二欠片目

 風に乗って、風を越えて、自転車は長い急勾配の坂道を下った。


 残像になって置き去りになってく風景の中で、実里の後ろ姿だけがくっきり目に焼き付けられる。


「いっけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」


 足を広げて跨る実里の後ろで、荷台と彼女の肩を握って俺は必死に掴まった。


 実里の髪がぶわっと、向かい風で波打って逆立つ。スローモーションみたいに揺れ動いた。

 車体は縦に震えて、焦げた匂いが鼻を突いてくる。聞いたこともない回転音が車輪の連結部から響いてる。


 心臓は五十メートルも後ろに落としてしまったみたいだ。


「待て待て待てまてまって、実里! みのっ、ブレーキ!」


「そんなの使ったことなかったじゃ~ん」


「ガキの頃とは重さも速度もちがっ……って、揺れんなって! 転ぶころぶ!」


 いつにもまして実里の破天荒さが弾ける。

 下手に止めることもできず、俺は自転車の速度に翻弄されるまま。


 空を舞う鳥を追い越す速さで、車体は坂を駆け降りた。

 更に一回、蹴るように実里はペダルを一蹴させる。


「行くよっ、カズ!」


「本当に、まっ――――」


 車体は坂の終わりを前にした時、突然ふわっと浮かび上がった。


 坂の途中にある小さな盛り上がりにタイヤが触れ、ジャンプ台の要領で自転車は飛んだのだろう。

 舗装された道を越え、短い草が生い茂る空き地目掛けて落ちていく。


 重量がほんの一瞬だけ働くことをやめて、世界の景色だけが落ちていく。肌に触れる風がそれを教えていた。


 蒼空に浮かんだ入道雲へ、吸い込まれるみたいに身体は舞った――



 焦げ鉄の臭いがまだ漂う自転車は横倒しのまま草の上で転がる。


 飛んだね~、なんて言って笑う実里の前で、呼吸を乱した俺は地面に両手をついた。

 浮遊感と思考の吹き飛ぶ感覚が残っている。自分が本当に死んでいないか、なんども土に触れて確かめた。


「はぁっ、はぁっ、死ぬかと思ったぞ!」


 開けた道だったから良かったものの、何かにぶつかりでもしたら大惨事だった。

 まだ心臓がうるさい。バクバク波打って、口から飛び出そうになる。


 そんな気も知らないで、実里は顔を覗き込む。


「あははっ。で? なにか思い出せた?」


「そんな急に言われても――――あ」


 そう言っていた途中、唐突に記憶が蘇った。


 それは既視感のある記憶。実里の後ろに座り、自転車で山の坂道を駆け降りた。

 実里の背丈はまだ小さく、周りの風景もよく見えていた。自転車の速度は今より緩やかだったが、怖くなった俺は悲鳴を上げながら実里の服を掴んでた。


 世界がまだあんなに大きかった頃の思い出が、数秒に満たない時間で回帰する。


「そうだ! 昔も全く同じことやらされたっ!!」


「おおっ、思い出せたね~!」


「今回はホントに死にかけたけどな!!」


「効いたでしょ? ショック療法」


「荒療治過ぎて記憶より命が危ないわ」


 記憶を遡る旅の一発目にしては、刺激の強すぎるイベントになった。



 けど思い返してみれば、あの日はもっと酷かった。

 たしか実里が調子に乗って自転車を漕いで、二人とも派手に転んだ。受け身もロクに取れなかったから、体のあちこち擦り剥いたっけ。


 怪我は大したことなかったけど、痛くてしばらくその場で泣きっぱなしだった――


「あれ?」


「どしたの? 他にもなにか思い出せた!?」


「いや、これ以上は特に……」


 記憶の蛇口は閉まったまま。今はそれ以上蘇ることはなかった。


 ただ純粋に、疑問が湧いたんだ。擦り剥いて血だらけになったあの記憶の、その先のこと。



 二人して怪我をした俺達はあの日、どうやって家に帰ったのだろう。と――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る