第2話 死のネズミ
レノを着替えさせている間、僕は悩んでいた。
状況の意味不明さはもちろん悩ましいが、それは命の危険性を前に棚上げした。
それ以上に困っているのが、ミゲルの記憶が僕の体に残っていないことだった。
原作知識はある。だがそれはあくまで主人公の視点から描かれたもの。
ミゲル本人がどのように過ごし、どんな態度で周囲の人に接して、どんなことをしてきたのか。
僕にはそれらの記憶が全くといっていいほど残っていなかった。
――記憶喪失のフリでもするか?
いや、こんな家だ。記憶喪失だと認識されたらどんな扱いをされたものか。
一応原作では、ミゲルは周囲の人間に素っ気なく接していたようだから、それに期待するしかない!
ぶるりと体が震えた。
平和な教会で暮らしていたせいで、命の危険を感じるなんて初めてのことだ。どうやら僕は、自分が思っていた以上に臆病らしい。
着替えを済ませたレノが部屋から出てくる。
「俺の部屋まで前を歩け。今の俺は氷冷魔法が使えない。レノが俺を守るんだ」
「……っ! かしこまりました!」
レノは目を見開くと、少しの時間のあとに元気よく返事をした。心なしか頬が紅潮しているようにも見える。
やる気満々で歩き出したレノの後ろをついて歩けば、リズミカルに歌うような小さい声が聞こえた。
「レノ、レノ、レノ、レノ……ふふっ」
どうやら、さっそく間違えたらしい。
本来のミゲルはメイドのことを愛称で呼んだりしない。考えればわかることだった。ミゲルなら「虫」とか「そこのカス」と呼ぶはずなのだから。
今からこんな調子では、先々どうなるものか。
不安に押しつぶされそうな気持ちになる。
つい下を向いてしまった視界の端で、小さなものが動くのが見えた。
「ん?」
僕の声に反応し、レノが同じ方向を見る。そこには調度品の影に身を隠そうとする、ネズミのような生き物がいた。
「なんでこんなところに! すぐに退治いたしますね!」
レノがネズミに指を向ける。
「寄り添いたる草木の精よ、敵を縛りたまえ」
小さな種子が何もないところから飛び出し、ネズミに当たる。瞬間、一気に伸びた根とツルがネズミを縛り上げた。
「ポイっていたします!」
ネズミを拾おうとするレノ。
「触るな!!!」
その腕をがしっと掴みながら、思わず大きな声を出してしまう。レノはびくりと身を竦ませ、おどおどと僕の顔を見た。
どうやら怯えさせてしまったようだ。
ネズミを指さしながら、できるかぎり柔らかい声を出す。
「よく見るんだ。羽が生えている」
ネズミの背中には、1対の半透明な羽と、その根元に生える触角のようなものが。
まるでハエの羽だ。
ハエの羽を持つネズミ。
この存在には覚えがある。原作の序盤で主人公が戦った魔人、『疫病のプレイグ』の使い魔だ。
このネズミは触れた人間に、ペストによく似た症状の呪いを感染させる。
「あれに触れると……死ぬ」
上手い表現が見つからず、だからこそ出てきた言葉は強いものになった。
レノがひゅっと息を飲む。
『疫病のプレイグ』の呪いは、高熱と腹痛、そして全身で大量の内出血を引き起こす。
食らってしまった人間は、数日間の苦しみの末に、大量の内出血で肌が真っ黒になって死んでしまうのだ。
しかもこの呪いは、呪われた人間に触れることでも感染する。
原作ではゾンビ映画さながらのパンデミックが引き起こされていた。
「また命を救っていただきました、ありがとうございます。でも、な、なぜそのような恐ろしいものがお屋敷に……」
レノが両腕をきゅっと抱きかかえる。
命の危険が去ったところに、また新たな死の気配だ。恐ろしくもなるだろう。僕だって同じ気持ちだ。
確か原作だと――そうだ。
ここオルテガ領が舞台になっていたんだった。
発生した疫病に対して、オルテガ侯爵が打った手は残忍極まるものだった。
息も絶え絶えな病人を魔法と長槍で脅し付け、無理やり歩かせて隣の領地に難民として送り込んだ。そして感染が広がり半壊した隣の領地を、最終的には接収してしまうのだ。
自分の領地に現れた魔人すら利用してしまう悪辣さ。
魔人を討伐した主人公が、オルテガ家と対立するきっかけになったエピソードだ。
「どうしたものか……」
放っておいても、きっと疫病のプレイグは主人公の手によって倒される。けれど、それを待っていては万単位で死者が出てしまう。
それを黙ってみすみすと許すわけには……いかない……。
ぎりりと奥歯が鳴った。怒りじゃない。きりきりと押し寄せる胃の痛みに耐えるためだ。
信仰は僕の心を縛る鎖だ。
怖い。戦いたくない。そんな本心すら縛り上げ押しつぶす。
教会で生まれ育った僕の価値観の根底に、深く深く刷り込まれてしまっている。
主が……主が見ていらっしゃる……。
信仰者たるもの、人を救えと。
「あのネズミは魔人『疫病のプレイグ』の使い魔だ。本体を倒せば使い魔も呪いも消える。犠牲が出る前に倒しに行くぞ」
口ではそう言いながら、目をぎゅっとつむった。
「はい。私もお供して良いのですね?」
レノがそう訊く。
僕は後ろめたい気持ちになりながら言う。
「俺は氷冷魔法が使えない。回復魔法しか使えないんだ。当然、レノを頼ることになる」
「ミゲル様らしくないお言葉です。命じてくだされば、私はなんでもしますよ」
レノの言葉に小さな引っ掛かりを覚えながら、それでも言葉に甘えた。
「俺の武器として、疫病のプレイグを討て。ついて来い」
「はい」
レノは微笑んだ。
「あら、お兄様? 何をしていますの?」
幼さの残る高い声が響く。
声の方を見れば、僕と同じくすんだ金髪をツインテールにした少女がいた。生意気そうな顔立ち、にっこりと笑みを浮かべる口もとに八重歯が覗いている。
この子は確か――。
「カルメンか」
カルメン・カルロス・オルテガ。僕の妹ということになる。
原作では、純粋さゆえに家風に染まり悪の道を走るキャラだった。のちに主人公に敗北してから改心するが――14歳の現時点ではゴリゴリの悪人のはずだ。
「少しオイタが過ぎる魔人にお仕置きしてやろうと思ってな」
少しだけ尊大さを意識しながら言ってみる。
僕の言葉にカルメンは目を輝かせた。
「そうなんですの! きっとお兄様のことですから、魔人を捕まえて爪を剥がし、生きたまま解剖してやるのですね! ご一緒いたしますわ!」
どんなイメージを持たれているんだ、ミゲル。いや、僕。
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