糸継彗梨の超常考察

伝々録々

糸継彗梨と尾鷲恢について

いつから旦那になったんですか?


「何故ですか」

 幼い頃から、それが少女の口癖だった。


 人が生きていくには物事を「そういうもの」として受け入れることが必要だ。森羅万象に理由を求めていてはキリがない。


 だが少女にはそれができなかった。

 一度気になってしまったら、理由を確かめなければ気が済まなかった。


 親も友人も教師も、彼女の「何故」を聞くと嫌そうな顔をした。彼らにとって、少女の「何故」はいつもどうでもいいことだった。


 少女が社会から孤立するまでそう時間はかからなかった。


 与えられた居場所は親が管理するマンションの一室。

 生活感に乏しいワンルームが少女の城。


 散乱した書物とノートパソコンは、人に尋ねるより数倍マシな答えを少女に示してくれた。それらもまた少女を拒絶した人類の英知の結晶であることが信じられないくらいに。


 ただし、


「ただいまー。愛しの旦那が帰ったぞー」

「……いつから旦那になったんですか?」


 少女――糸継彗梨いとつぐすいりが孤立していたのは、少し前までの話である。


   ◇


「将来的に結婚するからいいんだよ。何も間違いはない」

 何の前触れもなく部屋に入ってきた青年――尾鷲恢おわせかいは、何故か胸を張ってそう言った。


 ベッドの上で読書に没頭していた彗梨は、思わず呆れて半眼を向けた。


「結婚はしませんし間違いだらけなんですが」

「どの辺が間違ってた?」

「『ただいま』と『愛しの』と『旦那が』と『帰ったぞ』の部分ですね」


 彗理と尾鷲の間に婚姻関係はないし、ここは尾鷲の家ではない。

 なんなら男女交際すらしていない。


「でもほら合鍵は貰ったし。つーか『愛しの』は否定すんなよ」

「あげたんじゃなくて預けたんです。毎度私がドアを開けるのは面倒ですから」

「だがそれはもう心と体を預けたも同然。つまり夫婦と言っても過言ではない」

「いえ尾鷲さんはただの清掃係です。預かってほしいのはそこに散らかってるゴミですね」


 彗梨は視線で床を示した。そこには無数の本がベッドを囲むように散乱している。学術書に自己啓発本に小説に漫画に写真集。まったくばらばらのジャンルの本が所狭しと読み捨てられている。


 彗梨にとって本は消耗品だ。一度読んだ時点で用済み。要らないものになる。散乱しているのはそういう類のものだった。


 尾鷲はそのうちの一冊を拾い上げて眉をひそめた。

「またおかしな本読んでんな。『人生を彩る三つのアボカド』……これ面白いか?」

「内容なんて覚えてません。記憶することには興味がないので」

「あっそ」

 尾鷲も特に興味があったわけではないらしく、雑な返事をして別の本を手に取った。


 銀色に染めた頭髪と気怠そうな垂れ目。耳にはピアス。

 この尾鷲恢という青年が彗梨の部屋を訪れるようになったのは半年ほど前からだ。ある出来事をきっかけに知り合い、なんやかんやあって片づけの苦手な彗梨の部屋に掃除をしにくるようになった。

 もっとも、掃除が口実作りのためであることをこの青年は隠そうとしないのだが。


「というか今週の清掃予定は明日のはずでは?」

「そうだが?」


 何かおかしいか、とでも言いたげな真顔である。


 確かに最近の尾鷲は何かしらそれらしい理由をつけて清掃以外の日にもここを訪れるようになったが、その立場はあくまでも清掃係。彗梨が鍵を預けたときも「掃除に来るときのため」とはっきり言ったはずなのだが、本人は取り繕う気もないようである。


 彗梨は深々と息を吐いた。自分でも驚くほど大きなため息だった。


「……用件はなんですか。何か興味深い出来事でもあったんですか」

「おおそうだ忘れてた」


 尾鷲は大仰な身振りと共に立ち上がり、


「今から俺は、お前の魅力を最大限に語り尽くさなければならないんだ!」

「またいつになく突飛なことを言い出しましたね。あとそのキメ顔かっこよくないです」


 指摘する彗梨だが、尾鷲はそれを無視して語り始めた。


「いいか。糸継彗梨は見ての通り絶世の美少女だ。絹のように艶やかな黒髪、女の子らしく華奢な体、紫外線とは無縁の生活にあるが故の雪のように真っ白な肌。例えるならそう、まるで幽霊のよう。顔が小さく腰は細く胸も小ぶりだがちょっと自分で気にしてそうなところがまたいい。そしてこうして熱弁する俺を呆れながら睨むジト目も堪らない……!」

「はいはいわかりましたもういいです。というか途中馬鹿にしてません?」

「一切してないが。それより彗梨の魅力はこんなもんじゃなくてだな、」

「だからもういいですって。さっきから誰に説明してるんですか」

「誰……? 誰だろう……?」


 訝しげに首を傾げる尾鷲である。


「……はぁ」

 これでは読書もままならない。彗梨は手元の新書を静かに閉じた。


「尾鷲さん、この前の事件で頂いた『宝玉』って、どこに片づけたんでしたっけ」

「そこの棚だ。どの引き出しだったかは忘れたが」


 尾鷲は一面の壁を覆い隠すように置かれた白い棚を指さした。


「いまだに信じらんねーわ。異能者の能力を底上げする石って、ファンタジーかよ」

「それを言ったら異能者の存在がファンタジーですよ。事実、十年前まで超能力は空想上の産物として扱われていたじゃないですか」


 異能者。

 それは数年前から存在を認知されるようになった超常現象を操る人間の総称だ。発火能力や透視能力、未来予知に透明人間。超常現象の範囲は留まることを知らない。


「異能の発現はコンプレックスの発露とも言われます。不安や嫉妬、劣等感のように強くて極端な感情が、超常現象を引き起こすんです。その理屈からすれば、道具で異能の力を増幅できるのは特におかしなことではありません」

「うーん……わからなくはないんだが……でも、異能者を暴走させる危険もあるって話だろ。そこまでの力があんな石っころにあるもんなのか?」


 尾鷲はいまいち納得いっていない様子だ。

 しかし既に確認された事実なのだから、納得も何もないだろう。

 異能の存在も宝玉の効果も単なる事実。――「そういうもの」というやつだ。


「例えば、緑色には癒しの作用があるっていうじゃないですか。それと同じです。おそらく宝玉は人の精神に何らかの影響を与えるんですよ。それが結果的としてその人の異能に影響をもたらすというわけです。良くも、悪くも」

「なるほど。――俺には彗梨が緑色に見えるぜ!」

「そんな宇宙人みたいな肌の色はしていません」


 言いながら彗梨はベッドから出た。


「尾鷲さん。一つ、考察を語っても良いでしょうか」

「おう。ご自由に」

「疑問に思ったんです。尾鷲さんは基本的にデリカシーがなくて、いつもアポなしに突然うちを訪問する残念な人ですが、毎度毎度それらしい口実はでっちあげてきます。それが今日はわけのわからない熱弁だった。――何故ですか?」


 尾鷲は怪訝そうに首を傾げた。


「何故って……いや、わからんが」

「それは奇妙です。いいですか尾鷲さん。あなたは表面的な印象以上に、思慮深くて小心者です。私に会いたいという理由だけではここに来れない。そんな度胸はない。必ず何か別の口実を用意していたはずなんです」

「あれ俺今ディスられてる? さっきのちょっと根に持ってる?」

「いえ褒めてます。用もなく来られても迷惑なので」

「そんなこと言うなって。俺はいつでもお前との愛をはぐくむためにだな」

「それは本音の方でしょう。それとは別の理由――大抵はなんらかの興味深い出来事の話題を手土産にする。それが私の知っている尾鷲さんですし、実際私は今日もそういう話をされるものだとばかり思っていました」


 だが、違った。

 そこには何か理由があるはずだ。

 そうでなければおかしい。納得ができない。彗梨には。


「……まあ、そうかもしれんが。でも口実はあっただろ。お前の魅力を熱弁するという」

「そうです。でもそれは誰に対してですか?」

「そりゃ……お前にだろ」

「何故ですか?」


 尾鷲は口ごもった。


「そう。尾鷲さんが私にそんな説明をする理由はない。あるとすれば私を口説こうとしてのことでしょうが、それはありえません。私に会いに来る口実が私へのストレートなアプローチでは本末転倒ですから。尾鷲さんにそんなことはできません」

「やっぱり根に持ってるだろ」

「持ってません。断じて根になんか持っていません」


 肌の白さを幽霊に例えられたり、胸が小ぶりだとかそれを自分で気にしてそうだとか言われたりしたが、断じて根には持っていない。彗梨はプライドにかけてそう言い切った。


 コホン、と咳払いして話を戻す。


「私が言いたいのは、尾鷲さんは私以外の第三者に私を紹介しようとしたのだということです。言い換えれば――」


 彗梨は出入口へ続く通路を塞ぐように立ち、


「何者かが尾鷲さんに私を紹介させた。


 毅然とした表情でまっすぐな視線をそこに向け、


「そうですよね。必死に棚を漁っている異能者さん?」


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