【語り部:五味空気】(13)――都合の良い記憶喪失と言われれば、返す言葉もなかった。
「もうお嫁に行けない……」
「貴方は男なんだから、お婿の間違いじゃないですか?」
さめざめと涙を流す俺に、少女は全くもって的外れなことを言ってきた。今の俺には、それに対して突っ込む気力もない。
――あれから始まった撮影会は、二時間に及んだ。
確かに情報屋は女装した俺に対して「数枚写真を撮らせて欲しい」と言っていた。数枚ならすぐに終わるだろうと思っていたのだが、それがそもそもの間違いだったのだ。情報屋の言う数枚とは、満足のいく写真を数枚という意味で、シャッターを切った数ではなかったのだから。
自殺癖のある情報屋のこと、俺は言われた通りにポーズを取ったつもりだったが、全くもって上手くいかなかった。何度こいつを殺してしまおうかと思ったかわからない。その度に首輪によって首を絞め上げられ、俺は精神的にも肉体的にも疲弊しきっていた。
ちなみに。
ポージングの手本にしろと言われ、少女の撮影も行われたが、レベルが高過ぎてついていけなかった次第である。……つくづく、この少女は人殺しが似合わない。
「さてさてそれじゃあ、本題に入ろっか」
コの字型に組まれた机に向かっていた情報屋は、くるりと椅子を回転させてこちらを向いた。
机に置かれた三台のディスプレイには、ついさっきまで行われていた撮影会のデータが展開されているが、どうやら取り込み作業は終わったらしい。紙の散乱している床に座布団を敷き、そこで情報屋の作業が終わるのを待っていた俺達は、小さく肩を下ろした。
なお、俺の女装はまだ解かれていない。情報屋が着替えて良いと言っていないからだ。
「結論から言うとね――なにもわからなかった」
満を持して調査結果の報告を始めた情報屋は、はっきりと言い切った。
自分ほどの力量の持ち主がこんな報告をすることになるとは、と物語る不機嫌な顔で、しかしだからと言って首を吊ろうとするではなく、情報屋は続ける。
「清っちのところの課長さんから預かったポイントカードをスタート地点として、いろいろ探ってみたんだけどねぇ。手に入ったのは、そのポイントカードを作ったお店の監視カメラの映像くらい。そこに映っているのは確かに彼――五味空気の姿だったよ。だからあのポイントカードを作ったのは、みぃくん本人で間違いない」
ほらこれ、と言いながら、ディスプレイに監視カメラの映像と思われるものを映し出す。
白黒の映像だったが、レジカウンターでポイントカードを作成しているスーツ姿の男は、間違いなく俺だった。少女よりも一層無表情で機械的にポイントカードを作る、記憶を失う前の俺。あのスーツは、少女に捕まった日に着ていたものだ。それくらいはわかる。
「作成日はそれぞれ、午後七時二十分と、日付が変わって午前一時七分。これから約一時間後くらいに君達は出会い、みぃくんは無様にとっ捕まるわけだけど――これがちょっと不思議でさ」
「どういうこと?」
と、すかさず質問を繰り出したのは少女である。
その顔つきは真剣そのもので、ついさっきまでノリノリでポーズを取っていた人と同一人物とは思えないそれだ。
「それがさあ、どれだけ探ってみても、みぃくんの足取りはこれ以上掴めなかったんだよ。店に入る前後の行動が、一切わからない。不思議っていうか不気味だね。このご時世、監視カメラに映らないよう移動するなんて、そう簡単なことじゃないだろうに。ここまで徹底してるとなると、記憶喪失になる前のみぃくんには、なんらかの事情があったと考えるのが妥当かなあ。たとえば、ほら――」
「――指名手配になっている可能性、か?」
情報屋の言葉を引き継いだのは、他でもない俺だった。
「おお、ご名答! みぃくんてば、脳みそ空っぽってわけじゃないみたいだね~」
ぱちぱちとわざとらしい拍手を送る情報屋。
薄々、妙だとは思っていたのだ。いくら自殺癖のある情報屋が俺に会いたいと言ったところで、ふたつ返事で外に出すとは考えにくい。俺を外に出さずとも、情報屋を宇田川社に寄越せばそれで済むはずだ。それでも敢えて俺を外に出したかったとすれば、簡単に行き着く答えだった。
少女がスニーカーを装備していたのだって、脱走を図った俺を追う以外に、第三勢力が現れた際に、いち早く離脱する為とも考えられる。医者猫男の「生きて帰ってこい」とは、情報屋という脅威ではなく、それを示唆していたのではないだろうか。
「だけどこうして、警察のお世話になることなく、どこぞの怖いおじさんに連れ去られることもなく、ここで二時間も遊んでてなにも起きないとなると、指名手配の線は薄いと考えて良いみたいだねぇ。みぃくんを追っていたのは宇田川社だけだったってわけだ」
カチカチとマウスを操作し、横のディスプレイになにかのリストを出して眺めながら、情報屋は言う。
「顔写真での照合はなんにも引っかからなくてね。一応〈裏〉でお仕事してる会社の社員名簿とかも全部覗いてみたけど、この『五味空気』って名前、言うまでもなく偽名だったからさ。あんまり質の良い情報は提供できなさそうなんだよ」
「は? 偽名?」
「逆に訊くけど、あれが本名だと思った?」
明らかに使い捨てっぽい名前じゃん、とせせら笑って、情報屋は続ける。
「ここまで徹底して足取りを消してる人間が、ポイントカードに本名を書くわけないでしょ。そもそも、呑気にポイントカードなんて作ってること自体がおかしいっていうのに――って、ああ、そういうこと?」
話しているうちになにかに気づいたらしい情報屋は、椅子の背もたれに体重を預ける。高級そうなデスクチェアは、小さくギィと鳴った。
「ねえみぃくん、記憶喪失って嘘なんじゃないの?」
「そんなはず、は――」
きっぱり否定できるはずの問いかけだった。事実、俺はこれまでのことをなにも覚えてない。正真正銘の記憶喪失だ。けれども俺の口は、否定の言葉を出すのを躊躇った。
どうして?
だってそうじゃないか、俺は――
「それはないよ、闇中」
そう言って情報屋の言葉を否定したのは、隣に座る少女である。
「五味空気の記憶喪失については課長が検証済みだし、ドクターもそれに同意してるもの」
「いやあ、僕だって課長さんとあっきーの判断を疑ってるわけじゃないよ」
だけどさあ清っち、と情報屋は続ける。
「ケータイも財布も持ってない。だけどポイントカードだけは持ってて名前だけはわかるだなんて、そんなの都合良過ぎるよ。このあと記憶喪失になるってわかってたみたいじゃない?」
都合の良い記憶喪失と言われれば、返す言葉もなかった。普通に会話ができて、一般常識も教養も人並みにあって、自分自身のことだけわからない。確かに、意図して隠しているように見える。
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