体を起こし、病室の窓を開ける。幸いにも一階の角部屋だった。
窓を全開にしたところで、部屋に看護師のお姉さんが入って来る。
「楠木くん! 目を覚ましたのね」
今は一秒も惜しかった。
俺の目覚めを喜んでくれてるお姉さんに謝りながら、鉄棒の要領で窓枠を越えた。
「ごめん看護婦さん! 俺行かないとッ!!」
「えっ? あちょっ、動いたら……ってどこいくの!?」
病衣のまま、診療所のスリッパをそのままに、全速力で駆け出した。
「楠木くん!!」
「ごめんなさい、ちゃんと戻ってきます!」
肺も心臓も起きていない。走りづらい履物に、万全じゃない体は全教科書入りのリュックを背負うみたいだ。
酸素もロクに吸えていない。ただそれでも、心だけが鉛の四肢を動かした。
「まだ行っちゃだめだ。あのこと、伝えないと!」
診療所は実里の家から遠い。向かう途中にある街の景色が、嫌でも目に付いた。
学校も、通学路も、駄菓子屋も、飯屋も、公園も、街の至る所に思い出の残像が映っている。どの光景にも必ず、彼女の笑顔が焼き付けてあった。
鮮明に投影された幻想を見る度、頭の奥で何度も俺の名を呼ぶ声が響く度、地面を蹴る力が増した。
「これで満足してたまるか……!」
もう幼馴染を、過去へ置き去りにさせたくなかった。
千切れそうなぐらい手足を前に突き動かしていたところ、大衆食堂『しくると』の看板が目に映った。
目線を落とすと、店前で掃き掃除をしている店主のおっちゃんと、長年おっちゃんが出前に使ってる自転車がそこにあった。
そして正常な判断が下る前に、俺の体は動いていた。
「おりゃ、よるかずくんか? 入院したって聞いてたがどうした、そんな慌てて」
「おっちゃん、そのチャリ貸してくれ!」
「へぇあ? でもこれ出前の……」
「頼む、ちゃんと戻しにくるから! 心配だったら半日後に俺んちまで電話ちょうだい!」
「ほ、ほぉ……まあ一日ぐらいなら良いが」
「ありがとう!!」
店主のおっちゃんに勢い任せで頭を下げ、自転車のペダルに足を掛ける。
状況に追いつけずポカンとしていたおっちゃんは、「気をつけてな」とだけ言って不思議そうに俺を見送った。
土曜の朝、皆がまだ眠っている街の道路を自転車で駆け抜けた。
全体重を前に、ただがむしゃらに実里の元を目指した。
「みのりっ、待って…………あと、少しだけッ!!」
蒸発しかける夏を追い越す勢いで、灼熱をペダルに乗せた。
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