9、X-10-3(1/2)

 自分の目の前で人がボロボロになるのを初めて見た。もし彼であればそんなのを見てもなんとも思わなかったのかもしれないが、私にとってそれはとても酷い物だ。どう見ても重そうな柱に押しつぶされた先輩が私たちのことをずっと睨んでいる。彼女は最早声を出すこともできず、ただ「逃げろ」と言っているような気がした。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」


 私もあの子も震えていた。あんな揺れが来るとは思わなかったし、何より見捨てる、ということだからだ。


 私と彼女は逃げ出し、要塞へと走った。その時兵士は作戦で敵に向かった、と聞いた。馬鹿じゃないか、と思った。そんなの自殺と変わらない、と。それでも4階で保護されることとなり、ふと窓を見ると津波がこちらに襲ってきている。津波がどんなものか、知らないけれどもあの襲来する波を見て大方の予想がつくのだった。


 ……今は彼と東京から彼の家族が疎開しているらしい熊本への特急に乗っている。

「あなたのご家族ってどんな人?」

「普通の人だよ。子どもは俺だけだ」

「そっか。じゃあ……私が娘になれるよう頑張るよ」

 彼は少し吹き出したかのように、笑い、その後うとうとと眠ってしまった。


 あの日の夜、私は彼のことを深く知った。私が珍しく早起きした時彼は泣いていた。泣くというよりは震えた涙だった。私にはその涙がどうして生まれたのかは分からない。けれどその涙を私は受け止めようと思った。


 だからこそあの日、私は彼に跨ってキスをしたのだ。これが共依存なのか、支えあいなのかそれは分からなかった。

「大好きだよ。誰が何と言おうとね」

 私の肩で眠る彼を見て、私はそう呟く。東京から乗り始めた特急は海沿いを走り、あまりの人で富士山は見えなかったが、間違いなく彼と過ごせるのだ、と思うと胸の興奮が止まらなかった。もし私が人目を気にすることが無ければ彼を思いっきり抱きしめてやれたのに、ということを考えていた。


 彼の抱える孤独と私の抱えるものがどれだけ重いのか、辛いものなのかという問いはほとんど意味を成さない。受け入れられるものでの割合できっと考えるべきだと思う。けれど、あまりにも苦悩を抱えすぎた人はいくら容量があっても突然壊れてしまう。多分彼はそんな人だと思う。


 どんな苦悩か、それはほとんど知らないが、それをきっと表に出せない性格なのを私は良く知っていた。彼と過ごしたまだちょっとだけの時間でさえ、そんなことが見て取れるのだから。それだけは思い上がりでないことを信じている。

「ふわあ……、あれ、ここは?」

「ちょうど大阪出た頃。寝顔可愛かった」

「はいはい」


 彼は手鏡を取り出し、首筋を眺めていた。

「キスはしないよ」

「前されたから」

「バレた?」

「何とか隠した」

「へー」

 彼は少しだけ気恥ずかしそうにしてその手鏡をしまう。

「きっとあなたは優しいから、私にはそんなこと決して見せようなんてしないけど、本当に辛くなった時、その時は私を頼っていいから……ね?」

「じゃあ君もね」


 彼はそう告げ、彼は黙って車窓を眺めていた。私の発言が彼をどうしたのかは分からないが本州を出る時まで言葉を交わすことは無かった。

「ありがとね」

 彼はようやくその固まった顔を柔らかくし、私に感謝を述べる。ああ愛されているんだな、そう実感した。彼をもっと「彼」でいられるように支えよう、と思った。


 特急が熊本の駅に到着する頃にはもう人もまばらであった。彼の言うことには彼の家族がホームで待っているのだという。会ってみたいという気持ちと受け入れられるはずのない絶望があった。受け入れられたところできっと元売春婦というイメージからは逃げられないことを知っていたから。

「大丈夫だよ……。きっと」

 彼は私を安心させるかのごとくそう言う。その担保は無いはずなのにそれに酷く安心した。


 やがて特急はその速度を緩め、その字面がはっきり見えた。

「降りよっか」

「うん」

 彼は私と手を繋ぎながらそのホームに降り立った。九州とはいえ少し涼しい風が気持ちよい。

「ねえ。あなたの家族に会ってからじゃ恥ずかしいから1回、キスしない?」

「キス……良いよ」


 彼はその唇を私にあてる。明らかに唇じゃない感覚が私に走った。唇を離すと彼が指でそれの間に入れていた。

「どうして?」

「ごめんね。怖くなった」

「『怖い』?」

「君の全て守るなんて、無責任なこと言えなくなった」

「そんなこと言うなら私を連れて行かないでしょ」

「確かにね」

 彼は笑い、それでもキスはせずに改札へと歩いて行った。彼が何を伝えたかったかはよく分かっている。けれどもそれが少し私を寂しくさせるのだ。信用されていない、わけじゃない。愛されていない、わけじゃない。そんなことは分かっていた。愛されているからこその発言だって、分かっていた。それなのに、この時だけは何かに置いていけぼりのような感覚がする。


 改札を抜けるその前、おそらく彼のご家族だろう――、数人が彼を待っていた。

あや!」

「よう帰ってきた、帰ってきた……」

「ただいま帰りました」


 彼は静かに家族を抱きしめ、家族は当然といえば当然だろうが涙を流していた。

「あなたが文の言っていた胡華こはるさん?」

「はい。大月おおげつ胡華と申します」

「じゃあ車回してるから。もう行きましょうか」

 私と彼は彼のご家族に連れられ、仮住まいへと赴いた。

「お2人大変だったでしょ? 少し休んでいきなさい」


 彼の分になるらしい、部屋で彼はすぐ布団に入ってしまった。

「一応もう1つあるらしいけどさ。どうする?」

「出すの面倒くさいし一緒で良い?」

「ああ」

 彼は何か鬱げに眠るわけでも無く壁を見つめていた。

「本当はこうやって眠る日が来ることも無かったんだ。だからすごく変な気持ち」

「そっか」

「戦争が終わってさ。それで話すのもやっぱり気が引けるんだけどさ。思い出だけ、言っていいかな……」

「うん」

 初めて彼と会った時、私は彼にずっと自分の人生について話していた。だから今度は、彼の人生を聞いてあげたい、理解したい、というのがあった。


 彼はぽつりぽつり、とその人生について話す。彼の先輩、私が救出された日にいたから覚えている。その事情までは知らなかったからあの店に来ている人なんだ、と思っていたが、実際はあの子の面倒を見てくれていた聖人のような人で、彼はその先輩に何度も助けられたそうだった。それに加え、人生の教訓、というより大事な物を貰った、と彼は言った。

「今君とこうやって生きていけるって言うのも多分、先輩のおかげだよ」

「そんなに?」

「ああ。なんだろ……、俺は正直罪ばっかり犯してるんだよ。何人も殺しちゃってる。それでも……」


 彼はやはり疲れていたのだろうかそのまま眠ってしまった。私は彼の手をぎゅっと握る。また彼が辛い思いをしないために。けれどもその時間は長くは続かなかった。

「あ、起きてたの? 胡華ちゃん、だよね。ちょっとお話しても良いかな?」

「はい」

 私は彼を極力起こさずに、彼の母親のもとへと歩いていった。

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