第三十四話 後ろから来るもの
N県某山では古くから、人のいない山中を歩いていると、何者かが後を付いてくることがある。
ザッ、ザッ……と足音が近づいてくるので、それと分かる。
二本の足で歩いている音だから、獣ではない。もしこれが後ろから近づいてきたら、こちらは絶対に足を止めてはならない。
ただし、走っては逃げては駄目だという。相手の方に顔を向け、そのまま後ろ歩きで離れるのがいいそうだ。
怪異に対して「姿を見てはならない」という決まりはよく聞くが、逆に「姿を見ろ」という決まりは珍しいように思う。
とは言え、いずれも昔の話だろう――と思っていたら、案外そうでもないらしい。
以下は、地元の猟友会に所属する、Oさんという男性から聞いた話だ。
Oさんがまだ新人だった時のことだ。
猟友会の先輩と二人で山へ入り、人のいない森の中を進んでいると、ふと先輩が小声で「おい、聞こえるか?」と囁いてきた。
鳥の声でもするのか、とOさんが耳を澄ませる。
と――どこからか、ザッ、ザッ……と、草を踏むような足音が近づいてくるのが分かった。
動物ではない。これは人の足音だ。
「誰かいるんですかね?」
「……行こう。絶対に足を止めるなよ?」
先輩はそう言うと、Oさんを促して足早に歩き始めた。心なしか緊張しているように見える。
Oさんは奇妙に思いながらも、ただならぬ空気を感じて、何も聞かずに先輩に続いた。
ザッ、ザッ……と、足音がさらに付いてくる。
いったい誰がいるんだろう、と振り返りかけた。
「O、見るな。それは俺が引き受けるから、お前は先導してくれ」
先輩がそう言って、その場でクルリと体を後ろに向ける。そうして片手を背中側に突き出し、Oさんに手を引いて進むように言ってきた。
Oさんは、言われたことに従って進み始めた。
慣れない森の中で不安だったが、代わってくれ、とも言いづらい空気だ。仕方なく先輩の手を引き、慎重に進む。
ザッ、ザッ……と、足音もゆっくりと付いてくる。
すぐ背後で、先輩が呼吸を乱しているのが分かる。何かよほど緊張を強いられているのか。
そのまま五分ほど歩き続けた。体感では、一時間も歩いた気分だった。
やがて足音が聞こえなくなった頃、先輩が「もう大丈夫だ」と言って、Oさんから手を離した。
Oさんが足を止めて振り返る。そこには何の変哲もない森の景色が広がっているばかりだ。
いったい今の足音は何だったのか。先輩に聞いてみると、先輩は少し
「そうだなぁ。強いて言うなら――鬼だな」
……もちろん、そんな突拍子のないものがいるはずもないから、何かの喩えなのだろう。
先輩の言う「鬼」とは、何なのか。Oさんは幸いまだ、その答えには出くわしていない。
*
『絵本百物語』に曰く、木曽では年を経た熊を「
Oさんが遭ったという怪異は、背を見せてはならないなど、熊の特徴と共通するものがある。もしかしたら、「鬼熊」のような何か、だったのかもしれない。
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