魔動航空機事故調査委員会
アヤバ
第1話 0章 『事故発生』
事故当日のラエヴネ空港周辺は断続的に雪の降る曇天だった。前日の夜から早暁にかけて厳しい寒さに見舞われたため多くの道路で路面の凍結があり、それによる事故も多発したため都市全域に亘って交通網が麻痺しつつあった。そんな中、シュルヴィア・アイリ・サルメライネンは持ち前の段取りの良さを生かして空港のターミナルビルに当初の予定通り到着していた。
「うひゃあ、さっむぅ……」
タクシーから降りた彼女を、冷帯の鋭い寒さが穿つ。その日のスケジュールは殆どが室内ないしは機内で過ごす時間であり、寒空の下過ごす時間などほんの僅かだった。飛行機や鉄道による移動時間が長いこともあり、彼女は手荷物を減らすためできるだけ軽装で宿泊先のホテルを出立した。しかし、今日はその段取りの良さが仇となってしまった。
「飛行機の遅延は想定してなった……くそう、旅慣れしてないとこういう落とし穴もあるのか……」
当初の予定であれば、飛行機はとっくにラエヴネの地を離れている頃だ。しかし続く降雪と寒波の影響で離陸準備が遅れ、後続の飛行機も皺寄せを受けて更に出発が遅れている。アイリの乗る便は比較的早い時間だったが、それでも約二時間の遅れが出ている。これでもしもう一本後の便を選んでいたらと思うとゾッとする。アイリは自らの英断を褒め称えてやりたくなった。
簡素な手荷物の中身を確認し、アイリはタクシーのドアを閉めた。空港周辺で時間を潰すこと約三時間、そろそろ自分の乗る便のチェックインが始まる頃だ。ほんの一、二時間の間に厚みを増した積雪に足元をとられかけながら、アイリは国際線ターミナルに向けて歩き出した。
ターミナルビルは喧騒でごった返していた。建物の至るところで人々のやきもきした声がさざめき、ところどころから轟く子供の騒ぎ声がより一層喧騒を棘々しいものにしていた。ただでさえ便数が少ないところにこの遅延だ、この混雑も仕方がないだろう。
アイリは人込みをすり抜け、自分の利用する航空会社のチェックインカウンターへと連なる列に入った。今この列にいる人間は皆アイリと同じ便に乗る人々だろうか。皆一様に疲れを顔に滲ませていた。
「チケットと身分証明書をお願いします」
列が順繰り順繰り消化され、アイリの番が回ってきた。アイリは予め出しておいたチケットとパスポートを提出する。乗客帳簿と照会する係員の顔にも疲労の影がありありと浮かんでおり、無粋と知りつつもアイリは彼らの不運に同情を禁じ得なかった。
「確認できました。機内持ち込みのお荷物には制限がございますのでそれを超えるお荷物はこちらでお預かりさせて頂きますが、宜しいでしょうか?」
「大丈夫です。他の荷物はもう郵送してありますから」
「承知いたしました。では、そちらのゲートから手荷物検査場へお進みください」
「ありがとうございます――」
『お疲れ様です』と続けようとしたが、係員は義務的な笑顔を浮かべて次の乗客の対応へと移っていった。
返却されたチケットを受け取り、アイリはガラスの回転扉を抜けた。どうやら扉の先に通されるのは出発の目処が立った便の乗客のみらしく、エントランス付近とは打って変わって割合閑散とした様子だった。空調も正常に機能しており、扉の向こうとはまるで別世界のような快適さだた。
アイリは複数ある手荷物検査場への列のうち最も人の少ない列に並び、忘れ物や危険物の有無を確かめるために手荷物の中身を確認する。重要な荷物などは既に目的地に送ってあるため交通機関の切符と財布さえあれば良いのだが、道中使いそうな物の有無を予め知っておくのとおかないのでは精神的余裕が違う。場当たり的に慌てて対応するのも面倒なので、アイリはこういったタイミングで持ち物を確認するのを習慣にしていた。
「うげ、鉛筆削っとくの忘れた……鉛筆削り売ってるかなぁ……」
早速忘れ物を見つけてしまったアイリは思わず顔を顰めた。移動中の暇つぶしにとナンプレやクロスワードを用意していたのだが、潰れたペン先ではどうにもやりにくい。全く出来ないわけではないが、尖らせた鉛筆を好むアイリにとってこの忘れ物は少々痛かった。
予定外の忘れ物は発覚したものの手荷物検査はつつがなく終わり、アイリは搭乗機の待機するロビーに着いた。搭乗案内は三十分後に始まるようで、搭乗口付近にはまだ人は集まっていなかった。機内でも食事や飲み物のサービスはある筈だが、既に若干の疲労を感じていたアイリは売店で何か買うことにした。午前中にも関わらず既に若干品薄気味のショーウィンドウを眺めていると、横に長身の男性が現れた。服装を見るに航空会社の関係者――恐らくはパイロットだろう。アイリは内心「パイロットもこういった売店を利用するのか」と感動した。
「コーヒーとチップスを貰えるかな」
「はい、只今」
シャープな顎によく整えられた髭がチャーミングな壮年の男性だ。ベテランの風格と言うべきか、所作のひとつひとつが機敏かつ的確で頼もしさを感じさせる立ち振る舞いだった。
洗練された身のこなしに思わず見とれていると、会計を終えた彼がアイリの視線に気付いた。
「おっと。失礼、レディ」
恐らくはアイリの不躾な視線を不審者に対する抗議の目と勘違いしたのだろう。彼は半歩身を引いて害意の無いことを示すジェスチャーをした。
「ああ、いえ!ただ見てただけです、すみません」
「おや、そうでしたか。こちらこそ失礼な勘違いをしてしまいましたな。申し訳ない」
彼の方が被害者だというのに、それでも彼の対応は紳士的だった。アイリは無遠慮な視線を向け続けた自分の行いを恥じた
アイリが身を引いて距離をとろうとしたところ、床に置いていた自分の手荷物に足をぶつけて中身をばら撒いてしまった。売店での買い物に備えて財布を出した後口を開きっぱなしにしていたのもあり、鞄に入れていた書類の多くも床に散らばってしまった。
慌てて書類をかき集めていると、パイロット彼が書類を一束差し出してきた。
「どうぞ、ミズ・サルメライネン」
顔見知りでないはずの人間に名前を呼ばれたことにアイリは一瞬
「あっ……すみません、ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそご無礼を。たまたま目に入ってしまったもので、忘れるにも忘れられず……」
「お気になさらないでください、ミスター・レイヴォネン」
アイリの言葉に、今度は男の方が目を丸くした。が、すぐに自分の服を見下ろして「なるほど」と笑った。
「良い目をしてらっしゃいますな。お世辞にも読みやすくはない名札ですが」
「現役パイロットの方にお褒め頂けると光栄です。日頃の摂生の甲斐があったというものです」
アイリの意趣返しが気に入ったのか、パイロット――マティアス・レイヴォネンは先ほどよりも人懐こい笑顔を見せた。
注文の品を受け取ったアイリとマティアスは手近なテーブルに腰を落ち着けた。アイリはマティアスの推したフィッシュ&チップスとコーヒーを注文した。グレイビーソースとバンズが添えられているのはこの店流のアレンジらしい。
ナチュラルカットのポテトフライを口に放り込むと、体の中で蟠っていた疲労感が薄らいだ。見るからに「摂生」の言葉とは対極のモノを食べてストレスが和らぐこの感覚、これが「罪の味」という概念なのだろうか。
「――ほう、それで単身バルジャンドへ……学生さんも大変なんですな」
アイリが自らの渡航目的についてざっくりと語り終えると、マティアスは顎をしゃくってそう言った。
「まだまだ学問分野の人口は足りてませんからね。『遺産』の解読が進んで働き口が増えたとはいえ、解読する側のマンパワーが足りなければ頭打ちです」
「まだまだ『遺産』については未知の領域も多いでしょうからなぁ……娘も大学に通っていますが、教える側も教わる側も日進月歩の変化にてんやわんやだそうで」
「そうですね……違う分野の友人が『また教科書の訂正文が増えた』と嘆いていました」
「それはまた……そのうち年度末には教科書より分厚くなってそうですな」
「違いありません」
恐らくは冗談のつもりであろうマティアスの言葉に、アイリは妙な現実味を感じた。実際のところ、教育機関で使われているテキストがまるっと差し替えられるくらいの大発見があってもおかしくはないのだ。「遺産」とはそういうものだ。
「そういえば、ミズ・サルメライネンはどんな分野を勉強なさっているのです?」
「『アイリ』でいいですよ、マティアスさん。……そうですね、『遺産の外典』言いましょうか。端的に言うと、そのような分野です」
アイリの禅問答のような回答に、マティアスは首を捻る。
「はて……『外典』、ですか」
「ええ。ニュアンスとしては『遺産に記されていない事実』とでも解釈して頂ければ」
「ふむ……猶更解りませんな」
アイリの言葉を掴みかねているマティアスに、アイリは自嘲的に笑った。
「そうでしょうね。ストレートに答えてしまうとあまりに身も蓋もない――というか、オカルティックな領域に突っ込んでしまうので、あえて濁してお伝えしました」
「第一線で働かれる学者の方をして『オカルティック』と言わしめるのですか……いやはや、げに学問というのは老骨には厳しい世界ですな」
「……適応に遅れた者から振り落とされていくという面では、仰る通りかもしれませんね」
マティアス――そしてアイリの言う通り、現代の学問は「適応力」がものを言う時代だった。つい先ほどまで正しいとされていたことがいくらも経たぬうちに覆され、自分の中で積み上げてきた解釈があえなく崩れる様を幾度となく見せつけられる世界なのだ。今までの努力を切り捨てられる切り替えの良さと新解釈の下再構築される世界に素早く順応できる適応力に長けた人間にしか、現代学問の馬印は振れないのだ。
「とはいえ、そのような話を聞かされては好奇心も滾るというものですな。どのような事を研究なさっているのか、簡単なところでも教えては頂けませんかな」
「構いませんよ。もともと他の誰かに伝えるための研究ですからね」
そう言うと、アイリは
「――さわりだけお伝えしますと、私が研究しているのは新世代の動力です。燃料を必要とせず、有限な資源を消耗することもなく生み出せる、言わば実用的な永久機関もどきです」
「……なるほど、オカルティックですな」
「でしょう。言葉通りの永久機関はエネルギー変換効率と可逆性の面で不可能ですが、それでも『永久機関もどき』が『実用的』と呼べるのはちょっとした事件ですよ」
「なるほど、それは然り……して、その『永久機関もどき』とやらは今どれほど進歩しているのでしょうか?」
「あら、それはパイロットであるあなたの方がよく実感してらっしゃると思いますよ」
アイリの言葉に、マティアスは窓の外――旅客の搭乗を待つため駐機されている飛行機を見た。
「……はぁ。全く、アイリさんもお人が悪い。――『魔動機関』、ですか。まさか我々に関わりの深い分野の学者さんだったとは」
「まだ若造もいいところですけどね」
「してやられた」と頭を搔くマティアスを見て、アイリは悪戯っぽく笑った。
「改めまして、シュルヴィア・アイリ・サルメライネンです。ラエヴネ市立大学で魔法学を研究しています。まだ大した研究は出来てないですけどね」
搭乗案内はほぼ予定通りに進んだ。窓側座席を割り当てられていたアイリは、他の乗客に先んじて搭乗を済ませた。今回の機は通路が一本しかない比較的小型な機だった。飛行機に明るくないアイリはいまひとつ飛行機ごとの違いが分かっていなかったが、先ほどまで話していたマティアスによれば今回の機は画期的な設計思想の下造られた新型機らしい。彼は心の底から飛行機を愛しているようで、普段彼が操縦している機体との違いや長所・短所をとても楽しそうに語っていた。聞けば彼は魔動機関が航空機業界に広まり始めるより以前からパイロットとして活躍していたらしく、今回の渡航目的はこの便の目的地であるバルジャンドにて新米パイロットの育成にあたるための長期出張だと言っていた。本当はまだ定期便パイロットとして空を飛んでいたかったらしいが、やはりどこの業界も人材不足が深刻なのだそうで、社の保有する航空機材の更新に合わせて第一線を退くことに決めたようだ。
(人はどんどん増えていくのに、会社を大きくするための人手は足りない……どこの業界も同じね)
アイリはばたばたと騒がしい機内の様子をよそに、心の中に湧き上がった憂いと向き合っていた。アイリも自ら望んでこの出張に参加したわけではない。本当ならもっと適任な人材がいるはずなのだが、魔法学分野は他の分野に比べても人手の不足が著しい分野だ。ただでさえ字面が胡散臭いのに、「遺産」に記述のない発展途上もいいところの分野とあっては人気が出なくて然るべきだろう。そもそもの話、現代における「学問」とは金持ちの道楽的な側面が強いのだ。「遺産」の解読が進んでいる今でこそ技術力と経済規模が右肩上がりの成長を続けているが、もし「遺産」が無ければここら一帯は荒れ地のままだったかもしれない。そんな中で「遺産」に記されている過去の栄華を再現しようとしているのだ、明らかに時間と地盤が足りていない。技術などは日進月歩の前進を見せても、それらを支えるための人間は一朝一夕に育つものではない。今を生きる人間は貪欲に上を目指し続けているが、そのための人手が足りていないのでは過ぎた高望みでしかないのだ。
(遺産が見つかって数十年……ここらが体力の限界かもね)
地上であくせく働く作業員たちを見て、アイリは思わず深いため息を漏らした。
「おや、浮かない顔ですね。美人が台無しですよ」
いつの間にか搭乗案内も進んでいたようで、通路を挟んで二列ある席のうち通路側の席にも人が入り始めていた。アイリに話しかけてきたのは、つい先ほどまでラウンジで話をしていたマティアス・レイヴォネンだ。彼とアイリは偶然にも隣の席に割り当てられていたのだった。
「どうしましたか、先ほどのチップスで胃もたれでもなさいましたか?」
「……似たようなものですね。『自分にはどうしようもない』という所が特に」
そうですか、とだけ言うと彼は席に腰を下ろした。手早く身の回りの整理を終えると、彼は制服の内ポケットから手帳サイズの地図らしき紙束を取り出した。
「それは?」
好奇心に駆られたアイリは、彼の手元をのぞき込んで尋ねた。こういった行動に躊躇いを持てない程度には、アイリは若かった。
アイリの不躾ともとれる行為に、しかしマティアスは笑って応えた。
「この一帯の地形図ですよ。パイロットはこういった地図を基に着陸進入のコースを検討したりするんですが、私は乗客として乗るときにもこれを眺めるのが習慣でしてね」
「飛行機に乗る際のルーティンみたいなものですか?」
「そうですね。こうして眺める機会が増えればそれだけでこの空港周辺の土地への理解が深まりますし、何より心が落ち着きます」
職業癖ですね、とマティアスは笑った。
「パイロットは私ではないので意味はあまり無いのですが、それでも飛行機に乗ってこれを見ないのは落ち着きません。多くの命を乗せて空を飛んでいるわけですし、何事も万全に準備しておかないと不安で仕方ありません」
「……そうですよね。とても大きな責任を背負って飛行機に乗られてるんですから、少しのミスも見逃したくはないですよね」
真剣な目で手元の紙をめくるマティアスを見て、アイリは少し目を伏せた。彼女のただならぬ様子に、マティアスは彼女の様子を伺った。
「……どうかされましたか?」
「いえ、特には。少し昔のことを思い出しただけです」
そう答えるアイリの顔は、マティアスの目には先ほどとは違う憂いに曇っているように見えた。
少しの沈黙の後、機体が僅かに揺れた。全ての乗客の搭乗が終わり、ボーディングブリッジが機体から離れた振動だ。
「――そろそろ出発ですね」
作業員が離れて動きの少なくなった機外を眺め、アイリはそう呟いた。
「そうですね。コックピットもそろそろ忙しくなる頃です」
マティアスは通路の先、コックピットにいるパイロットの背中をじっと見ていた。
「――本日はサテライトエアラインシステムズをご利用いただきありがとうございます。今回のフライトを担当するのはオットー・ヨハンソン機長とデニス・ベルマン副操縦士です。皆様に安心し当便をご利用いただくために、我々の姿と動きが見えるようコックピットのドアは開放しております。何かご不明な点などございましたら、キャビンアテンダントにお声がけ頂いたうえでお気軽にご質問ください。離陸予定時は八時五〇分、総フライト時間は――」
コックピットではパイロットたちが離陸前の準備に勤しんでいた。チェックリスト等の記載とスイッチ類やインジケータの状態を照会し、機体に問題がないかひとつひとつ入念に点検していく。
「地上管制、こちら
『SAS751、誘導路
「了解。誘導路T・Wを経由して08滑走路へ向かう」
管制塔との通信を終えた副操縦士のデニス・ベルマンは、離陸前だというのに若干凝り始めた背筋を伸ばした。
「なんだ、若いのに。もう腰痛持ちか?」
彼の爺くさい仕草に、オットーは軽口を飛ばした。
「若いといってももう三十代半ばですよ。もう人生も折り返しですし、体にガタが来始めてもおかしくない」
「そんなこと言ったら私はもう老いぼれじゃないか。四十代にももう少し夢を見させてはくれんかね」
「夢見心地で操縦されたらたまったもんじゃない、お断りしますね」
そんな彼らの横を駆け抜けていくものがあった。彼らに先んじて離陸する便の離陸滑走だ。
「……ふむ、滑走路に問題は無いようだな。氷結やスラッシュがあったらどうしようかと思っていたが、この分なら問題なく離陸できるだろう」
「私がやりますか?」
デニスが言っているのは、離陸を彼が担当するかという問いかけである。飛行機の操縦は分担制であり、片方のパイロットが操縦をしている間もう片方のパイロットは計器の監視を担当する。
デニスの提案に、オットーは首を振る。
「いや、ここは私がやろう。いくら見た目に問題はないとはいえ、目には見えない規模での凍結があるかもしれない。こういった場合の操縦は機の責任者である私がやるのが妥当だろう」
「わかりました」
オットーの言葉にデニスは頷いた。
機体は誘導路の末端に差し掛かり、機体は離陸前の準備に入る。
「
「
航空機を飛行させるにあたり、各タイミングで行われる点検は欠かせない過程である。パイロットは様々な節目で適切なチェックリストを適切に行うよう厳しく訓練される。
デニスは手元に準備しておいたチェックリストのうち「BEFORE TAKEOFF」と書かれた欄に視線を向ける。チェックリストの読み上げは操縦を担当しないデニスの仕事だ。
「
「
「08滑走路。
「
「確認。燃料バランス《Fuel Balance》」
「チェック」
「チェック」
デニスは項目をひとつずつ読み上げ、オットーに加えて彼自身もそれに従ってチェックを進めていく。
「
いくつかの点検項目を消化し、機は離陸できる体制に入った。デニスはチェックリストをしまい、管制塔に離陸許可を求める通信を入れた。
「管制塔、こちらSAS751。離陸許可を求む」
『SAS751、こちら管制塔。離陸を許可』
「……よし、行くぞ。トランスポンダ TA/RA」
管制塔からの許可を得たオットーはトランスポンダを作動させ、機体を滑走路上に乗せる。
「今回はスタンディングでいこう。緊急時に滑走路長が足りなくなっては困る」
彼のいう「スタンディング」とは飛行機の離陸方式のひとつである。この方式は滑走路上に機体を一時停止させるため、離陸に必要な距離を節約できるメリットがある。この距離の節約は緊急事態への対応への余裕を生み、より安全な飛行へと繋がる布石となる。
機体を停止させたオットーはゆっくりとスラストレバーを押す。それに従い、機体に響くエンジンの振動が強くなっていった。エンジンの出力を監視していたデニスは少し居心地悪そうに座席に座り直した。
「……慣れませんね、この感じ。機体を前に押し出す感覚はあるのに音が殆どしない。何度聞いても不自然です」
「全くだ」
彼らが言葉を交わしている間にエンジンの出力は安定した。
「
デニスの報告を受けてオットーはスロットルを操作する。
「
「N1 TO/GA」
副操縦士の復唱を聞きながら、オットーは機体を加速させる。
「
副操縦士が既定の速度で対気速度を読み上げる。
その間にも機体はぐんぐんと加速していく。今まで止まっていた景色が後ろに流れていくこの瞬間が、オットーは好きだった。
「
副操縦士の読み上げを聞き、オットーは操縦桿を引く。機体がグンと持ち上げられ、一瞬の浮遊感が彼を襲う。
「
機体は尚も加速する。重力の軛を振り払うが如く、機体は空を目指して飛び上がる。
「ポジティブレート」
「ギアアップ」
「ギアアップ」
コックピットの後ろの方から機械的な作動音が響き、コックピットのパネルに
「……これで一安心だな」
未だ慣れない魔動航空機の操縦に神経を尖らせていたオットーは、ここで初めて一息つく。このあとは機体を既定の高度まで飛ばし、水平飛行に移るだけだ。
「そうですね。暫くはこの寒い土地からおさらばです」
「クソ暑い砂漠とどっちがマシかは考え物だがな」
緊張の糸が緩んだ彼らは暫しの談笑に入った。
――不自然な衝撃が機体を襲ったのは、その瞬間だった。
ガタガタと機体全体が揺れるのを感じ、マティアスは思わず身構えた。
「……何?この揺れ……」
つい先ほどまで談笑したアイリの顔が曇る。その顔色は明らかな異常を伝える振動に対する不安に覆われていた。
「……わかりません。乱気流の類ではないようですが……」
アイリ同様に不安を顔に貼り付けたマティアスは、機体の様子を伺うように周囲を見回す。その間もガタガタと不気味な振動は続く。
混乱するアイリたち乗客の不安をよそに、振動は不規則な変化を遂げていく。
「何かあったんでしょうか……」
「大丈夫です、パイロットを信じましょう」
不安がるアイリを慰めるようにマティアスは言う。しかし、彼自身もまた只ならぬ機体の様子に不安を感じている者のひとりだった。
――そんな中、二度目の衝撃が機体を襲う。
「キャッ――」
「むぅ、――」
今度の振動は今までの振動よりも遥かに大きいものだった。微かに機体の軋む音も聞こえ、アイリの胸中は更なる不安に支配された。
ガタガタと機体が揺れる中、マティアスはコックピットへと目を向けていた。
「……コックピットも混乱しているようです。私はこれから支援に行きますが、貴女はここで待っていてください」
「支援、って――」
「大丈夫です、誰一人として死なせはしません」
マティアスの放った「死」という言葉に、アイリは今自分が置かれている立場を否が応にも理解せざるを得なかった。
マティアスが席から立ち、アイリはひとり座席に残された。窓の外を見れば空港から見えていた雪原がだんだんと近付いてきていた。この景色が地面と同じ高さになったその時が、アイリの命運を決める審判の時である。猶予なく近づくその瞬間を、アイリは上手く飲み込めないでいた。
マティアスの言う通り、コックピットは混乱に包まれていた。
「くそっ、何があった!?エンジンは!?」
「ダメです、完全に沈黙しています!」
緊急時のマニュアルを参照しながらスイッチ類や計器を操作していくパイロットたち。しかし彼らの奮迅空しくも、機体は異常な振動を伝えるばかりだ。
オットー・ヨハンソンの内心は恐慌状態にあった。何しろ、つい今しがた彼の操作を機体が裏切ってみせたのだ。総飛行時間は数千時間を数えるオットーとて、このような経験は初めてだった。初めてだったからこそ、オットーの心は並々ならぬ動揺に揺さぶられていた。
「マティアス・レイヴォネン機長だ。助太刀しよう」
そんな彼の背後から話しかける声があった。予想外の援軍に、しかしオットーは内心の動揺は押し殺して応えた。
「――助かる。彼と私はチェックリストと機の操縦で手いっぱいだ、私たちの代わりに
「承知した」
「ありがとう。――ベルマン、ヘッドセットを」
そう促されたデニスはヘッドセットを外し、マティアスへと手渡す。
機長らが注意を向けられないオーバーヘッドパネルを操作すると、暗転していたアビオニクスが息を吹き返した。APUの始動を確認したマティアスは、管制塔へと連絡を入れるため操縦士らに機体の状況を尋ねる。
「状況は?」
「機体は推力を喪失して滑空中だ。現在の高度は2500
「そうらしいな。コールサインは?」
「
「了解」
そこまで聞くと、マティアスはヘッドセットを付けて交信へと入った。
「メイデイ、メイデイ。こちらSAS751、緊急事態を宣言。全推力を喪失した。繰り返す、全推力喪失。現在高度2500にて滑空中」
彼のその言葉に
『SAS751、緊急事態了解。空港への帰投は可能か?』
「
『……了解。待機せよ』
そう言うと管制からの通信は一時的に切れた。恐らくは同空域にいる航空機を退避させるための指示を飛ばしているのだろう。
通信を一時的に終えたマティアスはコックピットの様子を観察する。各種警告メッセージをざっと見たところ、主な問題はエンジンにあるようだった。けたたましく
とはいえ、この状況は訓練ではない。ひとつのミスが多くの人命をすり潰す破局へと繋がることを考えると、実際に機を操縦していないマティアスの手も緊張に震え始めた。
『――SAS751、現状は?』
マティアスの意識を引き戻したのは管制官の声だった。マティアスは計器を確認し、管制の通信に応答する。
「変わっていない。未だ両エンジンともに推力を喪失、機体は滑空中だ」
『了解。現在消防と救急が待機中だ』
「ありがとう」
マティアスが交信している間にも、機体の高度はどんどん下がっていった。
三人のパイロットが機体の復帰に尽力する中、重々しくオットーが口を開いた。
「――限界だ。不時着の準備に入ろう」
彼はエンジンの再起動を諦めることを決断した。現在の高度は1500ft足らず、最悪のケースを想定するのであればこの高度がデッドラインであるというのが、機長であるオットー・ヨハンソンの判断だった。
「……了解」
オットーの指示に従い、デニスは開いていたマニュアルのページを不時着時の項目へと送る。その間オットーは機体の安定に努め、マティアスは不時着が可能な場所を探す役割に就いた。
空港から直線的に飛行を続けた飛行機は、ラエヴネ郊外の松林へと差し掛かっていた。土地の起伏こそ少ないが、木々が茂った場所が多く不時着には向かない場所だった。
目を皿にして不時着地を探していたマティアスは、進路から少し外れたところに木の無い平原をを見つけた。
「――機長、あそこはどうだ?」
マティアスの指す方を見たオットーは、少し考えたのち首を縦に振った。
「少し狭いが、何とかいけるだろう。ベルマン、準備は?」
「いつでもいけます」
「よし。――ミスター・レイヴォネン、協力に感謝する。この先は我々だけで大丈夫だ、あなたは席に戻っていてくれ」
オットーはちらりとマティアスの方を見て礼をする。このコックピットには機長と副操縦士の分の座席があるのみであり、このままコックピットにマティアスを置いて不時着に臨むのは彼の命を脅かす行為だった。
彼は機長としての彼の判断を信用した。オットーの申し出に、マティアスは二つ返事で従った。
「最後まで力になれずすまない。……健闘を祈る」
「そちらこそ、ご無事でいてくださいよ」
デニスもまた笑顔で彼を見送る。その笑顔は少し引きつっていたが、マティアスはそれを指摘することはなかった。
マティアスが去り、再び二人きりになったコックピットでオットーは操縦桿を握る手に力を込めた。今や乗客百数人の命は彼の操縦にかかっている。未だかつてない緊張に、オットーは平常心を保つよう努めた。
「……よし、行くぞ。
「準備できてます。いつでもどうぞ」
「こちらもだ。始めてくれ」
「了解。――
「オン」
「
「オフ」
「
「
「……減圧確認。
「Forward/Closed/Locked」
不時着予定地である平原を前に、パイロットたちは淡々とチェックリストを進めていく。彼らとて恐怖が無いわけではなかったが、乗客の命は彼らの手中にあるという責任感が彼らを動かし続けた。
チェックリストも終え、機体は不時着へのアプローチに入った。
「――こちらSAS751、空港への帰還を断念。不時着へと入る」
これが、この機から発された最後の無線だった。
地の底を返すような揺れを感じながら、シュルヴィア・アイリ・サルメライネンは目を覚ました。
「……ぅう」
目を覚ました時、アイリは前の席にもたれかかるような姿勢だった。自分が何故こんな格好をしているのかという疑問が心の中に浮かんだが、ぼやけた彼女の思考ではその疑問に対する結論は得られなかった。
覚束ない手つきでシートベルトを外し、よろよろと立ち上がる。真冬だというのに暖房がついていないのか、機内は深く冷え込んでいた。
腕を摩りながら一歩を踏み出そうとしたところ、体がぐらついて転んでしまった。
――やっば、恥ずかしいな……
そんな事を思いながら立ち上がると、何故か目の前には銀世界があった。
「――へ?」
アイリの体は、引きちぎられた機体の断面手前にあった。まるで墜落事故の現場のような光景に、アイリはぺたんとへたり込んでしまった。
――場所はラエヴネ空港から数十キロ。
――サテライト航空751便は、無残な残骸となって雪原に散っていた。
『――えー、臨時ニュースです。今朝八時五十分ごろ、ラエヴネ空港を離陸した飛行機が不時着する事故が発生しました。現場はラエヴネ空港から北西約三十キロ、今のところ地上への被害は報告されていません。現場一帯は警察により非常線が張られ、厳戒態勢が敷かれています。また、大統領府の発表によれば現在政府の調査機関が調査に向かっており、警察との共同捜査が行われる模様です。繰り返します。今朝八時五十分ごろ、ラエヴネ空港を離陸した飛行機が不時着する事故が発生しました。現場は――』
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