病室の主

 俺は思わず息をのんだ。

 楓香という女は、清々しいほどに自らの死を受け入れていた。

 これまで俺が看取ってきた誰もが、その運命に恐怖していたというのに。


 彼女は、穏やかな微笑みすら浮かべ、俺を見ていた。


「さっきはごめんなさいね。主人にはあなたの姿が見えていないようだったから、誤魔化しちゃったわ。主人にこれ以上の心配はかけたくなくてね」


 まるで世間話をしているかのような気軽さで、彼女は黙り込んでいる俺に話しかける。心なしか、その声が明るく弾んでいる気がした。


「お前は、嬉しいのか?」


 気づけばそう問いかけていた。彼女は面食らったように目を瞬くと、俺の言葉を吟味するように数秒間を置いた後、表情を綻ばせる。


「そうね。嬉しいわ」

「それは俺が、死神だってわかってて言ってんのか」

「えぇ。でも勘違いしないで? 死神に会えたことが嬉しいんじゃなくて、あなたに会えたことが嬉しいの」


 俺は首を傾げるしかなかった。そんな俺を彼女は微笑みながら見つめる。


「まぁそんな気にしないで。ずっと立っているのも疲れるでしょう? こちらに座りなさいな」


 断る理由もないために、彼女の言った通りにベッド脇の丸椅子に腰かけた。

 それから彼女は、俺に様々な質問をした。まるで、人間に対して投げかけるように。


「あなた、名前はあるの?」

「ない。強いて言うなら、最近“秋夜”という名前をつけられた」

「あら、誰に?」

「変わった女」

「そう。その子とは仲良いの?」

「いや、まだ知り合ったばっかだ」

「その子といると楽しい?」

「楽しい……それはわかんねぇけど、興味深いとは思う」


 質問のほとんどが、俺にはちゃんとした回答などないものばかりだったが、絞り出すようにして答えた。どれも面白味のない回答だったが彼女は気にした様子を見せない。いや、本当に気にしていないのか、終始柔らかな微笑みを浮かべていた。


「好きなものはなに?」

「好きかどうかは気にしたことはねぇが、最近知った金木犀ってやつは良い香りだと思う」

「私もあの香り大好きだわ。落ち着くものね。食べ物とかは何が好きなの?」

「死神は食事を必要としねぇ。食い物は暇つぶし程度にしか食わねぇ」

「じゃあ柿は食べたことあるかしら。丁度旬の果物よ。秋の果物といえば柿を思い浮かべる人が多いんじゃないかしら」


 彼女はそう言うと、冷蔵庫からタッパーを取り出して蓋を開ける。

中には切り分けられた鮮やかながらも深みのある橙色をしたものが入っていた。サイドボードの引き出しから爪楊枝を二本取り出し、その橙に刺して片方を俺に渡した。


「主人が持ってきてくれたの。食べてみない?」


 そう言われ、俺は差し出されたそれを口に入れる。表面は少し柔らかく感じたが、コリっとした歯ごたえの後に広がる甘味に咀嚼が止まった。


「あら、まだ少し早かったかしら。ちょっと固いわね」


 そう呟いた女のほうを見れば、「もう少し柔らかいともっと甘くておいしいのよ」と微笑みながら俺に言う。


 穏やかな時間だった。まるで自分が死神であることを忘れそうになるほどに。

 彼女の俺に向ける瞳は、これまで出逢った者のどれとも違う、温かく、慈愛に満ちたものだった。


 窓から差し込む茜色の光が夜の帳に覆われていく頃。

 病室を出るのにドアを開けるのは周りに不審がられるため、窓を開けそこから出ることにする。


「またいつでもおいで」


 どこか名残惜し気にそう見送る病室の主を一瞥し、病院をあとにした。


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