やがて最強の君とであうために

超新星 小石

第1話

 その男は切り立った崖の上に立ち、眼下に広がる荒れ果てた大地を睥睨へいげいしていた。


 女性のウエストほどもある二の腕を曲げて、逆立った赤い髪を撫でつける。


 東方に伝わる武術家の装いである黒い道着を身にまとい、背には自ら剥いだ竜の皮の赤いマントをたなびかせている。


 腰には一振りの直剣を携え、柄の上に肘を置いていた。


 男の耳に、音が届いた。音、というより、振動と形容するべきだろうか。


 否、これはもはや壁である。音の壁が、男に迫っている。


 一つ一つの音の連なりが重なり合って、重々しく厚みのある音の壁が男を圧死せしめんと迫ってくる。


 乾いた風が吹く荒地の向こう。砂煙の中から、幾百、幾千、幾万という兵士たちが雄たけびを上げて向かってくる。


 その迫力は激しくも繊細で不思議な一体感をもつ楽団オーケストラのようだ。


 男は鋼の甲冑に身を包んだ軍勢を前に、口角を吊り上げた。


「数は上等、士気は上々、練度も連携も高いと見える。ではこの軍隊オーケストラの指揮者は誰か?」


 男が目を凝らすと、軍隊のはるか後方、王都の跳ね橋の前に一人の若者が剣を掲げていた。

 

 青い髪に青い瞳。水色のマントを肩にかけたその若者は、まっすぐ男を見ている。


 男は若者と視線が交わったことを感じると、舌なめずりをした。


「相手にとって不足なし!」


 男はマントを脱ぎ捨て、崖から飛び降りた。


 自由落下の最中さなかに男は剣を抜き、左手で印を刻んで魔法を発動させる。


 男の体を漆黒の鎧が包み込む。


 左手には赤い棘の生えた円盾が出現し、直剣も刀身が倍ほども伸びて赤く光りを放っていた。


 地上に着地するころには、男の武装は完全に完了していた。


 ゆるり、と地面についた膝を伸ばし、迫りくる軍勢へとつむじ風のように切り込んでいく。


 男の一振りで数十人が吹き飛んだ。


 男の目の前では、人が指で弾かれたゴム人形のように吹き飛んでいく。


 男が通った後には抉れた大地と赤い血しぶきの跡だけが残っている。


 足さばきは氷面を滑るように鮮やかに、剣の一振りは山をも切らんばかりの豪快さで突き進む。


 男は止まらない。幾万の軍隊が前から後ろから、左から右から、槍で、剣で、魔法で、弓で、あらゆる方法で男の命を貫こうと襲ってくるが、男は全ての脅威を暴力でねじ伏せる。


「ふははは! 愉快愉快ぃ! どうした虫けらども! 我はまだ生きているぞ! 我はいままさに生きているぞ!」


 幾億と繰り返される命のやりとり。死を感じる瞬間は毎秒ごとにやってくる。濃縮された死神が鎌を振り下ろして襲ってくる。


 男は振り下ろされる死神の鎌を躱し続ける。およそ常人が一生に経験するであろう死の気配をゆうに越えている。


 男はこの刹那にしか生を実感できない。


 死ぬかもしれない。だが死ななかった。


 その瞬間にこそ背筋を愛撫されるような果てしない快感が与えられる。


 男は兜の中で笑っていた。


 男の進撃は止まらず、ついに跳ね橋の前にまでたどり着いた。


 青い装いの若者が、剣を構えた。


「まてぃ!」


 大陸全土に響くのではないかと思うほどの声が、全ての者共の動きを止めた。


 全員が、男を中心に止まっている。さも時が止まったかのように。


「このまま乱戦というのも悪くないが、貴様とは決闘という形で戦いたい」


 男が若者に切っ先を向けると、若者はごくりと生唾を飲み込み、背筋を伸ばした。


「我が名はリーデルハイト・ガードナー! 王都アステリカの守護者にして魔王を滅する使命を与えられし勇者!」


「そうかそうか、やはり貴様が勇者だったか。なぁに、軍隊の後ろでビクビクと震えているものだからもしや違うのかと不安になっていたところだったのだ」


「この……無礼者! 貴様も名乗りをあげろ! 魔王!」


 リーデルハイトが怒りに満ちた目で男に剣を向けた。


「我が名はグリード。グリード・アルデバラン。魔族を統一し、エルフの里を堕とし、ドワーフの都を滅ぼし、フェアリーの森を焼き、獣人セリアンソロピーの街々を壊滅させた魔界の王。次は貴様ら人間だ、勇者よ」


「図に乗るな魔王!」


 リーデルハイトが駆け出した。


 魔王グリードは剣を構え直して待ち構えている。


「……残念だ」


 グリードは一言そういうと、一歩、踏み出した。


 両者がすれ違う。

 

 それから二人は、まるで二人の間の時が止まったように動かない。


 軍隊も、町人も、固唾を飲んで見守っている。


 先に変化が起きたのはグリードだった。


 グリードの兜が二つに割れ、地面に落ちた。


 群衆の何人かは胸をなでおろし、歓声を上げた。


 ところが次に変化が起きたのはリーデルハイトだった。


 彼の首がゆっくりと傾ぎ、濡れた雑巾を床に放り投げたような音を立てて地面に落ちた。


「いやああああああああああああああ!」


 幼女の悲鳴が呼び水となったのか、群衆たちも慌てふためいた。


 兵士たちは武器を投げ捨てて我先にと逃げていく。


 町人たちは手を組み合わせて神に祈っている。


 一人の幼女だけが、リーデルハイトの亡骸に駆け寄り体を揺すっている。


 グリードは絶望に彩られた混乱の中で魔法を解き、静かに剣を鞘に納めた。


「虚しいものよ……」


 空を見上げて呟くグリードの顔に、小石が投げつけられた。


 彼は小石を見もせずに、その小石を受け止め握りつぶした。


「あんたなんか! 恐くない! 恐くないんだから!」


 グリードが視線を下ろすとリーデルハイトに駆け寄っていた幼女が憎悪に染まった瞳で彼を睨みつけていた。


 もはやだれもグリードに敵意を向けるものなどいない。だれもが諦め、絶望している中で、三つか四つほどのこの幼女だけがグリードに敵意を向けている。


 彼は昂りを感じた。敵意を向けられるだけで、興奮してしまうからだ。


 とはいえ相手は息を吹きかけるだけでも死んでしまいそうな幼い女。デザートにもならん、とグリードは心の中で呟き背を向けて立ち去ろうとした。


「どこいくのよ! にげるつもりなの!? あんたなんか、あんたなんか! 異世界からきた勇者がきっとやっつけるんだから!」


 幼女の言葉を聞いて、グリードは立ち止まった。


 異世界の勇者。聞いたことがあった。なんでも世界の理を越えてくる人間がいるのだと。


 その者の力は絶大で、神にも匹敵する力をもっているのだとか。


 グリードは興味が湧いた。


 もはやこの地上に自分よりも強い存在がいないことは確認できた。


 ならば次は神、といきたいところだったが、その前に神に匹敵する存在と手合わせするのも面白い。


「どうしたのよ! おじけずいちゃったの!? あんたなんて、たまたまお父さまにかっただけのでくのぼうなのよ!」


 幼女が叫んでいると、グリードの姿が煙のように消えた。


「へ? ーーきゃあ!」


 グリードは幼女の背後に回り込み首根っこを掴んで持ち上げた。


「異世界の勇者とやらについて詳しく聞かせてもらおう」


「絶対に教えたりなんかしないんだから! あの子はわたしといっしょに強くなって、いつかあんたをやっつけるんだから!」


「我を倒すだと……? そうか、それは失礼した未来の好敵手よ」


 グリードは幼女をゆっくりと地面に下ろすと、今度は跳ね橋の前で震えている神官たちを睨みつけた。


「逃げようなどと思うなよ? そんなことをすれば地の果てまで追いかけて四肢をへし折ってやる。さあ、我を案内するのだ。異世界の勇者のもとに」

 

 グリードに迫られた神官たちは、何度も首を縦に振った。


 グリードは王宮に案内され、王宮の地下室へと入っていった。


 最奥部の一室には、床に金粉で描かれた魔法陣とその中央に鎮座する揺りかごがあった。


「これが異世界召喚の儀式……たしかにこの部屋にはただならぬ魔力が漂っている……して、異世界の勇者とやらは?」


「あ、あちらでございます……」


 神官は揺りかごを指さした。 


「なに……?」


 グリードが歩み寄ると、揺りかごの中に赤子が収まっていた。


 赤子はグリードを見るなり両手を伸ばした。


 左手の中央に星のような形の痣があった。


「これが……異世界の勇者?」


 グリードは唖然とした。


 なんの脅威も感じない、この赤子が勇者とは。


 恐怖も絶望も知らない、ひたすらに純粋なこの赤子が。


 グリードが言葉を失っていると、赤子は揺りかごの淵にかけられた彼の小指を握ってきゃっきゃっと笑った。


 触れられた瞬間、グリードは全身に電気が流れるような衝撃を感じた。


「ふは……ふはは……ぬぅふははははは! そうか! そういうことか!」


 グリードの笑い声に、神官たちは体を寄せ合って震えた。


 ひとしきり笑ったあと、グリードは揺りかごから赤子を抱き上げると、頭上に向かって魔法弾を放った。


 城が吹き飛び、空が顔を覗かせた。


「この赤子はもらっていく! そしてこの我がこの赤子を世界最強に育ててやろう! 我は宣言する! この者こそが、やがて我を倒す勇者になると!」 


 グリードのマントが翼のように変形し、彼は虚空へと飛び立った。

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