タバコと医者
北巻
第1話
私が学校を出て、帝国大医学部の佐藤内科にご厄介になっていた大正の頃のことである。腸チフスの患者さんを受け持っていた。患者はもう熱もすっかり下ってしまって退院の日を待つばかりであった。ある日の回診の時、その中年のタバコ好きな患者さんが、遠慮がちに私に質問をした。
「先生、タバコを……のんでも……よろしいでしょうか?」
受持医である私は、彼の全体の状況から見て、その日から食後に一本ずつ一日三本の巻タバコを許すことにした。しかし、彼の病室を出て廊下を歩いていると、いま巻タバコ三本を許してきたことが何か人知れず不安に思えてならなかった。自分の決断に自信がなかった。当時の私は臨床経験に乏しく知識もない、素人同然の医者であった。つまり、私が彼にタバコを許したのは、自身の医療的能力による判断などではなく、ただの一般的な常識の判断に過ぎなかったのだ。安易ではなかったか。青ざめた私は、その足ですぐ教授室へ駆け込んだ。委細をそのまま先生にお話しして、ご教示を仰がずにはおられなかった。先生は言った。
「君はどう思う?」
「わかりません」
「君が決めたまえ」
「先生の意見をお聞きしたいのです」
「ふうむ」先生はマッチを取り出して、タバコに火をつけた。タバコをふかしてから口を開いた。「タバコが身体に害であるのは確かだ。しかし、分からん」
「分からんでは困るのです。先生」
「君が決めたまえ」
「無茶ですよ。先生」
先生はそれ以上口をきいてくれなかった。私は結局、患者のタバコを禁止することに決めた。彼の病室に戻り、マッチとタバコを半ば強引に回収して、ゴミ箱に捨てた。取り上げたとき、私は彼の顔を見ることはできなかった。
その日から徐々に患者の容態は悪くなっていった。退院の予定は、一か月後だったものが、二カ月、三カ月、半年となった。数種類の薬を飲むはめになり、注射も何本か打つこととなった。ある雨の日の午前、憔悴した患者が私に「タバコをのみたいです」と懇願したことがあった。私は彼を一蹴した。腸チフスの症状は目立たないが、喀血と喘息が絶えない彼にタバコは許せなかった。
「先生……お願いします。どうか……お願いします」
私が退室しようとすると、彼はしゃくりあげて泣いた。私は彼のそばに寄った。そして、いまの状態ではタバコを許せない理由を教えた。
「先生のおっしゃっていることは、私にはわかりません」
私もであった。私も自分がしている説明を十分に理解しているわけではなかった。佐藤先生が仰った内容をただ伝えているだけなのであった。知らないことをあたかも知っているふうに喋るのは大変至難だった。
「先生。難しいことは私にはわかりません。ただひとつです。私は……タバコがのみたいんです」
「そうですか。お辛いでしょうが我慢なさってください。タバコは禁止と佐藤先生が仰っているのです。タバコをのまないでいれば、きっと治りますよ」
「わかりました」患者はそう静かに言った後、苦しそうな激しい咳をした。
「……果物、お好きですか?」
「え……はい」
「後で使いを頼んで、リンゴでも持ってこさせます。すって食べなさい」
私は退室して、彼に果物を与えるように看護婦に指示をした。勝手なことをしたら怒られてしまうと彼女はごねたが、お金を握らせると黙って従ってくれた。その日の午後に患者が死んだ。外でタバコを吸っているときに、同期の医者が私に知らせてくれた。
「死因は果物ナイフによる自害だそうだ」
「そうか」
「そうかってなんだよ」
「いや、なんでもない」
私は正面で降っている雨を見て、タバコをふかした。灰を落とす。また、タバコを吸った。私は隣で立っている同期を横目で見た。お前に言ったら鼻で笑うだろうか。おそらく死因はタバコなのだった。
タバコと医者 北巻 @kitamaki
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