04.今まで、どこに

【あたし的には本気の付き合いってわけでもなかったし】


「え……」


【だから、キミがそこまで深刻に思ってくれてるのは、うれしいけど、ちょっと重いというか、ね? 気にしないでっていうのは、そういう意味……、だったりして】


 円佳さんの言葉がじわじわと心に染み込んでくる。


 あの楽しかった毎日を。

 会うたびに好きになっていく日々を。

 これ以上のしあわせはないと確信していた時間を。


 円佳さんは、そうは感じていなかったのだろうか。

 円佳さんにとっては、取るに足らない時間だったのだろうか。


 同じ景色を見ていたのに、感じ方にそこまで温度差があったなんて。

 そう思うとショックが大きすぎて何も考えられない。


 ――しかし、思考停止は一瞬だった。

 僕はもっとひどい衝撃を、すでに経験していたので。


「……それはそれとして」


 と僕は話を変えた。


【あ、逃げた】


「話題にも優先順位があるので」


 円佳さんが茶化すが、聞き流して続ける。


「――円佳さんは、今まで、どこにいたんですか」


〝死んでから〟という具体的な言葉を外して問いかける。


【どこにいたとか、何をしてたとか、そういう感覚はないかなぁ】


 円佳さんはベッドの端に座って、子供みたいに足をぶらぶらさせながら言った。


【ホントに、気がついたらキミたちの前にいたのよ。強いて言うなら快眠って感じ。ぐっすり眠って起きたら一瞬で朝、みたいな】


「そう、ですか。……よかった」


【よくはないと思うんですけど?】


 円佳さんは語尾を上げて口をとがらせる。

 死んだ人間に使う言葉ではなかった。僕は慌てて頭を下げる。


「あ……、いや、すいません。そういう意味じゃなくて……」


【うんうん、聞いてあげる、キミの言い訳】


 円佳さんはあっという間にお姉さんぶった笑顔に戻る。


「言い訳とはちょっと違うんですけど……、その、死後の世界に天国と地獄という区分けがあるとしたら、もちろん円佳さんは天国へ行ってますよね。それを無理に引き戻してしまったのだとしたら、申し訳がないじゃないですか」


 きょとんとしている円佳さんに、言葉を探しながら言い訳を続ける。


「あと、死後の世界なんて存在しないのだとしたら、幽霊になってから、ずっと現世をさまよい続けていたことになりますよね。それは、想像するだけで居たたまれないので……、円佳さんがそうじゃなかったことを、良かったと思ったんです」


【んーーーッ……】


 円佳さんは梅干しを口に含んだような顔になった。


「え、どうしたんですか」


【キミって本当に、ナチュラルに恥ずかしいセリフをぶっ放すよねぇ】


「今の話、そんなに恥ずかしい内容でしたっけ?」


【あたしを照れさせるプロフェッショナルだよもう……】


 両手で頬を挟んでうつむいてしまう円佳さん。その仕草がかわいくて、今が有り得ない時間だということを忘れてしまいそうになる。あるいは、それを僕に意識させないために、ことさら明るく振る舞っているのかもしれない。


【っていうか、あたしが目覚めたきっかけは、やっぱりあのキッスよねぇ】


 そんな風に昨日のことを茶化す円佳さん。口元を手のひらで隠してにしし・・・と笑っている。


「眠り姫じゃないんですから。第一、僕は王子様じゃないし、相手も違うし。キスがスイッチだとしても、回路が混線してますよ」


【ほらやっぱりロマンチックなこと言っちゃってる】


「そういう茶々は後にしてください」


【でもさ、回路が混線してるなら、キミとあたしがキスすれば、ミカちゃんが目を覚ますってことにならない?】


「さあ……」


 その思いつきを本気でいいアイデアだと思っているのか、円佳さんは自信ありげな顔をする。突拍子もないことを言ってこちらを困惑させる彼女を、とてもらしい・・・と感じた。本当に、生前と変わらない。


【あ、そっか、幽霊には触れられないから、そもそもキスなんてできないね】


 幽霊と人間とのラブストーリーで出てくるようなセリフだった。


 僕は黙って立ち上がると、美門が寝ているベッドの二つ隣の、カーテンで囲まれたスペースへと移動する。円佳さんはカーテンをするりと素通りしてついてきた。


【どうしたの? 急に】

「触れてみていいですか」


 円佳さんは目を丸くして、それからさみしげに笑った。


【イチャついてるところ、ミカちゃんに見られたくない?】

「騒々しくして起こしたら悪いですから」


 向かい合って、お互いの距離は50センチほど。


【背、少し伸びたね】


「気がつきませんでした」


 そっけなく答える。

 そんな、時間の流れを意識させるようなことを言わないでほしい。


 僕は一歩踏み込んで、円佳さんの唇――があるように見える位置――へ顔を寄せていく。

 確かに以前より少し、円佳さんの顔の位置が低くなっていた。肩に手を置けないので距離感がわかりにくい。

 付き合い始めのころ自分の部屋で、枕を円佳さんに見立ててキスのシミュレートを重ねていた、イタい記憶がよみがえる。


 唇の感触はなかった。


「どうですか」


【正直に言うけど、なんの感触もなかったよ】


「僕もです」


【幽霊は記憶で形作られたものだから、人と重なると相手の感情とか記憶が見える、みたいなオカルト話は、ちょっとだけ期待してたんだけど】


「そうならなくてよかったです」


 苦笑いを返しつつ、カーテンをかきわけてベッドの方へ戻ってくると、本当にキスがスイッチになったわけではないだろうが、上半身を起こした美門が冷めた瞳でこちらを見ていた。


 円佳さんがすばやく美門のそばへ歩み寄る。


【ミカちゃん、よかった……、目が覚めたんだ】


「心配するふりなんてしないで」


 と美門は冷淡に吐き捨てる。

 あまりに雑な口ぶりだから、僕に向けて言っているのかと思った。


 しかし美門は確かに円佳さんの方を向いていた。姉の幽霊の存在は認めた上で、明らかな拒絶の言葉をぶつけたのだ。


【ミカちゃん……?】


 お気楽に振る舞っていた円佳さんも、さすがに表情がこわばる。

 ショックを受ける姉に対して、美門は一切の気遣いをせずに淡々と問いかけた。


「お姉ちゃんは今までどこにいたの?」


 それは先ほど僕がしたのと同じ質問だった。

 だから、その意図も同じだと思っていた。


「眠っているような状態だったって……」


「それはもう聞いたわ」


 まず返事の素っ気なさに驚き、次いでその言葉の意味に気づいてまた驚く。


「……起きてたのか。じゃあ、なんで同じ質問を」

「同じじゃないわ」


 美門は僕の言葉を乱暴にさえぎった。

 苛立っているのがはっきりわかる、攻撃的な態度。


「言葉が足りなかったわね。――お姉ちゃんは昨日、部屋で化けて出てから、今日、学校の廊下に現れるまでの間、いったいどこにいたの?」


 盲点を突かれたような質問だった。


 亡くなってから昨日まで、ではなく。

 昨日から今までの円佳さんはどうしていたのか。


 今朝の美門の反応を見るかぎりでは、姉妹で夜通し、思い出話に花を咲かせていたわけではなさそうだが……。


「あなたのところにいたわけじゃないみたいね」


 僕の態度から察したのか、美門はそう結論づける。

 美門は逆に、円佳さんが僕のところにいたかもと考えていたのだろう。

 しかし、実際はどちらのところにも姿を見せていなかった。


【どこにも行ってないよ。気がついたら学校だったから……】


「やっぱり眠っているような状態だった、ってことですか?」


【うーん、それもちょっと違うかな。昨日はミカちゃんが部屋を出ていったあたりで一時停止して、今日は学校の廊下のシーンで再生、みたいな感じ】


 円佳さんは浮かない顔で首をひねる。

 彼女自身、自分の状況がよくわかっていないのだろう。


「その間って、だいたい半日くらい時間が経ってるんですけど」


【あたしの方はタイムラグなかったよ】


「……やっぱり、そうだったのね」


 美門は苦い顔でゆっくり左右に首を振った。何か僕たちの知らないことを知っている、あるいは気づいている、思わせぶりな態度だ。


「何かわかったのなら、教えてほしい」


 駆け引きをする余裕のない僕は、ただ率直に頼むしかない。

 美門は円佳さんを一瞥して、僕を見て、短くため息をついてから、ゆっくりと話を始めた。


「お姉ちゃんは、フィクションでよくある幽霊みたいに、ふわふわ浮遊して自由に動けるわけじゃない。地縛霊っていうのとも違っていて、どこか一カ所に縛られて、どこにも行けないわけでもない。……〝いている〟というのが近いんでしょうね」


 美門は一拍おいて、苦い表情で話を続ける。


「たぶん、お姉ちゃん――東雲円佳の幽霊は、わたしとあなたが一緒にいるところにだけ、現れるのよ」

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