九章 味噌汁の香りと包丁の音
トントントントン。
包丁がまな板を叩くリズミカルな音。
布団に包まれた鼻腔をくすぐるものは味噌汁の匂い。
そんな、いまどき、ドラマのなかでもお目にかかれないような純和風の朝の風景。
それがいきなり、自分の身に降りかかったすれば、いったいどうしたらいいのだろう。しかも、それが、朝食を作ってくれる相手などいるはずもないひとり暮らしの高校生男子の身に起きたとなれば。
その日の朝、
目覚ましの音に目を起こされ、それでもまだ半分、眠ったままボンヤリしている。そんななかで目覚ましの音に混じって軽やかな包丁の音が聞こえ、味噌汁の匂いが漂ってくる。しばらくは
――そんなことがあるはずない!
そのことに気がついた瞬間、
高校の制服の上にエプロンをまとった、あまりにも美しい少女。
スリムなくせに出るところはしっかり出ているしなやかな肢体をまっすぐに伸ばし、キッチンに向かって立っている。手にした包丁が軽やかに動き、リズミカルな音を立てている。コンロの上には味噌汁の鍋。すでに出来上がり、火はとめられ、静かに湯気を立てている。その姿に、
料理の邪魔にならないようにだろう。アップにまとめられた少女の滝のように長く、まっすぐな黒髪が
まるで、映画のワンシーンのようなその光景。
いまだかつて見たことのない色の瞳がまっすぐに
「おはよう」
と、その美しい少女――さきらは言った。その言葉に――。
――帰ってきてたのか。
たしかに、胸をなで下ろしてホッとしている自分がいることに
「やることができたから」
昨夜、急にそう言って出て行ったきり、帰ってこなかった。
「朝には帰るから」
そう言っていたことを思い出し、帰ってくるまで起きてまっているべきかどうか、迷い悩んだ。
――べ、別に、あいつのことを起きてまっている義理なんかないし、そもそも、本当に帰ってくるかどうかもわからないし、でも、帰ってくるって言ってたし、もし、本当に帰ってくるならやっぱり、起きてまっていてやらないと……。
そんなことを思っているうちに自分の方が寝落ちしてしまった。さきらはそのあとに帰ってきて、こうして朝食の支度をしているというわけだ。
――そう言えば、夕べは布団を敷いた覚えもないな。
起きてまっているべきがどうか思い悩んでいる間に寝落ちしてしまったので、布団も敷かずにフローリングの床に突っ伏して寝ていたはずだ。それが、起きたときにはきちんと布団に寝ていたと言うことは……。
――こいつが、わざわざ布団を敷いて寝かしてくれたのか。
同年代の少女にそんな『お世話』をされてしまった。恥ずかしいというか、いたたまれないというか。
――のたうち回って死にたくなる程度の恥ずかしさじゃすまないぞ!
思わず自分を呪う
ひとり、その場で深いふかい
「もう出来てるから。起きたならテーブルの支度をしておいて」
「あ、ああ……」
「……支度しておいてって言われても、食器はおれの分しかないんだけど」
正確には、
さきらはキッチンの一角を指さした。
「わたしの分は夕べ、買ってきたわ」
見るとそこにはたしかに、昨日まではなかった食器類が一通りおかれていた。
炊きたての艶やかなご飯。
豆腐の味噌汁。
焼き鮭。
納豆。
海苔。
お新香。
いまどき、昭和レトロな博物館にでも行かなければお目にかかれないような純和風の朝食が並ぶ。その光景に――。
「さあ、どうぞ。召しあがれ」
さきらがそう言った。
表情ひとつ動かさずにそう言うクールな態度がとにかく似合う。
「あ、あ、ちょ、ちょっとその前にトイレ……」
思わず、涙ぐんだ。
両手で顔を覆った。
いつ以来だろう。あんな『まともな朝食』にお目にかかれたのは。
まだ小さい頃、父親が人を殺すこともなく、母親も常に側にいてくれた子ども時代、これからもずっとこの暮らしがつづくのだと、自覚することもなく信じていられた時代以来のことだ。
父親が殺人犯として逮捕され、母親が失踪。それからは親戚の家を転々と移り変わった。親戚の家では食事はちゃんと用意してくれたが、自分がよけいものであることは自覚していたし、まわりに対する遠慮があって食事を楽しむどころではなかった。
高校に入ってひとり暮らしとなってからは、自炊なんてしたことはない。朝はいつもシリアルにミルクをぶっかけたものを流し込んで学校に行く。料理がきらいとか、苦手とかいう以前に、自分ひとりのためにわざわざ料理する気になれなかったのだ。おかげで、近隣のスーパー、コンビニで売っているシリアルはとうの昔にすべて制覇ずみ。
昼は学食のパン、夜はバイト先のコンビニでわけてもらえる売れ残りの弁当。それがいつもの
ひとしきりトイレのなかで涙を流し、ようやく落ち着いたところで外に出る。顔を洗って、タオルでゴシゴシ拭きとり、涙の跡を消す。
――アンドロイドに涙の跡を見られるとか……みっともなくて耐えられないからな。
それから、改めて食卓に向かった。
さきらはすでに席に着いていたが、
「な、なんで、朝食なんて……」
さきらは当然のごとく答えた。
「これから一緒に住むんだもの。家事の分担は当たり前でしょう。とりあえず、一日ごとに交代と言うことでよろしく」
「あ、ああ……」
と、
――と言うことは、明日はおれの番、というわけか。
「……すごいな。こんな料理ができるなんて」
「家事万能だって言ったでしょう。AIだもの。すべての家事の情報はインストールずみよ」
「そ、そうか……」
「もっとも、あなたの好みまでは把握していないから。とりあえず、伝統的な日本人の好みに合わせてみたけど、いまでは時代遅れだったかもね。最近では『白いご飯はきらい』っていう日本人も多いらしいし。口に合わなかったらごめんなさい」
「い、いや、そんなことないから……」
「い、いただきます……」
「はい。いただきます」
ふたりは同時に味噌汁のお椀を手にとり、一口すすった。
「……うまい」
「本当。おいしくできてるわね。目指したとおりの味だわ」
「アンドロイドなのに、味までわかるんだな」
「わたしたちの味覚センサーは何十万回というテストを繰り返して作られたものだもの。人間と同じように感じられるよう調整されているわ。多くの食品会社で商品開発のテストに使われている優れものよ」
「そ、そうなのか……」
技術の進歩、恐るべし。
その事実に圧倒される
味噌汁も絶品だったが、他の料理も格別。ご飯は米粒一つひとつがしっかり立っているし、焼き鮭もふっくらと焼きあがっている。焼き加減は少なすぎず、多すぎず、まさに絶妙。魚の味わいがしっかりと感じられる。
いまどきいったい、何人の『日本の母』がこんな朝食を作れるというのだろう。
「ずいぶん、目をこするのね。花粉症? でも、かゆいからってそんなにこすっていたら目に悪いわよ。かゆいならちゃんと病院に行って治療してもらいなさい」
人間はひ弱なんだから。こまめにケアしないとすぐにボロボロになるわよ。
そう言うさきらだった。
「べ、別にそんなんじゃない……。まだ寝起きだから眠気が残っているだけだ」
「そう? それなら、いいけど」
そう言って、さきらは食事をつづける。
当たり前に食事をするその姿を見ていると『機械』だなどとはとても思えなくなる。いや、そもそも、瞳の色以外はどこからどう見ても人間の女の子なわけだけど……。
――こうしてみると本当、機械だなんて信じられないよな。
いやまあ、それよりなにより、もっとも信じられないのは自分がいまこうして絶世の美少女とふたり、面と向かって朝食を食べているというシチュエーションそのものなのだが。
――い、いや、忘れるな! こいつはアンドロイドだ、機械なんだ。いくら見た目、かわいい女の子でも、その中身は歯車とオイルの固まりなんだ。
「……ごちそうさま」
すべてを――焼き鮭の皮や骨にいたるまで――きれいに食べ終えて、
「おいしかったよ。ありがとう」
そう言いたくはなったのだが――。
結局、口に出してはなにも言えなかった。
「お粗末さまでした」
と、こちらもきれいに食べ終えて、さきらが言った。
『お粗末さまでした』なんていう受け答え、いまどきの日本人の何人が言うのだろう。いや、言えるのだろう。見た目だけではなく、その中身においても完全無欠の
――いやいや、騙されるな。こいつは機械なんだ。そういう風に作られているだけなんだ。
さきらは立ちあがり、食器を片付けはじめた。
「あ、後片付けはおれがやるよ。作ってもらったんだから、それぐらい……」
「一日ごとに交代って言ったでしょう。『片付けるまでが料理』なんだから、作ったからには後片付けまでするわ。あなたの番は明日」
「あ、ああ……」
「それより、早く着替えて。学校に遅れるわよ」
「そ、そうだった……!」
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