第32話 動かざること山本崇2

『風林火山』


「其の疾きこと風の如く 徐(しず)かなること林の如く 侵掠すること火の如く 動かざること山の如し」

 風のように素早く動き、林のように静かさを保ち、火のように激しく攻め、山のように動揺することなく堅く守る……という意味だ。

 

 動かざること山本崇やまもとたかし。決して動じない男である。

 

 5限目の数学。昼食を終えた後で見る数字の羅列。脳が活発になり、アデノシンが分泌、蓄積されることで眠気が襲ってくる。

 授業も終わりに近付いているが、カクッ……カクッ……と頭を右に左に倒してはハッとする生徒が散見している。


 数学教師、盛本敬太もりもとけいたもこの展開は予想していた。注意しようか……とも思ったが、もう授業も終盤だ。それに、豪快にイビキをかいて寝ているものがあるでもなかった。皆、睡魔と戦い、抗い、打ち勝とうと必死な様はむしろ好感が持てた。


 だが教室のただ一点。視界の片隅で動かぬ何者かがいるのを見過ごしていた。

 窓際の最前列。『動かざること山本崇やまもとたかし


 彼は真直ぐに黒板を、盛本を見ている。


 血が騒いだ。高校の数学教師としての血が。


「山本ぉ」


 名前を呼ぶと盛本は黒板に凄い勢いで数式と図形を書き始めた。 

 

「山本!」

 

 振り返り再び名前を呼ぶ。

 

「この問題。前に出て解いてみろ」

 

 この数式。実は数年前ヨーロッパで行われた数学オリンピックに出題された超難問である。解けるはずがないのだ。数学マニア盛本。その迷惑なイタズラ心は不動の男山本崇やまもとたかしに火を着けられた。


 席を立ち、ゆっくりと山が動く。


 山本崇やまもとたかしはチョークを手に取ると、黒板の前に陣取った。そして……


 ……。


 ……。


 訪れた長い沈黙。微動だにしない。チョークを持つ手は書くその意志すら宿っているようには見えず、体の側面に力なく下ろされたままだった。

 

 まあ……そりゃ無理か。


 そう思った盛本が「おい。もういいぞ」と声をかけようとした瞬間。あることに気付く。

 山本崇やまもとたかしの立ち位置である。図形の真ん前なのだ。解の為の数式を書いていくにしてもその位置ではなにも書けない。

 

 なにかに気付いた盛本は、急いで山本崇やまもとたかしの席に行く。山本の席に座り黒板を見た。

 

「す、素晴らしい……」

 

 キーンコーンカーンコーン……


 盛本が漏らした一言を合図にするかのように終鈴が鳴る。


「よし。授業はここまでだ。この問題、山本以外は宿題にするからなー」 

 

 盛本の言葉にクラス皆が口々に不満を漏らす。


「えー……山本も出来てないっすよー!」


 確かにそうだ。山本崇やまもとたかしは動かなかった。


 だが、盛本は見たのだ。

 山本崇やまもとたかしの席から。


 図形の前に陣取る彼の頭がこの難解な問題の答えである不動点Pを指し示していたことを。


 彼らしい。『動かざること山本崇やまもとたかし』と呼ばれる、彼らしい粋な回答に盛本は満足気な顔で教室を後にした。









 

 ちなみに2年になって初めてのテストで知ることになるが山本崇やまもとたかしの数学の点数はあんまよくなかった。

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