空に溶けた麦つばめ

白神天稀

プロローグ

 高熱にうなされて起きたら、どうも一年分の記憶が消えてたらしい。



「……なにを、忘れたんだっけ?」


 毎年変わらない夏の匂いを吸い込んで、蝉の声が響く空の入道雲へ俺は問いかけた。




 ――俺の人生、楠木くすのき 夜千よるかずの記憶からページが抜け落ちた。


 記憶喪失……と言っても、一年前までの記憶が消えた訳じゃない。

 俺の生きてきた。精密検査によると、一年に相当する記憶量が消えたのだと医者から説明された。

 その言葉通りなら、「記憶や思い出が虫食いのように所々欠けてる」程度とのこと。つまるところ、すぐには日常生活へ影響がない。


 最後に受けた授業内容は思い出せるし、家族や友達との記憶も概ね覚えている。

」という人物が生きたという時代の記憶が、スッポリ無くなってた事に気付いて、さっきようやく実感できたところだ。


 人間は毎日の出来事を一つ一つ覚えてる訳じゃない。小学校の昼休みにドッジボールをした記憶だって、一個もあれば十分だ。



 だから記憶喪失なんて、対したことないと思ってた。教室の扉を開く前までは。


「あ、おは……よ」


 真夏の蒸し暑い教室で一人、女の子が待っていた。


 わざわざ人が少ない夏休み中の学校へ呼び出した本人が、机に座って足を揺らしている。

 長い黒髪をなびかせ、窓からの風に当たって涼を取っていた。映画のワンフレームから切り取ったような光景が時間と共に流れる。


 声を発することも忘れかけた時、俺はその子の名を呼んだ。


実里みのり


 彼女の名が『麦野むぎの 実里みのり』であることを反芻して、記憶が正常か確かめる。


 寝てる間に、俺は幼馴染のことも忘れていたのだろうか。


 つい先週話した記憶もあるのに、記憶の中の彼女より大人びて見えた。ただ記憶は鮮やかだ、失っていない。

 数秒見つめている間に、その彼女がいつも通りだと実感できる。


 小さい頃の無邪気さと天真爛漫さを含みつつ、妙にいつもより落ち着いた雰囲気を纏っていた。


「おはよっ、カズ」


「待たせたな、暑かったろ?」


「気にしないで。あたしが呼んだんだもん」


 窓からのそよ風に揺れる髪の長さに、吸い寄せられたみたいに目を引かれる。


 記憶の確認のため、アルバムを漁っていたからなのか。今の実里と幼い頃の姿が点滅のように交互で目に映った。


「記憶喪失はだいじょぶそ?」


「ところどころ、記憶が欠けてるみたいでさ。何を忘れたのか、自分でも分かんないんだ」


「そっか。でも、あたしのこと覚えててくれたから、ひとまず及第点!」


「どーも」


 記憶の整合性を確かめる間も与えず、彼女のペースに全てを持ってかれる。


「問題でーす。あたしとカズの関係は?」


「かれこれ十年以上の付き合いになる幼馴染。家は真ん前の超ご近所さん」


「好きな食べ物は?」


「鮎の天ぷら」


「アルメニアの一番有名な郷土料理は?」


「それはたぶん元から知らね」


「あははっ、バレたか~」


 流れるように冗談を言う。そう、実里はこういうやつだった。


「じゃあさ、山行くのにサンダル履いて靴擦れしたときの……って、ごめん! やっぱ今のやっぱな――――」


「そんなことあったっけ?」


 覚えのないことを言われ、頭を傾げた。


「えっ……」


 実里はやけに驚いた顔をして、数秒もの間固まっていた。


 顔を近づけながら、彼女は尋ねる。


「ねえ、もしかして忘れてる? 中学生のあの夏にあったこと」


「何年の夏――」


 言いかけた時、俺は違和感に気付いた。

 俺と実里は中学の夏休みに、。なぜならお互い部活や塾が忙しく、ただの登校日よりも会う機会が少なかったから。


 けどそれは、思い違いだ。

 切ない表情で見つめる実里が、俺に失った記憶があることを告げていた。


「おぼえ、てない」


 彼女の反応に怯えながら、恐る恐る口に出す。


「三年の時の記憶なら確実にあるよ。ほとんど塾に行ってた記憶だけど……」


「それじゃあ、山のことも、あたしのおばあちゃん家でゴーヤ食べたことも、自転車のことも――」


 指折り数えて、焦った様子で実里は詰め寄る。


「まさか、小二までの夏も、ぜんぶ?」


「なんのことか、さっぱり……もしかして俺、何か重要なこと忘れてる?」


「……紙飛行機の勝負、どっちが勝ったかは?」


「悪い……紙飛行機で勝負してたことすら、思い出せない」


 立ち上がっていた実里は座り、沈黙が流れた。


 気まずい静寂に耐えかねていた時、声色を変えて彼女は信じ難いことを告げた。


「あたしね、来週になったら引越しちゃうんだ。地元から出ちゃうの」


 時間の流れが止まったように感じた。

 小さい頃から一緒にいることが当たり前だった実里が、いなくなってしまう事実を頭が受け入れようとしない。


 衝撃、当惑、失意、に揉まれながら、詰まった喉から言葉を絞り出す。


「それも、覚えてなかった……ごめん」


「あっ、これは言ってなかったことだから。今伝えたこと。知らなくて当然」


「そう、か。それでも、行っちまうことに変わりはないんだな」


「うん、もうしばらく会えなくなっちゃうの。だから、今日はこうして学校まで呼び出したんだけど」


「そうだったのか、そりゃ――」


「今はそんなことどうでも良い。忘れて」


 そう言うと実里は俺の手を握って、走り出す。


「今から行くよ!」


 俺の手を引っ張って、実里は教室を飛び出した。


「えっちょ、行くってどこに!?」


「私たちにとって、大事な場所!」


「待って、俺なんも持ってない! せめて一回家に……」


「モバ充とお金はあたしが持ってるから。時間ないしこのままで良い!」


 何が起きてるのかも分からないまま、幼馴染に引かれるまま廊下を駆け抜けた。


 振り返った実里は、見たこともないほど焦った顔を見せる。


「あの記憶を思い出させれるのは、あたししかいないから」



 ――昇降口を抜け、靴もしっかり履けてないまま連れ出される。

 昔から足の速かった実里に置いていかれないよう、必死で足を前に動かす。


 澄み渡った蒼の空へ吸い込まれるように、消えていった記憶を求めた俺達は雲を追いかけた。

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