第29話

「まさか、彼がそうだったとは。」

 呆然として千哉が呟いた。

 暗がりの中、桂香は京太郎の手を握った。微かに彼が何か言っている。桂香には何を言っているのか、分かった。

「……桂香…私が裏切っていると……知っていたか?」

「知っていたわ。」

「……なぜ?……言わなかった?」

 本部のスパイだったのに、桂香は知っていたことを本部に告げなかった。

「だって、わたしはあなたを愛しているもの。それに、あなたは分かっている。愛をコントロールするなんて、無理だということを。そして、わたしも同じ意見なの。人から大切なものを奪ってはいけないからよ。」

 電気がついた。停電は二、三十秒ではなく、九十秒だった。一分半。京太郎が恭介にその時間内にリセットするように頼んだのだ。

 その準備は大変だった。五分はかかると恭介は言ったが、京太郎は納得しなかった。時間があればあるほど、シャイン・アイズに気づかれやすくなるし、停電によってのインフラから何からの影響が甚大になってしまう。墜落する飛行機も出るだろうし、手術にも影響を与えるだろう。

 だから、短くしてほしいと言われて、恭介は世界中の仲間と九十秒で世界中をリセットする、軍事衛星から使うためのリセットの特別アプリを制作したのだ。

 京太郎に一大プロジェクトを任されていた恭介は、全て終わってから一人、物置部屋に入って背中を壁につけた。リセットのあのマンションの一室だ。

「京太郎さん、終わったよ。」

 そう言って、涙を拭いた。

『それで、京太郎さん、これ、作ってもいつ、発動させるの?』

『それは、たった一回限りの発動だ。追跡されても困るし、一発勝負。向こうも何度も軍事衛星を乗っ取られるわけにもいかないし、すぐに対策を取られるだろう。』

『それで、いつ? こっちも準備しないといけないしさ。』

『いつとは言えない。すぐにできるようにしておいて欲しい。』

 恭介は頭を抱えた。

『はあ。そんな、無茶苦茶な。』

『すまないな。だが、やってくれ。』

『じゃあ、どういう時に発動させるのか、くらいは教えてくれ。』

 一瞬、黙った京太郎は頷いた。

『そうだな。それくらいは言っておく。』

『うん。そうして下さい。』

『それは、私が死ぬ時だ。』

 恭介はぎょっとして、すぐには理解できなかった。

『それって。』

『私が死ぬ直前にリセットをする。シャイン・アイズの軍事衛星を使う。それくらいの犠牲は必要だろう。』

 恭介は頭を振った。

『ちょ、ちょっと待って下さいよー! じゃあ、もう、それ押されたらすぐに行動できるようにしないとじゃないですか! ああ…! 作り直しだ! もう、早く言ってくれないから…! 起動までの時間も含めて、特別なスマホに入れないと…!』

 そんな話をしたことがあった。だから、恭介には分かっていた。京太郎が死んだのだと。

『恭介に京太郎か。どっちも“きょう”か。じゃあ、キョウキョウという名前? 恭しい都とか? だめだな。かっこ悪い。』

 恭介がそんなことを言うと、じっと京太郎は考えていた。

『知っているか。平安京に遷都した時、影に誰がいたのか?』

『は? 平安京?』

『バックには秦氏がいた。』

 なんで急に歴史の話なのか恭介は分からずに、はあ、と呟いた。

『だから、“Back”にしよう。』

『え? なんで、そうなるの? 別にいいけど。ひびきもかっこいいし。』

『お前が恭しい都だ、なんて言うからだ。』

『え、俺のせい?』

 世界的ハッカー集団、“Back”。それは、京太郎が作ったハッカー集団だった。恭介は一人で某国国務省をハッキングして捕まりそうになっていた時、京太郎に助けて貰い難を免れた。そして、ハッカーになってくれと頼まれたのだ。

 その時の、京太郎の笑顔を恭介は思い浮かべていた。

 寂れた埠頭ふとうでは、みんな呆然としていた。桂香は知っていたが、涼は知らなかった。

「まさか、彼が…。本当にいたとは。」

 千哉が繰り返し、呟いている。

「千哉さん、どうしたんですか? どういうことです、本当にいたって?」

 祥二が尋ねた。

「実はリセットの本部から、こういう話があった。もう、話を聞いてから二年くらい経つけれど、シャイン・アイズの重要なメンバーが、我々を助けてくれていると。でも、誰なのかは分からなかった。それが、彼だったなんて。まさか……。」

 祥二も勇太もトイレに行きたいのを我慢している貴奈も、心許ない光が点滅している街頭の下にいる京太郎達を見つめた。

「京太郎。わたし、お腹に赤ちゃんがいるの。あなたの子よ。この間、言いそびれちゃったの。」

 京太郎は微笑んだ。そして、何かを言った。

「……愛してる。」

 かすかな声は、ほかの人には聞き取れなかったかもしれない。でも、桂香には分かった。

「ええ。わたしもよ。愛してる。」

 桂香は静かに彼の唇にキスをした。彼の手から力が抜けたのが分かった。彼は静かに旅立ったのだ。顔を下げて見つめる桂香の涙が、彼の頬の上に優しい雨粒のように降り注いだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る