三、
水菓子の匂いが鼻腔をくすぐる。
ちょうど今は柿の時期。「美濃の柿は天下一」と褒めてから、妻は秋になると度々手ずから柿を剥いてくれる。侍女達がやると言っても、その役目を他者に譲ったことはない。
柿を剥きながら、妻は楽しげに微笑んだ。
「きっと、殿もお気に召されるかと。あの芸人――いいえ。
くすくすと笑いを零す妻の手は、柿の汁で濡れていた。男はその指を取って舌で舐め取りながら、「また城下に忍んでいたのか」と呆れた。
それを聞いた妻は、「ひとりでは行っておりませぬ」と言い、つんと唇を尖らせる。
妻は男の手を乱暴に払いのけた。
「屋敷にいるだけというのも、退屈なのでございますよ。殿は近頃お忙しくて、とんとわらわを構ってくださりませぬし」
「ぬ……」
それに関してはすまないと思ってはいるのだ。多忙なのは、政に関してだけではない。
「まあ――天下を制そうとされている方が、暇を持て余しておいでというのも困りものですが」
妻は楊枝を突き刺した水菓子を男の口元に寄せた。柿を食むと、果汁と甘みが舌の上に広がる。
「して、その妖術とやらは本物か?」
「さて――術自体は本物に見えました」
あの時、女は確かに見たのだ。少年が
だが、あの場を去った後、ただ一人少年の術を紛い物と断じたものがいた。
『あれは、十二天将などではございません』
侍女の、
初音は、見世物を見ながら眉間の皺を深くした。
『あれは――紛い物でございます』
「初音、か」
侍女の名を口にしながら、男は目を細めた。
脳裏に、初音を侍女として召し抱える際、初音の父から言われた言葉も蘇る。
『我が娘は、奇怪なことを申しますが――それでよろしければ、お預け致します』
十二天将を召喚したと嘯く妖術使いの芸人。
はたして本当にその童は、かの安倍晴明の子孫なのだろうか。
「
男が声をかけると、襖の陰から近習が姿を現す。
「”安倍晴明の子孫”とやらを探って来い。初音も連れて行け」
近習はうなずくと、その場を後にした。
「おやおや」
妻はふふふ、とおかしそうに笑いながら袖で口元を押さえた。
「またも怪しげな家臣を増やすおつもりですか?」
「さぁな」
「さぁな、などと仰るけれど……。殿のお心は、既に決まっているように見えますが」
妻が心底おかしそうに言う。
昔から、よく笑う女ではあった。男が「であるか」と、素っ気なく言うと、妻はますます笑い転げていた。
***
その頃岐阜城下では、
調子に乗った明晴が十二天将の召喚(ということにしている幻術)を披露するだけでなく、日によって占いまではじめると、
「いい加減にしておけよ、明晴。あんまり手荒く商売していると、役人に目をつけられても知らないからな」
「大丈夫だよ。紅葉は大げさだなぁ」
銭が入った箱を揺らすと、ジャラジャラと音が鳴る。この音が、明晴はいっとう好きだった。
金があれば、なんでもできる。
食べ物を買えたら、飢えを満たせる。
衣を買うことができれば、寒さをしのぐことができる。
金があれば――危険な目に遭った時に、それを渡して逃げることもできる。
金がなければ上も寒さもしのげない。自分の尊厳だって守れない。
(あんな暮らしに戻るのは、真っ平御免だ)
何も贅を尽くした暮らしがしたいわけでも、貴人に上り詰めたいわけでもないのだ。
ただ、安心して暮らしたい。
明晴は銭函を大切に抱き締めながら、数珠と勾玉を衣の端で拭った。
「だとしても──あの占いは雑すぎないか?」
「そう? みんな、喜んでたけど」
「いや、雑だろ。仮にも陰陽道を極めた奴が言う台詞じゃない」
「えー、そっかなぁ?」
明晴は目を泳がせた。紅葉は肉球を擦り合わせると、天を仰いだ。
『あなたは悩みがあるようですね。ああ、大丈夫。何も言わなくても。悩みはこの安倍晴明の子孫にはお見通しです』
『大丈夫。少し時間はかかりますが、必ず道は開けます』
『まじないをほどこしてさしあげましょう。きっと、運命は変わっていきますよ!』
「……って。誰にでも当てはまること言いやがって……」
「でも、悩みはあったみたいだよ? 当たったんだからよくない?」
「よくない! つーか、生きてたら誰でも悩みぐらいあるわいっ! 人だろうと犬だろうと神だろうと妖だろうと!」
「え、紅葉にもあるの?」
「とりあえず目下のところは、詐欺師になろうとしている主だよ」
「詐欺師ねぇ」
明晴はほくそ笑んだ。
(むしろ、それが俺の狙い目だったりする、とか言ったら吹き飛ばされそうだな)
人というのは、胡散臭いものを口では嫌いながら、どこか面白がる生き物だ。特に娯楽が乏しい庶民は顕著である。怪しいものほど興味を引くし、噂は広まる。伴天連の教えが急速に広まっているのも、そういった点だろう。
乱世になって、陰陽師の数は激減した。しかし、それでも占いや祈祷が今も残っているのは、人は見えない何かに縋りたい、弱き生き物だからかもしれない。
ましてや、明晴は実際に幾度か、術を披露した。十二天将が召喚かれる様を、人々はその目にしたのだ。
「いや、してないだろ」
紅葉の目が据わる。
「お前がいつ、十二天将を召喚した? 全部、幻術を見せてただけだろ!」
「だって、紅葉達が見世物になるの嫌がるからじゃん! 俺だって幻術で嘘つくのなんて嫌だよ? でも、紅葉も
「当たり前だ! 俺達は、誇り高き神でもあるんだぞ。たかだか人間ごときの見世物になるなんて、御免蒙る」
「ちぇっ。本当に十二天将が姿見せてくれてたら、もっと稼げるだろうに……」
「聞こえてんぞ、晴明の子孫! まったく、そんな姿を先祖に見られたら悲しまれるぞ」
「知らないよ」
明晴は磨き上げた数珠を懐に締まった。
「先祖が誰かなんてどうでもいいよ。金になるからその名にあやかるけど、別にせーめーが俺を助けてくれたことはないし」
「あるだろ。俺達と契りを結べたのは晴明が、神々を配下に置くという前例を作っていたお陰だ」
「その結果、本家とやらは廃れきったんだから世話ないよ。後継者育成失敗してんじゃん、せーめーさん」
団子を齧りながら、明晴は勾玉を陽光に掲げる。
家柄も血筋も関係ない。何百年も昔のことなどより、今を生きるために頑張るしかない。
血筋など名乗ったもの勝ちだ。稼げるならば、なんだって利用する。
「というわけで、今日も稼ぐよ」
「まだ稼ぐのかよ」
「当たり前だろ。銭はいくらあっても困らないし。ふふふ、頑張ったら毛皮とか買えちゃうかも!? 今年は、暖かい冬を過ごせるぞー」
「明晴は本当に金が好きだなぁ」
「嫌いなわけないだろ。お金の音も質感も全部好き」
「だったら、仕官先でも探したらどうだ」
紅葉の言葉に明晴はうんざりした。
「またその話?」
明晴は紅葉の両脇を抱えると、上下左右に揺さぶった。
「無理だよ。俺は後ろ盾も家柄もないし」
「そうとも限らないぞ。お前は文字が読める」
「それだけじゃん」
「おま……文字なんて誰でも読めるもんじゃないぞ」
この時代、庶民の識字率は高くない。
文字の読み書きができれば、右筆や文官になることもできる。
「最悪後ろ盾なんか、幻術でも使って誤魔化せ」
「さっきまで詐欺反対とか言ってたの、だーれだ?」
「少なくとも、その日暮らしをするよりは安全に暮らせるだろ」
要するにこれが言いたかったらしい。
紅葉は一見乱暴に見えるが、意外にも情は篤い。
明晴が飢えや寒さに喘ぐことを嫌う。他の十二天将が明晴の呼びかけに応えてくれないのに対し、紅葉だけは自ら人界に現れ、何かと世話を焼いてくれる。
だからこそ、明晴が厳しい冬を乗り越えられるように、紅葉は口やかましく「仕官先を探せ」と、ここ数年しつこく言って来るのだった。
だが、肝心の明晴にその気はなかった。
他人に媚びるのは苦手だし、何より貴人の屋敷には行きたくない。
多少の危険や不便はあるが、その日暮らしのほうが性に合っている。
身の危険は、術で脅せば回避できる。しかし、心の自由を奪われることだけは御免だった。
頑なな明晴の態度に、紅葉は深々と溜息を吐いた。
「だとしたら、もっとやれ。胡散臭いものが好きなのは人間の性だし、噂が広まるのは早い。あまり有名になると、目をつけられるぞ」
「分かってるってば。紅葉は心配性だなぁ」
明晴はけらけらと笑いながら、2本目の団子に齧り付く。口に甘みと、もちもちとした柔らかい触感を感じる。
「分かってるようには見えんがなぁ……」
紅葉は仰向けになって前脚を枕にしながら、後ろ脚を組んだ。
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