第三十二話 吸い殻

 男性会社員のHさんが、ある秋雨の降る夜、帰り道を一人とぼとぼと歩いていた時のことだ。

 ひと気のない住宅街を過ぎ、川沿いの、建物の途切れた辺りに差しかかる。と、不意に、差した傘のすぐ手前に、ぽとり、と何かが落ちてきたのが分かった。

 それはごくごく小さく、真っ赤に光って見えた。

 Hさんは反射的に、その場で足を止めた。

 落ちてきた光は、黒く濡れたアスファルトに当たるや、瞬く間に夜の闇に吸われて、消えてしまった。

 タバコか、とHさんは思った。

 今の赤い光は、タバコの火と同じ色をしていた。おそらく、どこかのベランダで喫煙していた人が、この雨をいいことに、上から吸い殻を放ったのだろう。

 そう思って傘ごと振り仰ぎ――すぐに、そうではないと気づいた。

 辺りには、建物は一軒もない。「上から」タバコを放ることなどできないのだ。

 不可解さに首を傾げながら、Hさんはその場を後にした。


 その翌日も、雨が降っていた。

 夜、Hさんが同じ場所を通りかかると、またも上から光るものが落ちてきた。

 真っ赤に燃えた、やはりタバコの火のように見えた。

 ただ、昨日よりも吸い殻が幾分か大きいらしく、アスファルトに当たった火が砕け散る様が、はっきりと見て取れた。

 周囲を見渡しても、誰かがタバコを放り投げそうな場所はない。Hさんは首を傾げながら、またその場を後にした。


 それから数日が経った、また雨の夜のことだ。

 まさか今夜も同じことが起きるのでは……とHさんが警戒しながら帰り道を歩いていると、例によって同じ場所で、上から火が降ってきた。

 今回ははっきりと、タバコだと分かる形をしていた。

 先端が赤く灯り、吸い口が噛み潰されたタバコの吸い殻が、Hさんの傘の前に、ぽとり、と落ちた。

 アスファルトに当たったタバコは、軽く跳ねながら夜道を転がり、川に落ちていった。


 さらに数日後。週が変わり一日目の、平日の夜だ。

 相変わらずの雨の中を、Hさんは傘を差しながら、とぼとぼと歩いていた。

 ちょうどに差しかかったところで、警戒して足を止めた。

 傘を手に背を逸らし、空を仰ぐ。

 ……上から、赤い火が落ちてきた。

 タバコだった。

 目の前に、ぼとっ、と落ちたタバコは先端が赤く灯り、吸い口が噛み潰されていた。

 さらに、中ほどがひしゃげ、そのひしゃげた個所をつまむように、千切れた指が二本、ぴったりとくっ付いていた。

 指の付いた吸い殻は、転がることも消えることもなく、アスファルトの上でシュゥシュゥと白い煙を吐き続けた。

 Hさんは慌ててその場から逃げ出し、以来、絶対にこの道を通らなくなった――ということだ。


  *


 『絵本百物語』に曰く、天から下りてきて火事を引き起こす怪火を「てん」という。地面から高さ三十けん(約五十四メートル)余りは魔道であり、様々な悪鬼がいて災いを引き起こすとされる。

 Hさんが見たタバコの火も、空から降ってきたのなら、「天火」の一種と言えるかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る