『無名』

日暮

『無名』

 よく晴れた土曜日の午後。私は少し前から念入りにケアしたお肌に、できる限り丹念にメイクを重ねていく。

 これまた少し前から考えて選び抜いた、とっておきのコーディネートで玄関の鏡の前に立つ。

 にっこり笑顔で、うん、かわいい。よし。

 相手にも、そう思ってもらえたら。そう妄想してついにやけてしまう。

 今日は、か「えへよpg/ふくみ0な@t#8*とのデートの日。




 

「お待たせ!」

 すでに待ち合わせ場所に来ていたか「えへよpg/ふくみ0な@t#8*に駆け寄ると、にっこりと笑って迎え入れてくれた、気配がした。

 一緒に過ごす内に、少しずつ何を言おうとしているのかわかるようになってきた。嬉しい。

 か「えへよpg/ふくみ0な@t#8*は人目につかない所を好むみたいだから、デートは私たちお気に入りの公園を散歩することがほとんどだ。

 この公園は、有名なスポットというわけでもないから普段は人通りが少ない。でも、広くてオシャレな噴水と花壇があって、私たちのお気に入りだった。

 噴水の傍らにあるベンチに、二人並んで座る。

 思わず体中の力を抜いて空を見上げてしまう。暖かい。春の日差しを全身で受け止めなければ。まるで猫になった気分。

 何も特別なことをしなくても、こうして一緒にいるだけで、楽しい。それはか「えへよpg/ふくみ0な@t#8*と出会って初めて知ったこと。

 また、知らず知らずのうちににやけてしまっていた。か「えへよpg/ふくみ0な@t#8*が不思議そうにこちらを伺っているみたい。いけないいけない。

「ごめん、一人でニヤニヤして………。幸せだなあって、思わず」

 すると、か「えへよpg/ふくみ0な@t#8*もうなずいて、自分もそうだ、と応えてくれたみたいだった。

 その反応に、今日の日差しにも負けないくらい胸の中が暖かく、ぽかぽかする。

 思いきって、か「えへよpg/ふくみ0な@t#8*に身を寄せ、ちょうどいい位置についていた突起部分に頭をもたせかける。

 ちょっと照れる。けど、やっぱり幸せ。

 か「えへよpg/ふくみ0な@t#8*も、そうみたいだった。

 私たちはごく普通の、お互い大好き同士の幸せなカップルだった。

 この時までは。

 



 

「恋人とは別れなさい」

 厳格な父に呼び出され、そう告げられたのは、その後すぐのことだった。

 秘密にしていたのに。何で、それを。

「お前の友達から聞いたんだ。その子も心配しているみたいだったぞ」

 誰だろう。リナか、藍里か、それか………ううん、もう今はそんなことどうでもいい。

「お父さん、大丈夫。もう私、大学生なんだし。付き合う相手ぐらい自分で選べる。か「えへよpg/ふくみ0な@t#8*はとっても優しいんだから」

「今は優しくしてても、本性はまだ分からないだろう」

「そんなこと………それに、そんなの誰と付き合っても同じじゃない」

「ああそうだ。俺も必要以上にうるさく言うつもりはないさ。でもな、あれだけはやめておけ」

「どうして?何でか「えへよpg/ふくみ0な@t#8*だけ悪く思うのよ」

「お前はまだ若いから分からないだろうが、親としてずっとお前を見てきたなら、分かる。あれとお前は幸せになれない」

「どうしてよ!いくら親でもこれから先まで全部分かる訳ない!」

「今はそう思うだろう………。でも、お前もいつか思い知る。あれはやめておけ。私達はお前の何倍もの人生経験を積んでいるから、もうわかってしまうんだ」

 そこまで聞いて耐えられなくなり、黙って立ち上がると部屋を出た。障子戸を思いっきりぴしゃりと閉めて。

 荒くなっていた呼吸を整えようとしていると、お母さんがそっと近付いてきた。どうやら聞いていたらしい。

 お母さんは心配そうに私の肩に手を当てて「大丈夫、由美?」と聞いてくれた。

 私は少し安心できた。

 だから………お母さんなら、と思って聞いてみたの。

「ねえ、お母さんは私たちの味方よね?応援してくれるわよね?」

 だけど、お母さんは困った様子で黙ってしまった。しばらくの沈黙の後、耐えきれなくなって口を開いたのは、私の方だった。

「どうして………どうしてなの!?私たち、ほんとに愛し合ってるのに………」

「由美………あなたはまだ若いからそう思うでしょうけど、愛だけじゃどうにもならないこともあるのよ………」

 母に背を向け、部屋に戻った。その晩は、泣きながら眠った。



 

 その週末、か「えへよpg/ふくみ0な@t#8*に会った時、思い切って相談してみることにした。困らせてしまうんじゃないかと心配だったが、自分の胸の内だけに留めておくことはできなかった。

 そしてその答えは、父よりも、母よりも、私を驚かせた。

 

 ———自分も同じことを常々思っていた。………実は、ここを離れてどこか別の場所で暮らそうかと思っている———

 

 あまりにも驚きすぎて、しばらく声も出せなかった。きっと私はものすごくマヌケな顔をしてた。空いた口が塞がらないって、きっとこういうこと。

「どうして………?私のこと、好きでいてくれてるんじゃなかったの………?」

 か「えへよpg/ふくみ0な@t#8*はものすごく困った様子だった。今まで見たことがないくらい。

 

 ………そうさせているのは、私、なの………?

 

 すると、か「えへよpg/ふくみ0な@t#8*の気配が動き、次の瞬間、優しく包み込まれた。

 その感触に、涙が出てきた。か「えへよpg/ふくみ0な@t#8*は、ちゃんと私を愛してくれている。それが痛いほど伝わってきたから。

「どうして………?どうして離れようとするの………?一緒にいてよ…お互い好きなのに………」

 か「えへよpg/ふくみ0な@t#8*は少し離れると、頭を撫でてくれた。自分なんかより、もっと由美さんを幸せにできる人がいる。そう思っているのが伝わる。

 伝わる。

 私たちは、言葉よりも雄弁にお互いの気持ちを伝え合える。三年近くの時間の中で、そうなれるようにお互い関係を育ててきたから。

 だから、その寂しそうな気配に、私は何も言えなかった。

 

 ———自分でも自分が何者かわからない。

 ———これまでずっとそうだった。

 ———きっと自分はこの世界の異端者なんだ。どこに行っても馴染めなかった。誰とも仲良くなれなかった。

 ———この世界に居場所を見つけられやしなかった。

 ———由美さんの隣以外には。

 ———幸せだった。

 ———………でも、だからこそ………。

 ———由美さんの隣には、他の誰かが…自分なんかよりも、もっともっと由美さんに相応しい人がいるべきだと思うんだ。

 





 

 月明かりが差していた。

 その日の夜、とても眠れやしなくて、深夜になっても窓のそばに腰かけてぼんやり過ごしていた。

 悲しくて寂しくてしょうがないのに、何もうまく考えられない。

 もう何度目になるかわからない。今日のか「えへよpg/ふくみ0な@t#8*から伝えられたことを思い出し、思わず膝の間に顔を埋めた。

「どうして………」

 ぽつり、と言葉がもれた。どうしてだろう。あんなに愛してくれているのに。大切に思ってくれているのに。どうして。

 相手のためを思うからこそ離れる。そんなの、私にはわからない。お父さんやお母さんの言う通り、私がまだ子どもだからなの?

 ぐるぐる思い悩んでいるうちに、いつの間にか気を失うようにして眠りに落ちていた。

 

 浅い眠りの中で、いくつも夢を見た。それは夢と言えるかどうかすらわからない。現実での不安が形を変えて夢の切れ端として、いくつも浮かんでは消えていく。熱にうなされた時のようで、苦しかった。

 最後に浮かんできたのは、さんさんと日に照らされた河川敷。

一番思い出したくない光景だった。

 

 

 青空が広がるいい天気。だけど平日の真っ昼間のおかげか、人通りはほとんどない。そのことにほっとしながらトボトボと歩く。

 行くあてもなく、ただ家にじっとしているばかりなのも苦しく、飛び出すように出てきた。

 高校生活二年目、私は不登校に陥っていた。

 せっかく頑張って入った難関高も、行かなければ意味がない。けれど、昔から抱いていた学校に対する苦手意識は、ここに来ていよいよ膨れ上がり、とうとう登校の足を止めてしまった。当時いたグループで浮いていたことも拍車をかけた。

 親は優しかった。母だけでなく厳しい父でさえも、変わらず愛してくれていた。

 そう。そのはずなのに。

 だからこそ、その裏にこっそり隠れていたささやかな失望が、本人たちですらも気付いていないようなささやかさでひそんでいた失望が、嫌になるほどはっきり伝わってきた。

 優秀な長男と長女。当然のように、未子もそうだとばかり思っていた。

 私の人生最大の挫折は、親にとっての人生最大の挫折でもあったのだ。

「………………」

 青空も雲も河川敷の土手に広がる下草の緑も、時折すれ違う人達の笑顔も、全てが眩しかった。世界は祝福されていた。

 私以外。

 私だけ醜かった。私だけ世界の祝福から閉め出されていた。

 私だけ、一人ぼっちだった。

 人のいない方へ、少しでも暗い方へ。

 頭の中で呪文のように唱えながら、歩く。ただ歩く。目的地などどこにもない。あてどもなくただ、歩く。

 気付いた時には、町外れの神社にやってきていた。

 もはやそこは、神社とすら呼べるかどうかわからない。林の奥にぽっかりと開けた広場に、古びてボロボロの祠と汚れた鳥居。祠を守るように慎重に結ばれた注連縄のみがかつての神聖さをかろうじて保っている。この世の歴史から取り残されたような場所だった。

 そうだ、そういえば子どもの頃、ここにだけは近付いちゃダメだって大人たちから口うるさく言われたっけ———。と、その時。

 

 祠の奥から、「ナニカ」が姿を現した。

 

 それは人のようであって人ではなかったが、そうかといえば他の何に似ているとも言えない。魚にも鳥にも獣にも虫にも花にも、似ているようで似ていなかった。

 一拍、遅れて耳元でうるさく心臓の鼓動が鳴り響く。足が震える。震えはすぐに全身にまで伝わった。止まらない。

 向こうも不意の遭遇に驚いたのか、固まっている。

 でも、これからどうするかはわからない。気を取り直した後、すぐに私のことなんて餌にでもしてしまうに違いない。こんなに不気味な存在なんだもの。

 死ぬ。

 こんなにあっけなく。

 ———ああ………でも…そうか———。

 別に、いいんだった。

 死んでも、いいんだった。

 なのに、いざ死が目の前に迫ると、こんなにも———。





 

 けれど、その後の展開は思いもつかない方向に転んでいった。予想は裏切られた。この美しく酷な世界は、常に人の予想を超えていく。




 

「ナニカ」は。何物ともつかないそれは。

 こちらに微笑みかけてきたのだった。

 困ったように、それでも何の曇りもない笑顔で。ただこちらの全てを受け入れるように。

 

 その毒気のない反応に、今までの恐怖が裏返り、脱力してへなへなとその場に座り込んでしまった。

 なんだ………敵意は、無かったんだ。

 それが充分伝わってくる、そんな笑顔だった。

 ふと、耳障りな音を捉えて顔を上げると、それは「ナニカ」から発されているようだった。声なのだろうか。

 よくよく聞くと、心配するような響きが混じっている、ような………。

 まじまじと見つめると、ちょっと困ったような気配の後、再び笑いかけてきた。どこかこの場の文脈にそぐわない。

 そこで気付いた。ああ………そうか。

 人に慣れていないんだ。

 人と接し慣れていないから、とりあえず、害意が無いことの証として笑顔を浮かべることにしているんだ。

 それ以外に、コミュニケーションの円滑な方法を知らないんだ。

 一人ぼっちだったんだ。

 風がゆるやかに通り過ぎていった。木々が揺れ、木漏れ日が差し込む。緑が優しく揺れる。

 相変わらず笑顔を向けられていた。どこまでも受け入れてくれそうな笑顔。私を受け入れてくれる存在が、すぐそばに。

 眩しい———ああ。

 祝福だ。

 先ほどまでの孤独はどこにもない。いまや私もまた、世界に祝福されていたのだった。

 

 



 そこで目が覚めた。涙をこぼしながらの目覚めだった。

 懐かしい思い出。

 か「えへよpg/ふくみ0な@t#8*と出会った時の………。

 部屋を見渡すと、カーテンの隙間から、青い光彩が広がっていた。世界は夜から目覚めつつあり、だけど完全に日が昇るにはまだ少し猶予がありそうだった。

 ごろんと横たわったまま、ぼんやり考える。

 か「えへよpg/ふくみ0な@t#8*との出会いを、私は運命だと信じて疑わなかった。

 だけど他の人たちは私たちを引き離そうとする。幸せにはなれないと言う。か「えへよpg/ふくみ0な@t#8*自身すらも。

 もしそれが本当なら………運命じゃなかったのかな。全て、私の勘違いだったのかな。あの時、たまたまあそこにいたのがあなただっただけで………他の人だったら、今頃はその人と恋していたのかな。

 目を閉じる。まぶたの奥で問いかける。けして答えの無い問い。

 なのに———どうしてだろう。

 今の私には———多分、少しだけ、その答えがわかるような、そんな気がした。

 

 



 数日後、教えられた通りの始発電車の時間に合わせて駅に向かった。か「えへよpg/ふくみ0な@t#8*がこの街を発つ日だった。

 駅前でぽつんと私を待ってくれていたか「えへよpg/ふくみ0な@t#8*は、こちらに気付くと嬉しそうな気配をのぞかせたけれど、すぐにその体は固まった。

 当たり前だった。ただ見送りに来ただけの人間がこんなに大荷物でやってきたのだから。

「おはよう」

 にっこり笑って声をかけながら、驚く姿もかわいいな———なんて、そんな場違いなことを考えてる私は、もうすっかり覚悟を決めていた。

「あなたと一緒に行くわ。二人で駆け落ちしましょう」

 



 最初はまばらだった乗客も、何回か乗り換えをする内にぽつぽつと増えてきた。中には、こちらを見てぎょっとした顔を見せる人や、明らかにこちらに向けてひそひそ声で何かをささやく人たちもいる。

 私が一睨みすると、気まずそうに目を逸らしていった。

 ボックス席の向かい側で、か「えへよpg/ふくみ0な@t#8*は居心地悪そうに縮まっている。

 その傍らに座り直し、いつかのように体を寄せる。

「大丈夫、気にすることないわ。他の人たちはあなたのことをなんにも知らないんだもの。私と違って」

 少しだけ、ほっとしたのが呼吸音から伝わってくる。私も少しだけ安心した。

「ありがとう。一緒に来させてくれて」

 ———それは自分は許可していない。

 呆れたような視線が絡みついてくる。その通りだ。あの後、半ば強引に押し切る形でついてきたのだから。

 私は舌を出してイタズラっぽく笑ってみせる。

 そんな私に、ため息らしいものをこぼすか「えへよpg/ふくみ0な@t#8*。

 ———やっぱり自分なんかと一緒に来るべきじゃなかった。 

———この通り、ただ歩いているだけで後ろ指を指されるような自分なんかとは。

 その考えに、胸の奥がナイフで刺されたように痛んだ。

 か「えへよpg/ふくみ0な@t#8*を、ぎゅうっと抱きしめた。この気持ちが直接染み込むように、伝わってくれたらいい。そう願いながら。

「お願いだから、私の幸せのために勝手に離れようとしないで。あなた自身をないがしろにしないで。この先どんな未来が待っていても、きっと受け入れるから。後悔しないから。………だから私と一緒にいて」

 戸惑ったように動きを止めてしまったけれど、しばらくして同じぐらいの強さで抱きしめ返してくれた。温かい。

 ………あなたはこうしていつでも受け入れてくれる。だから安心する。こうしている間、世界に受け入れられていることを、実感できる。

 あんなに孤独だったのに。かつては、あんなにどうしようもなく孤独だったのに。

 あの日、あなたに出会って救われた。

 それは偶然だったのかもしれない。

 ………ううん、かもしれない、じゃない。きっと偶然。ただの神様の気まぐれだったんだ。

 ———でも。

 その偶然に、気まぐれに、一瞬に、救われた。確かに救われた。

 それに殉じてもいいぐらいに。

 この先、どんな不幸や、もしかしたら別れが待っていたとしても。この選択をしたこと自体は、きっと後悔しない。

 いや、違う。

 後悔しないことにした。

 そう、決めた。

 そうして初めて———運命というものが何なのか、ようやく、骨身に沁みて理解できたのだ。

 車窓から降り注ぐ日差しの祝福と共に、私たちはいつまでも、離れなかった。

 

 

  

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『無名』 日暮 @higure_012

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