第二十四話 漂着

 男性会社員のMさんは、若い頃に奇妙な体験をしている。

 ある年の秋頃、友人と何人かで連れ立って、Y県にある湖畔のキャンプ場に遊びにいった。

 Mさんの彼女も一緒だった。昼食後、彼女が「ボートに乗ってみたい」と言うので、二人でテントのある広場を離れ、貸しボートで湖に漕ぎ出した。

 湖は広く、ある程度進むと、岸辺の様子も見えなくなった。

 秋の空は青々として、水面を渡るそよ風が心地いい。Mさん達は二人きりの時間を楽しんだ後、ボートの返却時間が近づいてきたため、岸辺に戻った。

 桟橋には、誰もいなかった。

 ボートを引き寄せてくれる係員も見当たらない。Mさんは、半ば桟橋にぶつかるような形で接岸し、彼女の手を引いてボートを降りた。

 岸に固定されていないボートは、細波さざなみに揺られて、桟橋を離れては戻り、離れては戻りを繰り返している。このまま放っておくわけにもいかないが、ボート小屋を覗いても、やはり誰の姿もない。

 仕方なく、見様見真似でもやづなを杭に絡め、二人でキャンプ場に戻った。

 ……テントの周りには、やはり誰もいなかった。

 友人達はもちろん、大勢いた他の客達も、一人も見当たらない。色とりどりのテントが、広場のそこかしこに点在しているだけである。

 試しにテントの中も覗いてみたが、やはり人の姿はなかった。

 ただ、荷物だけはそのまま残されている。皆どこへ消えたのだろう。

 彼女が不安げな顔で携帯電話をかけ、すぐに首を横に振った。誰にも繋がらない、という。

 Mさんは、キャンプ場の係員を探して、管理事務所の方に向かった。広場の端にロッジがあり、そこが事務所になっている。

 覗くと、やはりもぬけの殻だった。

 室内の片隅で、テレビが点いているのが見える。映っているのは、砂嵐ばかりだが。

 いったい――何がどうなっているのか。

 彼女と二人、顔を見合わせる。Mさんは自分の携帯電話も試してみようと、ポケットに手を突っ込んだ。

 携帯電話がない。どこかに落としたのか。

 ボートの中かもしれない。Mさんは急いで桟橋に戻った。彼女も後からついてきた。

 さっき乗っていたボートを見ると、舫い綱が解けかかっている。慌てて手繰り寄せ、そのままボートに飛び乗る。

 携帯電話は、やはりボートの隅に落ちていた。拾い上げようと身を屈めた瞬間、彼女がMさんに続くように、ボートに乗り込んできた。

「どうしたの?」

「あの……誰か、こっちに来るみたいだったから」

 そう言って彼女は、キャンプ場のある方に目を向けた。

 ――人がいるのか。

 Mさんはホッとした。だが……それならなぜ、彼女は突然ボートに乗り込んだりしたのだろう。

 奇妙に思い、彼女の視線を追ってみた。

 キャンプ場へと続く道が見える。その道の、向こうから――。

 ……何か黒い影が、こちらに近づいていた。

 人の形をしていた。

 しかし両足を動かすことなく、ずっ、ずっ、ずっ……と、地を滑っている。明らかに、人間の歩き方ではない。

 Mさんは、急いでボートを漕ぎ出した。彼女が小さく悲鳴を上げた。

 そのまま逃げるように漕ぎ続けた。

 まっすぐ進むと、やがてボートが再び桟橋に着いた。

 まさかUターンしたのか、と思ったが、桟橋にはボート小屋の管理人がいて、Mさん達を見てにこにこ笑っていた。

「延長、三十分ね」

 ボートを桟橋に繋ぎながら、管理人が言う。

 周囲を見たが、あの怪しい影は見当たらない。Mさんは試しに、ここ以外にボート小屋はあるかと聞いてみたが、管理人は首を横に振った。

 その後キャンプ場に戻ると、友人達が待っていた。皆、Mさんと彼女がなかなか戻ってこないので、ここで心配しながら待っていたという。

 だとしたら――いったい自分達は、へ漕ぎ着いていたのだろう。

 周辺の地図を見ても該当しそうな場所はなく、Mさんは今でも当時のことを思い出すたびに、不可解な気持ちになるそうだ。


  *


 『絵本百物語』に曰く、大海に「あかえいのうお」という大魚がいて、その身の丈は三里に余り、船乗りが島と見間違えるほどである。しかし船を寄せるとたちまち「赤えいの魚」は海に沈み、その荒波で船もやられてしまうという。安房あわの国では、ある船乗りが大魚の背を島と間違えて上陸したが、当然そこには家も人の姿もなく、見慣れぬ草木が岩場に茂り、魚の棲む海水が流れていたということだ。

 Mさん達の上陸した場所も、実はこのような大魚の背中だった――かどうかは、定かではない。

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