三、
水菓子の匂いが鼻腔をくすぐる。
「きっと、殿もお気に召されるかと思います。あの大道芸人──いいえ。
くすくすと笑みをこぼす妻の手は、水菓子の汁で濡れている。男はその指を取り舌で舐めながら、「また城下を出歩いたのか」と呆れたように言った。妻はつんと唇を尖らせる。
「だって、屋敷にいるだけなのも退屈なのですよ。殿は近頃お忙しくて、なかなかわらわを構ってくださらぬ」
「ぬ……」
「天下を手にされようとしているお方が、暇を持て余しておいででも困るのですけどね」
妻は楊枝を突き刺した水菓子を男の唇に押し込んだ。
「して、その妖術とやらは本物か?」
「妖術自体は本物のようです。ただ、
「初音か」
侍女の名を口にしながら、男は目を細める。
十二天将を召喚したと嘯く妖術使い。果たして本当にその童は、かの安倍晴明の子孫なのだろうか。
「
「はっ」
襖の向こうから、近習が姿を現す。濃茶の髪を総髪に結い上げた少年は、意志の強そうな目を男に向けた。
「"安倍晴明の子孫"とやら──連れて来い」
「おやおや」
妻はふふふ、とおかしそうに口元を袖で押さえた。
「またもや怪しげな者を雇い入れるのですか?」
「さぁな」
「さぁな、などと仰せになられますが……殿の御心は既に決まっているように見受けられますが」
妻が心底おかしそうに言う。男が「であるか」と、素っ気なく言うと、妻はますます笑い転げていた。
***
調子づいた明晴が十二天将の召喚だけではなく、占いまではじめると、
「いい加減なところでやめておけよ、明晴。あんまり手荒く商売していると、役人に目をつけられても知らないからな」
「大丈夫だよ。紅葉は心配性だなぁ」
銭が入った箱を揺らすと、ジャラジャラと音が鳴る。この音が、明晴はいっとう好きだった。
金があれば、腹を満たせる。食べ物もたらふく買えるし、衣も買うことができる。
金がなかったら飢えも寒さもしのげないし、自分の尊厳すら守れない。
(あんな暮らしに戻るのは御免だ)
贅を尽くした暮らしがしたいわけではない。貴人に登りつめたいわけでもない。ただ、安穏を買いたいだけなのだ。
明晴は銭箱を大切に抱きしめながら、数珠と勾玉を掌で拭う。
「だとしても──あの占いは雑すぎないか?」
「そう? みんな、喜んでたけど」
「いや、雑だろ。仮にも陰陽道を極めた奴が言う台詞じゃない」
「えー、そっかなぁ?」
明晴は目を泳がせた。紅葉は肉球を擦り合わせると、天を仰いだ。
「『あなたは悩みがありますね? ああ、大丈夫。何も言わなくても。悩みのことはこの晴明の子孫にはお見通しです。大丈夫、少し時間はかかりますが、必ず道は開けます。まじないをほどこしましょう。きっと運命は変わります』……って。誰にでも当てはまること言いやがって……」
「でも、悩みはあったみたいだよ?」
「生きてたら誰でも悩みぐらいあるわいっ! 人だろうと犬だろうと神だろうと妖だろうと!」
「え、紅葉にもあるの?」
「とりあえず目下のところは、詐欺師になろうとしている主だよ」
「詐欺師ねぇ」
明晴はほくそ笑んだ。
「むしろ、それが俺の狙いだったりする」
人というのは、胡散臭いものを口では嫌いながら、どこか面白がる生き物だ。特に娯楽が乏しい庶民は顕著である。怪しいものほど興味を引くし、噂は広まる。
だからこそ、占い師や祈祷師は人の心を特に惹きつける。
ましてや、明晴は実際に幾度か、術を披露した。十二天将が召喚かれる様を、人々はその目にしたのだ。
「いや、してないだろ」
紅葉の目が据わる。
「お前がいつ、十二天将を召喚した? 全部、幻術を見せてただけだろ!」
「だって、紅葉達が見世物になるの嫌がるからじゃん! 俺だって幻術で嘘つくのなんて嫌だよ? でも、紅葉も
「当たり前だ! 俺達は、誇り高き神でもあるんだぞ。たかだか人間ごときの見世物になるなんて、御免蒙る」
「ちぇっ。本当に十二天将が姿見せてくれてたら、もっと稼げるだろうに……」
「聞こえてんぞ、晴明の子孫! まったく、そんな姿を先祖に見られたら悲しまれるぞ」
「知らないよ」
明晴は磨き上げた数珠を懐に締まった。
「先祖が誰かなんてどうでもいいよ。金になるからその名にあやかるけど、別にせーめーが俺を助けてくれたことはないし」
「あるだろ。俺達と契りを結べたのは晴明が、神々を配下に置くという前例を作っていたお陰だ」
「その結果、本家とやらは廃れきったんだから世話ないよ。後継者育成失敗してんじゃん、せーめーさん」
団子を齧りながら、明晴は勾玉を陽光に掲げる。
(家柄も血筋も関係ない。もう何百年も昔のことなんかより、今を生きるために精一杯なんだから)
「さ、明日も稼ぐよ」
「まだ稼ぐのかよ」
「当たり前だよ。銭はいくらあっても困らないし。ふふふ、頑張ったら毛皮くらい買えるかも。今年は暖かい冬を越せそうだね」
「やれやれ。お前は銭が好きだな」
「嫌いなわけないよ」
「だったら、いい加減士官先を探したらどうだ」
紅葉が呆れながら言った。
「またその話?」
明晴はうんざりしながら、紅葉の両脇を抱えて揺さぶった。
「俺、後ろ盾なんかないから無理だよ」
「そうとも限らんぞ。お前は文字が読める」
「それだけじゃん」
「充分だ。文字の読み書きができれば、右筆とか文官になるのだってわけはない。後ろ盾だって、それこそ幻術でも使えばどうにか誤魔化せる」
「さっきまで詐欺反対とか言ってたの誰だっけね?」
「少なくとも、その日暮らしをするよりは安全に暮らせるだろ。野盗に襲われることも、腹を空かせることも、減るはずだ」
要するに、これが言いたかったらしい。
紅葉は一見乱暴な言動をする。だが、意外にも情は深い。明晴が飢えや寒さに喘ぐことをことごとく嫌う。だからこそ、明晴が暮らしに困らないよう、紅葉は士官先を探すように勧めるのだ。
だが、肝心の明晴にその気は皆無である。
他人に媚びるのはもう御免だ。多少の危険や不便はあるが、その日暮らしが性にあっている。身の危険はどうにか回避できるだけの術は覚えた。だが、心の自由を奪われるのは御免だった。
明晴の言葉に、紅葉はため息を吐いた。
「だとしたら、もっとうまくやれ。胡散臭いものが人間は好きなんだ。あんまり有名になると、目をつけられるぞ」
「分かってるって。紅葉は心配性だなぁ」
明晴はけらけらと笑いながら、2本目の団子に齧り付く。
「分かってるようには見えんがなぁ……」
紅葉は仰向けになって前脚で腕枕をしながら、後ろ脚を組んだ。
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