第三十六話 数えるもの

 Aさんという三十代の男性が、初夏の時分、N県某山のふもとにある旅館に泊まった時のことだ。

 気ままな一人旅だった。

 温泉で汗を流し、ゆうに地酒を堪能して、いい心持ちで部屋に戻ろうと廊下を行く。そんな時、ふと視界の端に、奇妙な文字が目に留まった。

『この先、立入禁止』

 そんな真っ赤な文字の書かれた立て看板が、二階へ続く細い階段を塞ぐように、ぽつんと置かれている。

 何だろうな、とAさんは首を傾げた。

 普通この手の注意書きは、『関係者以外』『スタッフ以外』など、条件を添えてある場合が多い。なのにこれでは、まるで何人なんびとたりとも立ち入ってはいけない、山中の難所でも示すかのような看板になっている。

 かえって興味を引かれたAさんは、酒の手伝いもあって、そっと階段を上ってみた。

 二階の廊下は、真っ暗だった。

 おそらく宿泊には使われていない区画なのだろう。いくつか並ぶドアはどれもぴたりと閉まり、人の声もない。

 ただ――奇妙な音が聞こえる。

 カツン、パラパラ……。

 カツン、パラパラ……。

 まるで小さな硬いものが床に散らばるような、そんな音が、暗い廊下の奥から響いてくる。

 Aさんが目を凝らす。

 と――真っ暗な廊下の向こうから、小さな人影が近づいてくるのが見えた。

 暗闇の中で顔は分からない。ただ、子供なのだ、ということは何となく分かった。

 カツン、パラパラ……。

 カツン、パラパラ……。

 奇妙な音とともに、子供がこちらへ近づいてくる。

 Aさんは、自ずと後退あとずさりかけた。

 そのAさんに向かって、子供の手が、まっすぐに突き出された。

 指を差し、影が囁いた。

「……さんじゅぅしぃちっ」

 どこか調子のずれた、感情にも乏しい声だった。

 Aさんが固まっていると、子供の影は再び、カツン、パラパラ……、カツン、パラパラ……と奇妙な音を立てながら、暗闇の中へ戻り、消えていった。

 気がつけば、すっかり酔いが醒めていた。

 Aさんはブルッと身を震わせ、急いで階段を下り、部屋に戻った。


 それから数時間が経った、夜更け過ぎのことだ。

 Aさんが部屋で寝ていると、ふと耳に、違和感のある音が響いた。

 この部屋は裏手が小川になっていて、常にせせらぎが聞こえている。そのせせらぎに混じって、何か……。

 ――じゅぅぃちぃ。

 ――じゅぅにぃ。

 声が、聞こえる。

 どこか調子のずれた、感情に乏しい声が。

 ……だ。

 Aさんはハッとして、身を起こした。

 声は、窓の外から響いてきている。

 あそこは、川が流れているだけのはずなのに。

 ――じゅぅはちぃ。

 ――じゅぅくぅ。

 どうやら数を数えているらしい。数字が、少しずつ進んでいく。

 ――にじゅぅさぁん。

 ――にじゅぅしぃ。

 Aさんは体を強張らせ、ただ数字の行く末に耳を傾け続けた。

 ――さんじゅぅごぉ。

 ――さんじゅぅろぉく。


「さんじゅぅしぃちっ」


 突然、すぐ真正面で声が響いた。

 目の前に真っ黒な影が現れ、Aさんの顔に向けて、にゅぅっ、と小さな指を突き出した。

 そうして、すぅっ、と消えた。

 ……もう声は聞こえなかった。ただその夜はずっと、川のせせらぎが静寂を乱し、Aさんの眠りを一晩中妨げ続けた。

 あくる朝になって宿の人に聞いてみたが、皆言葉を濁すばかりで、Aさんが遭ったものが何なのかを教えてくれる人は、誰もいなかった。

 だから、三十七という数字の意味も、いまだに分からない。

 ただもしかしたら、何か良からぬ予言のようなものではないか――。Aさんはそう思い、今も怯えている。


  *


 『絵本百物語』に曰く、ある寺の小僧が谷川で小豆を洗っていたところ、この小僧に恨みを抱いていた同じ寺の坊主が、小僧を谷川に突き落とし、殺してしまった。以来、小僧の亡霊が現れては、泣いたり笑ったりしながら小豆を洗うという。これが「小豆あずきあらい」である。

 また同書には、こんな話も載っている。ある小僧が、障碍を持っていたものの人より賢く、計った小豆の数を正確に言い当てることができた。そのため住職に可愛がられていたが、それを妬んだ他の僧に殺されてしまった。以来小僧の亡霊が現れ、小豆を雨戸に打ちつけたり数えたりするようになり、犯人である僧は悪行が知られ死罪となった。しかし今度は小僧の亡霊と僧の亡霊が揃って現れるようになり、ついには寺も廃れてしまった……ということだ。

 Aさんが遭ったという怪異も、現代の「小豆洗」なのかもしれない。三十七という数字の意味は不明だが――。果たしてこの怪異は、いったい何を言い当てようとしたのだろうか。

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