無題
てん
第1話
待ち合わせ場所に彼は来なかった。
スマホがその知らせを届けた時、私は途方もない悲しみに襲われたのだと思う。
「仕事でちょっと遅れるから先に行ってていいよ」
ありふれた文章に見えるが、私たちにとっては確かに終わりを告げる言葉だったのだ。
どこかでガシャンと音が鳴った。
久しぶりに彼と会えるはずの日だった。
待ち合わせ場所は科学館の前の公園。
二人で科学館をまわる予定だったのだ。
普段なら気にならないような些細な矛盾が引っかかる。
少し遅れるくらいならそのまま待つのが普通であるし、彼に会えるのならばどんなに冷たい風に吹かれようと待つつもりだったが、続いた言葉は「先に行ってもよい」である。
この時点で彼との気持ちの乖離は明白だったのだ。
何の連絡もせずに冬の空の下に待たせるのは流石に可哀想だと思ったのだろう。
チグハグな言葉を送ったのは彼なりの最後の優しさなのかもしれない。
そんな優しさは求めていないし、終わりを告げる言葉の中の優しさなど、あってないようなものだ。
殴られた拳の親指が内か外かなどは、殴られた衝撃に比べればどうということもないのだ。
冬の冷たい風が頭を冷やす。
その場でしばらく考え込んだ。
このまま帰ってしまうと、交通費と、これから彼に使うはずだった時間がもったいない。
何の罪も犯していない科学館への憎悪も抱いてしまうかもしれない。
そこまで考えてから、あの音を聞いてから梃子でも動かなかった足がようやく一歩を踏み出した。
チケット売り場までの千里の道のりを歩ききる。
本来であればプラネタリウムを見るはずだったが、とてもそんな気にはなれなかった。
悪魔の手先が話しかけてくる。
曰く、期間限定の恐竜展を開催しているとのこと。
元々くるつもりもなかった彼は恐竜展があることすら知らなかっただろう。
口角を少し上げ、1人分のそれを悪魔の手先と契約した。
1700円と高く思えたが、彼との時間に使うはずの資金が潤沢にあった。
なにより悪魔との契約は相場が高いと聞く。
1700円はむしろ破格かもしれない。
2人で出かける時にかかる代金はどれだけ言っても彼が出していた。
しかしそれを当てにせず、ずっしりと重い財布を持っていくのがちっぽけなプライドでもあった。
契約書を持って入口に向かう。
入口を抜けるとそこは科学の世界、になっているわけもなく、学生時代に理科で習ったようなことが、詳しい解説と共に展示品として鎮座しているだけだった。
文系だった彼はどんな話をしてくれるつもりだったのだろう。
途端に囲まれている展示品に笑われている気がした。
悪魔の城の調度品である。
笑ってこないわけがない。
先程まで静かだったのは、誰を笑うか静かに見定めていたのだろう。
名誉ある1人に選ばれたのだ。
逃げるように恐竜展のコーナーに駆け込んだ。
城の外から運び込まれたであろう期間限定の化石たちは、きっと笑わないでいてくれるだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます