17.誤算

 あいつに抱き上げられた翌日。


 わたしは宣言どおり学校に来た。

 テストを終えた放課後の教室で、現れたお姉ちゃんがつぶやく。


【あ、教室だ】


 教室を見回して、わたしと目が合うと、ぱちくりと瞬きする。


【……あれ? ミカちゃんだけ?】


「あいつなら上の階にいるわ」


 わたしが天井を指さすと、お姉ちゃんは釣られて上を向いた。


「出現範囲は、水平方向に限ったことじゃないから」


 言葉の少ないわたしの説明に、お姉ちゃんはキョトンとしていたけど、すぐに理解した顔になる。


【あ、そっか。円じゃなくて球なんだ】


 なるほどなるほど、と何度か頷いたあと、


【……それで、どんな内緒話をするの?】


 そんなふうに、二人きりになった理由を問いかけてくる。


「別に、ただちょっと、揺さぶってやりたいだけ」


【揺さぶる? 彼を?】


「昨日のあいつはおかしかったわ」


【まあ、たしかにねぇ、お姫様だっことか、ちょっとらしくないよね】


 お姫様だっこ。

 恥ずかしい単語と、あのときの浮遊感を思い出して、顔が熱くなる。


「そこじゃなくて……、それに、お姉ちゃんも」


【え? あたしも?】


「そうよ。二人とも、悟りきってる感じがした」


【そうかな? あたしは幽霊だし、死んだ人のこと、仏さんとかって言うし、悟っててもおかしくないんじゃないかな】


「そういう意味じゃなくて」


 わざとなのか天然なのかよくわからない――けど今のこれはきっとわざとだ――すっとぼけ方をするお姉ちゃんに、あたしはため息をつく。


〝以前にはできなかった話を、三人でいられるうちに〟


 そう語ったときの、あいつの声のトーン。

 それを聞いたときの、お姉ちゃんの表情。

 あれは――


「お別れを受け入れてる雰囲気だったってこと。もう未練なんてない、って感じの」


 わたしはそれが腹立たしい。

 なのにお姉ちゃんはニンマリと口元を上げて、


【んふふ、カレも大人になったってことでしょ】


「そんなんじゃない。あいつは、状況がよくわかってないだけ。お姉ちゃんが死んじゃってすぐのときなんて、そりゃもうひどいザマだったんだから」


【ふーん……、それ、ちょっと興味あるかも。でも、揺さぶるってどうやって? ミカちゃんお得意のちくちく言葉アタック?】


「わたしその言葉心の底から嫌いなんだけど」


【わお】


 わざとらしく目を丸くするお姉ちゃんをスルーして、わたしはもう一つの出現条件を打ち明けた。


 説明のためにネックレスを見せるときは緊張したけれど、お姉ちゃんは、自分の遺品を妹が拝借していることについて何も言わなかった。


 作戦はシンプルだ。

 お姉ちゃんには教室の外で待機していてもらう。この教室と、あいつがいる教室の間の床あたり、姿は見えなくてもわたしたちの会話は聞こえるところで。


 そして、あいつにもう一つの出現条件であるネックレスのことを明かして、それでもお姉ちゃんが出てこないことを知らしめる。


 そうすれば、あいつはもう二度とお姉ちゃんに会えなくなったと勘違いして、みっともなく取り乱すだろう。


 昨日みたいな、悟ったような態度なんて取れなくなる。

 二人だけが別れを納得しているような雰囲気を粉々にしてやるのだ。



 そのつもりだったのに。



「もっと話したいことはなかったの? 後悔は? 未練は? 今どんな気持ち?」


 あいつの動揺を煽っていたつもりが、だんだん視界が涙でぼやけてくる。


「今は、そこまで取り乱すような感じじゃないかな」

 

「……何よそれ」


 自分でも驚くくらい冷え切った声が出て。


「お姉ちゃんが死んでから、身動き取れないくらい落ち込んでたくせに」


 かと思えば、自分の言葉に自分で興奮してしまって。


「そしたらあんなタイミングで幽霊になって出てきて、でもまたいなくなって……、それでどうして冷静でいられるのよ。うすっかり受け入れちゃったの!?」


 あいつは多少の動揺はしたけれど、やっぱり落ち着き払っていて。


「別に落ち着いてるわけじゃないんだけどな」


 なんて、言葉にも余裕があるし。


 こんなつもりじゃなかった。


 あいつから引き出したかったのは、まだお姉ちゃんと離れたくないっていう、縋り付くような必死な顔であって。


 そんな、未練を振り払ったようなすっきりした表情じゃない。



「落ち着いて見えるのだとしたら、それは美門がいてくれるからだよ」



 ましてや、お姉ちゃんよりもわたしを優先するような言葉では断じてない。


 それなのに、嬉しくてたまらなかった。


 嬉しく思ってしまう自分が申し訳なくて仕方がなかった。


「ごめんなさい、お姉ちゃん」


 本当に、こんなつもりじゃなかったの。


 あいつの澄まし顔を取っ払って、お姉ちゃんを忘れられないんだってことをわからせてやりたかったのに。

 お姉ちゃんに、あいつはまだ全然吹っ切れてないから、まだ成仏してる場合じゃないって思い知らせたかったのに。


 あとはもう、言葉にならなかった。


 ひどい妹だと思う。

 姉の死後に初めて流した涙が、姉の死を思ってのものじゃなく、

 姉の恋人が自分を認めてくれたことが嬉しいからだなんて。


 やがてお姉ちゃんは床をすり抜けて、にょきりと教室に入ってきた。

 打ち合わせどおりのタイミングで、だけど打ち合わせとは真逆の結果で。


【策士、策に溺れちゃったねぇ】


 皮肉っぽいセリフだけど、それを口にするお姉ちゃんは、わたしを慈しむ聖母みたいな表情を浮かべていた。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 謝りながら泣き崩れる美門と、微笑みながら床から出てきた円佳さん。

 対称的な姉妹を見て理解した。


 細かいことはよくわからないが、どうやら僕は騙されていたらしい。


 まだ円佳さんは消えてない。

 それに安心したのは事実だったが、それで心構えが崩れることはない。


【ミカちゃんのだまし討ち、キミは最初から気づいてたの?】


 僕の動揺が薄いからか、円佳さんがそんなことを聞いてくる。


「いえ、全然……、そうなのか、って、ただ事実を受け止めるだけで」


 ショックはあった。

 動揺もした。


 だけどそれは、最初の別れのときのような、身動きが取れなくなるほどの失意とは違っていた。


【それってつまり、そういうことだよね】


「……はい、そういうことです」


 僕たちはうなずき合った。


 まだ七月末だというのに、僕と円佳さんの間にだけ、夏の終わりのような雰囲気がただよう。円佳さんの瞳は波のない水面のように穏やかだった。恋人というよりも弟を見守る姉のように優しく揺れていた。


「待って」


 美門はそこに水を差す。


「あなた、自分で言ってたじゃない。僕は鈍いやつだって」


 説得するように僕の言葉を持ち出して、諭すように円佳さんを見上げた。


「どうせ、まだよくわかってないだけよ、だから早まって結論を出さなくても――」


【――ダメだよ、ミカちゃん。自分の未練を人のせいにしちゃ】


 円佳さんは妹の言葉をさえぎり、その心の奥に鋭く切り込んだ。


 美門は肩を震わせて「そんなことない」とつぶやく。


【そんなことなくないよ。話を聞いてたら、わかっちゃったもの。ミカちゃんはこの状態を続けたがっている。だけどそれを、自分じゃなくて彼に言わせたがってるんだって。彼が頼むから仕方なく協力してあげる、っていう体にしたいんでしょ】


 美門はぐっと押し黙り、助けを求めるようにこちらを向いた。


 その弱々しい視線にほだされそうになるが、どうにかこらえて首を左右に振った。


「……後悔しても知らないから」


 美門は涙をぬぐいながら立ち上がる。


「最後の後悔にするよ」


「一瞬だけ格好よさげに聞こえたけど、どうしようもなく女々しいセリフね。あなたって本当、肝心なところで思いどおりにならないんだから」


 美門が口をとがらせて僕をにらみつける。


 円佳さんはふわりとした笑顔でこちらを見つめている。


 二人の前で僕は、上手に笑えているだろうか。


【よーし、明日はお休みだったよね? 三人でお出かけしましょ】


 円佳さんは湿っぽい雰囲気を振り払うように明るい声でそう言ってから、そっと両手を合わせる。


【あたしの、最後のお願い】

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