月光町ナイトウォーカー
佐楽
ため息の昼下がり
日が空に別れを告げ夜へと交代する時間を告げる放送が鳴り響いている。
外で遊んでいた子供は家へと帰る時間だ。
そんなひとときをかれこれ体感で数時間繰り返していた。
橙というよりいっそ毒々しい赤に染め上げられた空にノイズ混じりの町内放送が延々と同じ箇所を鳴らし続けている。
普段使っている帰り道は何故か最後の角を曲がると最初の角へと繋がっていた。
帰れない、ということがわかったのは散々歩き回った後だった。
疲れたのと混乱でどうしようもなくなり電信柱の下で膝を抱えて蹲っていた。
心細くはあるが涙は出ない。
それでも誰かに迎えに来てほしいともはや忘れたと思っていた気持ちが喉の奥に渦巻いていた。
「坊主、どうした」
ふいに頭上から入ってきた壮年の男性と思しき声に顔を上げて目を見開いた。
男の頭部は動物の兎そのものだった。
首から下は柄シャツに上下白のスーツと普通の男性の体をしているようだから被り物をしているのだろうか。
不審者だと思ったが喉から飛び出そうな言葉は変わらなかった。
「たすけて」
「迷子か?家はどっちだ」
「わからない、道がおかしい、ずっとぐるぐるしてて帰れない」
兎男は首を傾げて腕を組みながらしばし考えた後「こりゃひょっとしてアレか」と呟いて屈んだ。
目線を合わせると更に迫力のある兎頭だったが声に不思議と威圧感はない。
「残念だが坊主、お前さんは家には帰れない迷子だ。ごくたまにいると聞いたがまさか俺が見つけるとはな…ひとまずここから動くぞ。あまり長くいるとよくないらしいからな」
散々施設や学校の教師に知らない人にはついていくなと言い聞かされていたが今はその警告はすっぱりと忘れ去られていて、差し迷わず兎男の手を迷わず取った。
固くて厚みのある手は顔も知らない父親のようだと感じた。
「坊主、名前は?」
「…」
言おうとして口の中にあるのは空白だった。
名前が言えない。
「わからない」
「ああ、早速ここの影響が出てきてんだな。急ぐぞ、あとで名前をつけてやる」
そして兎男は歩く速度を速めた。
今まで変わることのなかった景色が少しずつ変化していく…
――――――――――
トゥルルル
着信音に気づいてゆるゆると腕をのばしサイドテーブルに置かれた携帯端末を手に取る。
寝ぼけ眼でディスプレイに表示された名前を見ると同僚からの着信だ。
「…はい、
(おう、その感じだと今まで寝てたな。起こしてすまんがちょっと行ってほしいとこがある。なぁに、今の寝ぼけた頭でも十分なんとかなる用事だ)
「
(おれはあいにくまた別のしょーもない用事だよ。じゃあ頼んだぜ)
そう言って通話を切ると行き先が送られてきた。
はぁ、とため息をつき寝転がっていたベッドから起き上がると申し訳程度に身支度を整えて最低限の荷物を携えて簡素な部屋を出る。
携帯端末と日本刀、これが最低限の持ち物だ。
昼過ぎのまったりとした日射しがじんわりと肌に照りつける。
街も日が落ちてからの営業に向けてまだまだ微睡みの中にあった。
「だる…」
ふわぁ、とあくびをひとつ。
朝のゴミ収集からまだ居残っていたのだろうか、黒い鳥が電柱の上で鳴いた。
五郎から送られてきた場所は同じような風俗店が入居する寂れた雑居ビルの五階にある店だった。
すえた匂いが充満するエレベーターのドアが開くなり大きい声で捲し立てるのが嫌でも耳に入る。
「ですからお客様、リリは今日は休みでして」
「休みだからなんだってんだよ!馴染みの俺が来てやってんだからどこにいようが呼び出せや」
ほとんど虚無の表情を浮かべるカメの姿をした支配人に対し、揃いも揃って似たような柄の悪さの舎弟を背後に従えたスキンヘッドで陥没した耳のひょろりとした男が喚き散らしている。
店の従業員の女性たちもそれぞれの個室から呆れたような目でやりとりを覗き見ていた。
「リリも休みが必要なんですよ。昨日もリリをご指名くださったでしょう」
「だから!俺はあいつに稼がせてやってんだよ!つべこべいわずお前はリリをここに呼べ!」
話が通じない、というのを今の少しのやりとりだけでわからせてくる。
こういう手合いは本当に嫌いだ。
「昼の安い時間帯にばっかり来てる割に態度でかいね、あんた」
顧客情報を確認しつつぼそりと呟くと喚いていた男がゆっくりとこちらを睨めつけながら振り向く。
「あんだと、てめえ誰だ」
「ここのオーナーから派遣されてきたんだよ。うるさい客がいるって」
迷惑男が支配人にどなりつける。
「てっめえ、こんなやつ呼ぶ前にリリ呼べってんだよ!」
支配人がはぁ、とため息をついた。
それにつられてまたため息をついてしまった。
「まぁ店の邪魔だから帰ってくれよ」
そう言ってやると男は支配人から矛先を変えて至近距離まで顔を近づけて凄んできた。
臭い息が鼻につく。
「お前、俺を誰だと思ってる。
「知らないな」
「ハッ、知らねえのかよ。そりゃまぁ残念なこった」
リュウセイという男、確かによく見ればトカゲ属のようだ。
「じゃあさ、あんた
「知るわけねえだろ!いいから店で暴れられたくなかったらリリを呼べよ!」
はぁ、と何度目かもわからないため息をつく。
片手に携えた刀を抜かずに構える。
「なんだよ、そんなナマクラとお前一人で俺らに立ち向かおうってのかよ」
リュウセイがゲラゲラと笑うと、続いて舎弟たちも下卑た笑い声を上げた。
「ナメてんじゃねえぞ!」
男たちが一斉に飛びかかってくる。
中には手に刃物を持った者もいた。
ピンク色が基調の安っぽい内装の店内が一気に修羅場と化す。
ため息をつくと幸せが逃げるという
だから抑えた。
「ヒィ…」
一番うしろに居たからか無事だった小柄な舎弟の一人が手に携えたバタフライナイフを落とした。
カランカランとナイフが転がる先に自身の仲間たちが死屍累々と床にのびている。
「この街は因幡組の管轄下にあってその名を知らないことは命取りになる」
刀をおろし誰に聞かせる風でもなくぼそりとつぶやく。
「命が惜しくば田舎に帰りな」
舎弟の男はいかにも這々の体といった情けない走り方でその場を去っていった。
「…後の始末はうちの者に連絡しておくから」
そういうとバックヤードに隠れていた支配人が顔を出して安堵の表情を浮かべた。
「助かるよ、一応聞いておくが斬っちゃいないよな?死人が出た店だなんて客がよりつかねえ」
支配人の男はちらちらと倒れた男たちを見下ろしながら息をしているか確認する。
「まず鞘から抜いてないし、下手に死人を出すとこっちも上から言われるからな」
何せ組の経営傘下にある店だ。
営業妨害になると上がうるさい。
「また何かあったら頼むよ。今遊んでくか」
「安くしてくれる?」
「昼営業だぞ」
カメの支配人はカカカと笑った。
「冗談だよ、じゃあな」
下りのエレベーター内で端末に後始末の要請連絡をいれて伸びをする。
「だる…」
チン、と音を立ててエレベーターの戸が開く。通りに出るとアラ、と声をかけられた。
「昼からお盛んだこと」
そこには兎耳をつけた黒髪の、少女と見まごうあどけなさを感じさせる女性がいた。
赤い瞳がいたずらっぽく笑う。
「
雪姫はまだ営業時間前だと言うのに着物をぴしっと着ている。
片手に今日のお通し用の食材が詰まったビニール袋をさげていた。
「まぁなんでもいいですけどね」
雪姫がからからと笑う。
そのまま二人並んで歩き始めた。
向かう場所は同じなのだ。
「俺今日何かすることあります?」
「んー、掃除はしたし特に無いですよ」
「そうすか」
「別に居てくれてるだけで十分なんですよ。あなたがいてくれれば変な客がよりつきませんから」
それに対して何か言おうと口を開きかけた瞬間だった。
「よぉ〜姉ちゃん!かわいいねえ!同伴かい?店教えてくれたら行くからよ〜サービスしてくれや」
昼間から酔っ払った男が雪姫の尻に手を伸ばす。
しかしその手は尻に届くことなく男は空に舞い上がっていた。
雪姫の外見からは想像もつかない力で殴り飛ばされたのだ。
どしゃ、と道に崩れ落ちる男を一瞥することなく雪姫は前を向いて歩んでいる。
「いちいちあしらうの面倒くさいんですよ」
「なるほど」
その後は特に何も話さず、表通りから一つ入った小さな飲み屋街がひしめく通りに向かう。
ここの一角にある小さなスナックが雪姫の持つ店だ。
狭いカウンターにビニール袋を置くと雪姫は一旦店の奥に消えた。
いつもの定位置であるカウンター席の前には荷物が置かれておらずそこにどかりと座り込んで端末を尻ポケットから取り出す。
後片付けが終わったとの連絡を確認するとカウンターに置かれた酒瓶に映る伸びた前髪を弄る。
「あなた眼鏡してるくせにその前髪の長さうっとおしくないですか?」
いつの間にか戻ってきていた雪姫が隣から声をかけてくる。
「これダテなんですよ。うちスーツ着用が義務だから眼鏡あったほうがちゃんとして見えるって言われて」
「ふーん、なんでスーツ着用なのかしら」
「さぁ?」
「それにしてもその前髪邪魔じゃないですか?見てて鬱陶しいんですもの。切ってあげましょうか」
「いや、いいです。片側に寄せとくんで」
不満げな雪姫だったがそれ以上何も言うことはなかった。
やがてぬるい陽射しを放っていた太陽が落ち、代わりに大きな月が空に浮かぶ。
そんな大きな月が睥睨する街は段々と活気を取り戻し種々多様な人々が集まりその内に渦巻くありとあらゆる欲望を解き放っていく。
それがこの街「
中心部にそびえ立つ「富二タワー」の裾野に大中小様々な店がひしめき合う。
そこに集う人々は今日も幻惑の夜へと溺れていくのだった。
「葉月さん、看板出して下さいな」
雪姫に言われネオンの立て看板を店の表に出し明かりをつける。
スナック「
紫地に白字で書かれた店名が浮かび上がれば今夜の営業開始だ。
今夜はどのような客が訪れるのだろうか。
変な客が来なければ良いと、あくびをしながら店へと戻った。
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