翡翠と若草

あおきひび

本編

はじまり-1


 真っ暗な場所にいた。

 ここがどこなのか、分からない。熱いのか寒いのか、痛いのか苦しいのか、自分の境界さえも判別できずに、彼は暗がりにうずくまる。

 何も感じない。手足は重く身じろぎさえ億劫だ。このままこの場所で朽ちていくのが自分の運命なのだ。ぼんやりとする頭で、彼はそう思った。

 暗闇の中で、諦念に身を浸し、そうして長い長い時間が経った。


 来たるべくして、その瞬間は訪れた。

 彼はふとある匂いを嗅ぎ取った。

 森の匂いがする。

 とたんに居ても立っても居られなくなり、彼は暗がりの中で必死にもがいた。目の前に淡い緑色の光が見える。明るい方角へと、彼は無我夢中で手を伸ばした。

 震えるその手が、優しく包み込むように握られた。重たい頭を上げると、光につつまれた視界に、誰かの姿が霞むように映っていた。

 あれは誰だ。どうして、ここに。

 そこで、彼の意識はぷつりと途絶えた。


………………


 王都中央の市場は今日も活気を見せていた。魔法素材の薬草や香辛粉の香りが漂い、冒険者向けの武器防具が店先に積まれている。パンやチーズ・酒の並んだ出店もあちこちにあり、賑やかな喧騒が街路を包んでいた。

 市場の外れ、石畳の路地を入った先に、瀟洒な雰囲気のある喫茶店があった。

 色ガラスをあしらった木の扉を開くと、ちりりんとドアベルが鳴る。

 その音に気づいて、店内に座っていた一人の若者がこちらに挨拶した。三つ揃いのスーツに身を包んだ彼が、軽くハットを上げる。

「やあ、久しぶりだね、リヒト」

「ニコラス、元気そうでよかった」

 旧友ふたりは親しげに言葉を交わすと、座席にゆったりと腰を下ろした。リヒトのまとうローブがふわりと翻り、長い裾がベロア地の椅子に垂れ落ちた。

 久方ぶりの再会で、積もる話に花が咲いた。紅茶を片手に一通り話し終えると、ニコラスはふと、目の前の友人が浮かない顔をしていることに気づく。

「どうしたんだ、何か悩みでもあるのかい」

 リヒトは丸メガネの下の眼を曇らせた。その若草色の瞳は不安げに揺れて、若き魔術師は懸命に次の言葉を探している。やがて意を決したように言うことには、

「人を、買ったんだ」


 この世界には奴隷制があった。ある程度の金や地位を持つ人間ならば奴隷を所有するのは一般的なことだ。奴隷は召使のように扱われたり、荷運びなどの働き手になったり。ときには危険な仕事を任されることもある。あらゆる自由が許されず、出来ることはただ主人の命令に従うのみ。人間以下の存在として、死ぬまでこき使われる。それが奴隷だった。


 ニコラスは前のめりになって尋ねた。

「君が奴隷を買ったのかい? 意外だな、そういう性分じゃないだろ、君」

「うん。僕もそんなつもりはなかったんだけど。成り行きというか、放って置けなかったというか」

「詳しく聞かせてくれないか。俄然興味を惹かれる話だ」

 リヒトはぽつぽつと語り始めた。それは、彼がある街で商人から声を掛けられたことに始まる話だった。


………………


「魔術師さん。召使をご所望ではないですかい」

 市場の雑踏の中、リヒトは怪しい男に話しかけられた。茶色いローブを頭から被り、揉み手をしながら近づいてくる。

「売れ行きが悪くて困っているんですよ。少し見るだけでもかまいません。どうか、人助けと思って!」

 控えめなリヒトはそのまま商人に押し切られ、彼の店に向かうこととなった。


 レンガで出来た古い建物の中に入ると、むわっとした臭気が鼻をついた。そこは家畜小屋のような造りになっていて、簡素な仕切りの中に何人もの人が押し込められていた。粗末なむしろの上で、手足を鎖につながれて。

 リヒトは商人に案内されて、小屋の奥へと進んでいく。戸惑いながらも辺りをうかがうと、何人かと目が合った。敵意や哀切、諦念のにじんだ、光のない瞳たち。リヒトは(ここはひどい場所だ)と思った。同時に、ふと湧いた疑問が口をついて出る。

「ここにいる人たちは、何か悪いことをしたんでしょうか」

「? 何のことです、奴隷は奴隷ですよ。ささ、こちらへ」

上物が入荷しましてね。今連れてまいりますよ。そう言い残し、商人は間仕切りの奥へと姿を消す。ほどなくして、遠くから怒声と鞭の音が聞こえてきた。リヒトは怖くなって、一歩二歩と後ずさりする。

 その小さな背が何かにぶつかった。見るとそれは大きな檻だ。彼の身の丈よりもずっと高く、広い。中は暗くて良く見えないが、目をこらして覗き込むと、奥の片隅に人影が見えた。

 檻の中で、彼は力なく床に倒れ込んでいた。リヒトがそっと呼びかけるが、反応はない。うつろな目が中空を見つめている。鎖につながれた手足はだらりと投げ出されて、ぼろ切れのような服から覗く身体には、大小無数の傷跡があった。

「ああ、お客さん。ソレは売り物じゃないんです。ひどい傷モノでねぇ」

 一日中ああしてぴくりとも動かない。もう壊れてるんでさ。そろそろ処分するつもりなんです、ええ――。そんな商人の釈明を、リヒトは上の空で聞いている。

「狼の獣人種は珍しいので仕入れたはいいものの、一向に買い手がつきませんで。困ったものですよ。ははは」

 確かに、彼には鳶色の獣耳と尻尾があった。しかし毛並みはひどく乱れて薄汚れている。

 リヒトはもう一度彼へと呼びかけた。やはり何の反応も返ってはこない。

 リヒトは思った。彼を助けたい。でも、彼がそれを望まないなら、自分にはどうすることもできない。

 歯噛みしながら、彼は諦めて踵を返そうとした。その時だった。


 がしゃん、と檻の柵が鳴った。はっとして振り返ると、獣人の彼が手を伸ばして、鉄格子へとすがりついていた。よろよろと立ち上がると、息も絶え絶えのままリヒトを見つめている。

 その瞳は凪いだ翡翠の色をしていて、リヒトはどきりとした。そうしてしばしの間、ふたりは見つめ合っていた。

 すると、不意に彼の身体から力が抜けて、どさりと床に倒れ伏してしまう。

「っ! だいじょうぶ? ねえ、返事して!」

 リヒトは鉄格子を掴んでゆさぶるが、彼はぴくりとも動かない。気を失ってしまったようだ。

 小さな魔術士は決然として立ち上がる。先ほどまでとは似ても似つかない堂々とした佇まいで、商人の方へと向き直る。

「このヒトを連れて帰るよ。いくら払えばいいの」

「おお、よろしいので?」

「いいから、早くここから出してあげて!」

 召使たちが二人がかりで獣人を運び出す。やはり気絶したままだ。リヒトはローブの内側から一本の小枝を取り出すと、手の中でぱきりと二つに割った。

 と、彼の右手を中心に一陣の風が吹き、小枝がその構成を変えてみるみるうちに組みあがっていく。瞬きの間に現れたのは、樹木で出来たヒト型の使い魔だった。

 リヒトは樹木の使い魔に呼びかける。「お願いね」すると、使い魔は獣人の彼を両腕に抱え、その身から生えた木の葉で幾重にもくるんだ。

 目を覚まさない彼に向かって、リヒトは優しく声をかけた。

「さあ、うちにおいで」


………………


 アイスティーのグラスが汗をかいている。氷は半分ほど溶けていた。

「ふむふむ、そういうわけか」

 ニコラスは合点したように腕を組んで頷いている。

「お人よしの君としては、放ってはおけなかったんだろうねえ」

 リヒトは少しだけむっとしたが、それはすぐに不安げな表情へと変わった。

「でも、彼はまだ目を覚まさないんだ。一応、使い魔が見ていてくれているけど、ぼくは怖いよ。もし、彼の意識がずっと戻らなかったらって……」

 その時、リヒトの鞄の中で何かがきらりと光った。彼が慌てて取り出すと、その翠水晶はちかちかと熱を持ったように明滅している。

「……彼が目を覚ました」

 小さな魔術師は勢いよく立ち上がった。椅子が倒れて大きな音を立てるが、構わず荷物を背負って声をあげた。

「ごめんニコラス、ぼく、すぐに帰るから!」

「ああ、行っておいで」

 リヒトは翠水晶を右手に握りこむ。すると彼を中心につむじ風が巻き起こって、次の瞬間には彼の姿はかき消えていた。

「……転移魔法は魔力消費が激しいだろうに。よほど心配だったんだな」

 一人喫茶店に残されたニコラスは、頬杖をついて窓の外を眺める。

「リヒト、きみが思っているよりずっと、これから大変な道のりが待っているだろう」

 だから、どうか幸運を。スプーンでグラスの中身をかき混ぜながら、ニコラスはそっとつぶやいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る