下らない淡光

狐木花ナイリ

本文

 彼の家に向かう道すがらでランボルギーニとすれ違う。スタイリッシュに走る黒い高級車は、どこか怒っているようにも見えた。黒ガラスで隠れた後部座席を確認することは叶わなかったが、どこかのお金持ちが彼に追い返されたのだろう。趣味の悪い想像をして、車椅子を押してくれている息子と一緒にくすくす笑った。彼の出身でなければ、あの高級車はこの田舎には来なかった。


 私には誇るべき友人がいる。

 彼は世界的に評価されているアーティストで、特に画家として名の売れている男だ。

「青の中の少女」━━名前だけならば聞いたことがあるだろう。霧の濃い黒い夜の森を背景にして、正方形の青い鳥居の前で青色の天狗の面をつけた背丈の低い少女が佇んでいる幻想的な油絵。少女の姿はまさに不定形で、黒い鳥の羽が背に生えているようにも、鈍く光る黒い爬虫類の尾を尻から揺らしているようにも見える。

 着ている服も不可解。セーラー服を着ているようにも、白いTシャツを着ているようにも、あるいは全裸のようにも見える。見えるが、それが調和して”青い天狗面をつけた少女”としか形容させない。そんな奇妙な絵だ。

 また、彼は「青」を使うのが上手い画家とも言われていた。彼の「青」は「ユウヤブルー」という名前で呼ばれた。恰好の良い呼称とは到底思えないが、とにかく彼は殆どの作品でこの「ユウヤブルー」を主役として使用している。絵画に疎い私でも分かるほどに、その青は異常だった。もう少し具体的に言えば、人の目を奪う力を持っていた。

 フランスの美術評論家が「彼の青が素晴らしいのは、周囲の色だ。彼は青がどうすれば引き立つのか分かっているように思える。あえて青の周りで独特の色の置き方をすることで━━嫌な言い方をしてしまうと、周囲の色を台無しにしてしまうことで、主役である青に特別感が生まれる。そして、なぜか絵が腐らない。これは特異な才能だ」と、ある雑誌で述べていた。私の頭に最も嵌った説明がコレだ。

 当然「ユウヤブルー」は「青の中の少女」にも使われていた。


 今日はその友人に会いに来た。年に一度、田舎にある彼の家に集まることにしているのだ。家とはいっても、世界を放浪している彼にとっては別荘みたいなものだが。

 無人駅から、住宅街を抜け、田圃道から続く長い坂を上って見えてきた屋敷。

 森を背にして建つ横長の洋風建築。クリーム色の外壁にはところどころシミがついていて、枯れた蔦が張り付いている部分もある。雑草が無造作に生えた庭に、彼の黒いバンが見えた。その車の運転席のドアが開いて、彼が出てきた。

 背丈の低い男だった。ボサボサのショートヘアで、四角い顔に目は大きく鼻は低い。よれよれの無地の黒いTシャツに、黒のチノパン。

 今年で三十五歳になる男だが、少年みたく幼い印象を受けてしまう。

 そんな少年が、こちらに走ってくる。

「お姉さん!」

 と飛びかかって来たものだから、車椅子が倒れないか心配しながらも私は静かに少年を受け止めた。

「お姉さんって歳じゃないんだけど。━━元気?」

「はい!お姉さんが死なない限り僕は元気です」

 腕の中の少年が、にこにこ笑顔で私を見てくる。

「そりゃあ、良かったわ」

「はい!それじゃあ、時間も遅いんでお願いしても良いですか」

「そうね。お前は忙しいもんね」

「っへ、おかげさまで━━えと、山村さん。代わります」

 彼は息子から私を奪い取った。私の息子も彼の性格は重々承知しているから「裕也君。お母さんをよろしくお願いします。お母さんまた明日の夕方頃に」と言われるがままに私を受け渡した。

 坂を下って帰っていく息子を、少年はうんうんと頷きながら見送って。それから、私に向き直った。

「それじゃあ、モデル、お願いします」

 広い玄関に迎えられ、小さな段差を越えて廊下を渡る。いくつものドアの横を通り過ぎ、そして案内されたのはインテリア一つない寂しい部屋だった。一面漆喰の壁で、唯一の窓から森が見える。家の裏にある山の景色だった。私が意味もなく外を眺めていると、少年は私の肩を掴んで笑う。

「午前中に、僕が掃除したんですよ?」

 鼻高々に笑う少年は、まるで母親にお手伝いを自慢する子供のようだった。私は「偉いね」とだけ言って頭を撫でた。彼は目を細め、口の端を伸ばして笑った。これまた無邪気な子供のようだった。

 私の次に部屋へと運び込まれたのは、かごに入れられた白い蛇だった。

「アオダイショウです。最近飼い始めました」

 首に蛇を巻き付かせながら彼は笑った。

 それから彼は絵を描くのに必要なもの━━イーゼルにキャンバス、画材や絵具の詰まった箱に椅子を運び込んだ。何も無かった部屋が絵を描く為のアトリエに変わった。

 彼が準備をしている間、私は彼の蛇と戯れることにした。彼に巻き付いている蛇に私の腕を近づけてみると、のっそりと乗り移ってくる。

 そのまま首や肩に巻き付いてきた蛇の重さを感じながら、指で静かに触れてみる。

 蛇の身体は不思議だ。しっとりとした鱗を尻尾に向かって撫で下ろすと滑らかなのに、反対に撫で上げるとざらついていて痛いくらい。ずっと撫でていると次第に熱が感じられる。ひんやりとしながらも、命としての生生しい温さが私に伝わってくる。

 丸みを帯びた三角頭に手を伸ばすと、流石に嫌がられてしまった。

「こういうのをアルビノって言うんだよね?」

 蛇の触り心地を堪能しながら、少年に訊いてみる。返ってきたのは意外な答えだった。

「いえ、お姉さん。それはアルビノじゃないです」

「マジ?」私は驚く。

「普通ならばアオダイショウの目って━━黄色でしょう。アルビノなら、赤い目なんです」

 白蛇の眼を確認する。黄色かどうかは判らなかったが、少なくとも赤色ではない。

「じゃあ、このアオダイショウはなんなの?」

「なんなのと言われると、白変種と言いますか」

「アルビノとの違いは?」

「うーん、難しいな。アルビノに比べれば日光に強いとか。でも蛇は明るい場所を好まないもんな」

「体が弱いとかないのかしら?目が悪いとか?人間だったら、そういうのがあるでしょう?」

「そうかもしれませんが。正直なところ分からないです。でも、僕は普通に育ててますよ。この説明じゃ駄目だな━━違いが難しい」

「じゃあ、この子もアルビノってことで?」

「お姉さんがそういうならば、もうそれでいいです」

「アッハッハ!」

 笑いながら私は蛇の顎を撫でた。

 白い蛇を首と腕に巻いた私は、窓の奥に映る森を背にして車椅子に座っている。私と蛇は彼の絵のモチーフになるのだ。それを実感する。スマホで私を簡単に撮影してから、彼は椅子に座り、膝に乗せたスケッチブックに線を引き始めた。そして、真剣な面持ちで言った。

「僕の話を、聞いて下さい。お姉さん」

 ━━やっぱり。

 彼は私を絵に描く際、必ず同じ話を述懐する。それは下書きでも同じなのだ。

「ええ、聞きましょう。なにかしら」

「これは僕が小学生だった時の話です。まさに若気の至りって感じのお話です」

「少しだけ、冒頭の入りが変わったわね」

 私はそう呟いた。しかし、集中している彼の耳に私の言葉は入らない。

 ■

 いつかの夏休み。

 夜の魅力に気付いてしまったのが間違いだった。

 あの頃の僕は学校よりも絵画教室に入り浸る不良小学生で、自分自身の才能を信じていた。しかし、とある美術大学が主催する実技模試にこっそり参加した時、他の学生達に圧倒され、打ちのめされた。すっかり意気消沈してしまった僕は、昼間は家に籠って読書、夜は親に隠れて町を散策するという不健全な生活を続けていた。

 田舎の町は夜になれば閑静な住宅街と化す。僕の住んでいた町でもそれは同じだった。深夜九時に家をこっそり抜け出て。街路灯の下。橋の上。公園の中。

 道の真ん中を闊歩しても、車どころか人間一人すれ違わない。本当に誰もいない。この町は僕の為だけに存在している。そう錯覚できた。

「夜は僕の時間なのだ」

 最近、読んでいる小説━━ライトノベルの主人公の真似をして、妙な高揚感に浸ってみたりしながら、ただただ町の中を駆けた。

 外灯と黄色く点滅する信号機、窓から外気に滲んだ暖色光も、人間を察知して点灯するライトだって僕には着いて来ない。空に張り付く月だけが僕を追っている。

 誰も居ない道を━━昼間、自動車達が行き交うこの道を、僕が代わりに走ってやるのだ。

 黒い蔦を纏う白い家を曲がると、勾配がきつくなる。

 それが分かっているから、さっきまでミシンの針のように飛び跳ねていた脚が次第に音を収めてくる。僕は立ち止まり息を整え、虫除けスプレーを身体の露出部分に吹きかけてから、のそのそと混繰土の傾斜を登り始めた。

 急勾配を上っていくにつれ道が舗装路から山路に代わり、左右の風景が住宅地から森に変わっていく。天は着々と木の葉に覆われていき、明るい月でさえも隠れてしまう。鼻腔に入ってくる風は、数か月間の総ての天気を凝縮させた泥の匂い。名前も知らない花の独特な香りが混ざって、少し気持ち悪い。しかし、この森林でしか味わえない特別な芳香には違いなかった。

 疎らに景色を装飾する樹木の隙間でがさがさと音がする。夜の森に棲む野獣が僕を威嚇しているのかもしれない。担任の先生が言っていた。「あの山には、猪が出る」。

 しかし僕に恐怖心は無かった。彼らは僕に歯向かわない。根拠の無い自信を今夜の僕は持っていた。それに、僕は夜目がきくのだ。暗黒に包まれた山林でさえ、僕にとっては道が少し狭い藍色の植物園と何ら変わらない。その誇るべき夜目によって、あの神社を見つけた。

 神社といっても荒れ果てた廃屋だった。節々が腐っていて、参拝なんて御断りの建物の形をしているだけの木の組み合わせ。藍色の森林の開けた土地にそれは立っていた。

 その建造物を「神社」と呼んで良いのかすら分からない。石鳥居の隣に立っていた廃屋を、僕がそのように名付けただけだった。

 寺なのか、神社なのか━━無知な僕には分からなかった。ただ、僕がこのあばらやをなんと呼ぼうが誰も文句は言えない。なぜなら、夜は僕の時間なのだから━━もとい、この神社を知っているのは僕だけの筈だから。

 ━━。━━。━━。

 妙な高揚感に浸る僕の耳に、聞こえてきた小さな音。それは風のさざめきではなかった。勿論獣の鳴き声でもない。その音は、無機質に鳴り続けていた。

 ━━。━━。━━。

 神社の後ろに生えた藍色の木々が淡く光っていた。

 スマホだった。

 拾い上げてみると、音に併せたように微かに振動している。僕は先ず、両親が常に使用しているのを思い出した。そして級友の中にも持っていた奴がいたのを思い出す。スマホを所有していなかった僕は、彼らを羨ましく思っていた。

 液晶に表示される「愛」という文字の、右下に存在する緑の円に人差し指を触れさせてみる。

「もしもし、相川です。どちら様ですか?」

 そして、右耳に直方体を寄せて、両親の教育を踏襲して電話に出た。

「ラヴと書いて愛ですが。おいおい!誰だ!子供の声じゃん!」

 スマホを耳から離す。鼓膜が破れたかと思った。

 スマホから聞こえてきたのは、泣いているのか、笑っているのか判らない声だった。ただ、声色から女性だと判断することはできた。

「子供の声じゃ、ありません。愛さん。僕は相川といいます。それに高校生です」

 僕はすぐに嘘をついた。小学生の僕には反抗期特有の子供扱いを嫌がる性質があった。親に子供と言われて不機嫌に。大人だと言われれば上機嫌━━そんな時期だった。だから「子供の声」と言われて半ば反射的に「高校生」と答えた。大人と答えなかったのは、中途半端な自重心が作用したからだと思う。変に背伸びした嘘が大きな後悔を招くことも、僕は知っていた。だから小学生の僕は中途半端な嘘をついた。自分が高校生であるという下らない見栄を。しかし、安易な見栄を張ったことを後悔するよりも先に、黒い液晶の白い文字が僕を笑った。

「っへえ。高校生なんだ。それでも十二分に子供だね。というか本当に高校生?声変わり前ボイスなんだけど」

 小学生の僕にとっては高校生は大人みたいなものなのに、愛さんにはそうではないらしかった。でも、後には引けない。額の汗を右手の甲で拭いながら僕は応えた。

「僕、さっきまで走ってて、水もないので喉が渇いて声が変な感じになっているかもしれません」

 自分でもよく分からないまま、言い訳をしながら僕は、近くにあった太い幹に背中を預けた。

「っへえ。そうなんだ。九時だもんね。深夜だもんね」

「はい」

「はん。━━それで、何のつもりなの?どうして君が出たの?」

 スマホの中の女の声色が低く変わった。どこか怒られたようにも聞こえて、心臓が跳ねた。心の中で慌てながらも、僕は声を上擦らせないように気を払って答えた。

「えっと。スマホが落ちていまして。電話がかかっていて。僕は拾って電話に出たんです」

「っへえ。ああ。なるほど、理解理解。じゃあ、持ち主に返さなきゃね」

「そうですね。警察とかにでも届けに行きます」

「━━そうね、それがいいかも」

 愛さんの呟きが聞こえたかと思えば。文字しか表示されていなかった液晶が暗転して、一拍、明るい背景に、ソファに座る女性が現れた。小さく白抜き文字で何か文字の描かれた黒いTシャツに、まるで狐の毛のようにハッキリと色の区切られた黄色と白色の髪、さらに凝視すると目の周りを模る睫毛も眉毛も同じく雪のように白かった。口の端を吊り上げ、右手には銀色の缶ビールを握っていた。

 なんとなく判った。彼女が電話の相手だ。

 ソファに座る愛さんの背中にはレンガの壁があり、その壁には小さな暖炉が埋め込まれていて、横向きに斧が飾られていたりもした。四角い小さな窓からは森の景色が見えた━━まさにファンタジー、まるで別の世界のようだ。

「その部屋は、愛さんの部屋ですか?」「そうだよ。生活感があるでしょ」

 僕は彼女の部屋を見て、好きなライトノベルの挿絵を想起した。主人公の少女が住む家も山奥にあって、彼女の背に映っているような木造建築だ。僕が下らないことを考えていると、愛さんの顔が巨大化した。

 いや、顔をあちらのカメラに近づけたのか。表情がよく見えるようになった。異世界で笑う愛さんの白睫毛に囲われた目は青色だった。スマホの中の少女は青い目をきらりと光らせて笑っている。

「異世界人?」僕は小さく呟く。

「は?」

 スマホの中の愛さんが眉をひそめて低い声を出す。低く、そして濁った太い声は、火山が噴火する前の一瞬の地響きのようにも思えた。僕は地震の警報が鳴った時と同じように、何か行動を起こそうとした。僕は訳も分からず言葉を繋ごうとする。

「じゃあ━━」僕が愚かな質問を重ねる前に。

 愛さんは缶の底を天に向けて口に酒を流し込んだ後、まるで性格が変わったように破顔した。

「イヤ、そうか。そうだな。笑えるッ!アッハッハ!異世界人━━かぁッ。異世界人として生きていこうかなッ!お前、センスあるなあ、流石高校生!」

 さっきまでの静かな笑い方とは一転、何かを諦めた少女の鳴き声のようにも聞こえた。僕の周りにいる大人もお酒を飲んだ時には大きな声で笑う。父親の豪快な笑顔を頭に浮かべていると、スマホの液晶が黒くなった。

 電話が切れたらしい。

 かと思えばすぐにまたスマホが震え出した。

「こんばんは」愛さんが帰って来た。

「えと、こんばんは。さっきの大声は、大丈夫ですか?怒っていたんですか?」

「いいや、別に怒ってないよ。褒めていたんだ」

「僕が異世界人と言ったのには理由があるんです」

 僕は戸惑いながらも弁解しようとした。

 思ったことを適当に言っては駄目なのだ。口にした言葉には、必ず説明が必要になる。

「えっと、僕の好きな小説。ライトノベルなんですけど。その主人公の髪は金と白の混ざった色をしているんです。それで愛さんの部屋と、似たような場所に住んでいて。凄く恰好の良いキャラクターなんです」

 なるべく早口で説明した。途中で愛さんが口を挟もうとする仕草が見えたけれど、結局は缶ビールで口を塞いでくれた。僕が語り終えたのを認めて愛さんは感慨深げに言った。

「私も読むよ。そういうの」

「ほんとですか!?」

「うん。”不思議の国のアリス”とか”スタンドバイミー”とかでしょ?」

「僕の知らないものです。アリスは聞いた事ありますが……」

「……マジかよ」愛さんは低く唸ってから、今度は猫撫で声で笑った。「なるほどねえ、でも人に言っていいもんじゃないでしょう。異世界人なんて」

 ”異世界人”には、何か悪い意味でもあるのだろうか。僕はよく分かっていないままに確認した。

「そうなんですか?」

 スマホの中の少女は缶をぷらぷらとゆらして笑う。

「そうだよ。大人になったら分かるかも」

「……」

「まあ、わざわざ説明してやるほど優しくないけどね。とにかく、「異世界人」なんて言葉、現実で使うんじゃないよ━━まあ、いいや。少年も顔を見せておくれよ。なんというか寂しいじゃん」

 笑う愛さんの顔がまた大きくなる。またカメラに顔を近付けたのだろう。比べて僕の顔は彼女より大きいだろうか。僕の顔を彼女に見せる方法━━それを僕は知らなかった。

「えっと、どうすれば良いですかね?」

「高校生なのにスマホの使い方も分かんないの?教えてあげようか」

「……」

 あの主人公と愛さん重なりかけた。

「高校生でも、分からないことはあるよ?」

「そうですよね。愛さん」

 愛さんにスマホの操作を少し教えてもらった。スマホを操るのは想像していたよりも簡単で、表示されるボタンや文字を少し触るだけで、愛さんの世界に僕の世界が表示される。

「普通の顔だね」

「はい」

 僕が顔を晒したというのに愛さんは興味無さそうに呟いた。本当に僕の顔があちらに届いているのだろうか。

「そんで。そこは何処なの?真っ暗だけど?ライト点けてみて」愛さんが聞いてきた。

「はい」

 懐中電灯機能をオンにすると、まばゆい白光が藍色の森を照らした。スマホの裏側から照射された光は、液晶の淡い光とは違ってはっきりとした輝きを持っていた。思わず目を瞑ってしまう。瞑った瞼の裏には先刻の森林の風景が張り付いている。

「その建物はなに?」

 どうやら愛さんには僕の顔ではなく、僕の周囲の森林が見えているようだった。スマホにはカメラが二つ付いていて、片方は僕の顔。もう一方は世界を撮影している。その視点には神社がある。

「僕は神社だと思っています」

「どういうこと?」

「神社なのかどうか、分からないんです」

「鳥居はあるの?」

 僕はスマホを持つ手を水平移動させて、白い光を鳥居に向けた。

「ありました。石で出来た白いのが」

「じゃあ、たいがい神社だね。知らないけれど」

「僕もそう思います」

「そんで。君はそんなところで何をしているの。こんな━━深夜にさ」

「散歩ですねぇ」鼻を掻きながら僕は答えた。

「変わっているね。そんな山の中でさ」

「そちらも森の中みたいなもんじゃないですか。窓から見える景色なんて、山そのものです」

「ああ?こっちは東京だぞ。少年。森なんてない」

 僕は彼女が何を言ったのか分からなかった。彼女の背中にあるレンガ壁に着いた窓の外では、今も木々が揺れているのに。

「あ」愛さんは呟くように言って、続けた。

「バーチャル背景ね?」また愛さんが前屈みになった。その瞬間、液晶が暗転して、世界が変わった。愛さんは変わらずスマホの中心にいたが、彼女が佇む世界は違った。

 レンガ壁がただの漆喰の壁に変わって、フローリングには乱雑に積まれた衣類の山。壁の端では台に乗ったテレビと携帯ゲーム機が繋がって転がっている。窓からはベランダと靄がかった夜空が見えた。

「どうよ。ここが東京だぞ」

 無秩序な部屋を東京だと語った愛さんをおかしいと思った。だから僕は言った。

「東京には見えないです」

「アッハッハ!無知な田舎者には分からないかな?」

 天狗のように笑った狐髪の少女は、また前屈みになって僕のことを手で掴んだ、そのように錯覚した。スマホの画面が、荒々しく揺れ、部屋の中が断片的に見える。

 がらがら、と扉が開いたような音が聞こえたかと思えば。揺れていた世界が、安定して、そして煌びやかな町が映る。どうやら愛さんは外に出て、外の景色を僕に見せてくれたらしい。

「どうだ、ここが東京だ」

 標高の高い部屋から都会が見える。赤に黄色、ピンクに青、様々な明かりが混ざり合って永遠に続く怪しげな町のジオラマが、スマホの中に切り取られ。そして僕の手の中に乗っている。畑も田んぼも見つからない。玩具のように小さなトラックや車が行き交う街道は勿論、路地裏としか言いようの無い細い道でさえ人間が歩いている。

 これが東京なのだろうか。

 これこそまさに異世界じゃないか。

「どう?」

「異世界みたいです」

 僕が呟くと愛さんは大声で笑った。物凄い速さで世界が回転して、幾千の直線になったかと思えば、いつの間にか狐髪の少女が愛らしく目を細めて僕を見つめている。

「じゃあ、私は異世界人に見えるってわけ?」

 東京に棲みついている彼女は、僕にとっては結局異世界人に見えたが一瞬の間、悩んだ末に嘘を吐いた。異世界人は悪口になる。僕はそれを学んでいた。

「全然、見えません」

「じゃあ、何に見える?」

 僕は結局こう答えた。

「えっと、普通に恰好良いお姉さん」

 口にしてから。先ず、”普通に”というのが失礼だったと後悔した。また、”恰好良い”なんてのは、安易な言葉のように僕には思えた。かえって失礼な気がした。けれども普通に恰好良いお姉さんは鼻を鳴らした。

「学習したね、偉い偉い。最高に子供って感じだ」

 何と反応すれば良いか分からなくなって、樹木に預けていた背中を起こして、僕は立ち上がった。手の甲で額を拭って、周囲の森を何度も見回した。膝に力を入れて不安定な土と枯葉の上を踏み、ぐるぐると回ってみた。初めて夜の町に出た時の独特の高揚感を思い出した。

「どうしたの?少年。ぐるぐるなんかしてさ」

「なんか、楽しくて」僕は足を止めて答えた。

「私も楽しいよ。そんな暗闇の中で笑っている少年がおもしろくて堪らない」

「まあ、高校生ですからね。森の中で深夜徘徊ぐらいしますよ。楽しいですから」

「そうだね。私も━━求めていた相手には電話がかからなかったけれど、楽しいよ」

「え、それって……」

 愛さんが口にした台詞に、僕は絶句した。

「当然じゃん。私だって暇じゃないんだ。君と話したくて、電話をかけたわけじゃない」

 突然、愛さんは突き放すように態度を変えた。しかし、言われてみればそうだった。電話というものは、話し相手を決めてからかけるものなのだ。僕は偶然スマホを拾っただけで。本来なら僕ではない話し相手がいた。

「怒った?」

 目尻を落として、細く光る彼女の目が笑う。

「いや別に」

 僕は嫌悪感を露わにしないように気を払いながら、言った。怒っているというより哀しかった。

「ごめん、冗談だよ。私は正直、誰でも良いの。少年。実はお願いがあるの、そのお願いを聞いてくれない?」

「ふーん」僕は極力、ぶっきらぼうに呟いた。

「だから、私、少年にお願いがあるの、その森、どうせ山の中にあるんでしょ?登ってみない?」

 愛さんは、一言一言台詞を大事に溜めて、そして吐いた。

「え、なんで?」でも僕は語尾を上げて、応じた。何が”だから”なのか、分からなかった。それに、愛さんにもう少し嫌がらせをしたい。

「だって、高校生なんでしょ。山登りくらい出来なきゃ駄目でしょ?」

「登りたくないです」

「高校生なのに?」

「……」

 話している間もずっと光っていた懐中電灯の先、樹木と樹木の間に都合よく隙間が現れる。その先には、僕がスニーカーで踏んでいる土と同じ色の地面が続いている。

「行くしかないじゃん。高校生?」

 愛さんが脅迫してくる。僕は苦笑いする。

「……そうですねえ」

 僕の頭には嘘を撤回するなんていう考えは無かった。高校生ならば、山登りぐらい出来なきゃ駄目なのだろう。出来ないと言ってしまえば、総てが嘘になる。それに、撤回する理由が無い。僕は山を登りたくないわけでは無いのだ。僕には誇るべき夜目もあるし、スマホには懐中電灯機能もついている。

「少年、お願い。登って下さい」

 それに愛さんもいる。なんだかワクワクしてきた。

「僕、いける気がします」

「いいね。じゃあ行こう。少年、高校生」

 神社を後にして、僕達は夜の山を登り始めた。スマホを左手に持ち、下らないことを駄弁りながら、不安定な茶色い地面を懐中電灯で照らして進む。

 土と枯葉の地面、低木と樹木でつくられていた世界に、次第に険しく苔を纏った色の薄い岩場が追加される。散歩というよりは、もはや登山だった。

 腕も使って腹に力を込めて、全身で岩壁を登っていく。時折、獣や野鳥の足音が木々の間の暗闇から聞こえた。得体の知れない虫を手で払いのける。山林を切り裂く道は細くなっていったが、その実、人間の侵入を完全に禁止しているわけではないらしく、四肢が揃っている僕には問題なく登れた。日本の大半の山には登山家達が開拓してきた道があって、僕はそれをなぞっただけだったらしい。それを後々知った。

 山路を進むと、低木が消えていく。疎らに生えた樹木たちの間で白い点が蠢いていた時は流石にぎょっとしたが、それが十数匹の鹿だと判った時には恐怖が興奮に変わった。二、三匹の鹿ではなく、群れとして生きている鹿を僕は初めて見た。愛さんは「怖くないの?」と心配してくれたが、僕はちっとも怖くなかった。

 鹿を相手に自信満々に会釈をしてから、更に足を進めていくと開けた土地に出た。四方を囲んでいた森の一片が纏めて何かに刈り取られたように消え、そこから空が見えた。僕は思い出した。あの満月は森の中に消えた僕をずっと追っていてくれていた。

 そして、僕と同じく月に見守られていたらしい━━僕の町も一望できた。僕の住む町で一番目立つ光はコンビニの看板だった。次に目立つのは外灯。北の山から見える町の東西には、のっぺりとした山のシルエットがのびている。南には住宅地が広がっていて奥にはやっぱり山がある。その山の奥に淡い光が見えた。隣町の光だった。駅で一つ行ったところの町。もちろん、東京ではない。

「寂しいわね」

 二本目の酒を飲み始めた愛さんが、僕の気持ちを代弁する。僕は彼女の笑顔を見て、思った。スマホの光が一番明るかった。気付いてはならないことに気付いてしまった。そんな気がした。僕は白けてしまった。僕は自分の町を眺めながら、呟いた。

「愛さん。僕、もう帰ろうかな。なんだか悲しくなってきちゃいました」

 既に僕は諦めかけていた。数十分、山を登ってきて疲れていたのだと思う。怒られるかと思ったが、愛さんはただ笑った。

「良いね。もうここが頂上みたいだし」

「頂上?」

「ほら、その目の前の。それ、頂上の印でしょ?」

 目の前には石で出来た細い柱があった。僕と同じくらいの高さの石柱。森と同化していて気付かなかったのだ。その標柱には山の名前と標高、そして「頂上」の二文字が記されていた。

 本当に頂上に着いたようだった。

「じゃあ、愛さん。僕は帰りますね?」

 満足した僕は、下山を宣言した。

 スマホに表示された時刻は既に十一時を過ぎていた。家に着くのは何時頃になるだろうか━━ある程度は遅くなってしまうだろう、そんな事を考えながらも。僕は早足で山を降り始めた。

「愛さん、愛さん?」

 愛さんの返答が無い。僕は手に持っていたスマホを見つめた。

 液晶が黒くなっていた。どころか、僕の視界は暗闇に包まれた。懐中電灯が切れた。スマホの充電切れ。

 そして、どうしてか僕の誇らしき夜目でさえも使いものにならなかった。

 僕は慌てて、さっきの場所に逃げ帰ろうとした。町が展望出来るあの場所に戻ろうとした。鹿の群れが自分を睨んでいた。血液が逆流するような感覚に陥って、全身の毛が逆立つ。僕は目を伏せてあの場所に走った。僕はこの時、森の恐怖を初めて知った。

 轟音がする。地震が起こったようだった。汗でしとったシャツを擦りながら、地響きのした方向に目を向けると、鹿の群れがこちらに向かって走っている。幾つもの目が僕に向かってきている。

 僕はしゃがみ込んだ。

 奇跡的にぶつからなかった。耳の横を通り過ぎた獣の匂いが喉に入って来て胃袋が跳ねた。はっと我に返って、そして立ち上がって、見つめた暗闇の中には最後の一つ━━いや二つの光が浮いていた。それは鹿の目では無い。

 僕は立ち尽くす。そして、猪の突進を真正面に受けた。暗闇の中を転がった。全身に堅い山があたる。膝に肩に頬に額に鈍痛が巡る。打った場所から冷えていく。未だ獣の荒い息が聞こえる。獣にぶつかられる。死を覚悟する。眉間に力が入る。

 ぬめついた何かに右頬が触れている。詰めたい何かが僕の右側に張り付いていた。

 痛みを堪えて目を開くと、それはブルーシートだった。

 どうやら僕の誇るべき目は復活したようだった。

 そこにはブルーシートに包まったまま倒れているヒトの姿があった。

「大丈夫ですか?」

 声をかけても返答が無い。

 しかし、降りる気力も無かったから、山の麓か頂上かさえ分からない暗闇の中、僕は助けを待ってみることにした。

 僕は彼女の隣に寝転がり、ブルーシートを被った。

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