温泉で出会ったとても礼儀正しい親子連れ

@kudamonokozou

第1話

「ああ、旅行なんて何年ぶりだろう。」


山中さんは、部屋から見える外の景色に、大きな喜びを感じました。


長い間働き続けてきたので、この旅行では仕事を忘れて、すっかり元気になりたいと思っていました。


外はちらほら雪が舞っておりました。

月は出ておりませんでしたが、星は奇麗に輝いておりました。


星明かりを頼りに、山中さんは露天風呂へ行きました。


湯舟に浸かって空を見上げると、都会と違って、たくさんの星が空を埋め尽くしているように思えました。


ちらほら顔に落ちてくる雪がひんやりと、熱い体を気持ち良くしてくれました。


山中さんはうっとりとして、目をつむって、今の幸せをかみしめていました。


『あれ、今僕は寝てしまったのかな。』


一瞬意識が途切れたような気がしたので、山中さんは周りを見てみました。


すると、先ほどは誰もいなかった風呂の中に、誰かが入っていました。


その人は、首まですっかり湯船に浸かって、目を閉じてじっとしていました。


「今晩は。」

山中さんは挨拶をしました。


「どうも今晩は。」

相手の人も、低い声で挨拶を返しました。


よく見ると、隣にお子さんらしき人影が三つ見えました。

皆、お父さんと同じように、首まですっかり湯船に浸かって、目を閉じてじっとしていました。


「ああ、お行儀のよいお子さんたちですね。」

と、山中さんは、静かにじっとお風呂に浸かっている子供たちに感心して、誉め言葉を言いました。


「そりゃあ、湯に浸かりに来ましたので。」

と、その人はさりげなく応えました。

それにしても、親子ともじっとしていて、入浴に集中している感じが伝わってきます。


邪魔をしてはいけないと、山中さんはしばらく黙っていましたが、つい、

「本当に良い夜空ですね。」

と、話しかけました。


「生きていれば、それで十分です。」

と、隣の人はぽつりと答えました。


「色々、ご苦労なさったのですね。」

と、山中さんは返しました。

山中さんもたくさん苦労してきましたので、少し気が合ったような気がしたのです。


「写真、いいですか。」

誰かが、かすれるような小声でそう問いかけました。


「え?」

と、山中さんが返事を考える間も無く、

『パシャッ!』

と、閃光がきらめき、シャッターを切る音がしました。


すると、隣の親子連れは、ものすごい速さで湯船から飛び出し、あっという間にどこかへ去って行ってしまいました。


『ああ、もっとお話ししたかったな。できれば子供たちとも。』

と、山中さんは悔しがりました。


「君、ちょっと失礼ではないですか。」

と、山中さんは写真を撮った人に一言いいました。


「どうもすみません。あまりにも絶好のチャンスだったので。」

と、その人は謝り、

「これは間違いなく良い写真になると思います。一枚お送りしますので、どうぞ連絡先を教えてください。」

と言うので、山中さんは、

『あの親子連れの写真をくれるのなら、伝えておこうか。』

と、住所と名前を口で教えました。


その人は、自分の名刺の裏にそれを書き留めて、

「それでは、私はこういうものです。」

と、別の名刺を、山中さんの着物の上に置きました。


「ところで、今の親子連れは土地の人でしょうかね。」

と、山中さんは親子連れがどうしても気になったので、写真を撮った人に聞いてみました。


「え?」

と、その人は不思議そうな顔で振り返り、

「そりゃあ、そうでしょう。」

と、にやりと笑いました。


風呂から上がって名刺を見ると、その人は写真家でした。


山中さんは、旅行が終わって、またいつもの暮らしに戻りました。


ある日、山中さんの自宅に、大きな封筒が届いておりました。


差出人はあの写真家でした。


山中さんは急いで封筒を開けて、写真を見て、

「あっ!」

と、声を上げてしまいました。


山中さんと一緒に写っていたのは、ニホンザルの親子でした。

四匹とも、幸せそうに湯船に浸かっている瞬間でした。


『どうりで、おとなしくて行儀のよいはずだ。』

と、山中さんは何度もうなずきました。


山中さんは、その写真家に礼状を送りました。


この写真は、今でも山中さんの部屋に飾ってあります。

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