彷徨

初手太郎

彷徨

 五月蝿いやつが嫌いだ。だから、このクラスのやつの殆どは好きじゃない。やんややんやと騒いで、なんの悩みも無さそうな。だから好きじゃなかった。けれど、そうやって排他的な生き方が出来ればどれほど良かっただろうか。僕は人を嫌だと思っても、嫌われたくはなかった。だから嫌でも、馬鹿に合わせた。馬鹿ばかりだから。喉にどろりとへばりつく感覚は、馬鹿に対する嫌気なのか、はたまた愚かな己に対する嫌悪感か。答えは、きっとわかっている。それでも誰かの所為にしたかった。

 ページを捲る。指先で捉える紙の滑らかな感覚が、この本の新しさを物語る。これは昨日見つけた、「彷徨」という本。十八歳の少年が、不確かな自信の存在を確かめるために、出会った少女と海に行く話だそうだ。恋愛小説は好きではないが、少年の状況が何やら自分に似ている様な気がして手に取った。今月で六冊目の小説である。時刻は十六時二十八分。窓から流れるそよ風が前髪を掠める。六月の風は涼しくて、ほのかに暖かくて心地が良かった。


 ガラガラガラ


 慌ただしい音を立てて教室の戸が開いた。僕の空間を裂いて、そこに一人立ち入ってくる。

「高村じゃん」

 両手をポケットに突っ込み、センターパートで髪を整えた、いかにも一軍のこいつ。名前を佐々木という。首からはじゃらりとネックレスを下げ、左耳には黒いピアスを着けている。でかい図体に程よく付いた筋肉が、一層圧迫感を増している。僕の一番苦手なタイプである。

「佐々木じゃん、なんで残ってんの?」

 僕は笑う。佐々木はズカズカと近付いて来た。

「俺は面談だよ。今週面談週間だから早く帰んないとだろ。なんでお前は残ってんの?」

 佐々木は僕の隣の空いた席を豪快に引き、そこにどかっと座った。

「俺も面談だよ」

「あれお前、面談明後日じゃなかった?」

「明後日は予定あったから。今日にずらして貰った」

 佐々木は「なるほどね」と笑い、時計を見た。

「今日は俺だけかと思ったわ」

「悪いね。ずらして」

「別になんも悪いことしてないだろ」

 佐々木はヘラヘラとポケットからスマホを出す。

「佐々木、今日デートは?」

 スマホを眺める佐々木を横目で見ながら、俺は聞いた。机の下に隠していた本をバッグにしまう。

「あー、あの子。別れた」

「また?」

「俺を女誑しみたいに言うんじゃねーよ」

 そう言ってまた笑う。一つの話題毎に会話が微かに途切れる、その静寂は嫌いだ。

「お前面談何時から?」

 佐々木は画面から顔を上げた。僕の方を見る。

「五分後」

「ふーん」

 頭をポリポリとかく。首周りをじゃらつく銀色が目がいく。それを見た佐々木が言った。

「面談で、怒られちった」

 ニマニマと笑う佐々木に、俺は「そりゃそうだろ」と言い放ち、席を立った。

「お前、なんの本読んでたの」

 一瞬の沈黙。佐々木を軽く睨み、「大した本じゃない」と言う。分かりもしないくせに、大して本なんて読まないのくせに、どかどかと土足で簡単に人の領域に踏み込んでくる。そんな無神経な奴が嫌いだ。

「それじゃ俺は面談行ってくるわ」

 佐々木は画面に目を戻し、「頑張れー」と雑に応じた。僕は佐々木に向け手をひらひらと返し、教室を後にした。



 *



 「失礼します」

 少し建付けの悪い、木造の戸を右に引く。中からは良い香りとも臭いとも言えない、なんとも特殊な匂いが鼻に伝わってきた。病院の待合室のような嫌な感覚。それを誘発する。

「ああ、高村君」

 中を見渡して、真ん中の列の奥から二番目。担任の青木がこちらを向く。

「先生、面談です」

 青木は左手に着けた腕時計に目を落とすと、「そうですね」と呟いた。

「それでは、奥の面談室二で待っていて下さい。すぐにいきます」

 青木は何やら机の上の書類をまとめている。「わかりました」と返事をして奥の部屋に進んだ。かなり小スペースの部屋は、密室というのに相応しく、面談をするのにはうってつけだった。壁一面に広がる白の壁紙が無駄に圧迫感を強めている。僕は椅子を引き、そこに腰をかけた。

「すいません、お待たせしました」

 しばらくして部屋に入って来た青木の両手には、紙のコップが二つ握られていた。一つを僕の前に起き、もう一つを自分の前に置く。椅子に座ると「コーヒーで良かったですか」と言った。

「いただいていいんですか?」

 青木はコップを手に取り一口啜る。

「構いません。本当は、いけないと思うのですが。少しお待たせしてしまいましたし、話を聞くには、まずはリラックスしないと」

 そう言って僕に飲むよう促す。口に含むとほのかに砂糖の甘みが感じられて、苦すぎず甘すぎず、丁度良かった。

「では、」

 青木はコップを机に置くと、少し改まった様子で僕の目を見た。

「最近はどうですか」

 なんとも漠然とした問いかけであった。一口コーヒーを飲む。

「別に、なんともありませんよ」

 青木は人差し指で鼻の頭をポリポリとかいた。静かな部屋の中で、秒針の進む音だけが聞こえてくる。

「本当ですか」

 青木は細く鋭い眼を僕に向ける。しかし不思議と圧迫感はない。

「俺、友達も多いですし」

 なんと言えばいいか分からず、笑みを浮かべる。青木は少し体を前のめりにした。

「…君の一人称、どうも無理をしているように見えます」

 青木はそういうと、「あ、いや」と左手で自分の顔を撫でた。

「すいません。あくまで私が思っているだけです。君に何の問題もないのであれば、それで良い」

 申し訳なさそうな顔でこちらを見る。

「君の考えている事を、教えてくれませんか」

 優しく、心に触れるような声色だった。体の力が抜ける。

「あの、」

 おやと目を見開いた青木に向けて、僕は思いを吐露する。

「僕は、実は、好きじゃないんです。この、クラスの奴らのこと。なんか、皆、馬鹿みたいじゃないですか。別に僕が頭良いと思っているわけではないんですけど、なんか、なんにも考えて無さそうで。なんか、僕だけが人らしいんじゃないかって思ってしまって」

 しまったと思って青木の目を見る。青木はコーヒーを啜りながら、うっすらと笑みを浮かべていた。数秒の静寂は、やはり秒針の音を際立たせる。まるで世界に二人だけかのような、そういう錯覚すら引き起こす。

「人間らしい悩みですね」

 青木が口を開いた。低く、落ち着いた声色だった。強ばっていた身体がほぐれるのを感じる。

「君は確かに、周りの人間より色々な事を考えているのかもしれません」

「…ありがとうございます」

 僕はずずとコーヒーを啜った。

「ただ、まだまだ幼いです」

 青木も僕に合わせてコップを口に運ぶ。「え」と思わずこぼした。

「気を悪くしないでください。君を否定している訳ではありません」

 僕はふっと息を吐いた。コップを机に置く。

「教えて頂いてもいいですか」

 青木の目をしっかりと見る。にこりと笑うと口を開いた。白い歯が覗く。

「君は他の人より、自分のことに対しての理解が深いのだと思います。だからこそ、周りとの差に違和感を覚えてしまう」

 深く腰をかけ直す青木に、僕はその先を促す。じっとりと手汗をかいているのに気付き、この部屋は少し暑いなと思った。

「でも、君はまだ視野が狭い。もう少し他人に目を向けてみて良いと思います。そうすれば、君自身の捉え方も変わると思いますよ」

 青木はコップをぐいと傾けると、残りのコーヒーを飲み干した。ふうと落ち着く青木は、僕から視線を外し遠くを見ているようだった。

「君は、優しい人ですから」

 微笑む青木に、僕も応えた。

「はい」

 机の上の自分のコップに目を向けると、僕の方も殆ど残っていない。青木は立ち上がると「おかわりを入れてきます」と言った。話したいことは沢山あった。まだまだ飲めるな。そう思った。



 *



「大した本じゃない」

 あれはきっと、怒っていたのだろう。面談を終え、俺が教室に入った時に向けられたあの笑顔は気持ちが悪かった。俺を拒絶している気がした。前から思っていた。高村はきっと俺のことが嫌いだ。いやもしかしたら、このクラスの奴ら全員のことが嫌いなのかもしれない。

 高村が出ていき一人取り残された教室で、俺はまた思考の渦に飲まれていた。青木先生の言葉を思い出す。

「佐々木君。君は周りを見過ぎです。もう少し自分勝手になってみて下さい」

 そんな簡単にはいかないっすよと心の中で呟く。面談週間という、部活動すら禁止されているこの期間がもたらす人の声が聞こえないこの空間は、心地が良い反面なにか物足りなかった。

「後で謝るかな」

 こぼした言葉に対する応答はなく、一人言は空気に溶けた。鉛筆を持つ指先に力が入る。机いっぱいに広げたスケッチブックには、数日前から描き続けている少女とその背景が広がっている。浜辺で、こちらを振り向き大きく手を広げる少女。広大な海は少女を抱擁するかのように大きい。鮮やかな色こそない鉛筆だけのモノトーンな絵ではあるが、我ながらそこそこ上手くかけていると思う。絵のインスピレーションは、最近読んで面白かった本の一場面から受けた。

 俺も海を見に行きてえ。ふと思った。誰も居ない、遠くの海。いや、誰も居ないってのは寂しい。そうだな、誰か俺の話を聞いてくれる人が居てくれればいい。泳がず、ただ砂浜に座って、一日中。海が青から紫に染まる様が見たい。そこまで考えて、自分で嫌になる。心を開ける人間なんて自分にいるのだろうか。

 ブーとスマホが通知を告げる。右手の鉛筆はそのままに、左手でスマホを起こすとつい先日別れた彼女からの連絡だった。

「まだ納得いかないよ。ちゃんと説明して」

 明らかに怒っているメール。はぁーと溜息を吐き、また画面を伏せる。困ったと開いた窓の方に目をやると、そこから蝿が入ってきた。それを目で追う。

 絵を書いていること、絵が好きだということを元彼女に伝えたのは、つい数日前のことだった。数ヶ月程度付き合っていた訳だが、理由は些細なことだ。それも、多分俺が子供すぎただけの事。

「絵なんて描いてるの?似合わないね」

 そう言って笑う顔を見た時、俺は心を深く削られた感覚がした。向こうはきっと、さりげない会話だったのだろう。けれど、その一言はなんだか俺自身のことを否定されたような気がした。こんなことで別れようと告げてしまう、自分の精神の未熟さにも嫌気が差す。また、嫌な事を考えてしまっている。そういえば、俺が絵を描いていると告白して、笑わなかった奴は居なかったな。

 蝿は窓から逃げ出し、俺は再び絵の制作に向かっていた。あー元カノへの返信面倒だなとか、思えば俺は何をしている時でも別のことが思考を占領している気がする。疲れやすいのはこの性格が災いしているからだろうとわかっていながらも、簡単に変えることはできない。それが出来れば苦労はしていない。青木先生もきっとそれは分かっている筈だ。分かっていながら自分勝手になれと言ったのだと思う。

 自分勝手にしていいならば、俺は海に行きたい。多分先生はそういう意味で言った訳ではないだろうとは思うけれど。面倒な人のしがらみから解放されたい。きっと俺は人付き合いが下手なんだ。どれだけ仲良くなっても、その人の嫌なとこばかりに目がいく。仲良くなればなるほどそうなってしまうというのだから、難儀なものである。だから俺は人と深く付き合いたくない。友達はいても、浅くいたい。高村とはもしかしたら気が合うかとも思ったんだけどなと考えて、そう考えている自分は少し矛盾しているなと思った。

 高村は、あまり他人とつるもうとはしない人だった。話しかければ返す、誘われれば行く。そんなことはあっても決して自分から誰かを誘うことはない。そんな印象である。どちらかというと、自分の世界に没頭するタイプなのかなと思った。よく本も読んでいるし、もしかしたら話が合うかもしれないと思っていたが為に、先程の高村の反応はダメージがでかかった。

 ピキ、と鉛筆の先が欠けた。カッターを取り出して先を削る。鍵を忘れてなきゃここで母親の帰宅を待つ必要もなかったのに、と若干曇り始めた空を見た。



 *



 首を回すとコキコキと音が鳴った。今日行った、二人の面談の内容をそれぞれまとめる。青木は考えていた。

 佐々木君は、自分への評価が低い。それは性格上仕方のないことだろうが、あの自分への重圧は良くない。過去に何かあったのかは分からないが、相手に心を開いてくれないという面も問題である。心を開ける何者かを見つけるか、或いは既に見つけているか。もしくは少しでも私に心を開いてくれると助かるのだが、まだ時間はかかりそうだと思う。

 高村君に関しては、佐々木君の全く逆だ。もう少し他者に対して関心を向ければ、自分を見つめ直せるし、人として大きく成長できると思う。知識や思想こそ他よりは少々大人びているようだが、対人関係における考え方はまだ幼くも思える。彼の承認欲求には気付いていたが、意外にも簡単に悩みを打ち明けてくれて良かった。彼には、他人の悩みに触れる機会が必要だ。

「青木先生、ちょっといいですか」

 教頭に呼ばれ、顔を上げた。二人とも、まだまだ若くていいな。ふと頭によぎったそれを、我ながら嫌な事を考えてしまったと嘲笑い、青木は席を立った。



 *



 結局、一時間も話し込んでしまった。いつの間にやら空には雲がかかり、雨が降りそうだった。相変わらず静かな廊下に僕の足音だけが反響している。空の暗さのせいで、校舎全体がいつもより光を落としていた。

 青木は、僕の話をよく聞いてくれた。少しは青木のことも信用したし、まだまだ自分は子供なのだということも実感した。まだ世界は広く、他人の背景を考えることもまた大切であることを学んだ。

 ガラガラと教室の扉を開けた。まだ教室の中に残っていた青木が、ワンテンポ遅れてこちらを見る。慌ただしく机上に広げられた何かをバックにしまおうとして、地面に落とした。

「スケッチブック、」

 地面にばさりと落ちた表紙には、そう書いてあった。ゆっくりと視線を佐々木に向けると、頬を赤らめ口を少し開きこちらを見つめている。ピッと窓硝子を水が叩いた。雨だ。

「あ、いや、これは」

 佐々木は急いでスケッチブックを拾うと、雑にバックに詰めた。目を伏せている。

「絵、描いてるの」

 視線は僕に戻り、小さく頷く。雨はざあざあと音をたてて降り出し、僕はふと、傘を忘れたと思った。

「下手だけどね」

 佐々木は首の後ろに手を当てて言った。あははと見せる引き攣った笑みを見せる。

「ちゃんと、見せてよ」

 そう言うと、佐々木の動きが一瞬止まった。首根っこに当てていた手がだらんと垂れ、はあと溜息を吐く。

「笑わないでね」

 僕は佐々木をしっかりと見つめる。

「笑わないよ」

 雨はまだ、止みそうにない。



 *



「笑うなよ」

 失敗したと思った。やっぱり教室で絵なんて描くんじゃなかった。いつの間にやら経っていた時間が、こんな結果をもたらしてしまっている。もう誰にも見せたくないと思っていた絵を、見せることになる。

「笑わないよ」

 そう言って高村は俺の目をしっかり見た。俺はゆっくりとバッグに手を伸ばし、スケッチブックを取り出した。硬い表紙を捲り、そこからパラパラと数十ページを捲る。

「はい」

 大きくてを広げる少女の絵、まだ未完成の絵を、高村に見せる。これを選んだのは、きっと蔑まれた時に「未完成だから」と言い訳が出来るようにするため。自分を、守るため。

 高村はそれを受け取ると、じっと見つめた。激しく打ち付ける雨の音が部屋に響く。湿気による木造の独特の匂い、空の暗さは、夜によるものか雨雲によるものか、それとも心を反映しているのか分からない。たかだか数十秒が、えらく長く感じる。

「なあこれ」

 高村が口を開いた時、背中には嫌な汗が流れていた。無駄に鼓動が速くなる。

「モチーフはあるの」

 高村の目線が俺に移る。喉に何かがどろりと絡まった気がした。

「インスピレーションを受けたやつなら」

「何」

「最近読んだ、本」

「本。なんてやつ」

「彷徨って、小説」

 その言葉を聞いた瞬間、高村は大きく目を開いた。

「佐々木も、読んでるんだ」

 そう言って高村は微笑むと、自分のバッグから本を取り出した。表紙には白く大きな文字で彷徨と書いてある。

「僕も、読んでる」

 高村は少し照れた顔で、顔を横に向けた。

「綺麗だね」

 頬をつうと汗が滑った。たった一言。そのたった一言が、僕の中に溶けていく。頭の中を反芻するその言葉を、俺はきっと待っていた。

「ありがとう」

 ふっと力の抜けた体から出た言葉はシンプルだった。再び椅子を引き、高村の方へ向けて座った。

「ねえ今度」

 高村も俺の横の座席を引っ張り、応えるようにこちらを向いて座る。

「海に行かない?」

 高村は俺を見て笑っている。俺は思わず「え」と零した。

「僕、もっと佐々木と話してみたい」

 突然の告白に、俺は慌てた。人とつるむのを嫌っているだろう高村が、俺を誘った。それだけで驚きなのに、俺をさらに知りたがっている。

「ああ、ああ。行こう」

 俺は高村を見て笑った。

「この雨があがったら、もう夏だしね」

 視線を窓の外に移す。雨はまだ降っている。けれど奥に、少し青空が覗いていた。じじじじ。どこかで、夏を知らせる蝉が鳴いた。

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彷徨 初手太郎 @Hajimekara

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