祈りを捨てて祈る人へ
笹十三詩情
祈りを捨てて祈る人へ
祈りを捨てて祈る人へ
栗田智昭
『即身成仏義』なる本を始めの数頁だけ読んで辟易し、己の汗の不快なにおいを嗅ぎながらブックオフへ売りに行く。三十八度の炎天下、チャリの籠にその一冊、ただ一冊、だけを、ぶち込んで、忌々しいそれを売り飛ばしに、行く。片道十三キロ近くの道を、わざわざ汗水垂らしながら、生暖かい風を受けながら、捨てに行くような心境で売り飛ばしに行く。田舎の悪路を走るチャリの籠の中で、タイヤが大粒の砂利を踏み潰す度に『即身成仏義』は跳ね回り、痛んでいく。俺にはその行為が必要だった。己の力でそいつを痛めつけ、己の力で捨て去らねばならなかった。ような、気が、した。まあドブ川に捨ててもいいし、燃やしちまってもいいような気もしたが、少しでも金になるならば、というせこい考えを思いつき、売り飛ばしに行く道中、聖典と言ってもいいようなそいつを痛めつけることを思いついた。ただ、それを俺は、「己の力」で売り飛ばしに行かねばならない、と、思った。
俺という人間の半分は、まあ懇願してなったもんでもねえが「聖職者」という身分によって成立している以上、己の半分を占めるであろう思想とやらを、もしかすると人々を救ってきたかもしれぬ思想とやらを売り飛ばす以上、痛みを感じねば、苦痛を感じなければ、ならぬような、気が、した。いや、間違いなくそうなのだ。それが俺なりの落とし前だと感じていた。なんともまあ都合がよく、そこまで重大に考えている割には大した苦痛でもないような気もするが。
田んぼ道の中で、俺は、これから売りに行くほど嫌だった『即身成仏義』の中身を思い出していた。嫌すぎて頭から離れなかったから思い出していた。即身仏ではなく、即身成仏。この世の肉体のまま成仏する、それすなわちこの世において仏となる。「この世で救われる」ということ。
確かに、たしかに、この世すら救えない奴にあの世など救えるものか、と思っていた。思っていた。そうすると、その思想は画期的だったやもしれぬ。昔も昔、平安時代ならな。だが、それは達成されたのか。何が変わる。誰が変わった、のだ。そう、思えてしまう。
そんなことを考えちまう俺には、教義否定をする俺には果たして、祈る資格が残されているのか。人類について祈る資格が。人類のためになんぞ祈りたくは、ないのだが、なかったのだがな。だが、俺は祈らなければならなかった。それは聖職者だからというわけではない。過去の俺は使命感のようなものから人類のために祈っていた、ような気もするが、今となってはそういうわけでもなかった。
ただ一人のために祈りたかった。昔別れた彼女ただ一人のためだけに、俺は祈りたかった。俺の全てを捨ててもいいと思い、愛した、あの、彼女。その人のためにだけ、その人の幸福とやらのために、俺は祈りたかった。幸せに、幸せとやらに、なって、ほしかった。どうしても、ほしかった、のだ。しかし、俺と彼女の道は、生活は、とうの昔に分かたれた。いや、分かたれたのではない。俺が、他でもない、この、俺が、「もう別れよう」と言った。言った、のだ。いったの、だ。言っちまったのだ。ならば俺の「愛」とやらを彼女に向けることも、彼女からの「愛」とやらが俺に向けられることも、俺が、おれ、が、おれという現象が、否定したのだ。しかし、俺はまだ彼女へ、愛しているとは絶対に言えないが、絶対に言ってはならないが、愛を、向けていた。
そうして全人類を愛することに、彼女を愛することも含まれているのだとしたら、と考えた。彼女を愛することは、俺が、己自身が、否定したが、全人類へ愛を向け全人類のために祈ることはすなわち、禁じたはずの、人類のうちの一人たる彼女へも愛を向けるという行為になり、それが、彼女への愛が許される唯一の道だとしたならば、と俺は考えた。
だが、もう俺の中に「愛」なんていう感情は残されていなかった。かつて、彼女と別れた時に、俺の中の「愛している」という感情は忘れてきてしまったのだ。いや、正確に言うならば、別れたその日その時、に、俺の「愛」とやらは全て、一方的かもしれないがとにかく彼女の中に置いてきてしまったから、俺の手元には、もう存在していなかった。
そう言いつつ全人類のために祈ることしか、愛することしか、俺には残されていないが、ならば殺したいほど嫌悪している人間のためにも、俺は祈れるのか。愛せるのか。ということも大問題だった
全ての人類のために祈れないのならば、全ての祈りを捨てることが、人類崇拝への殉教になり得るのだろうか。「平等」の名の下に全ての祈りを、愛を、捨てることは、「平等」という名の下に全てを愛さない、祈らないことは、人類への恒久的愛情表現たり得るのか。たり得るのか。
そんなことを、暑さで蒸しあがり腐りそうになる脳で考えていた。チャリは風化しそうなひなびた街中へと差し掛かっていた。アスファルトからの照り返しが、俺の思考能力を一層奪っていく。だが、だが、それでも。俺は、俺は考えねばならなかった。それが、一つの思想を捨て去ることへの責任なのだ。
そうか、と俺は考える。もうこの世では、この世において凡人たる俺が考え付くような方法では、彼女どころか全人類の幸せを願うことは無意味に近いのだろう。達成できないのだろう。ならばあの世か来世に行ってからの救い、愛を待つのか。だがやはり、この世すら救えないような奴に、あの世なんかが救えるのか。救えるのか。それは俺が宗教者だからなのか。であれば、俺は、何かを救わなければならないのか。
しかし、救いとはなんだ。幸福のことか。ならば幸福とはなにか。幸せか、福か。ならば幸せとはなにか。福とはなにか。そもそも救いなんて誰が求めているのか俺には分からない。だが求めている、求められている、ような、気がする。いや、気がする、ような、そんな軽い感覚で語るべきことか。ことなのか。
あの世とはなんだ。来世とはなんだ。輪廻か。六道輪廻のことか。ならば六道輪廻の本質的根源的意味価値概念存在形而意図は、なんだ。
愛とは、なんだ。祈り、とは、なんだ。俺にはもう全てが分からないから全てが分からなくなってくる。
目が回って来る目が回って来る。暑さのためなのか、ということすら考えられない。正確には少しは頭をかすめるが、原因なんぞもう分かりゃしない。
そのうちに田舎の最果てみてえな場所に突っ立っていやがるブックオフが見えてくる。いや、それが本当に中古屋だったのか、もう分からないが、本能で店の中へと吸い込まれるように入って行く。そこで二十分くらいクーラーにあたりようやっと人間性を取り戻す。
そうして俺は、冷静になった俺は、彼女が二年前に死んでいたことを、思い出した。いや、死んだというのは比喩で、本当は風俗嬢をしているらしい。だからこそ、俺は彼女を死んだことにして、己の精神安定を保っていた。そうして俺は、この世の救いもあの世の救いも、俺にとっては救いなんかではなかったのだったことを思い出した。即身成仏が救いであるならば、この世の救いとやらでは救われなかった人間はいないのか。そもそもあの世だって救えたかどうか、坊主の俺にも、いや、坊主だからこそ俺にはわかりゃしねえ。あの世もこの世も、救えたかなんてわかりゃしねえし、そもそも「あの世」とはいったいなんだかわからねえ。「この世」だって結局なんだかわからない。やっぱり何もわからない俺は、『即身成仏義』をレジへ持って行く。
だが、俺の手放した「教え」とやらは、百円の価値があった。
しかして、店を出るとその百円は暑さのせいですぐに缶ジュースへと変わってしまう。そんなしょうもないことすら俺は不幸だと断定し、俺は不幸だ。俺は不幸なんだ。という暗示によって、またしても俺にとってだけ都合のいい世界観を構築し、不幸に酔っている。救ってほしい。救い、救い、救い。救い、が欲しかった。俺は不幸であることを頼りに、精神の安定を図っているが、それならば不幸であることの自覚は救いなのか。悲劇の主人公であることもまた救いであるのか。いや、そんなはずはない。ないんだ、と強く、強く、思考を矯正する。慰めが、慰藉が、必要な場合もあるかもしれねえが、俺は根源的な、根本的な、「救い」とやらの核心を求めねばならなかったはずなのだ。それはわかっている。わかっている。わかりきっている。何故かはわからねえが、何故そんなことをしなけりゃならねえのかも、そもそも全てがわからねえことも含めて、それでも。それでも、それでも、それでも、今の俺には昔の彼女が風俗嬢になり、二年前に死んだと思い込み、十三キロ先のブックオフへ自罰的に向かい、その果てに得たものは何もなく、また危機的な気温の中をチャリで帰らなければならない。しかもそれらの行為には、何の意味もない。
これらすべてを、無意味だとすることは、俺にはできなかった。仕方ねえから店の裏手の駐車場の隅で、常備している剃刀で手首を切り刻む。その不幸によって、俺は満足し、いや、「またしょうもねえことしてやがるな」という自覚を持ちつつ満足し、血液を撒き散らしながらチャリにまたがる。だが本当は全て分かっているはずなのだ。彼女は「不幸だ」なんていう、俺の身勝手な「不幸の烙印」を押し付けられたからこそ、俺は、愛した、こんなにも愛した一人の人間すら幸福にできなかったし、俺こそが世界で一番不幸で悲劇の主人公でなければ俺の不幸は取るに足りない不幸でしかなくなるという、またしても勝手極まる思考を脱却できないでいるのだ。幸福とは何かすら解明できていないのに、幸福なんて口にする不誠実さも、それを、俺は、分かっているのだ。分かっている、のだ。
彼女が風俗嬢をしていようが、仮に死んでいようが、俺が彼女の幸不幸を決めつけるものでもないことも、それが傲慢極まる押し付けであることも、分かっている。分かっている。幸せだとか、幸福だとか、それは俺が決めることではない。むしろそこには俺が幸せに「してやる」という意味が含まれていやしないか。「俺が幸せにしてやる」が含まれていやしないか。「してあげる」という言葉の持つ暴力性。「してやる」という言葉の持つ暴力性。俺は何様なのか。「してやる」と言っちまう、いや言っているつもりはないが、恐らく深層意識の中で考えていることによる現象として「してあげる」「してやる」という言葉が現れてくる傲慢さ。俺が「してやる」だなんて思うことにより初めて生まれる不幸、も、あるのだ。俺の加害俺の加害俺の加害。俺の、加害性! 俺は、俺の、被害性なんぞ考える暇はない。被害性ではなく加害性に怯えねばならぬのだ。
だがそもそも俺は幸福だとか不幸だとか言う言葉を分かっているのか。いや、全く分かっていない。分かっていないのだ。理解していない、理解できていないのだ。だというのに、他者に幸不幸を押し付けている。そもそも「押し付けている」という加害性にも、俺の自罰にも、俺は悪なんだという自己満足の感傷が含まれていやしないか。俺は不幸なんだというセンチメンタルが含まれていやしないか。しないか。本当にしないのか。しかし、それでもなお、俺は幸福とやらを考えねばならなかった。人の、人間の、幸福とやらを、考えねばならぬのだ。「ぼんやりとした不安」なる言葉を芥川が書いた。社会だか世界だかわからねえがとにかく、そうした共同体が生み出した「ぼんやりと定義された不幸」だとか「ぼんやりと定義された幸福」は、必ずあるのだ。ならばそれを定義すれば、定義を整理すれば、いいのか。もしかしたらいいのかもしれねえが、それで片付く問題なのか。本当に片付くのか。片付けてしまえるのか。
いや、問題はまた加害性に戻っちまうのかもしれないが、俺には人の、人間の、他者の、幸福だとか不幸だとかを考える資格があるのか。そもそも資格があるだとか、無いだとか、言う以前に、俺には人の、人間の、他者の、ことについて考えを巡らせている余裕があるのか。俺は俺の幸福についてすら分からないのだからな。だが、それでも、他者について考えることを使命のように捉えちまうような傲慢さは、単純に、道徳的に、全人類の幸せを願っているからなのか、それとも聖職者なんていう訳の分からねえ存在だからなのか。
分からない。全てが。そうやって俺は帰路につく。
盆が来て、世間では盆休みとやらの間に、同窓会なるものの連絡が来て、俺は盆の棚経中だったが夜は暇だから棚経を終わらせて滑り込んだ同窓会とやらに出て、出ちまって、俺は居酒屋の便所で、吐いていた。吐いていた。吐いたものを口の外に出さずに一部を飲み込み、その不快感でまた吐いていた。
飲み過ぎた、のだが、意図的だった。何のためにそんなものを意図したのかは分からねえが、意図的にかつての彼女のことを思い出し、意図的に感傷的になって、意図的に飲み過ぎていた。結果、それは自罰だったのかもしれねえが、俺はいま胃の中の内容物を吐き出し、便器の中にぶちまけている。この、吐瀉物の、味が、今の俺にはなんとなく悪くないように思えた。思えてしまっていた。居心地のよさを見出しているだけかもしれないが。ただそれはやはり陶酔であって、求めていたのはそんなものではなかった。
餓鬼は汚物を食うという。六道輪廻の一つの餓鬼のことだ。糞尿やそれ以外も含めて汚物を食う餓鬼、自分の脳を食う餓鬼、自分の子供を食う餓鬼の話などをされたことがあった。だからこそ、俺は自分の吐瀉物の味くらい、知っておこうと思ったのだ。俺は「愛」とかいう高尚そうな観念の餓鬼だからな。愛に飢えていた。愛されることに飢えていた。愛することに飢えている、のだ。
だが愛とはなんだ。愛されるとはなんだ。愛するとは、なんだ。やはり分からない。飢えるとは、するとはされるとは、なんだ。その意味、いや、根本的、いや、根源的意味はなんなのか、分からない。愛とはなんなのか。愛、される、とはなんなのか。愛、する、とはなんなのか。分からなかった。分からない。分からない。が、とにかく俺は愛の亡霊に取りつかれていた。分からないからこそ、亡霊に取りつかれて、いる。
そんな思考を引きずりつつ便所から戻る。さっき吐いたものの味が、まだ、口の中に残っている。が、自虐的な、露悪的な、偽悪的な、俺の偽善の自傷行為には陶酔をもたらすだけでしかなかった。俺はそんなものが欲しいのではなかった。決してなかったのだ。だが本当にそうと言い切れるのかは、分からない。
しかし、様々なものが分からないからこそ、愛が分からないからこそ、俺には俺を罰しなければ、「愛」とやらは分からないのだと、思えた。思った。全ては俺の責任なのだからな。それなのに、俺は吐瀉物くらいの汚物を食う気力しか無いのだ。糞尿も、脳も食えなかった。まあ脳は物理的に食えない気もする、が、猿脳でも食う気になれば食えそうなものだ。だが俺にはそれもできなかった。しかも感傷なんていうセンチメンタルを享受しているこのざまよ。
俺には何もできないのだ。できないのだ。偽悪すら満足に演じられないのだからな。俺が飢えているのは他でもない俺のせいだというのに。
昔の、昔の。遠い昔とは言わないがとにかく昔の、初めてできた恋人の夢をたまたま見ちまった。上に、何かを期待して同窓会なんて場所に来ちまって、俺は例の人の隣の席になっちまった。例の人なんて、言えないのに、言いたくないのに、そんな表現で収める気もないのによ。
「昔の」という枕詞は付くが、確かに、確かに「恋人」だと、だったのだと、言いたいはずなのだが、はずなのに、なのに、なのに、なのに。俺の意識は例の人なんて言葉で上書きしちまう。それも含めて、さらには別れた原因も含めて全て全て、俺のせいに違いないのだが、俺は違ったかもしれない、別れなかった先の過去、現在、未来の思い出を捏造し、あの日々をまだ引きずっている。
それも、それすら含めて、俺が全て悪いのだ。だからこそ、因縁だとか因果だとかいう言葉を用いるならば、俺は罪を償わなければならないのだ。ならないのだが、俺が俺のゲロを食って何が変わるわけでもない。はずもない。それは、分かっている。分かっている、はずなのだ。そうして、そんなことをして、思い出すのは、昔の、幸せだった頃の、幸福だった頃の、満ち足りていた頃の記憶。記憶だった。だったのだ。紛れもない思い出のはずなのに、都合のいい過去を捏造した夢との境界が定かではないような気がしてしまう。
俺の罪、俺の罪、俺の、罪。俺の加害、俺の加害、俺の、加害性。それを考えるほどに、思い出が幸福だった印象を増して行く。同時に、さっき嘔吐してきたものの味が、ゲロが舌に絡みつく感触が、鮮明になる。なって、俺はそのうち昔のキスの味を思い出した。昔、「キスの味は本当に甘いのだ」ということを知ったが、そんなものは結局唾液の味だし、彼女が飴でも舐めていただけかもしれないし、本当は俺の脳が記憶を美化しているだけだろう。それでもそれでも、それで、も……。と考えた末に、餓鬼の渇き、渇望はもしかしたら、この感情に近いのかもしれない、と、思えた。
が、やっぱりそんなものを知った所で、何の足しにもならなかった。ならないのだと、感じられた。
永遠に夢を見ていたかった。
ワイパックス、リスパダール、マイスリー、エビリファイ、デエビゴ、デパケン、ルネスタ、セディール、メイラックス、レキサルティ。
俺はポケットやら鞄に入っていた向精神薬と睡眠剤をありったけテーブルの上にぶちまけて酒でそれを飲み干す。みんなみんな引いていた。「彼女」がどんな目で俺を見ていたのか、知らねえが知りたくもなかった。「彼女」の方へ視線を向けられなかった。
朦朧とする意識の中で感じられたのはまぶたを閉じているのに見える、明滅する強い光と薬くさい味だけだった。
祈りを捨てて祈る人へ 笹十三詩情 @satomi-shijo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます