第二十二話 事故物件じゃない

 K府に在住のTさんは、引っ越した先のアパートで、酷い思いをしたという。

 Tさんの入った部屋は、他の部屋に比べて割安だった。

 事前に不動産屋に事情を尋ねると、「道路からの騒音が少しねぇ……」と苦笑混じりに言われた。

 確かにその部屋は一階にあって、窓の外は細い道路に面している。車や通行人の声が気になる、ということだろう。

 そう考えると、一応「事故物件」というわけだ。もっともTさんがそれを指摘すると、不動産屋は眉をひそめた。

 どうも「事故物件」という呼び方が好きでないらしい。何でも、昨今は「事故物件=誰かが死んだ部屋」というイメージが広まりすぎていて、そういう呼び方をすると、あらぬ誤解を招きやすいのだという。

「あくまで騒音や――ちゅうことで呑み込んで下さい」

 管理人にそう念を押されて、Tさんも頷いた。


 ところが、だ。

 引っ越して次の早朝。Tさんはふと、妙な騒がしさを覚えて目を覚ました。

 カーテンの閉まった窓の外から、何やら物音が響いてくる。

 バサバサ、という鳥の羽音。それから、ガサガサと何かを漁るような――。

「……カラスか?」

 Tさんは呟きながら身を起こし、窓辺に立った。

 もしかしたら、カラスがゴミでも漁っているのかもしれない。騒音というのは、これのことか。

 そう思いながら、カーテンを開けて、外を覗いた。

 表の細い道路が見えた。

 早朝とあって人の姿はない。車も走っていない。

 その無人の道路の、ちょうど窓の外に当たる場所に、カラスの群れが集って、頻りに何かをついばんでいる。

 初めは、何を啄んでいるのか、よく分からなかった。

 黒い羽根に囲まれて、ボロボロの服のようなものが見えた。

 周囲に、赤や白の肉片が散らばっているのが分かる。

 何だろう――と首を傾げていると、ひしめくカラス達の間から、もそり、と人の腕のようなものが飛び出してきた。

 血の気のない、真っ白な女の腕だった。

 死体だ、と分かった瞬間に、Tさんは悲鳴を上げた。

 混乱したまま、大急ぎで警察に通報した。

 しかし部屋を訪ねてきた警官は、妙に落ち着き払っていた。

、ここですか」

 そう言って、Tさんに表に出るよう促してきた。

 Tさんは外に出て、「えぇ?」と思わず声を上げた。

 ……女の死体など、どこにもない。

 ……あれほど群れていたカラスも、一羽たりともいない。

「前にこの部屋に住んでいた人も、しょっちゅう通報してきましてね。なのでまあ……カーテンは開けないことを、お勧めします」

 警官は、自分も困っているんだ、とでも言いたげに、Tさんにそうアドバイスして帰っていった。

 Tさんが部屋に戻ってもう一度窓の外を見ると、死体はやはり道路にあって、カラスに啄まれていた。

 もはやわけが分からないまま、Tさんは急いでカーテンを閉めた。


 女の死体はそれからも、頻繁に窓の外に現れた。

 もちろん実際には、何もない。試しに他の部屋の住人にも聞いてみたが、誰もそんな恐ろしいものなど見ていないという。

 だから、Tさんがカーテンを閉めてさえいれば、カラスが少し騒がしいだけで、大きな問題はない。

 とは言え――あり得ないだろう、とTさんは思った。

 不動産屋に文句を言いにいくと、「部屋の中で何か起こるわけやないでしょ」と、逆に言い返された。確かに死体が現れるのは敷地の外だから、あくまで部屋そのものは事故物件ではない、と言い張るつもりらしい。

 Tさんは仕方なく、すぐに別の家に引っ越したそうだ。

 ……もっとも、後から思えば、本当に事故物件でないと言えたのかどうかは、だいぶ怪しい。

 そもそも問題の死体が見えるのは、例の部屋の窓からだけだったのだ。

 ――やはり、過去にあの部屋で、原因となるがあったのではないか。

 Tさんは、今でもそう考えている。


  *


 『絵本百物語』に曰く、檀林だんりん皇后は大層な美女で、多くの人々を魅了したが、死に際の遺言にて、自身の亡骸なきがらを埋葬せず辻に捨てるよう言い残した。恋に迷う者達に人の無常さを伝えるためであった。人々は言いつけどおりにしたが、その後もこの辻では、時おり女の亡骸があって、犬やカラスに食われていた。この話は「帷子かたびらがつじ」と題されている。

 なお、時おりあったという女の亡骸が、一種の幽霊なのか、それとも単に「たまに皇后に倣って亡骸が捨てられていた」というだけなのかは、はっきりしないようだ。

 ただ、Tさんが見たのは――やはり、幽霊なのだろう。

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