第二十五話 あげてくれ
Y県に在住のFさんが、「今までの人生で最も怖かった体験」として思い出すのは、乗っていた遊覧船で火災が起きた時だ、という。
何でも航行中に突然警報が鳴り、取るものも取りあえず救命ボートに乗せられて、夜の海に放り出されたらしい。
もっとも大事には至らず、火は間もなく消され、Fさん達もすぐに海保に救助されたわけだが――。なるほど、怪異の類などよりも、そういった事故の方が、遥かに命の危機を身近に感じるものなのだろう。
とは言え、あいにく事故の話では、怪談集では使い様がない……。僕がそう思っていたら、Fさんはさらにこう続けた。
「……ただ、その救命ボートで、救助を待っていた時のことなんですけどね」
当時ボートの上には、Fさん以外にも、十人前後の乗客が乗り合わせていた。
すぐ近くの船上で燃える炎が、波を赤々と照らす中、誰もが不安な面持ちで、救助が来るのを待っていた。
その時だ。全員が同時に、こんな声を聞いた、という。
「――おぉい、あげてくれぇ」
声は、ボートに乗る誰かが発したものではなかった。
かと言って、遊覧船の方から聞こえたわけでもない。
「――あげてくれぇ」
もう一度、聞こえた。
……波間から、のように思えた。
Fさんが周囲を見回すと、少し離れた真っ暗な海面に、何かが漂っているのが見えた。
黒く丸い影――。どうやら、人の頭らしい。
誰かが水の中から顔だけ出している。すぐにそう分かった。
「――あげてくれぇ」
また、聞こえた。
ああそうか。上げてくれ、と助けを求めているんだ。
きっと火事に驚いて、船員の避難誘導を待たずに、海に飛び込んだ人がいたのかもしれない。
「待ってろぉ! すぐ上げてやるからな!」
乗客の一人が叫び返した。そうしたら、すぐにまた声が聞こえた。
「――こっちもぉ、あげてくれぇ」
別の方向からだ。Fさんを含め、何人かがそちらを振り返った。
黒く丸い影がもう一つ、波間に漂っているのが見えた。
他にも飛び込んだ人がいたのか。Fさんがそう思った時だ。
「――こっちもぉ、あげてくれぇ」
また、別の方から聞こえた。
「――あげてくれぇ」
さらに別の方からも、聞こえた。
「――あげてくれぇ」
「――あげてくれぇ」
「――あげてくれぇ」
いくつも、いくつも、波間から声が飛んでくる。
誰もが混乱する中、乗客の一人が、ぽつりと呟いた。
「あの……こんなに人乗ってなかったですよね。遊覧船」
途端に――誰もが青ざめた。
その後救助が来るまで、波間からの声は、ずっと聞こえ続けていた。
……Fさんにとって、最も怖かった体験だ、という。
*
『絵本百物語』に曰く、「
もっとも、船幽霊の類は西のみならず、全国にあるようだ。Fさんが遭遇したのも、この「船幽霊」に近いものではないだろうか。
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