第十七話 もう大丈夫です

 これも福祉課のKさんから聞いた話だ。

 ある時、市内の住む主婦のかたから、電話でこんな相談を受けた。

『お隣の家、××ちゃんっていう小さな女の子がいるんですけど。××ちゃん、どうも虐待されているみたいで……』

 その隣家に暮らしているのは、××ちゃんという女の子と、その母親。そして母親がどこからか連れてきた、若い男の三人だという。

 問題は××ちゃんで、未就学児童だが、保育施設には預けられていないらしい。母親は夕方から働きに出ているし、男も昼夜を問わず遊び歩いていることが多いので、その間××ちゃんがどうなっているのかは分からない。

 ただ、たまにベランダに姿を見せる××ちゃんは、頬も手足も痩せこけていて、見るに堪えない状態だという。おそらく、何も食べさせてもらっていないのではないか――という想像が容易につく。

 相談してきた主婦のかたは、以前あまりに見かねて、ベランダにいる××ちゃんに声をかけたことがあったそうだ。

 お腹が空いていないか、と優しく聞いてみた。

 ××ちゃんは首を横に振り、「大丈夫です」と、どこか怯えた様子で答え、家に引っ込んでしまった。

 まるで本心とは思えない言葉だった。もしかしたら、「誰かに何か聞かれたらそう言え」と教え込まれていたのかもしれない。

 やはり虐待の可能性が高い――。そう判断したKさんは、さっそく同僚と連れ立って、その家を訪ねてみた。

 玄関で応対したのは、母親だった。こちらの身分を伝え、××ちゃんのことについて話を切り出すと、「うっせぇなぁ」と吐き捨てられた。

「うちは大丈夫なの! 大丈夫! 来んなよ、うぜぇ」

 そして、にべもなくドアを閉められた。

 どこか――慌てているように見えた。

 それからKさんは同僚と二人で、家の外から様子を窺うことにした。

 家はありきたりな戸建てで、築年数は古い。二階のベランダが、隣家――相談に訪れた主婦のかたの家――に面している。××ちゃんが姿を見せたのは、あそこだろう。

 そう思いながら眺めていると、ベランダのガラス戸が動いて、部屋から誰かが出てきた。

 女の子ではない。

 背の高い、大人だ。

 長めの髪を金色に染め、だらしなく肌着をまとっている。母親が家に連れてきたという男だろうか。

 だがKさんは、その男の顔を見て、奇妙な感じを覚えた。

 ……子供のような顔をしている。

 童顔なのではない。輪郭の小ささ。目鼻立ちの未熟さ――。どう見ても、成人男性の顔とは思えない。

 まるで、大人の体に幼児の顔を貼りつけた、悪質なコラージュのようにも見える。

 ……男は、色艶いろつやのいい子供の顔をにこにこと微笑ませ、少しの間ベランダから外を眺めた後、また部屋に引っ込んでいった。

 Kさんは、得体の知れないおぞのようなものを感じ、思わず身震いした。


 例の主婦がもう一度相談の電話をかけてきたのは、それから数日後のことだ。

『隣の男……。なんか、こないだから顔が変わってて。……××になってて』

 始めは「別人かな」と思ったが、服装や体格は変わっていない。ただのだという。

 それで奇妙に思い、ベランダの様子を窺っていたら、不意にガラス戸が開いて、男と母親が連れ立って姿を見せた。

 母親も、××ちゃんと同じ顔になっていた。

 二人はこちらを見て、すでに痩せこけていない血色のいい顔を微笑ませ、声を揃えてこう言ったそうだ。

「もう大丈夫です」

 何だか怖いので、もう隣家には関わらない――。主婦のかたはKさんにそう伝え、電話を切った。


 隣家の二人は、それから一週間と経たないうちに、行方を晦ませてしまった。

 夜逃げ同然に家を出て、以降の消息はつかめていない。

 家は、今もそのまま残っている。

 庭の片隅に、土の色が変わった箇所がある。何が埋まっているのかは、誰も確かめていないそうだ。


  *


 『絵本百物語』に曰く、頭脳唇ふたくち人面にんめんちょうという病があって、これは自らの悪心から起こる業病だという。昔、下総の国で、継母ままははが先妻の子に食べ物を与えず餓死させたところ、夫の持っていた斧が誤って継母の後頭部に当たり、その傷口が口のようになった。傷は激しく痛んだが、食べ物を入れると苦痛が和らぎ、まるで口が二つあるようだった。この話は同書で「二口ふたくちおんな」と題されている。

 体に別の口や顔が現れる奇病――。もしかしたら、隣家の二人が別人のように見えたのは、彼らの顔に重なってが現れていたから、という可能性も……。

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