第22話 意外な角度
惜しむらくは、矢磯からすれば、一連の大半は自分自身から生じたでたらめだとわかっていることだ。砂上の
「そうなんですか……そうなんですね……!」
「はい。つきましては、大間さんのスマホの電話番号を教えて頂きたいです。ある意味、私となら話をする可能性も期待できます」
「はい。番号をいいます……この二ヶ月、ずっとかからないままですけど」
「呼びだしは鳴るんですよね?」
「はい」
「なら問題ないです」
「わかりました」
大間は、まだ赤楠の利用価値を完全には捨ててないらしい。いや、時機として、まだ捨てる頃あいではないと判断しているだけかもしれない。
いずれにしろ、大間の番号はしかと自分のスマホに記録した。彼が電話にでなくとも、これまでの苦労を補ってあまりある収穫だ。
「さてと、まだいくつか質問がありまして。お時間は大丈夫ですか?」
「ええ。でも、コーヒーをいれなおしませんか?」
希望が湧いたとみるや、赤楠は生まれかわったように
「そうですね」
なるほど、自分のコーヒーも冷めている。
「私がいれてきましょう」
赤楠は椅子をうしろにずらした。
「いえ、とんでもない。私がいきますよ」
「それなら二人でいきますか」
赤楠は笑った。
「はい」
矢磯も笑って席をたった。
ドリンクバーでは、ちょっとした譲りあいを経て、赤楠が先にコーヒーポットを手にした。作業を終わらせた彼女と、矢磯がすれちがう直前。彼のスマホが振動した。
「失礼」
空のコーヒーカップを持ったまま、彼は無意識にスマホを手にしてあとずさった。
そのとき、彼女の右手が慌ててなにかを引っこめた。白く小さな、丸薬か錠剤か。そんなような形をしていた。すぐに消えたので、はっきりとはわからない。
「もしもし、地野です」
旅館の社長だ。
「ああ、これはわざわざ。お電話ありがとうございます」
「いま、お手は空いていますか?」
「申し訳ありません、少しだけなら大丈夫です。少々お待ちください」
小声で会話しながら、テーブルに自分のコーヒーカップを置きにいった。それから、店内に直結するドアと路上のそれとに挟まれた待合スペースに進む。店員も、こうした場面には慣れている。待ちあわせをした一方……赤楠は店内にいるのだから、特に慌てない。
「お待たせしました。お願いします」
「はい、養殖場の和辻社長なんですが、ずっと連絡が取れないままなんですよ。こう聞いたら失礼ですが、あなたは本人と話ができましたか?」
地野社長が和辻の不在に焦るのは、地元民同士というのもあれば取引相手というのもあるだろう。
「いいえ。ちょっとおかしいですね。養殖場には問いあわせたんですか?」
何食わぬ顔で、矢磯は調子をあわせた。
「はい、でも出張中と聞かされまして。今日は、よそからヒラメの注文が殺到したので、こちらまで回ってこないとごまかしました。しかし、明日の朝にはどうにかしないと……せっかく人気がでたのに」
「まあまあ。嬉しい悲鳴ではありませんか。養殖場に、まったく人がいないわけではないのでしょう?」
「はい」
「なら、とりあえずその人に持ってきてもらったらいいじゃありませんか。まさかヒラメが一匹もいなくなったのではないでしょう」
「それは、おっしゃるとおりなんですが……」
新メニューが図に当たり、自信満々だった姿からは想像もつかないしおれようだ。
「なにか不都合でも?」
「他人事ながら、まことにお恥ずかしい次第で、どうせ取材していけば明らかになるのでお話します」
「はい」
恥ずかしいどころか、あの養殖場の情報なら大歓迎だ。
「あの養殖場には、和辻社長以外には一人しかいないんです。社長のお嬢さんなんですが、いまだにオートマ免許しかなくて」
「はい」
車を動かす仕組みは、大別してオートマチックとミッションの二つがある。最近の自動車は大半が前者で、車の加速なら加速、後退なら後退するときにただシフトレバーを操作するだけでいい。後者は、シフトレバーの操作にさいしていちいちクラッチペダルを踏まねばならない。また、クラッチペダルを踏まない状態で、極端に低いスピードになると勝手にエンジンが止まってしまう。
ミッション式の取り柄は、必要に応じて細かいスピードの調整ができることにあった。このためオートマチック式より燃費はいい。また、傾斜の強い坂道などでもエンジンのパワーを能率的に活用できる。
もっとも、オートマチック車の性能は日進月歩である。複雑な操作が必要なうえに、整備に手間暇かかるミッション車は次第に数を減らしていた。
ならば、養殖場でもオートマチック車だけを使えばいいかというと、そうでもない。新しいオートマチック車は値段が高い。それに、黒銀町は山あいにある。中古のミッション車は……とくに、まとまった荷物を運ぶトラック……まだまだ活躍の余地があった。つまり、養殖場のトラックはすべてミッション式だ。
普通自動車免許もまた、オートマチック車限定という種別がある。ミッション車も使いたいなら、限定を解除するために追加の訓練をせねばならないが、ミッション車は運転が難しいからと敬遠する人間も少なくない。
「ヒラメは、ぎりぎりまで生きた状態で運ばねばなりません。そのため特別なコンテナに移して、さらにトラックに積んで運ばねばならないのです。でも、お嬢さんには無理です」
「たいした距離ではないでしょうし、このさいバケツでもなんでも使って運ぶようにお願いしてはいかがですか?」
「最悪、そうせざるをえません。ですが、やはり質は落ちます。そんなものをお客様にだすのは……」
プロとして、その気持ちは理解できる。それを自己責任などと突きはなすほど、矢磯の人間性は落ちぶれていない。
もっとも、赤楠に対しては、誇張と捏造をフルに駆使して大間のスマホ番号を聞きだしてもいる。彼女の頭の中では、にっくき釣部店長が刑務所いきになり、晴れて店長夫妻となった自分と大間の未来図が定着していることだろう。
それもこれも、和辻の死からはじまっている。そして、地野社長もまた彼の死を知らない。
「ヒラメの納入そのものは契約を組んでいるんですよね?」
「もちろんです。前金も払っています」
「せんえつながら、一つだけ策があります」
「えっ? いったいなんですか?」
「あなたのご子息は、どこで働いてらっしゃいますか?」
知らないそぶりをするのが、もはや職人芸になってきた。
「町の葬儀店ですが……それがなにか……」
「なら、トラックくらいありますよね。どのみち地元なんですから、事情を説明して協力を要請してはいかがでしょうか? お金はそれなりにかかるでしょうが、お客さんはがっかりせずにすみますよ」
「ええっ!? た、たしかに……それはそうですが……たしかに……」
親子で必ずしも仲がいいとはいえないのも、矢磯はとうに知っている。だが、今日の明日のでぱっと相談して動けるのは息子しかいない。客のためだというなら、恥を忍んで息子に頭をさげることも決断せねばならないだろう。一日どころか、何日分もの利益が吹きとぶ瀬戸際。だが、客の信用を失うよりはまし。それが社長の責任というものだ。
「いや、ですぎたお話でした。お詫びします」
「とんでもないです。現状、それしかなさそうです。取材の話がこんな情けない相談になり、本当に赤面しております」
「こちらこそ。では、失礼します」
「はい、ありがとうございます」
なにやら思っていた趣旨と食いちがう内容になった。しかし、電話を切ってから電撃的にとある着想が浮かんだ。まだ、具体的な形にはなっていない。すべきでもない。しかし……しかし、これこそ『突破口』。
とにかく、赤楠のところへもどらねばならない。
「どうも、お待たせしてすみません」
「い、いえ。どういたしまして」
長電話ともいえない時間のはずだが、いささかバツが悪い。
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