桃鬼伝

日ノ輪

第一話 逢魔ヶ刻

昔々のそのまた昔。吉備国きびのくにの山奥でのことである。

そこには鬼達の集落があった。


片角かたづのだ!片角かたづの野郎が出たぞ!」

「この鬼でなし!」


飛んでくる石ころが頭を掠める。空腹に耐えかねて軒先に吊るしてあった魚の干物を盗んだのだ。そうでもしなければ、生きていくことさえままならない。

必死に逃げるそのボロボロの鬼には、角が額の右側に一本しかなかった。


「お前みたいなやつ生まれてこなきゃよかったんだ!二本角族の面汚しが!」

「ここから出ていけ!」


石のつぶてを無数に投げつけられる。痛い。痛い。なんで。どうして。もう涙すら出ない。


 鬼にとって角は生命エネルギーの象徴なのである。命と同等の価値があると言っても過言ではない。二本角族は一本角族を劣等種として迫害してきた。今も尚その争いは続いているが、一本角族は二本角族を恐れて各地に点々と身を隠して生き延びているのが現状だ。


 魚の干物を握りしめて走るこの片角の若い鬼は、一本角族に似た姿のせいで、物心着く前に親に捨てられたのだった。集落の鬼達からも酷い扱いを受けて、路頭を彷徨う日々が続いていた。


“はぁ。やっと逃げきれた。もううんざりだ。“

ボロボロの身体を引きずって川へ辿り着いた。

“喉が渇いた。水が飲みたい。“

身を乗り出して水面に近づいた時、身体に力が入らず川へ転落してしまった。

“踏んだり蹴ったりだ。このまま惨めに死ぬのか。“

薄れ行く意識の中で鬼は死を覚悟した。




鬼城山きのじょうざん

「あの山には鬼が出る。」


吉備国の人々の間では代々そう言い伝えられていた。

にも関わらず、山麓の川辺に住んでいる変わり者の若い女がいた。


女の名は水戸瀬千草ミトセ・チグサ


 山の奥には鬼が住むと言うが、この辺りだけは桃の木が生えており、鬼は入って来られない。彼女の祖母曰く、桃には魔除けの効果があるのだそうだ。人間が近寄ることも無いが、そのぶん魚や山菜も多く採れるのだった。


 桃の花の香りに包まれる中、千草は川辺で山菜を採っていた。春先というのもあって、その日は籠いっぱいになるほど山菜がとれた。夢中になって採っていたからか、いつのまにかあたりは夕陽で茜色に染まっていた。


────逢魔ヶ刻。それは日が暮れ、辺りが茜色に染まる時。昼と夜の境目になると妖魔の類に遭遇してしまう時間帯のことである。


 千草は暗くなってしまう前に家へと戻るため、川沿いを急ぎ足で歩いた。額には、うっすらと汗が滲んでいる。


 ふと視界の端に何かが映った気がした。川岸に横たわっているその姿は、綺麗な夕陽に照らされつつも、どこか異様な雰囲気を漂わせていた。


「人かしら?」

思わず口に出る。

“たいへん!助けなきゃ!“


千草は山菜の入った籠をその場に放り捨てて、急いで駆け寄った。しかし、男の額を一目見て絶句した。


────人間ではない。

“…なんで?桃の木が生えているこの辺りには鬼は入って来られないはずなのに。“


しかし千草は、傷だらけで弱っている彼を放ってはおけなかった。

“息してない!けどまだ微かに心の臓は動いてる!“

千草は彼の状態を把握し、考えるより早く自身の口を彼の口に重ねて呼吸を促した。

「ゲホッゴホッゴホッ!」


 やがて鬼は水と一緒に激しく咳をする。一転して彼の肺の中には酸素が取り込まれた。止まっていた呼吸が戻り、何とか一命を取り留めたようだ。しかし意識はまだ戻らない。火事場の馬鹿力とはこのことか、千草は彼を担いで家まで運び込み一晩中つきっきりで手当てをした。

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